長篠の合戦ふたたび:信玄の遺言

信玄の遺言は甲陽軍鑑にあるものになりますが、甲陽軍鑑自体が偽書の主張があるぐらい怪しいところがある代物です。それでも酒井憲二氏の研究(wikipediaです)によると、

  • 景憲の書写態度は、傷んで写し難い箇所は「切れて見えず」という注釈を190数箇所もしているように原本に忠実であり、加筆や潤色などがあっても、最小限に留められたであろうと判断できる。
  • 軍鑑本来の本文は、息の長い一センテンス文、類語の積み重ねによる重層表現、新興語、老人語(古語)、俗語、甲斐・信濃の方言や庶民が使用する「げれつことば」など、室町末期の口語り的要素を色濃く残している。このような文章を、小幡景憲の世代が真似て書くことは出来ない。

とにもかくにも甲陽軍鑑の原本とされる高坂弾正のものは愚か、小幡景憲の筆写原本もないので限界はあるのですが、とくに否定する材料もないので甲陽軍鑑の信玄の遺言を調べてみます。


信玄の遺言

甲陽軍鑑より、

惣別五年已来より此煩ひ大事と思ひ判をすへ置く紙八百枚にあまり可有之と被仰御長櫃より取出させ各へ渡し給ひて、仰せらるるは諸方より使札くれ候へば返札を此紙にかき信玄は煩ひなれ其未だ在生ときいたらは他国より当家の国々へ手をかくる者有ましく候某の国取べきとは夢にも不存信玄に国とられれば用心ばかりと、何れも仕候へば三年の間我死たるを隠して国をしづめ候へ跡の儀は四郎むすこ信勝十六歳の時家督なり其間は陣代を四郎勝頼と申付候但し武田の旗はもたする事無用なりまして我そんしのはた、将軍地○の旗八幡大菩薩の小旗何も一せつ持すべからず太郎信勝十六歳にて家督初陣の時尊師の旗斗り残しよの旗は何も出すべきなり勝頼は如前大文字の小旗にて勝頼差物法華経の幌をば典厩にゆづり候へ諏訪法性の甲は勝頼着候て其後是を信勝に譲り候へ、典厩穴山両人頼候問四郎を屋形のごとく執してくれられ候へ勝頼がせがれ信勝当年七歳成を信玄ごとくに馳走候て十六歳の時家督になおし候へ又それがしとぶらひは無用にして諏訪の海へ具足を着せて今より三年目の亥の四月十日に沈め候へ信玄望みは天下に旗をたつべきとの儀なれども、かように死する上は結句天下へのぼり仕置仕残し、汎々成時分に相果たるより只今しいて信玄存命ならば都へのぼり申すべきものを諸人批判は大慶也、就中弓箭の事、信長家康、果報のつよき者共と取合をはじめ候故、信玄一入はやく命縮と覚たり其子細は、縦へをとるに矢勢盛には射ぬく者也、矢勢過る時分には浅く立、矢勢過ては已と落る其ごとく人の果報も久しく無之候果報の過時分をまたずして盛に取合を始め天道より○し○とさるる也、信玄が信長家康と武辺対々ならば是程早く命は縮るまじけれ共弓矢には信長家康両人懸りても信玄には更になり難き故天道果報をひきし給へば天より信玄をころし給ふ其印には輝虎三年の間に病死仕るべく候信玄次には輝虎より外信長を○みつくる者有間敷候と被仰、次に勝頼弓矢の取様輝虎と無事を仕り候へ謙信はたけき武士なれば四郎わかき者に、こめみする事有間敷候其上申合せてより頼むとさへいへば首尾違ふ間敷候信玄おとなげなく輝虎を頼と云う事申さず候故、終に無事に成事なし必勝頼謙信を執して、頼と申べく候さように申くるしからざる謙信也、次に信長とは切所をかまへ対陣をながくはり候は、あなたは大軍遠き陣ならば五畿内近江伊勢人数草臥無理成働き仕る時分、一しほのけ候は、立なをす事有まじく候家康は信玄死したると聞候へば駿河迄もはたらき申べく候間駿河の国中へ入たて討取申べく候小田原をば無理にかかっておしつぶし候とも手間は取まじく候氏政定て信玄死したると聞候ば人質をも、すてふりを可仕候間其心得候へと各御一家衆侍大将衆へ被仰渡舎弟逍遥軒今夜甲府へ使に行と申し心安き小者四人つれ出るふりにて物共をば土屋右衛門尉所に預け此暁き籠輿に逍遥軒をのせ信玄公煩に付て甲府へ御帰陣也と申候ば我等と逍遥軒と見わくる者有まじく候累年見るに信玄が面を各をはじめしかとみる者なく候と相みえ候へば逍遥軒を見て信玄は存命なりと申べきは必定なりかまへて四郎合戦数寄仕るべからず。幷信長家康果報の過るを相待事肝要なり、果報に年をよらする物は身をかざり、ゑようにふけり、おごり是三ヶ条也、初め申候信玄が信長家康果報の過るのをまつべき物を、といひつるは、勝頼に心をつけと云う事也其ことはりは信玄に信長は十三の年おとりなり、家康は二十一をとり謙信は九ッ氏政は十七おとりなれば、あなたが信玄すへをまちうけたり、又勝頼は謙信に十六信長に十二氏政に八ッ家康に四ッいずれも年ましの者共にまけぬ様に仕り今信玄取て渡したる国々あぶなげきもなきように仕置をつつしみ候所に各より無理成働き仕候ば、持の内へ入たて有無の一戦可仕候其時は我つかひ入たる、大身小身下々迄一精出し候はや信長家康氏政三人ひとつになりても、此方勝利はうたがひ有まじく候、輝虎みなひとつになり四郎にこめをみする事有間敷候信玄死してより、弓矢は謙信也、天下をもちたる信長果報のすへ輝虎が武勇両人のすへをまちうけ申べく候、信玄よろづ工夫思案遠慮十双倍気遣い致し候へと被仰但其方を敵あなづり候は甲斐国迄も入れたて、かんたんに仕りてのち合戦をとぐると存候ば大き成かちになるべく候卒爾はたらきさすべからずと、馬場美濃、内藤、山県にくわしく被仰付其次に信玄生たる間は我等に国をとられぬようにと、氏康父子も謙信も信長家康共に用心候へ共、北条方には深沢、足柄、家康方には二股、三河、宮崎、野田、信長方には岩村、かんの、大寺、瀬戸、信濃迄とる謙信ばかり越後の内を此方へ少も取事なけれども高坂弾正数斗をもって越後へ、はたらき、輝虎居城春日山へ東道六十里近所へ焼詰濫妨に女童部を取て子細なくかへるなれば是とても、我等にかたをならぶる弓矢とは申がたし信玄わづらひなりといふ共、生て居たる間は我等の国々へ、手さす者は有間敷候、三年の間ふかく謹めとありて御めを給ふが又山県三郎兵衛をめし明日は其方旗をば瀬田にたて候へと仰らるるは御心みだれて如此然共少。

