日曜閑話53

今日のお題は「武蔵の実像」です。


武蔵は強かったか?

これは強かったと考えます。少し調べた事のある方ならよく御存知かと思いますが、有名な吉岡一門との決闘も、巌流島での佐々木小次郎との決闘も詳細は不明です。なんらかの形で決闘自体はあったとして良さそうですが、吉川英治作のように格好良く勝ったかどうかはハッキリしません。判っているのは「勝った」ないし「負けずに生き残った」と言う事です。

最近の研究では巌流島でも武蔵は助太刀を引き連れて小次郎に勝利したんじゃないかの説もあります。ではこれが卑怯かとすればチョット違う様に思っています。武蔵の時代は日本剣術の黎明期であり同時に幕末期に並ぶ黄金期です。幕末期には道場剣術形式が確立し、武芸者同士が戦うと言っても決闘ではなく試合形式です(それでも殺伐とした面は多々ありましたが・・・)。

幕末期には竹刀や面籠手と言った練習用具が発達し、ムラはありましたが現在の剣道試合に近いものが行われています。この形式なら生死をかける決闘にはなりません。さらに意識として剣術と言う技術を習得するのが幕末期の剣術と思っています。幕末期の剣術の役割は、身分社会が固定化されていた中の突破口の一つであり、剣術と言う技能を見につける事で師範役と言う仕官の道を得る方策の側面が確実にあります。

幕末期が剣術と言う技能に特化していたのに対し、武蔵の時代は兵法です。兵法とは広い言葉で、個人の戦闘術はもちろんの事、軍勢を指揮する事も含む概念です。もうちょっとあからさまに言えば相手に戦いで勝つ技術の総合みたいなところがあります。兵法者による決闘は生死を賭けますが、賭けるものが命ですから、どんな手段を取っても勝って生き残る事に大きな価値観が置かれるとしても良いと思っています。

勝つためには相手を騙すのもまた兵法です。相手の言い分を馬鹿正直に守って、正々堂々と戦っても負けたら評価されないです。1対1の勝負の約束であっても、百人の助太刀を連れて行って勝った方が評価されるとすれば言いすぎでしょうか。兵法とは相手もそうするんじゃないかの予想を常に立てて、そうであっても自分が勝つ技術と言っても良いかと思っています。


そういう勝った者こそ強者の常識は、戦国末期の兵法者においては常識であり、戦国末期の兵法者の仕官対象であった大名たちの評価も同じであったような気がします。合戦場とは一面騙しあいの場であり、さらに合戦に赴くまでに勝つための戦略を十分に行い、さらにそれで勝つ者が高く評価されると言う事です。

武蔵の評価を一番客観的に評価していると思うのが渡辺幸庵からの聞き取りだと思います。

  • 竹村武藏といふ者あり。自己に劔術を練磨して名人也。但馬にくらへ候てハ、碁にて云ハ井目も武藏強し。
  • 然るに第一の疵あり。洗足行水を嫌ひて、一生沐浴する事なし。外へはたしにて出、よこれ候へは是を拭せ置也。夫故衣類よこれ申故、其色目を隠す爲に天鵡織兩面の衣服を着、夫故歴々に疎して不近付。

渡辺幸庵はwikipediaにより、

摂津国出身。若い頃より徳川家に仕えて駿河国に入り出仕。関ヶ原の戦いの際は秀忠の元大番頭を務める。その後、慶長18年(1613年)に伏見城番、元和5年(1618年)駿府城番、寛永2年(1625年)二条城番に当たる。徳川秀忠の代に、忠長の傅役に選ばれるも、忠長が領地没収の上切腹させられた後は浪人の憂き目に遭う。幸庵と名乗り諸国巡礼の旅に出る。

戦国末期を生き抜いた戦場往来の武士です。「渡辺幸庵対話」が作られたのは幸庵が130歳の時とされ、その信憑性(生きているはずがない)に疑問があるともされますが、仮に幸庵でなくとも当時的にも「武蔵は強い」があった傍証には十分になると考えています。


武蔵の二刀流

武蔵といえば二刀流ですが、様々な記録にも実戦で武蔵が二刀を使っていないとしているものが多いとされます。幕末期でも試合では二刀を駆使する武芸者(島田逸作とか)はいましたが、実戦でもこれを使ったの記録は存じません。これは真剣と竹刀では重量が違い、竹刀では二刀を駆使できても真剣で、とくに大刀を自在に操るのは困難であるとされたと聞いています。

