ツーリング日和22(第7話)淡河本陣

 石峯寺から引き返して次に訪れたのは淡河本陣。ここも気になってはいたのだけど、

「わたしもです」

 ここは休日ともなるとかなり賑わうスポットになってるから、野郎ライダーが一人で立ち寄るには少々敷居が高いところになってしまう。

「バイク女子にもです」

 そんな事を気にしない人も多いとは思うし、別に立ち寄ったからと言って白い目で見られる訳じゃないけど、

「なにか虚しいと言うか、寂しいと言うか・・・」

 わかるわかる。家族連れとか、カップルとか、仲の良さそうな友だちのグループに囲まれると、こっちが意識してしまって気まずい気持ちになるものな。そんなものをものともせずにお一人様を楽しめるタイプじゃないんだよな。

「わたしもです」

 まずは本陣を見学してから本陣内に設置されているご飯屋さんに。さすがだな予約もしていたとは手際が良い。見たところ満席だけじゃなく行列も出来てるからありがたい。

「せっかくですから名物の釜飯を頂きたいと思いまして」

 そうなのか。なるほど釜飯も食べられるけどオーダーしてから三十分以上は必要って書いてあるな。そこから歴史談議になったのは御愛嬌だ。ここは本陣だから大名行列も使っていたはずだけど、

「明石藩が使っていたのは間違いありません」

 明石藩は江戸初期にはぐるぐると藩主が入れ替わっているのだけど、藩が成立してからずっと淡河を所領としていたらしい。藩主も大野藩から松平直明が来てからは安定し、幕末まで続いているそうなんだ。この松平直明だけど幾度か淡河を訪れ、鯉料理を楽しんだ話もあるらしい。

 肝心の淡路本陣だけど、秀吉が湯の山街道の丹生山の北側の淡河ルートを作った時に功績があった村上氏が江戸初期に作ったのが始まりとされている。現在の本陣にも江戸中期の建築とされているものがあり、連綿と維持されていたのは間違いなさそうだ。

 問題は松平直明が自藩領の巡視に訪れたのはともかく、大名の参勤交代のために使われたかどうかだ。明石藩なら明石の城下町に西国街道が走っているからわざわざ湯の山街道まで北上して使ったかになる。

「その湯の山街道と有馬街道なのですが・・・」

 へぇ、それはボクの勉強不足だった。有馬街道がどこを指すかは実はあれこれとあるけど、古代からのものは尼崎から北上し、伊丹から宝塚、生瀬と言うから阪急宝塚線とか、JR福知山線ぐらいを思い浮かべれば良さそうだ。

 ボクは生瀬から名塩を通ると思い込んでいたけど、古代からの有馬街道は生瀬から船坂を通る六甲山越えだったのか。現在の名塩道路ルートもあったけど、かなり通りにくい道だったで良さそうだ。

 だからだと思うけど、三田方面に出るのに船坂から山口の方に下っていたみたいだ。船坂から有馬に行けば山田を抜ける湯の山街道、船坂ら山口に行けば淡河を通る湯の山街道ぐらいになり、このルートは西国街道の裏街道として栄えていたぐらいだったのか。

「当時の大名行列ですが・・・」

 参勤交代で江戸と国元を一年おきに往復するのだけど、時期が定められていたから街道で大名行列がガッチャンすることも多かったそうだ。とにかく大名行列同士だからトラブルも起こらないとは言えないし、それより大名行列同士の挨拶がかなりメンドクサかったらしい。

「それを避けるために裏街道にルートを替えるとかも良くあったそうです」

 そういうことか。明石藩なら素直に西国街道を進めば良さそうだけど、西国街道は中国とか九州の大名たちのメインルートみたいなものだ。だから儀礼とかトラブルを避けるために自分の領地である淡河本陣を使うのもありか。

