皇紀からの雑考

6/6付MSN産経記事より、

枝野長官、今上陛下が第何代か「知らない」

 枝野幸男官房長官は6日の参院決算委員会で、現在の天皇陛下が第何代なのかについて「知らない」と述べた。天皇陛下は初代神武天皇から数えて125代目にあたる。枝野氏は今年が皇紀何年(2671年)にあたるかも答えられなかった。山谷えり子氏(自民)に対する答弁。

えぇっと、これで記事全文です。記事内容は正直なところどうでも良いのですが、皇紀について簡便にwikipediaから引用しておきます。

神武天皇即位紀元は、キリスト紀元(西暦)より660年大きな値(キリスト紀元X年+660年=神武紀元Y年)となる。このずれは年により変わることは無く一定である。例えば、西暦2011年は皇紀2671年となる。

国家の紀元を神武天皇の即位に求めることは、古代の『日本書紀』編纂以来、一般的な認識であった。これを暦法に応用した皇紀の使用は、江戸時代後期の1840年代から1860年代にかけて、藤田東湖など国学者が用いた事が始まりである。当時の国学者は、アヘン戦争が勃発した西暦1840年を「紀元2500年」というように呼んでいた。しかし、政府の公文書は干支と元号を併用しており(例:天保11年庚子[西暦1840年])、皇紀は使用されなかった。

戦前の日本では、元号の外に皇紀がよく使用されており、単に「紀元」というと皇紀を指していた。但し、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく、元号のみが用いられていた。戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。

戦後になると、単に「紀元」というと西暦を指す事が多い。また、現在では、皇紀を見る機会はほとんどなく、政府の公文書でも用いられていない。しかし、公式に廃止されたわけではなく、閏年の置き方に関しては、神武天皇即位紀元を元に決めた勅令が根拠となっている(閏年ニ関スル件、明治31年皇紀2558年、西暦1898年]5月10日勅令第90号)。

皇紀なんてものを考え出したのは藤原不比等だと思っています。不比等日本書紀天皇家万世一系伝説を創作したのは有名です。万世一系伝説を作るに当たって、当時伝承されていた天皇(と言うよりオオキミまたはスメラミコト)を歴史として並べる必要があります。並べなおすに当たって基準年が必要ですから皇紀が作られ、ここから良く分からないところは干支三連を適当に使いながら埋めたとされます。

そのため妙に年について詳しそうに見えても、厳密な歴史調査による特定でないため、後世の歴史学者の頭のトレーニングみたいな解釈が必要になっています。ま、書いた時には「そんな古い時代のことなんて誰も調べないし、わかりっこない」ぐらいと推測しています。


でもって皇紀ですが、正直なところ明治まで日常の年の基準として使われた形跡は乏しそうに思います。皇紀を使えば、古代はともかく、奈良朝以降は整然と年で並べられるはずなんですが、それでもあんまり使われた形跡が記憶にございません。この理由として考えられるのは、奈良朝以降は日本の通史を書かれる事がなかったためではないかと考えています。

他にもあるかもしれませんが、奈良朝の日本書紀古事記続日本紀の次は、江戸時代の水戸藩大日本史頼山陽日本外史まで下ってしまうんじゃないかと考えています。歴史書でも通史にする必要がなければ通年の基準は不要であり、従って皇紀を使う必要がなくなります。もうちょっと言えば、日常的にも年を考えるのに神武天皇以来の皇紀を必要としなかったとしても良さそうです。

誰も使わないから日常化せず、日常化しないから歴史書に使っても「皇紀ってなんだ」になり、あっても使わない基準となったと考えています。まあ、穿って考えると桓武天皇が天武系から天智系に天皇位を奪い返した時に、皇紀も重視しなくなったのかもしれません。


ほいじゃ、何を年の基準にしていたかです。私の知る限りの歴史的記録は元号と干支です。とくに干支は必ずと言ってよいぐらい使われています。あくまでも個人的な印象なんですが、優先されるのは干支で、次に元号みたいな感じです。歴史書は通史こそ書かれませんでしたが、その時代、その時代の記録は華やかに残されています。

歴史書となるとさすがに元号が重視されていますが、それでも干支併記の印象は強いところです。つまり正式には元号なんでしょうが、確認補足情報として干支みたいな感じです。これは元号が今と違い、天変地異などで割りと短期間でコロコロ変わったためと考えます。今や平成から昭和を振り返るだけでも、昭和○○年が何年前か思い浮かべるのに苦労します。

これが10年前後の元号が幾つも絡んだら、元号で年を言われても非常に不便と言う事です。短期の期間を表す元号を何らかの別の物指しで並べなおしておかないと、なんにつけても非常に不便です。そこで干支が確認補足的に使われたのだと考えています。干支は60年で周期的に整然と一回りしますから、百年程度の歴史を考えるには必要にして十分な機能があったと考えます。


