長篠の合戦ふたたび:やっと合戦本番

信玄の死から長篠の合戦までの経緯を追うのに2回を費やしましたが、やっと合戦に取り掛かります。

勝頼の進攻路

まずは甲陽軍鑑より、

勝頼公信州より遠州平山越を御出あり、三州うりと云う所へ御着被成

土地勘が乏しいところなので難儀しましたが、どうもこういう事のようです。

信州から二股城に進んだ勝頼は浜名湖の北岸を通り、野田城方面に進んだようです。二股城から長篠城に至るルートは他にも井伊谷を通り伊平城、柿本城を通るのもあり、信玄西上作戦の時には山県昌景が両城を落としていますから、確実に存在するはずです。こちらならダイレクトに長篠城に着きますが、勝頼は南寄りのルートを取ったとなっています。もちろん勝頼の別動隊が通った可能性もありますが、これ以上はわかりません。勝頼が平山越を通ったのなら気になるのは野田城です。

野田城は信玄が最後に攻め落とした城として有名ですが、通説では天正2年に徳川が奪還したとなっています。この時に長篠城も奪還しているのですが、そうであれば勝頼も野田城をまず攻め落とすのが常道のような気がします。そうでなきゃ、わざわざ平山越をする理由がありません。ここについてはwikipediaより、

なお近年では元亀2年の遠江三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。

野田城が落とされたのは勝頼の長篠の時の可能性の指摘です。この辺はこれだけの情報ではなんとも言えませんが、ここでは勝頼が野田城を占領したんじゃないかぐらいにしておきます。


長篠城包囲網

長篠城は500で守っていたとされます。これに対する武田の布陣はこんな感じであったようです。長篠設楽原の戦いから引用しますが、

地形図に落とそうと思いましたが、どうにも出来なかったのでゴメンナサイ。長篠城の構造についてはwikipediaより、

長篠の戦いのころの構造について言うと、本丸のすぐ北側には堀が掘られ、その北側に二の丸、そのすぐ北側にまた堀が掘られていた。二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などがあり、本丸の西側に服部曲輪があり、野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていた。川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅かったが、北側は(台地状に)平地が広がっておりそのままでは守りが弱かったので、そちらにはしっかりとした堀が掘られていたのである。

北側に地形的な弱点があったようで、そこには人工施設を設けていたようです。もう少しリアルな推測図を探してたら長篠城と周辺遺跡に、

豊川と宇連川に挟まれた三角地帯が長篠城であったようです。武田軍は城の北側に布陣しているだけでなく、豊川や宇連川の対岸にも陣を置いていたようです。


信長の対応

信長公記より

五月十三日、三州長篠後詰として、信長、同嫡男菅九郎、御馬を出だされ

これだけじゃサッパリわからないのですが、勝頼が長篠城攻略に取り掛かったのが5/8となっています。一方で勝頼が甲府を出陣したのが4/5となっており、二股に入城したのは4月中旬から下旬ぐらいかもしれません。この辺の日付はハッキリしないのですが、浜松城の家康からすれば、野戦で勝てない武田の大軍が二股城におり、これから遠江を暴れまわるのは確実ですから信長に援軍の急使を派遣してもおかしくありません。甲陽軍鑑では二度の使者で断られ、三度目の使者で勝頼と和議を結び遠江を譲り、その代わりに尾張に攻め込むと脅して信長がようやく腰を上げたとなっています。

どうも甲陽軍鑑の話は脚色がありそうなんですが、信長が武田軍の遠江進攻に際し即応しなかったのだけは事実してあり、家康が何度も催促の使者を送ったぐらいはあったとしても良さそうです。ただなんですが前にも考察した通り、織田は当時でも超大国であり大軍を動員できますが、現実的には目一杯の手を周囲に広げており、大軍を編成するには各方面軍からの引き抜きが必要です。この方式は織田方から決戦を挑むときは問題は少なくなりますが、相手が予想外の動きをした時にはどうしたって時間がかかります。

たぶんと言うか、なんとなくですが信長は「行く、行く」と家康の使者に答えながら、兵が集まるのを待っていたぐらいを想像します。実数については毎度のことながら不明ですが、当時の織田家であっても3万の大軍を集結するには、どうしたって時間がかかるだろうというところです。さらに信長公記です。

五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城に御泊り。当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を置かれ、菅九郎、新御堂山に御陣取