ネットを探しても意訳はあっても原文がなかったので手打ちで起こしましたが、長いのにウンザリしました。ほいでも手打ちしたいお蔭で遺言の趣旨が少しわかったような気がします。


勝頼後継への不満

甲陽軍鑑を信じる前提ですが、これは勝頼の能力というより勝頼の出自から後継に不安というより不満をもつ家臣が少なからずいた気配を感じます。武田家では長男の義信が粛清され次男の龍芳(信親)は盲目で、三男の信之は義信粛清より前に夭折していたとされます。ここまでが正室の三条夫人の息子になります。正室に後継者がいなければ側室の子に後継が回り、その中で最年長である諏訪御前の息子の四男勝頼でおさまりそうなものですが、そうでもなかったぐらいで良さそうです。巷間言われるように信虎時代からの宿敵であり、信玄自らが滅ぼした諏訪氏の娘の子どもである点に引っ掛かりを感じる家臣がいたってところかな?

勝頼以外となるとwikipediaで確認できる範囲では五男の仁科盛信と六男の葛山信貞になりますが、五男の仁科盛信でも勝頼より11歳下です。私の知る範囲は狭いとはいえ盛信擁立派がいたとは思えませんし、聞いたこともありません。そうなると勝頼反対派が推していたのは消去法で信玄の弟になります。既に典厩信繁は川中島で戦死していますから逍遥軒信廉ぐらいしかいない気がします。密かに根回ししていたのはヒョッとしたら穴山梅雪ぐらいかもしれないというのは陰謀論としてアリぐらいです。信廉にその気があったかなかったかは確認しようもありませんが、そういう家中世論を背景にしていたとでも考えないと勝頼への待遇が不可解ってところです。

それと私にはわかりにくいのですが、勝頼の息子の信勝に家督を継がすからリリーフとして勝頼が家督を継ぐで納得できたんだろうかです。血筋で言えば勝頼は武田家に恨みを持つ諏訪氏の血を引いていますが、信勝は織田氏の娘の子です。織田氏がこれからの武田氏の大敵になるのは見えていますから「どうなんだろう?」ってところです。まあ、この辺は最終的に織田氏と和議が成立することがあれば有利ぐらいの計算もあるかもしれませんが、そこまで信玄の死に際して家臣団が計算するかどうかです。


