ツーリング日和9(第5話)吉野

 千早城から下りてきて金剛山登山口のお茶屋さんで一服してから出発。まず国道三一〇号に戻って五条を目指す。一車線半の峠越えだけど快調に走り抜け三十分ほどで五条に到着。混んでるな、

「もう昼や」

 十一時だものね。五条と言えば、

「智弁学園やろ」

 こんなところにあるのに驚かされる。てっきり奈良市内ぐらいにあると思うじゃない、

「天理も奈良市内やない」

 まあそうだけど、奈良の高校野球の宿命のライバルだよ。どちらも宗教系なのがおもしろいけど、

「東大寺学園もあるで」

 こっちは高校野球じゃなくて勉強の方だけど、ここも宗教系だものね。五条には用はないから吉野を目指す。桜の季節は近づくのも大変なところだけど、もうとっくに葉桜だから楽勝のはず。これまた三十分ほどで到着。

「次の橋渡るで」

 吉野も桜の季節は通行規制がかかるのだけど、今日はバイクで登れるよ。まず行ったのは吉野神宮。旧官幣大社、神宮って書いてあるから天皇が祭神だけど後醍醐天皇。戦前にもてはやされた時期があったから大正時代に出来上がったもの。

「天皇家も困ったやろな」

 それでも後醍醐天皇だからまだ良いじゃない。後醍醐天皇が即位した時にはまだ朝廷は一つだったんだから。

「でもその後醍醐天皇が朝廷を二つに割った犯人でもあるで」

 南北朝に分かれたのは、湊川の合戦で尊氏が勝利して上洛し、後醍醐天皇を退位させ光厳天皇を立てたから。これに反発した後醍醐天皇は三種の神器を抱えて吉野に逃れ、南朝を立てちゃったのよね。そこから南北朝時代になったもの。

 この北朝か南朝のどちらが正統かは今でさえ微妙な問題になってるんだよ。その原因を作ったのは頼山陽で良いんじゃないのかな。

「ついでに水戸学もな」

 日本には古事記とか日本書紀のような立派な歴史書もあるけど、奈良時代ぐらいで公式の歴史書を出さなくなったんだ。中国なら滅ぼした王朝の歴史を書くのが次の王朝の仕事みたいなものだけど、日本の朝廷は連綿と続いてしまったのもあるとは思う。

 それならばと日本史を書いてやろうと頑張ったのが頼山陽の日本外史。これがヒットしたのは良かったけど、正統を南朝にしちゃったんだよね。

「それは頼山陽の史観やからしょうがあらへんねんけど、いわゆる維新志士どころか、当時の知識人の愛読書になってもて、明治になってからも南朝が正統みたいな扱いになってもたもんな」

 今はどうなってるか知らないけど、わたしが昭和の時代に習った教科書でも南朝で天皇の代数を数えて、北朝は別枠扱いにしてたものね。戦前は歴代天皇の名前を暗記させられたけど、これも南朝を正統として覚えていたはず。

 だけど歴史を冷静に見ると鎌倉幕府の後は室町幕府で、室町幕府が擁した北朝が正統だもの。だけどこれは今でさえ政治的にデリケートな部分が大きくて、どこぞの無知な野党議員が今上陛下は何代目になるかを質問してたけど、こんなもの安易に答えられるものじゃない。

「シロクロどころか、あんまり触れん方が良い事も世の中多いからな」

 この北朝と南朝がどちらが正統かの議論で見ようによっては珍妙なのが、議論している人がなぜか現在の皇室を棚上げにしていること。今の皇室は北朝の末裔だし南朝の血統は入っていないんだよ。

 皇室として南朝を正統とし返す刀で北朝の否定なんてされたら、自らの正統性の否定になっちゃうんだ。明治の頃に国会の政治論争にまで発展した時には本当に困っていたと思うもの。