安土城天正4年ですから信長が出陣したのは岐阜だと思うのですが、さすがは織田軍は早いですねぇ、翌日には岡崎に着いたとなっています。5/17に野田原に野陣、翌日に「推し詰め」ってありますが、武田方になっていた野田城を奪還したのも含むかもしれません。これは野田城が徳川方ならば野陣する必要はないですから。この辺は武田方も戦わずに撤収したのも十分にあり得ます。なんとなく明知城の時の事を思い出しますが、信長は長篠城を包囲する武田軍に直接襲い掛かるというより、武田軍を圧迫する位置に陣を構えたぐらいにも確かに解釈できます。

5/18には極楽寺山に進出して

志多羅の郷は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段々に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原へ打ち上げ、武田四郎に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵を付けさせられ、彼のあるみ原は、左りは鳳来寺山より西へ太山つゞき、又、右は鳶の巣山より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。

有名な馬防柵を作るのですが、勝頼は

川を前にあて、武田四郎鳶の巣山に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠へは攻め衆七首差し向け、武田四郎滝沢川を越し来なり

長篠城に抑えの兵を置いて接近してきたとなっています。次のところが信長公記でも解釈の分かれるところのようですが、

今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。

武田軍が近づいてくれたのを天与の好機としています。これは裏を返せば武田軍が近づかずに帰国なりしていれば、にらみ合いだけで決戦に至らなかったとも解釈できます。もう一つ気になるのが

    武田四郎鳶の巣山に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを
これは太田牛一がそう感じたのか、信長がそう言ったのか、はたまた織田軍の当時の声(長篠後も含めて)がそうであったのか確かめる術もありませんが、武田軍が鳶の巣山に本陣を移すのを非常に嫌がっていたと素直に解釈できます。いうまでもないですが、勝頼が医王山から鳶の巣山に本陣を移しても長篠城がすぐに落ちる訳ではありませんので、別の意味で嫌がっていたと解釈するのが妥当です。さてさて何を織田軍は嫌がっていたのだろうです。


設楽原と鳶の巣山と長篠城

おそらくなんですが宇連川は豊川との合流地点に向かうほど高い崖を形成していたで良いと思いますが、

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これは現代地図ですが武田軍の姥ヶ懐陣地と君が臥所陣地の間に道があります。この道はおそらく織田軍が鳶の巣山奇襲に用いたルートと考えていますが、織田軍は鳶の巣山の武田軍を追い落とした後に長篠に入城しています。つうことはこの辺りに渡河地点があったんだろうといえます。武田軍からしてもそうで、この辺に渡河地点がないと鳶の巣山とそれに連なる山々に陣を置く意味が乏しくなります。とにかく現場に行った事がないので推測にしかすぎませんが、鳶の巣山の戦略的意味は川中島で謙信が妻女山に登って海津城を圧迫したのと類似する格好になるってところでしょうか。姥ヶ懐陣地と君が臥所陣地の間の道は海津城でいうと地蔵峠みたいなもので、長篠城を完全包囲するには斜断が必要なルートであったぐらいです。

史実では武田軍主力が豊川を渡り設楽原に近づき、長篠城包囲の軍勢を減らしたので、その隙をついて鳶の巣山に信長は奇襲攻撃をかけるのですが、鳶の巣山に武田軍本陣があれば奇襲がかけられたかは疑問となります。鳶の巣山本陣が健在なら武田軍は設楽原に進みませんから、可能性の一つとして長篠城を包囲する武田軍と、設楽原に馬防柵を作って籠っている織田徳川連合軍のにらみ合いに展開する可能性があります。そうなった時の問題は

武田軍は攻めあぐねてはいますが城内が危機的なのはいうまでもありません。鳥居強右衛門のエピソードで援軍が来ることがわかり士気は上がったでしょうが、wikipediaより、

兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。

士気だけで空腹は耐えられないってところです。織田軍の来援の重要な目的の一つに長篠城救援があります。そのために設楽原に巨大な陣地を作り武田を圧迫したで良いとは思いますが、それでも武田が包囲を解かないと時間の問題で長篠城は落ちます。もし長篠城を救援するのなら設楽原陣地から長篠城に織田徳川連合軍は進まざるを得なくなり、せっかく築いた馬防柵は役に立たず、平地で武田軍と戦う必要が出てきます。川中島茶臼山から海津城に信玄が敵前横断したのに少し似る状況になります。