「他にも小野藩ぐらいなら使っていたかもしれません」

 小野藩ならありそうだものな。この湯の山街道は有馬街道に接続するのだけど、伊丹ぐらいで西国街道に繋がるから、距離的には無茶苦茶不利って程でもないのか。当時の明石藩の判断として、伊丹ぐらいまでは他の大名行列とガッチャンしないメリットを重く見たのかもしれないな。

「そんな気がします」

 だがそうなると徳川道を突貫工事でどうして作ったのかが意味不明になって来るじゃないか。徳川道は神戸開港の時に生麦事件の再発を恐れた江戸幕府が、開港される神戸を迂回するために作ったとされるものだ。

 ルートとしては石屋川を北上し、摩耶山の東側あたりを抜けるルートで今なら長峰のあたりで良いはず。とにかく六甲山越えなので険しい道なんだよ。

「そうなんです。そんな事をしなくても湯の山街道から有馬街道を通れば良かったはずです」

 徳川道は森林植物園のあたりに出てきて、そこから六甲連山の山頂の尾根を西に向かい藍那に向かい、白川から大蔵谷出るぐらいのルートになるはず。なぜか既存の西国裏街道でもある湯の山街道、有馬街道を外しているんだよ。

「どうしてそんな新ルートをわざわざ?」

 もうわからないと思う。開港地となった神戸を避けるための理由は書かれていても、どうしてそこまで新ルートの開拓が必要だったのかについてはどこにも書かれていない。

「そのようです。たとえば大蔵谷から藍那に出たのなら山田に行けば湯の山街道に出られるじゃないですか」

 そう言いたい気持ちはわかるよ。藍那から山田へは藍那古道があるから、そこを整備するだけで済んだ話だ。山田まで出れば有馬、さらに船坂を越えて生瀬、宝塚に出れて、西国街道にたどり着く。

 徳川道の余談だけど、突貫工事の末に神戸開港の一か月前に完成したのだけど、そこで起こったのが大政奉還から鳥羽伏見の戦いだ。工事を一万九千二百両で請け負った谷勘兵衛は幕府の瓦解で代金が支払われずに困ったそうだ。

 それでもドタバタの中で天朝政府から代金をもらったそうだけど、今度は長州が御用金として没収強奪されたとか。さらにそれだけ苦労して作った徳川道も明治以降は殆ど使われることなく、今ではハイキングコースに名を残すだけ。

「どう考えても無理なコースです」

 そう思う。幕末の混乱期の仇花みたいな街道だ。徳川道の話はそれぐらいにするけど、初鹿野君の歴史知識には舌を巻かされる。ここまで知っている人は珍しいと思うよ。ボクもそれなりの歴史オタクのつもりだけど、

「オタクの同志愛を感じてくれましたか?」

 感じたな。こういう話を出来る相手は嬉しいし、貴重だよ。横から見ていたらスノブな会話にしか聞こえないかもしれないけど、同じ趣味を語り合える時間は素直に楽しいもの。初鹿野君の知らなかった顔を一つ知った気分だ。

「ところで湯の山街道には淡河以外の本陣はあったのでしょうか?」

 わかんないな。そもそも明石藩の大名行列が通ったのは史実としても、明石からどういうルートで淡河に行ったのかも不明なんだ。

「それを言えば有馬温泉に立ち寄ったかもです」

 淡河を通る湯の山街道は有馬にも行けるし、有馬をパスして船坂にも向かえる。有馬に明石の殿様の宿泊伝承は無さそうだから、有馬温泉はパスしたとみたいところだ。じゃあ、明石から湯の山街道にどう行ったかになると、

「明石藩領の問題が出てきます」

 三木が明石藩領の時代なら明石から三木へはあったとは思う。だけど明石藩も最初は十万石だったのだけど、藩主がクルクルと入れ替わるうちに六万石まで減っていた時期もあるものな。それに伴って領地も変わったはずだ。

「歴史っておもしろいですね」

 うん、そうだ。わからないところにいくらでも絵が描けるのが歴史の楽しみだ。