武蔵の得意とした戦法は片手撃ちであったとされます。片手撃ちの利点は素人でも思い浮かぶのは、

  1. 両手撃ちよりリーチが長くなる
  2. 両手撃ちより剣の運動の自由度が高い
剣術であっても力量が互角であれば長い得物の方が基本的に有利です。極端な例で言えば「槍 vs 剣」なら槍が絶対有利です。剣同士であっても長い方がやはり有利です。運動の自由度は片手なら両手では不可能な運動が可能になります。それだけ相手の意表をつけるメリットはあります。ただ長くなると重くなり操作速度が鈍ります。ですから体力に見合った長さが自ずと決まってきます。

それと現実的な問題として、もし長い刀を求めたとしても手に入りにくいもあるような気もします。長い刀なんて作ったところで使いこなせる人間は限られるからです。武蔵はなぜかそれなりに裕福であった(後援者を作るのがうまかったの説もあります)とはされますが、自分で指定して刀を作らせた話は聞いた事がありません。武蔵も既製品で決闘に臨んでいたでしょうし、武蔵の相手もまた既製品で戦ったです。

既製品同士なら長さはチョボチョボでしょうから、そういう状態で武蔵が片手撃ちを行えばリーチの分だけ相手より有利になります。そこに片手撃ち特有の変幻自在な剣の運動を織り交ぜればさらに有利と言うわけです。そいでもって、武蔵にはそれを可能にする人並みはずれた怪力があったです。

さて片手撃ちが主力戦法の武蔵ですが、当たり前ですがもう片方の手は空いています。空いているのはもったいないの発想が出ても不思議ありません。片手だけで両手に対して十分に戦えるのですから、空いている片方の手を活用すればさらに有効なはずだです。つまり片手撃ちから発展したのが武蔵の二刀流の基本ではなかろうかです。

ただ二刀の工夫については実戦で使ったというより、晩年の工夫であったと見ています。武蔵の必殺戦法は片手撃ちの有利さをさらに改良した両手撃ちであったんじゃないかと考えます。これはwikipediaのさらに民間伝承ですが、

立会いを繰り返すうちに次第に木剣を使用するようになり、他の武芸者と勝負しなくなる29歳直前の頃には、もっぱら巌流島の闘いで用いた櫂の木刀を自分で復元し(現物は巌流島の決闘の後に紛失した)剣術に用いていた。

巌流島も詳細は不明ですが、どうやら櫂を削った木刀を用いたとなっています。これも伝説なのですが、武蔵が櫂を削った木刀を用いた理由は、佐々木小次郎の持つ長剣「物干竿」に対抗するためと伝えられています。物干竿の長さは武蔵の片手撃ちのリーチの有利さを帳消しにするほどのものであったと推測します。

物干竿に対抗するには物干竿級の長剣を武蔵も調達するのも考えられますが、長剣の入手は簡単ではなく、さらに質の悪い長剣であれば折れる危険性も高くなります。この時代は刀の量産は需要に応じて盛んではありましたが、一方で粗悪品も多く出回っており、決闘に臨むに当たって武蔵は長剣入手をあきらめたと見ます。

船の櫂なら折れる心配も少ないですし、長さも自由に設定できます。武蔵が巌流島で用いた木刀は刀身だけで4尺5寸(約145cm)もあったとされます。さすがに怪力の武蔵でも片手では扱えなかったと思いますが、これだけ長い得物を自在に振り回すことが出来れば、そりゃ強いと思います。


話は二刀流に戻るのですが、武蔵流の基本は片手撃ちであり、その延長線上のついでにもう一刀を握っただけと考えます。片手で大刀を自在に操れる腕力が大前提であり、その後の剣術者が駆使しなかったのは、そういう二刀の弱点を熟知していたからだと思っています。また二刀流がメジャーになれなかったのは、二刀流の本質が武蔵のトンデモない腕力に依存したものであり、容易に継承できるものでなかったためと見ています。(もちろん異説はたくさんあります)


宮本三木之介

簡単に済まそうと思った武蔵本人の話に思わぬ手が取られましたが、とにもかくにも武蔵は「強かった」と言うだけで実像についてはかなり曖昧です。武蔵本人の実像を知るのは困難ですが、武蔵の養子から武蔵像を見るのも一興です。武蔵の養子はどうも2人のようで、先に養子になったのが三木之介とされます。wikipediaより、