ただなんですが信長がそこまでのリスクを冒すかの問題が出てきます。信長の武田との決戦プランは馬防柵を構築した陣地での武田軍の迎撃です。それに勝頼が乗ってくれなければ無理に決戦を行わなければならない必然性はありません。決戦は勝敗も重要ですが、勝ったとしても被害が大きいと後の影響があります。織田軍が乱戦の末になんとか武田軍を押し切ったとしても、その損害が大きければ各方面軍の弱体化に連動します。そうなると信長が取りそうな行動はにらみ合いながら長篠城が落ちるのを設楽原で待つぐらいでしょうか。

そうですねぇ、家康に悔やみごとの一つでも言い、野田城の強化でも指示しながら岐阜に帰るぐらいです。ここでも信長にはもっと嫌な展開があります。長篠城を手に入れた勝頼が甲府に帰らず、さらなるにらみ合いに持ち込むことです。そんな状態で家康を置いてさすがの信長も帰りにくくなります。つまり織田三万の大軍が設楽原に釘づけ状態になり、信長が一番困ります。そうなれば信長は相当不利(家康に取って)な和議を呑んででも帰る工作をやるか、強引にでも豊川を挟んでの決戦を行うかですが、そこまでの展開になれば遠江を勝頼に譲渡しても帰る気がなんとなくします。


鳶の巣山奇襲

信長は勝頼が鳶の巣山籠城の選択をしなかった事を見て、逆に鳶の巣山を奪い長篠城を救援する作戦を実行します。

坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、?びに信長の御馬廻鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川を打ち越え、南の深山を廻り、長篠の上、鳶の巣山へ、五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋々々を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘致し、風来寺さして敗北なり。

どうもこんな感じであったようです。

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奇襲は見事に成功し、武田軍の長篠城攻撃隊は崩れ潰走したとなっています。信長公記を読みながら気づいたのですが、信長公記には織田軍が持ち込んだ鉄砲の数を明記してあります。まずは鳶の巣山奇襲に500丁とありさらに、

兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近々と足軽を懸けられ、御覧じ侯。

鳶の巣山に向かった500丁はそのまま長篠城守備に回されていますから、長篠の決戦で使われたのは1000丁となっています。奉行が5人ですから200丁の鉄砲部隊が5つってところでしょうか。そうなると信長は1500丁の鉄砲を長篠に持ち込んでいますが、そのうち1/3の500丁を鳶の巣山奇襲に用いたことになります。つうか鳶の巣山攻略に用いられた鉄砲は織田の500丁だけではありません。

    家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列
徳川軍の鉄砲も動員されています。家康が設楽原の時に何丁の鉄砲を保有していたかはわかりませんでしたが、300丁ぐらいはあっても不思議ありません。織田軍が500丁出したなら、家康も100丁ぐらいは提供しないとバランスがとりにくいところです。長篠の合戦の形式上の主役は徳川ですからね。そうなると鳶の巣山攻略に用いられた鉄砲の数は600丁以上、下手すりゃ700丁になっていたかもしれません。それだけの鉄砲隊に雨あられと撃ち込まれたら武田の守備隊もこらえれなかったぐらいでしょうか。裏を返さば、それぐらい鳶の巣山奇襲を信長が重視した傍証になるかもしれません。


勝頼の決断

鳶の巣山の奇襲は「やられた」って感じでしょうか。落城寸前の長篠城は息を吹き返した上に武田軍の退路を塞ぐ格好になります。前には織田・徳川連合軍が柵を構えて頑張っています。こういう状況に追い込まれて通説では武田の重臣の意見は割れたとなっています。簡単には、

  • それでも帰国する
  • 主力は無事であるから正面の織田徳川連合軍を撃破する
勝頼がどちらを選んだかは御存じのとおりですが、なんとなく勝頼は心情的に帰国する選択枝がなかった気もしないでもありません。ここまで勝頼は東美濃高天神城と勝利を手にして求心力を高めていますが、いうてもまだ3年目です。ここで帰国したら「逃げた」と言われるのは間違いないですし、「勝頼。頼むに足らず」の評価も出るでしょう。つまりは家督を継いでから築き上げた求心力を失う懸念です。そこを耐えるのが名将への道なんですが、父信玄の重すぎる名前が勝頼の判断を左右した気がします、帰国意見は信玄以来の重臣派であったとされますが、勝頼の目には重臣たちの顔に
    ほら見たことか!
こう書いてあるように見えたぐらいを私は想像します。運命の決戦に勝頼は歩を進めることになります。


