三種の神器

 本物の方で八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉のことです。これがどこにあるかと聞かれたら皇居と言いたいところですが、そうとは言えません。

 伝承上は八尺瓊勾玉は皇居にあるはずです。ですが失われた可能性は大と考えています。源平合戦の時に平家は八尺瓊勾玉を保持しており、最終決戦の壇ノ浦にも持って来ています。壇ノ浦は平家の敗北で終わっていますが、延慶本平家物語より、

二位殿は今はかうと思われければ、練袴のそば高く挟みて、先帝を負ひ奉り、帯にて我が御身に結び合わせ奉りて、宝剣をば腰に差し、神爾をば脇に挟みて

 二位尼は安徳天皇を背負い、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を携えて入水しています。その後ですが、八尺瓊勾玉は木箱に入れられて浮いているところを回収されたとなっています。ですが、ホンマかはあります。

 壇ノ浦の合戦では八咫鏡まで回収されていますが、天叢雲剣は確実に失われたとしています。その差は天叢雲剣が失われた情景が源氏武者にもインパクトをもって記憶されていたと考えています。

 二位尼の入水時点はもう土壇場も良いところです。平家の滅びを目前にしている状況ですから、二位尼は天叢雲剣を振りかざしていたのではないかと想像します。その姿があまりにも印象的で伏せきれなかったぐらいです。

 そうであれば八尺瓊勾玉もまた二位尼は箱から取り出されていたと考える方が自然な気がします。脇に挟んでいたとしても箱ごと抱える方が無理がある気がするからです。いや右手に天叢雲剣を振りかざし、左手に八尺瓊勾玉を握りしめていたとする方が自然の気がします。

 ではでは天叢雲剣は失われたかですが、失われていません。これは日本書紀にも明記されていますが、八咫鏡も天叢雲剣もあれこれあってまず伊勢神宮に祀られています。このうち天叢雲剣は日本武尊の東方遠征の時に持ち出され、熱田神宮に祀られています。

 ですから宮中にある八咫鏡も天叢雲剣も本物ではなく形代になります。つまりはレプリカです。失われれば新たな形代の製作は可能です。

 この三種の神器の所在問題が次に争点になったのは南北朝です。九州から反攻してきた尊氏に敗れた後醍醐天皇は三種の神器を引き渡し譲位しますが、後に吉野に逃げ、

    渡した三種の神器は偽物だ!
 こう宣言して南朝を成立させます。これってレプリカ神器の正統性問題みたいな気がします。レプリカとは言え形代は一つが前提にあり、正統な形代が存在するうちは新たな形代は正統性を持たないぐらいの話がずっとあったのではないかと見ています。

 南朝が正統の形代を持っていると言うのは、南朝支持の大義名分として続いたのが南北朝の側面の気がします。

 これがかなり重かったのは南朝勢力が衰微し、南北合一の明徳の和約が為された時にも三種の神器を引き渡すと言うのがあります。この明徳の和約ですが、南朝側は三種の神器を引き渡すと同時に譲国の儀なるものも行っています。具体的には南朝の後亀山天皇が退位したのですが、なんとなく三種の神器の引き渡しより譲国の儀の方が重い気がしています。

 譲国の儀により南朝の形代の正統性を放棄した意味になるのではないかです。この南北合一後の三種の神器ですが、南朝から引き渡された形代になったのか、正統性が移った北朝の形代になったのかは個人的には興味深いところです。


 ちょっと余談ですが、こういう神器とか神宝の争奪戦は世界の歴史ではよくあります。そういう時に良く出てくるのは神器や神宝の真贋の区別です。特定の呪文を唱えたら光輝くとか、秘密の刻印があるとかの類です。

 ところが三種の神器には出て来ません。まあ、真贋鑑定をするにも本物を見た人が極めて少ないのがあります。それ以前に三種の神器は形代であり、形代の真贋より形代の正統性の方が重かったからではないかとも感じた次第です。