水野勝成の武者奉行・中川志摩之助の三男。先祖は伊勢国・中川原城主。武蔵が大坂夏の陣徳川家康の従弟水野勝成三河刈谷3万石)の客将として若殿勝重(水野勝俊)付で出陣したのが縁となり、大坂の役後、弟の九郎太郎とともに武蔵の養子となり、元和3年から4年(1617年から1618年)頃、武蔵の推挙により播州姫路城主・本多忠政の嫡男本多忠刻の小姓として出仕する。

忠刻は自らも徳川家康の血を引き(曾孫)、豊臣秀頼の室であった千姫を室に迎え、征夷大将軍、家光の義兄として将来を嘱望されながら、寛永3年(1626年)に31歳の若さで病死。側近であった三木之助は忠刻の初七日に書写山圓教寺の忠刻墓前で切腹による殉死。墓は忠刻(園泰院)の墓塔(五輪塔)のすぐ後ろにかしずくように建てられた。正面の戒名は風化して読めず、右側面に「平八供 宮本三木之助」と刻まれている。平八とは忠刻の通称。三木之助、享年23であった。

ここは史実であると見ます。武蔵は、

武蔵は3万石とは言え徳川一門の大名の客将になっています。侍大将格と言った所でしょうか。そうやって招かれるぐらいの評価が当時の武蔵にあった事を窺わせます。さらにその時に中川志摩之助から養子を貰い受けています。サラッと書いてありますが、中川志摩之助も武者奉行と言う職にあります。武者奉行とは具体的にどんな役割かですが、戦国大名二階堂氏の興亡戦時の役割には、

合戦状況を把握し、総大将に助言する参謀的な役職。
通常は実働部隊の指揮は行わない。

序列的には足軽大将の下ぐらいのようですから、課長クラスでしょうか。それでも当時であっても仕官している者と牢人とでは雲泥の差はあり、客将と言っても臨時雇いみたいなものでから、自分の子供を2人も養子に出すと言うのは、武蔵への当時の評価が非常に高かったと見れそうです。さらにこれもサラッと書いてありますが、

    武蔵の推挙により播州姫路城主・本多忠政の嫡男本多忠刻の小姓として出仕する。
名も無い牢人者がいくら推挙したところで、名門本多家に仕官できるとは到底思えません。三木之介自体は徳川一門の水野家の家臣の息子ではありますが、ここは武蔵の名前が大きかったと素直に解釈できます。三木之介は圓教寺墓誌(by wikipedia)にも、

宮本三木之助  宮本武藏ノ養子
忠刻卒スルト墓前ニ於テ切腹 伊勢ノ生レデ武藏ノ養子 当時二十三

武蔵の眼鏡に間違い無く、忠実に忠刻に仕え、さらに殉死まで行っています。当時の殉死は珍しくなかったとは言え、三木之介は偉大なる養父の名を汚すまいと頑張った様にも解釈できそうです。さらにwikipediaからですが、

宮本三木之助は本多中務大輔忠刻に児小姓から出仕し、知行700石、御近習として忠刻の身近に仕えた。主人忠刻の替え御紋であった「九曜巴紋」を使う事を許されるほど信頼され、ついに忠刻の死にお供して殉死したとしている。小倉宮本家もこの九曜巴紋なので、武藏はこれを宮本家の定紋として、後に小笠原家に出仕する伊織にも使わせたことが判る。即ち、宮本家家紋のルーツまでがこれによって明らかとなった。

この後ももう一人の養子である九郎太郎の後日談があるのですが今日は割愛します。


こちらの方が史上で有名です。簡単に武蔵の養子の年表をまとめおくと、

事績
1617〜1614 武蔵、三木之介を本多忠刻に推挙
1626 三木之介、忠刻に殉死
1626 武蔵、伊織を小笠原忠真に推挙


1626年に三木之介が殉死した年に伊織を推挙しているのがわかります。この辺の事情はタマタマとも考えられますが、家紋のエピソードを含めて考えると、ikipediaにある、

三木之助の殉死はよく知られたことであるが、仕えていた本多忠刻の十万石が没収された事もあって、これまで姫路の宮本家はここで終わったとされてきた。当時殉死は討死同然として跡式が保証されていたが、その恩賜を隣藩明石藩が引き受けたものと解釈した。三木之助殉死の同じ年に明石小笠原藩に武藏の2番目の養子宮本伊織が藩主小笠原右近大夫忠政(のち忠真)の小姓として出仕したからである。小笠原忠政は忠刻の妹婿にあたる。(原田夢果史『真説宮本武藏』葦書房