合戦の実相を想像する・まず織田軍

これが有名な割にははっきりしないところがあります。様々な説があるのですが、一つには鉄砲の音に武田の騎馬隊が驚いたがあります。この点は馬は臆病な生き物だからで納得できそうですが、よくよく考えなくとも鉄砲は織田軍の専売特許ではありません。また馬が鉄砲の音に驚いて役に立たなくなるのなら、長篠より大量の鉄砲が使われた関が原なんてどうなるんだがあります。そもそもなんですが武田軍にも鉄砲隊はあり長篠でも300丁はあったとされます。さらにさらに川中島合戦の頃にも武田軍に鉄砲は既にあったとされます。武士に騎馬は重要ですから、鉄砲の音に驚かないような訓練(どんな方法かはわかりませんでした)がされていたと考えるのが妥当です。ですので鉄砲の爆音説はまず否定します。

馬防柵自体もこれほど大規模なものが以前にあったかどうかは自信がありませんが、当時の野戦築城では必ずしも珍しいものではなかったとされます。これもそもそも論になるのですが、武田軍は長篠城から移動した勢いでそのまま織田軍に突撃した訳じゃありません。連吾川を挟んで3日間ぐらいはにらみ合いをしています。当たり前ですが馬防柵をその目で見て観察しているわけです。見たこともない馬防柵に訳も判らずに突撃した訳じゃないと考えます。


大量の鉄砲が効果を発揮したであろうことは否定はしませんが、通説の様の馬防柵の前で練雲雀状態で武田軍が為す術もなく壊滅した可能性を考えてみます。まず鉄砲の数は信長公記で1000丁、これに徳川軍の200丁ぐらいがあったとして1200丁です。設楽原の両軍の配備も合戦中の移動があったりして微妙なんですが、こういう感じであったの説もありました。

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当初極楽寺山にあった織田徳川軍本陣は、武田が決戦に臨んでくるとなって信長は茶臼山、家康は高松山に陣を移したと信長公記でもなっていますが、私が注目したいのは織田徳川連合軍の配置です。織田軍と徳川軍は基本的に別であったとして良いはずです。「別」とは我ながら拙い表現ですが、姉川を思い出せば参考になります。姉川の時の織田徳川連合軍の配置はwikipediaより、

織田軍が右翼担当、徳川軍が左翼担当でキッチリ分かれています(浅井朝倉連合軍もそうです)。長篠も当然ですがそうだったはずです。具体的には高松山の家康本陣から南側が徳川軍担当、北側が織田軍担当です。だからこそ信長本陣の茶臼山はあんな北側に寄っていても問題ないぐらいでしょうか。姉川のエピソードもどれだけ信憑性があるかは言い出したらキリがありませんが、信長は家康軍の兵数の少なさから織田から援軍を出すと提案したところ、ほんのわずかしか望まなかったとされています。

姉川は信長への援軍でしたが、長篠は家康に対する援軍です。そうであれば家康は信長の援軍を基本的に断ったと見ても良いんじゃないかと考えています。つまりは徳川軍だけで自分の担当部署を守ったって事で、何が言いたいかですが、鉄砲隊の配分つうか信長からの援助を受けなかった可能性は十分にある気がします。馬防柵は約2kmぐらいですが、おおよそですが織田が1km、徳川が1kmぐらい担当しています。織田軍に1000丁あれば、1mに1丁の密度になります。

火縄銃ではお互いの間隔を1mなんて距離で射撃するのは危険だそうで、3mぐらいは距離を空けるのが常識だったそうなので、織田軍は戦線にビッシリ配置してもあり余るほど、いや6割以上は余るぐらいになります。そこまで多い鉄砲を有効活用するために有名な三段撃ちが出てくるのかもしれません。設楽原の地形を見ていると3人で1セットの通説もあったかもしれませんが、それより雛壇のように縦三列で射撃を浴びせた可能性もあるんじゃないかと思った次第です。織田軍の射撃の凄まじさの一端は甲陽軍鑑にもあります。