続勝頼後継への不満・名分論から考える

勝頼後継に不満ですが感情論がベースでも後継反対論とするには理屈が必要だったはずです。これが武将としての明らかな能力不足とか、人格の極端な破綻とかなら簡単ですが、勝頼は家督相続までに信玄の下で戦場の実績を積み上げており、この点で攻撃するのは無理がありそうに思います。そうなるとも名分論になったはずです。戦国期の名分論で参考になりそうなのは清州会議。あの会議では三男信孝を推す筆頭家老勝家と、秀忠の息子の三法師を推す秀吉の対立でしたが、たしか秀吉が展開した理屈の一つに

    信孝は織田の家を出られた方云々
信長は伊勢支配と後継争いを予防するために信雄に北畠氏を信孝に神戸氏を継がせています。武田氏で言うと勝頼が諏訪氏を、盛信が仁科氏を、信貞が葛山氏を継いだのと類似しています。武田氏から見ると勝頼は武田家を一旦出た人であり帰り新参ぐらいの見方でしょうか。もっとも帰り新参と言っても信孝とは違い、1565年に義信が幽閉された時点で後継者に指名され武田に復姓しているはずですから無理がある気もしますが、その辺をテコにしていたぐらいです。単純には帰り新参の親子継承より兄弟継承の方がより正統的な継承で「お家のため」みたいな理屈でしょうか。

ほんじゃ信勝はどうなるんだになりますが、信勝は1567年に勝頼が武田に復姓してから生まれています。おそらく名分論では信勝は純武田の一族であるって見方になるのかもしれません。信玄の遺言はこの家中の不満の中を取った裁定と見るべきなんでしょうか。武田の正統は信勝にあるのは反対する者はないのなら、勝頼は信勝継承までのリリーフであるとの遺言です。一時的に勝頼が家督を継いでも、信勝が元服すれば速やかに正統に戻るから勝頼で我慢せいぐらいです。

ずいぶん勝頼をバカにしていると見えて仕方がないのですが、勝頼には別に遺言があったとすれば筋が通ります。信勝元服後と言っても10年ぐらいは先のお話です。そこまでに当主として求心力を集めれば信勝への早期継承の話も立ち消えになる可能性も十分にあります。どっちみち信勝は勝頼の長子ですから、健在でさえあれば順番で確実に家督を継ぐからです。もうひとつ家督を譲るとは隠居になる事ですが「隠居 = 引退」では必ずしもないってことです。実権を握りながら家督だけ息子に譲る例は戦国期でもしばしば見られます。

信玄が近くで見た例なら北条氏康と氏政の関係がそうです。信長だって信忠に家督を譲っていますし、家康もそうです。実権を握りながら早期に家督を譲るメリットは、

  • 後継者争いを未然に防ぐ
  • 世襲実績を作る
  • 雑務の軽減
これぐらいは考えられます。1.は信長がそうと考えられますし、2.は征夷大将軍を家康が秀忠に譲る事だったと見れます。3.については私の想像ですが、戦国期の当主は軍事・外交はもちろんですが内政でも最高責任者です。さらに旧家であるほど冠婚葬祭などの行事ごとがバカにならないぐらいあります。家督を譲る事によって内政の細々したことや、家政の煩雑な行事の負担を軽減する意味合いもあったんじゃないかと思っています。戦国期の家の興亡は軍事と外交の比重が大きいですから、家督を譲る事により出来るだけその他の負担を軽減したいぐらいです。

信玄は勝頼に信勝に早期に家督を譲る事によって家臣の不満を和らげ、一方で隠居として実権を握って武田の家を切り盛りせよぐらいに遺言した気がします。信玄だってまだ5歳の信勝の能力の判定は出来ないでしょうし、たとえ能力があっても16歳じゃ周囲の強豪と相対して武田の家を保つのは難しいぐらいは十分過ぎるほどわかっていたはずです。細々と考察しましたが、この遺言は

    とにかく勝頼が家督を継ぐ
これが目的で、信勝早期継承のお話はその場のお話ぐらいであったと見た方が良さそうな気がします。それでも、これぐらい条件を付けないと勝頼継承には異論があったぐらいを読み取るべきなのかなぁ??。


読み方を変える

ここまでは甲陽軍鑑を信じればの話になりますが、どうしても違和感が残ります。甲陽軍鑑はどうにも勝頼を貶める脚色が施されている気がするのです。それが小幡景憲の手によるものなのか、高坂弾正の時からのものなのか不明ですが、そんな気がします。そりゃ勝頼の代に武田氏は滅亡しますから間違いとは言えないのですが、滅亡への責任の伏線をあちこちに散りばめてあるぐらいの感触です。そもそもですが信勝は勝頼正室の長子であり、次子はいません。順当にいけば勝頼の次の武田の当主は信勝になる訳です。たとえばですが、今川氏がかつて当主の義忠が戦死し、その後継を巡って