宮本家の跡式として伊織が小笠原家に出仕できたです。タナボタみたいにも見えますが、伊織もまた武蔵の優秀な養子である事を証明します。wikipediaばかりで申し訳ないのですが、

伊織は宮本武蔵の推挙により寛永3年(1626年)15歳の時に播州明石藩主・小笠原忠真(当時忠政)の近習に出仕、出頭人となり弱冠20歳で執政職(家老)。翌9年(1632年)肥後熊本藩主加藤忠広の改易に伴い肥後へ移封された細川忠利の跡の豊前小倉藩へ移封の時、2500石。同15年(1638年)の島原の乱には侍大将と惣軍奉行を兼ね、戦功により1500石加増、都合4000石。家中の譜代・一門衆を越えて筆頭家老となる。

尋常の出世ではないのがわかります。15歳で近習になり、20歳には家老です。さらに出仕から12年後には4000石で筆頭家老になっています。小笠原忠真の信頼が厚かったのはもちろんですが、その信頼に応えるだけの実力があったと見るしかありません。伊織のエピソードを幾つかあげておけば、

天下の御老中も伊織をよく御存知成らせられ、世上にても名臣と唱へる程の者也。譜代の家臣共、しきみを隔てて座し、道路を行くにも、伊織は塵かかりて悪しとて、二間ほど先立て、残る面々は一列に跡より行きけり。しかれども、少しも慮外とも、奢りとも見えざりしとかや。忠貞公、忠雄公、二代にわたり職分を勤めたり。忠雄公、壮年、御身持ち宜しからず、わが侭の御仕形等、 上聞に達し、格段の御家柄ゆへ、家老ども江戸へ召し呼ばれ、 御老中の御宅にて御呵(しか)りあり。其の節も、伊織は定めて諫言をも申したるにてこれ有るべし。伊織に於ては御呵に及ばずとて、東府へも召なされずとかや。今尚、伊織が子孫、小笠原の家臣たり。(武州伝来記)

物凄い絶賛過ぎて「ホンマかいな」と思うほどですが、伊織が歩く時は他の家臣が伊織に塵がかかったら申し訳ないと思って、2間(約3.6m)ほど後ろを歩いたとしています。言い換えれば伊織と肩を並べて歩けるほどの家臣はなく(筆頭家老だからトップはトップなんですが・・・)、一方で謙遜の態度は微塵も揺るがなかったです。

小倉藩の伊織の名声は江戸でも有名で、二代忠雄に不行跡があり、これを咎めるために家老が江戸に呼び出されて老中から叱責を受けた時にも、伊織は呼び出されず叱責もされなかったとしています。

宮本伊織殿は名高き侍にて有りし由、島原一揆起こり候につき九州諸侯残ず下知これ有御帰国也、その時殊の外、道を急ぎ諸家御帰城也、将軍家より御尋には、その方留守には家老は誰を置き出府致し候哉と有りければ、宮本伊織を置申し候段仰せ上られければ、伊織留守に居り候へば気遣なし、早々帰城致し候らへと上意ありし由、有難き事にて君臣共に武門の面目此上あるべからず、貴かるべし。(鵜の真似)

ちょっと読み難いのですが、島原の乱の時に九州の大名に動員令が下り、江戸にいた大名は大急ぎで帰国したとなっています。その時に小笠原家に将軍から「誰が留守番しておるか?」と聞かれ「伊織でございます」と返答したら、将軍家から「それなら大丈夫だ!」と言われ、大いに面目を施したとなっています。もう一つも男臭いエピソードなんですが、

年月不肖、江戸大火の節、此方様へ和田倉御防ぎ仰せつけられ御出馬遊ばされ、御下知厳しき故、皆々必死に火を防ぎける、之に依り殿様へ火の子雨の如く吹きかくれ共、泰然として御下知ありける、御家老は宮本伊織殿の由、御用人が伊織殿に申しけるは、余り火の子烈しきにつき殿様少し御下り遊ばされ候ては如何御座あるべきかと申しければ、伊織殿、以の外憤られ扨心得違いを申さるべき方哉、殿様斯くの如き御働き遊ばさればこそ何れも必死に防ぎ、今和田倉も防ぎ留め申すべき様子なり、申さるる如く御下り遊ばされ候はば誰が必死に防ぎ申すべき哉、今が大切の時也、務めて左様の儀申され間敷と叱られければ、御用人もその勇威に恐れて退きける由、流石十五万石の侍大将、誠に有難き御家老、国家柱石の臣とはこの伊織殿をば云ふべき。(鵜の真似)