真田衆かかって柵を一重やぶるとて、大方討死仕り候、或ひは手負引のき候、中にも真田源太左衛門兄弟ながら深手負則ち死す

真田隊が突撃したら、柵を一重破る間に壊滅状態に陥ったとなっています。織田軍の戦い方も甲陽軍鑑にあり、

上方勢は徳川衆の如く柵の外へ出さるゆへ

徹底して柵の中からの狙い撃ちに徹している様子がうかがえます。こういう戦法を駆使することで信長公記にある、

御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。

こういう状態を実現しようとし、それに近い効果をあげた可能性があります。なんとなく本願寺戦の雑賀鉄砲隊との戦いで学んだ匂いもしますが、どうなんでしょう。


合戦の実相を想像する・徳川軍

徳川軍にも鉄砲はあったでしょうが、織田軍に較べると遥かに少なく、織田軍みたいな芸当は無理だった感じがあります。甲陽軍鑑

上方勢は徳川衆の如く柵の外へ出さるゆへ

この部分は織田軍が柵の中に籠る戦術を取ったのに対し、徳川軍は柵の外に打って出ていたと素直に解釈できます。有名な長篠合戦屏風でも、

この描写は徳川軍が馬防柵の外で戦っていたことに基づくものではないかと思われます。鉄砲隊まで柵の外に出ていたかどうかはわかりませんが、わざわざ柵外で戦う様子を描写しているのは「それぐらい有名だった」と取れないこともありません。当然ですが甲陽軍鑑の戦闘描写も変わります。

家康衆六千ばかりを、山県三郎兵衛千五百にて柵の内へおひこむ、されども家康強敵のゆへ、又くいつき出る、山県衆は味方左の方へ廻り敵の柵の木いはざる右の方へおしだし、うしろよりかかるべきとはたらくを、家康衆みしり、大久保七郎右衛門てうのはの差物をさし、大久保二郎右衛門金のつりかかみのさし物にて、兄弟と名乗て、山県三郎兵衛衆の、小菅五郎兵衛、広瀬郷左衛門、三科伝右衛門此三人と詞をかわし、追入おひ出し九度のせり合あり

甲陽軍鑑から当時の状況を想像すると、

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高松山の南側は北側が丘が続くのに比べると平坦地になっています。山賀昌景はここの突破を狙ったようです。これに対し家康も柵から打って出たようですが山県隊に押しまくられて柵内まで侵入されたぐらいとまず読みます。ひょっとしたら徳川軍は総崩れ状態で柵内への付け入りを許したのかもしれません。山県隊は柵内に侵入した後に北側に転じ家康本陣の背後に出ようと動きますが、そうはさせまいと徳川軍も予備隊を次々に投入したぐらいの様子を想像します。非常な激戦になったと思われますがこの局面で勝負を分けたのは、

山県三郎兵衛くらの前輪のはづれを鉄砲にて後へ打ぬかれ即ち討死あるを、山県被官志村頸をあげて甲州へ帰る

どうも乱戦の中で山県昌景は鉄砲で撃ち抜かれて戦死したようです。当時の軍制では直属の大将が戦死すれば部下は戦う意味を失いますから、山県隊は昌景の戦死をもって戦場から引き揚げたと書かれています。甲陽軍鑑の描写を読む限り三段撃ちもクソもありません。いわば普通の合戦の様子を描写しているだけで、家康にとって幸運だったのはタマタマ山県昌景が鉄砲で戦死してくれて、猛威を振るっていた山県隊が撤退してくれたぐらいでしょうか。

山賀昌景と並び武田四天王と呼ばれた内藤昌豊は中央を担当していたとされ、家康本陣に襲いかかり三重の柵を突破したとなっています。猛攻撃をしかける内藤昌豊本多忠勝が槍を揮って奮戦の末に撃退したと本多家武功開書にあるそうですが、ここにも鉄砲隊による練雲雀状態についてはとくに記されていない感じもします。鉄砲もあったんでしょうが、織田軍の様に雨あられと浴びせかける戦法は徳川軍には無理で、いわゆる普通に陣地戦を行っていたぐらいに私は読めます。


合戦の実相を想像する・重臣の戦死

まず山県昌景真田信綱真田昌輝は確実で、信長公記にある

西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。

これは小幡信貞の事を指すそうですが、戦死したのは信貞ではなく弟であったとされています。甲陽軍鑑より

唯今討死なりとことはりて、敵出ざる故、自身かかって、柵を破り候とて、土屋右衛門尉其歳三十一にて則ち討死也

これは土屋昌続のことで、wikipediaでは二重目の柵を破ったところで一斉射撃を浴びせられたとなっています。wikipediaには他に安中景繁、望月信永、米倉丹後守の名がありますが、戦死はしているようですが鉄砲によるものかどうかは不明で、さらに他には信長公記