皇紀wikipediaにあるように幕末期に復活したようです。幕末の政治運動は尊皇攘夷であり、尊皇攘夷思想の総本山は水戸です。水戸では大日本史を編纂する必要性から皇紀と言う基準がある程度知識階級に広がっていたと考えます。尊王攘夷運動とは何かを書くのは、それだけで大部の本が必要になりますが、側面の一つとして尊皇を伴った復古運動があります。

もうちょっと単純には江戸幕府から京都朝廷への政権奪還運動でもあったので、奪還した政権を「昔からの正統政府」とする理論立ての一つに皇紀が持ちだされたと考えても悪くないと思っています。

明治維新の原動力となった尊皇攘夷は、維新成立後には攘夷がウソのように醒め、文明開化に驀進していますが、尊皇だけは残っています。尊皇が残ったためか、明治から戦前の昭和までは皇紀が使われたというか、使う様に人為的に運動が行われています。戦前における西暦がどういう扱いであったか実感が乏しいのですが、国策的には皇紀が公式にも使われています。

書くほどの事ではありませんが、有名なゼロ戦はもともとは十二試艦上戦闘機として計画されています。ここの「十二」とは昭和12年の事です。制式採用されたのは昭和15年ですが、これが「零式」となっているのは皇紀2600年であったからです。


しかし戦後になると皇紀はパタッと消えます。ここもGHQ占領政策の影響も考えられますが、一方で元号は生き残っています。どちらも天皇の権威を否定したいGHQ側からすれば目障りで、ある意味皇紀より元号の方が目障りとも考えられのですが、元号は残り、皇紀は消えています。

この辺はどういう事が起こったのか想像する以外にないのですが、私は明治以来普及に努力していたとされる皇紀が、結局のところあんまり根付かなかったからではないかと思っています。また元号wikipediaにあるように、

GHQにしても日本中の戸籍を西暦にするのは「大変」と思ったかもしれませんし、国民の日常生活に深く浸透している元号を強権で排除するのは、かえって民衆の反発を呼び占領政策として好ましくないと判断したのかもしれません。また皇紀が消えた理由として、
    戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある
私は歴史好きですが、それでも年号暗記は好きではありません。歴史を小学校なりの授業で行うとなれば年号暗記は必須ですから、そうとう嫌われたんじゃないかとも想像しています。これもあくまでも想像ですが天皇関係の年号なんて間違おうものなら、相当に強い批判を浴びてもおかしくありませんから、覚えるほうはトラウマになっていたかもしれません。

もう一つこれはあくまでも参考情報ですが、誰が昭和を想わざるの紀元は二千六百年には、

 皇紀が政府によって公式に制定されたのが明治6年1月1日からなので、それ以前に日本人の間には皇紀で年を数える習慣はなかった、戦前はすべて皇紀が使われていたいたというのは誤りで、皇紀2600年、つまり昭和15年より前は西暦の使用の方が一般的であり、皇紀は新聞などでも紀元節の日ぐらいにしか使われていなかった。例えば昭和11年の在京紙を総ざらえしてみると、皇紀2596年の表記が登場するのは2月11日の紀元節にまつわる記事ぐらいである。一方で西暦1936年の表記はよく出ている。これは昭和9年時についてもまったく同様だった。だから皇紀が実際に日本社会で頻繁に使われたのは昭和15年から昭和20年までの間という事になる。

ついでに同じところの引用ですが、

当時の国史の教科書などには仏教伝来なども皇紀で記載されており、皇紀1212年、「仏教伝来いちにちに」と覚え、平安京への遷都は皇紀1454年、「平安遷都は一夜越し(ひとよごし)」と覚えた。

参考情報をどれだけ信用するかは自己責任ですが、戦前であっても皇紀は歴史の教科書で出てくる程度のものであり、日常生活では紀元節の時に出てくる程度であるとしても良いかもしれません。紀元2600年は盛大な祝賀が行われましたが、戦争の影が色濃くなっており、国威発揚政策の一環として5年程度しか使われなかった可能性も十分あります。

十分と言うのは、仮に明治から終戦まで皇紀が日常生活に浸透するほど使われていれば、戦後に廃れながらも相当期間は皇紀が残ったはずだからです。これがアッサリ消えてしまったのは、「使いたい」と想うほどの愛着が広がらなかったせいとも考えられるからです。


どうせ雑考ですから良いと思いますが、年号が長期化すると干支での表記習慣も廃れています。これはわざわざ干支を使わなくとも元号で中期程度の年を表すのは不自由しなくなったからだと考えています。また同時に西暦と言う物指しが普及したのも大きかったと思います。干支換算は他に適当な物指しがなかった時代はともかく、結構面倒です。西暦と言うより簡便な物指しがあれば充分ぐらいの感覚でしょうか。

これもついでの話ですが、年齢早見表に今でも干支が残っているのは、干支を年の基準として広く用いていた最後の名残の様に思っています。江戸期以前で歴史を考えたものは、年齢早見表のような年表を作り、年号の年と今から何年前を整理しながら年代の特定を行っていたと考えています。

皇紀は滅びはしないでしょうか、日常常識に復活するのは相当難しいと思われます。つうか、かつてそうであった時代が、どれほどあったかどうかさえ怪しい様に思います。