「しかもあの時には南朝を正統にするような決着やったし」

 その通り。これに皇室も対応しないといけないから、後醍醐天皇も立派な神社に祀られたぐらいで良いぐらいにしとこう。吉野神宮から、しばらく進むとお土産屋さんとか茶店みたいなのが増えて来たから桜の見どころなんだろうな。

 へぇ、こんなところまでロープーウェイってあったっけ。でもここまで来ると街だね。道の両側にビッシリだもの。食べ物屋さんが多いけど、旅館まであるものね。見えて来た、見えて来た金峯山寺の仁王門だ。それはそうと、

「わかった皆まで言うな」

 腹減った。吉野と言えば柿の葉寿司と思ったのだけど、豆腐茶屋ってなんだ。

「吉野の豆腐も隠れた名物やで」

 ホントかな。さて食べるとなれば、

「豆腐づくし膳」
「豆腐ハンバーグ膳」

 これ美味しい。きっと豆腐が良いんだと思う。

「豆腐を作る水やろ」

 これはスマッシュヒットかな。お昼がすんでから金峯山寺を参拝。吉野は京都を追われた後醍醐天皇が逃げ込んだところだけど、そんなに山の中とは言いにくいところなのよね。だって一つ山を越えたら飛鳥じゃない。奈良は奈良盆地の北側にあるけど、吉野は奈良盆地から高くもない山を越えたところだもの。

「そやな。後醍醐天皇だけやのうて大海人皇子も引っ込んだところや。それ以前にも吉野に行宮はあって、天皇さんも遊びに来た記録も残っとるねん。そやから道かってあったはずや」

 京都にいる尊氏ならすぐに攻め込んで来そうな距離じゃない。なのにどうして、

「攻め込めへん理由があったんやろ」

 だから、その理由を聞いてるんじゃない。やっぱり修験道者の協力があったから、

「なかったら吉野から追い出されるか、尊氏に引き渡されとるわい」

 尊氏さえ安易に攻め寄せられないぐらいの勢力があったってことだろうけど、そんなに勢力がなぜあったんだろう。

「宗教は怖いで。そやけどな、当時の宗教は今とちょっとちゃうからな」

 今の宗教は独立採算だけど、当時の宗教はパトロンの趣味みたいな面が濃かったはず。でも後醍醐天皇に味方してもパトロンにならないよね。

「金峯山寺も例によって役行者の開基やねんけど、吉野が栄えた始まりは銅やねん」

 こんなところに銅山があったの。そうじゃなくて自然銅が採れたのか。銅は当時の貴重な資源だよね。いや貴金属として良いかも。

「山の民を考えとる」

 コトリの持論だよ。でもわかるところはある。たとえば修験道だけど、あれの資金源はどこかになる。山の中で修行するにも食べ物はいるし、服だって必要だ。木の実や狩猟だけで賄うのは容易じゃないはず。

 山の民のイメージとして、狩猟とか木地師みたいなものを思い浮かべるけど、コトリは鉱物採取が大きかったんじゃないかと見てるんだよね。それでもって交易することで富を蓄えていたんじゃないかって。
鉱物資源は取り尽くせばなくなるけど、山の民は広域ネットワークで平地の民に先んじて交易を発展させたのではないかと考えてるのよね。

「山の民は平地の民の支配を嫌うんやけど、平地にも進出したい気持ちもあったんやないかと考えとる」

 平地に進出する神輿として後醍醐天皇を担いだのか。大海人皇子もそうだったのかもしれない。

「そやけどな、平地の民と正面切って戦えるほど力はなかったんやろ」

 山で養える人数は限りがある。だから平地で田畑を耕して食物作るんだものね。

「尊氏も山の民を完全に敵に回してしまうのは避けたかったんやろな」

 そこから先はコトリでさえなにも答えてくれなかった。どこにも記録されていないものだものね。蔵王堂の前で、

「ユッキー、まだ食えるやろ」

 そりゃ、いくらでも。

「柿の葉寿司食べよ」

 鮭と鯖だけどさすがに美味かった。お酒が欲しいよ。