討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。

これは大変でまずすぐにわかるのが、

    山懸三郎兵衛、西上野小幡、さなだ源太左衛門、馬場美濃守
横田備中は勇将横田備中守高松の婿養子で原美濃守の長男だそうです。土屋宗蔵は土屋昌続の弟で天目山で殉死したはずですが別人かどうかは不明、甘利藤蔵は甘利虎泰の息子の信忠になるはずですが、どうも長篠には参加しておらず甘利信康か信頼だろうとされています。高坂又八郎は高坂弾正の一族の高坂昌澄、なわ無理介は名和宗安、川窪備後は河窪信実、仁科は油川信次ぐらいが候補に出ますが不明、興津も不明、竹雲は岡部竹雲斎、恵光寺は高森恵光寺快川で武田信重の子孫、根津甚平は根津宮内太輔元直で滋野の一族、土屋備前守は異説も多いですが土屋貞綱、和気善兵衛は和気宗勝らしいみたいです。このうち
    高坂昌澄、名和宗安、河窪信実、和気宗勝
この4人は鳶の巣山の奇襲関連で討死のようで、岡部竹雲斎もその可能性がありますが、一説では鳶の巣山は逃げ延びて設楽原で討死したともなっています。他にもwikipediaによると三枝昌貞、五味貞成、和田業繁、飯尾助友が鳶の巣山で討死となっています。こうやって確認すると鳶の巣山戦だけでもかなりの損害を武田軍は蒙っていそうな気がします。


勝頼に勝機はあったか

これをやらないとムックは面白くないのですが、案外あった気がします。もちろん後世の後出しジャンケン満載ですから、その点はご容赦願います。長篠の合戦を大雑把に単純化すると、

  1. 長篠城救援のために織田徳川連合軍が設楽原に防衛拠点を作った
  2. これを長篠城攻略戦中の勝頼が襲いかかり惨敗を喫した
まずは最上策は信玄以来の重臣が進言したという帰国策です。桶狭間の信長ではないのですから、別に決戦が絶対不可避って状況ではないってところです。長篠城を落とせずに帰国したら、勝頼の求心力にキズは付くかもしれませんが、それはそれ、勧めたのが信玄以来の重臣ですからある程度のfollowは期待できます。少なくとも長篠で惨敗を喫するのと較べてキズの大きさ、深さは比較するのもアホらしいぐらい差があります。もう少し工夫するのなら、軍議の開口一番で余裕と確信に満ちた表情で帰国を宣言してしまえばさらに効果的です。そうすりゃ、ヒョットしたら重臣たちは信玄の面影を勝頼に見たかもしれません。

しかし歴史は決戦に舵を取ってしまうのですが、この決戦もバカ正直に設楽原の織田徳川連合軍の陣地に突撃しなかったらと思えてなりません。この辺は蓋然性の問題になるのですが、長篠の決戦で織田徳川方から突撃する選択はあっただろうかの問題があります。信長の設楽原での作戦の基本は

    受けて立って押し返す
こうの気がします。そりゃ1000丁の鉄砲を有効活用するには混戦は拙い訳で、そのために長大な三重の馬防柵を構築して待ち受けていた訳です。信長から設楽原の陣を出て決戦に挑む作戦は毛頭なかった気がしています。となると勝頼が動かなかったらどうするつもりだったんだが出てきます。設楽原の信長作戦の要は「攻めてもうらうこと」で、攻めてこなかったら1000丁の鉄砲隊も、長大な馬防柵も飾り物になってしまいます。信長公記に勝頼が鳶の巣山に居陣していたら云々があるのはその点だと思われます。

鳶の巣山奇襲は酒井忠次の発案の説がありますが、なんとなく信長の作戦としてあった気もしています。信長は設楽原の陣を構築したものの、ここにどうやって勝頼をおびき寄せるかの工夫をあれこれ考えていたはずです。たとえば長篠城を囲んだまま武田軍が動かなかった時です。その時には鳶の巣山を襲撃するのも作戦の一つとしてあっても不思議ありません。ここを織田徳川連合軍が取ると、武田軍の長篠城包囲は宜しくないというか、たぶん鳶の巣山方面から長篠城への入城を武田軍は遮る事が難しくなるだろうぐらいです。

ただ鳶の巣山襲撃は、これをやったら設楽原決戦に持ち込めるというより、長篠城救援と武田軍の帰国を促す策にしかならないので、信長に取ってはあくまでも最終オプションの一つぐらいでしょうか。だから鳶の巣山に勝頼が本陣を移し、守備を強化されると打つ手が狭まってしまうぐらいです。