  • 義忠の息子の龍王丸(氏親)
  • 義忠の叔父である小鹿範満
こういう構図で家督争いをやっていたのなら、信玄遺言も必要ですが、信玄死亡時に勝頼がとくに信勝を忌避して排除しようとしていたとは思えません。元服すれば自然に嫡子となり、勝頼が死亡もしくは隠居すれば、これまた自然に家督が回ってきます。誰の目から見ても当然至極の家督相続です。そこに波風があったように描写したのは創作だと仮定できないだろうかです。どうもなんですが甲陽軍鑑の遺言の中で信勝継承のピースを抜いたら話がスッキリする気がします。信玄の遺言の主旨はやはり、
    三年の間我死たるを隠して
信玄は自分の死を隠す策として氏康型の実権隠居を構想していたと考えれ良い気がします。西上作戦を中断して帰国したのは事実ですから、自分が病であるのは隠せませんが、病は養生できるレベルであり、家督は勝頼に譲りながら実権隠居として健在ぐらいの方策です。いや実権隠居でさえなくあくまでも当主として君臨し、病であるから出陣は出来ないが、その代わりに陣代として勝頼を戦場では立てるとしたものぐらいです。

旗印や具足の使用について妙に細かく具体的な指示が為されていますが、信玄が勝頼への使用を禁じた旗印は信玄が健在なら信玄だけが用いられるものと解釈したら筋が通る気がします。つまりそれらの旗印が戦場に無ければ、信玄が不在である事はわかりますが、一方でこれを使用する本人は国許で健在である可能性を示唆するってところです。もし他国と合戦になった時には勝頼が兵を率いるのですが、勝頼は信玄から派遣された陣代として振る舞うための具体的な作戦指示です。

遺言の中で誰も武田を侵略しないだろうとしているのは、病のために外征は無理であっても、武田領内では信玄は出陣する可能性は十分にあり、武田領内で信玄指揮下の武田軍と決戦を敢えて行う者は天下にいるはずもないぐらいの豪語ぐらいに思えます。豪語としましたが、たしかにそうで、信玄に指揮されると怖いですから、死ぬまで待とうって気になりそうです。ただなんですが、戦国期であっても情報戦は盛んであり、自分の死を完全に秘匿できるとは思ってなかったかもしれません。信玄が期待した真の狙いは、

    ひょっとしたら生きてるかもしれない
この疑念を相手に抱かせることだった気がします。その期間が3年あれば勝頼治世は安定し軌道に乗るぐらいの期待でしょうか。ほいでもってこの策はそれなりに成功した気がします。少なくとも信玄の三回忌が終わり長篠の合戦まで武田家は主力決戦を行っていません。実際のところは東美濃高天神城を攻略していますが、武田の危機みたいな状況が3年間なかったならば成功と言えそうな気がします。


勝頼が受け止めた遺言は?

甲陽軍鑑に書かれているような遺言もあったとは思いますが、いまわの際の遺言はやはり

    山県三郎兵衛をめし明日は其方旗をば瀬田にたて候へと仰らるる
こここそ創作の意見ももちろんあるとは思いますが、勝頼の行動を考えると実際にあった可能性もあると考えています。勝頼が3年を待たずして東美濃高天神城を攻略しているのに色んな取りようはありますが、信玄の真の遺言として勝頼が受け止め使ったからと考えるとなんとなく筋が通ります。この言葉は山県昌景も聞いているので甲陽軍鑑にあるように「御心みだれて」て片づけにくいところでもあります。もちろん勝頼が真摯に受け止めたのか、それとも軍事行動のための口実に利用したのかは不明ですが、これもまた信玄の遺言ですから武田にとって軽くないといったところでしょうか。

もうひとつ信玄の遺言で面白かったのは若さのメリットを活かせとしている点です。戦国期の生き残るためには、長生きした方が最後に覇権を握るぐらいの意味でしょうか。これも後付の創作の感触があるのですが、天下を最終的に獲ったのはいわゆる三傑の中でもっとも若く、そのうえもっとも長生きした家康です。その点でいえば勝頼は信長より12歳も若いので、生き残れば有利かもしれません。ただ家康とはたった4歳しか変わらず、家康の長寿を考えると、まともに生きても勝頼の方が先に死ぬ気がしないでもありません。

仮にそこまで読んで、勝頼の次代の信勝の時代に武田による天下統一を考えていた・・・無理があるなぁ。。。そりゃ信長も、秀吉も、家康もいないかもしれませんが、戦国状態が続けば信勝より若い新たな英雄が出てくる可能性がある訳です。たとえば伊達政宗政宗は信玄より地理的条件は悪いですが、仮に、仮にですが二代の秀忠あたりが絵に描いたような暗君で天下の輿望を失えばってぐらいの「if」を置いときます。とにもかくにも信玄の遺言に後付の脚色があるとしても成立したのは江戸期であり、江戸幕府を否定する脚色は出来ないので、どっか中途半端になっている気がします。