これもどうもなんですが、江戸で火事があり、江戸城の防火のために小倉藩が駆り出されたようです。藩主臨席の下で伊織が総指揮を取ったようですが、臨席の藩主に火の粉が降り注ぐ状態になり、藩主の側近が伊織に、

    余り火の子烈しきにつき殿様少し御下り遊ばされ候ては如何
こう意見を述べたところ、伊織は怒気を発して、藩主がここに頑張っているから、みんな頑張っているんだ、藩主がいなくなれば頑張らなくなる。ここに藩主が臨席して火の粉を被っているのが重要な点であり、藩主を引き下がらせるような話を持ち出してくるとは「もっとのほか」と却下したとなっています。


これだけの伊織ですが、武蔵に対する大きな記録(物理的にも!)を残しています。wikipediaより、

伊織は武蔵没後9年目の承応3年(1654年)小倉郊外赤坂・手向山の山頂に巨石をもって武蔵の彰徳碑を建てている。その小倉碑文(漢文)一千百余文字は以後の『武州伝来記』『二天記』など武蔵伝記の基となり、石碑は後に歌川広重の「諸国名所百景」にも描かれる豊前の名所となった。「巌流島の決闘」や「吉岡一門との決闘」などもこの碑文によって史実と考えられている。

この小倉碑文と言うのが問題で、養子であり小倉藩筆頭家老であり、天下に轟いた名臣によるものですから、さぞや正確無比と思いたいのですが、どうにも内容は怪しげとされます。どうにも事実と異なりそうな部分が多いです。そうなった理由として考えられそうなのは、

  1. 養父の武蔵がそう言っていたのを忠実に書いた
  2. 伊織がある程度、武蔵のために脚色した
現在の様に参考資料が古本屋にでも行けば湧いてくる時代ではありませんから、伊織とて武蔵を含めて「誰かから聞いた」以上の知見は得られなかったと思います。ですからここは内容の信憑性を問いたいのではなく、伊織がそういう内容の碑文を残したかった点に注目したいと思います。至極簡単には養父の武蔵をそれだけ尊敬したいたです。


教育者武蔵

武蔵の養子として後世に記録が残っているのは三木之介と伊織です。ではこの2人だけ(三木之介の弟の九郎太郎を入れれば3人)だったか実は微妙です。ソースを失念しましたが、武蔵は常に養子とした数名の子供の弟子を引き連れていたの話もどこかにありました。これが三木之介や伊織を連れているのを見ただけであったのか、それとも他にも養子がいたのかは歴史の彼方の話になります。

それでも記録に残る2人の養子は武蔵の名を辱めない立派な働きをしています。これは素直に考えて武蔵の薫陶によるものとして良いんじゃないでしょうか。つうのは武蔵といえば性格は傲岸不遜で孤高で偏屈のイメージが濃いからです。そんな人物が養子を取って、さらにこれに教育を行うと言うのが想像し難いというところです。

もちろん、うん十人の養子を取った中の成功例が3人だけと言う見方もできますが、そもそも武蔵が養子を取っていたこと事態が驚きです。武蔵の生涯は仕官をしていた時代もありますが、一方で放浪している時代も交互にあります。仕官中ならともかく、放浪中であれば食い扶持が増えるだけの邪魔な存在に見えて仕方ありません。そうなると思いの他に子供好きなんて側面があるように見えたりします。

それでもn=2ですが武蔵の教育は大きな成果を挙げているとしてよいかと思います。大袈裟に言えば武士の理想像を体現しているような感じです。生徒がたまたま優秀であっただけの意見もあるかもしれませんが、伊織が武蔵を深く敬愛しているのは間違いありません。そうさせる何かを武蔵は伊織に教育し、伊織はこれをしっかりと受け止めたとしか思えないのです。


武蔵が意外なほどの教養人であるのは五輪の書はもちろんとして、書画工芸にも現れています。これらをどこで身につけたのかも謎です。ただそれぐらいの教養がなければ、養子の教育は出来ないと思いますし、これを仕官のために推挙するのも出来ないと思います。ある時期からの武蔵が大名にも知れ渡る一種の名士になっているのは間違い無く、推挙すれば自分の名誉も賭けることになるからです。

教育者としての武蔵の視点は大変興味深いものがあります。ひょっとすると吉川英治もそういう面を汲み取って、求道者武蔵像を作ったのかもしれません。今日はこの辺で休題にします。