信長にしたら決戦は三重の馬防柵と大量の鉄砲が秘策であって、長篠城まで動いたら馬防柵は無用の長物になり、鉄砲も使いにくくなります。想定していた有利な条件での決戦が出来なくなれば信長の判断としては「帰る」になるかと思われます。信長が偉大なのは不利となれば判断が非常に素早い点です。あの金ヶ崎の時のようにです。ただなんですが、帰ると言ってもさすがに同盟国の家康の顔を少しは立てないといけません。信長なら家康の面子ぐらい平気で潰しそうな気もしないでもありませんが、その辺は少しは配慮する作戦はやったかもしれません。

何をするかですが、やっぱり鳶の巣山襲撃です。この時に信長にとって理想のシチュエーションは徳川軍から提案してくれて、徳川軍単独でやってもらうことです。成功すれば長篠城救援が出来ますし、失敗すればさすがに長篠城の飢えは限界になるかと思われるので、長篠城を勝頼に渡して「帰る」です。信長にすれば不利な条件があれば「今」勝頼と無理して決戦しなくともチットも困らないわけです。

ここは仮にですが、長篠落城(せずとも)武田軍が帰国したらどうなるかですが、家康にしたら長篠城奪還、さらには二股城奪還を信長に提案するかもしれません。せっかくの大軍ですからそれぐらいの戦果拡大は欲しいところです。しかし信長は勝頼が帰国すれば直ちに岐阜に戻りそうな気がします。つうのも明知城攻防戦を含む東美濃の記憶があるからです。勝頼は真冬に中山道を通って東美濃に攻め込んできた訳ですから、二股城なんかに引っかかればタマランぐらいでしょうか。同盟軍とはいえしょせんは他人の領土の問題で、織田軍だって忙しいぐらいでしょうか。

織田も武田もこの時期に余程有利な条件でもなければ決戦を行わなければならない大局的な状況になく、信長にしたら設楽原の罠に勝頼が乗ってくれれば決戦、自重されれば「また今度」ってところだった気がどうしてもします。勝頼の勝機というか負けないチャンスはただ一つ、

    設楽原の織田徳川連合軍を攻めない
このために重臣が勧めたという帰国策でもエエですし、信長公記にある鳶の巣山に本陣を移して粘るのもアリでしょうし、そのまま長篠城を囲んだまま鳶の巣山を襲撃されて撤退するもアリだった気がします。武田の重臣さえ見抜いていなかったかもしれない気配がありますが、決戦で信長が勝っても甲斐まで追撃する気はさらさらなかったのは、史実の長篠合戦の後を見ればわかります。信長は長篠の時点で甲斐攻略を腰を据えてやる余裕はまったくなかったぐらいです。

つうても、そんな事は史実が出そろってからPCの前で呻吟しているから出せる結論であって、すぐ近くに織田徳川の大軍が迫っている状況で勝頼が決戦に走ってしまったのは仕方がないかなぁ。進む決断より、退く決断の方がはるかに難しいのだけは私程度でもそれなりに理解できるところです。そうなると話はドンドン巻き戻されて、長篠城がもっとアッサリ落城していたらぐらいは挙げても良いかもしれません。長篠城がなかなか落ちなかったのは勝頼が織田徳川を決戦に誘い込むためであったと説は昔からあります。

勝頼が長篠城をどういう意図で攻略しようとしていたかは、今となっては皆目見当もつかないのですが、参考になる情報だけはあります。たいした情報ではないのですが、その前の勝頼の2戦である東美濃高天神城です。どちらも城を落とせばあっさり帰国しています。長篠城もまたそうであった可能性はあります。徳川を叩けば織田が出てくるのは計算の内ですが、サッと叩いて引き上げたならば織田は出てこないぐらいの観測でしょうか。つまりって程ではありませんが、長篠城から野田城、さらに吉田城に続くラインの構築の一環だったぐらいです。そのラインが出来れば浜松の家康は三河と分断されます。

もちろんそんなラインが出来上がったら家康も困りますし、家康の力が落ちすぎると東にも織田軍の有力部隊を回さなければならなくなり信長にとっても都合はよくありませんので、吉田城を巡るあたりで決戦ぐらいの準備攻撃です。ただそう考えると「いずれ決戦」が勝頼の胸中にあり、長篠で引っかかっているうちに信長が出て来たので決戦に突っ走ってしまったぐらいになってしまいます。決戦に逸り立つ勝頼が長篠を回避するには、どうも長篠城がアッサリ落ちることぐらいしかなかった気がしないでもありません。


歴史の「if」

勝頼の能力の評価は様々ですが、個人的にはかなり優秀な部類に入る気がしています。たとえば景勝とくらべてどうだぐらいです。ただ相手が悪かった気がします。信長の純戦術的才能は信玄や謙信に劣るの評価は良くなされますが、それをカバーして余りある戦略的才能があったぐらいに私は思っています。たとえば信玄と信長が将棋の様にまったく互角の戦力で会戦すれば信玄が勝つ気はします。しかし信長はそういう合戦をやりません。いや桶狭間以降はやらなくなったぐらいです。

信長の合戦は、合戦が本番ではなく、合戦までが本番で、いざ合戦になれば粛々と相手を押し潰すのが基本ぐらいに見ています。もちろん成長拡大期には必ずしもそうはいかない場面もあり、バクチ的な采配もやらざるを得ない局面もありましたが、基本はそうしようと動ているとみて良さそうです。これは弟子の秀吉の戦法をみればよくわかります。秀吉の時代にも信玄なり、謙信と戦えば「どうか」的な話題が出ることもあったそうですが、たしか秀吉は10倍の兵力で押し潰すみたいな返答をしていた気がします。これが信長戦術の基本と思います。これは戦術云うより戦略になりそうです。

設楽原を見返してみると、信長は勝頼をいかに誘い込むかに苦心があったと思っています。上述したようにいくら長大な馬防柵を作り、その中に大量の鉄砲隊を配置しようとも勝頼が来なければ、単なる独り相撲です。これは勝頼に申し訳ありませんが、信玄や謙信なら、そんな罠にのらずに別の手を打っていたと思います。たとえば反転して浜松城を狙うとかです。浜松城を狙うのはさすがに無理でも、二股城まで戻って、そこに有力部隊を配置した上で帰国はあります。ちょうど川中島海津城みたいな感じです。

信長は勝頼というか、武田家での勝頼の地位を冷静に分析していたのかもしれません。偉大な父の二代目、有力重臣の信玄への陶酔、それに反発してしまう勝頼。考えてみれば信長もそんな環境(もっと悪いかもしれない)で家督を継いだわけですから、血気と面子にこだわる勝頼なら、挑発にのってくれる可能性は低くないぐらいでしょうか。史実では信長が策を弄するより先に勝頼が動いてくれて「天与の好機」といわしめた訳です。やはり勝頼の経験不足が露呈したぐらいに思えます。


ふとふと歴史の「if」を思うのですが、長篠で勝頼が重臣団の意見に従って帰国していたらどうなっていただろうと思うことがあります。一つの可能性は、勝頼の進出方向としてはやはり遠江から三河であり、長篠は回避できても、どこかで別の長篠で同じ運命をたどったの見方です。それも十分に可能性がありますが、長篠と違うのは勝頼も経験を重ねていくことです。なんでもそうですが、実戦の経験数の差は大きなものです。信玄だって無謬の名将ではなく、若いころは手痛い敗戦も経験しています。まだ実質的に3戦目であった長篠と、10戦目ぐらいのどこかの長篠では同じになるかどうかです。この辺は最終的に勝頼の真の器量になってきます。

というのも武田家滅亡は長篠から7年後の天正10年になりますが、この時期に武田家が滅亡してしまったのは織田徳川連合軍の強さと言うより、武田家の自滅に見えます。長篠後の勝頼も立て直しに躍起になったのは記録にもあるようですが、結果としては裏目裏目になり天正10年の自滅に至るぐらいでしょうか。

これが長篠抜きであればどうだったかですが、信長の勢力拡大方針の主体はあくまでも西です。中国の毛利を秀吉に攻めさせていますし、四国征伐軍も本能寺時に集結しています。中国・四国を征したら今度は確実に九州でしょう。そういう基本戦略も秀吉は信長から受け継いでいたと見ても良いかと思います。西を勢力圏に収めた後に、圧倒的な大軍で東に進もうぐらいが基本だったんじゃないでしょうか。そういう目で見れば、信長軍は天正10年時点でまだ備中高松です。四国は準備しているだけで海は渡っていません。

そういう状況で信玄後も綻びを見せない武田攻めを信長が行うとは思いにくいところです。それこそ家康に丸投げして、時々本当にやばくなれば申し訳程度の援軍を送る程度でお茶を濁していたかもしれません。家康にすればたまったもんじゃないかもしれませんが、信長の家康への扱いはその程度の気がします。でもって天正10年は本能寺の年でもあります。武田家滅亡無しで本能寺が起こったかどうかは結論など出ようもありませんが、長年の度重なる信長からの冷遇に切れた家康が光秀になっていたかも・・・この程度で新年の妄想は留めさせて頂きます。