純情ラプソディ:第32話 返事

 ヒロコは心を決めたよ。これ以上、早瀬君を待たせたくない。まあ、あのポチを引き連れた先輩どもが、

『まだか、まだか』

 こうやってウルサイのはあるけど、いくら冷やかされたって早瀬君は平気だし、ヒロコのために尽くしてくれる。あの秋の学祭に勇気をもって告白してくれた返事はヒロコがやらないといけないもの。

 だから早瀬君にちょっとだけ良い店で食事をしようと誘ったんだ。早瀬君も気合を入れて探してくれるって言ってくれた。きっと早瀬君もその時が来たって感じてくれてると信じてる。

 できるだけオシャレして行ったのだけど、早瀬君は三宮からポートライナーに乗り込んだ。そして連れて行かれたのはクレイエール・ビル。最上階の三十三階で降りるとシックなイタリアン。

「早瀬君、ここなの」
「気に入ってもらえると思うよ」

 この店は聞いたことだけはある。神戸どころか日本を代表するイタリアンで、当たり前のようにミシュランの三ツ星。予約がなかなか取れない事でも有名で、各界の有名人、著名人の御用達って名店。

 なんかヒロコの格好が貧相に思える。完全に場違いで浮いてるとしか思えないもの。そう思ってたら、受付の人が早瀬君の顔を見ただけで、

「早瀬様、今夜はよくお越し頂きました。精一杯努めさせて頂きます」

 そしたら早瀬君が鷹揚に、

「大切な人だから、くれぐれも粗相がないように」

 えっ、どういうこと。まさか早瀬君は常連とか。こんな超が付く高級店だよ。テーブルに案内されると夜景が綺麗に見えた。

「ここはランチなら海も綺麗だけど、夜は街の方が綺麗だから」

 今日の早瀬君はいつもと違う。カルタ会では幹事兼雑用係で、ムードメーカーと言うか、カルタ会の潤滑油みたいなポジション。軽めのキャラの面が多いけど、今日は全然違う。これは大人の風格にしか見えないよ。アミューズが来てトニックで乾杯したけど、

「早瀬君って誰なの?」
「去年から知っているだろ。あれが本当のボクだ」

 なにが本当?

「唐突で悪いけど、まず今日は去年の秋の時の返事を聞かせて欲しい」

 口ぶりは大人だけど、ちょっと、はにかんだ表情になってくれてホッとした。やっぱり早瀬君に変わりないはず。なんか予想していた展開と違うけど、ヒロコの心は決まってる。

「秋の時は突然で驚いたけど、あれから早瀬君のことをたくさん知ったつもりです」

 なんか新たな謎が増えた気がするけど、それは置いとく。

「ヒロコで良ければお願いします」

 早瀬君はニコッと笑って、

「ありがとう。そうそう今日も驚かせて悪いと思ってる。だからどうしようかと思ったけど、今年でお互い二十歳になる。ボクも現実から逃れられなくなるし、それは倉科さんも直面せざるを得なくなる」

 なんだ、なんだ。言ってもまだ二十歳だし、学生じゃない。

「大人になるって良いことも悪いこともあると思ってる。ボクのことを知ってもらう前に、はっきりさせておく。ボクは本気だ。ただのお付き合いに終わらせる気は絶対にない。それだけは信じて欲しい」

 まるでプロポーズされてるみたいじゃないの。でも真剣な早瀬君の顔を見ていると余計な事は言いにくい。何が出てくるのか。まさか暴力団の組長の息子とか。それはさすがに悩むと言うか、困るな。極道の妻なんてヒロコには務まりそうにないし。

「ちょっとだけ複雑だがボクの立ち位置から話すと・・・」

 聞きながら現実のものとは思えなかった。そういう世界は少女マンガの中だけのもので、少女が夢見るシンデレラ・ストーリーの投影だもの。でも早瀬君の話が本当なら、ヒロコは灰かぶり姫、早瀬君はお城の王子様になるじゃない。

 究極の玉の輿とも言えない事ないけど、それが夢の楽園でないのもヒロコは経験してるのよね。正確にはヒロコじゃなくてお母ちゃんだけど、ヒロコだってゲンコツの痛みとして記憶に刻み込まれている。

 早瀬君のスケールよりかなりショボイけど、お母ちゃんの結婚相手もかなりのお金持ちで、お母ちゃんの実家は貧乏まで行かなくても、裕福とは程遠い庶民の家。そんな二人の関係はお母ちゃんの玉の輿結婚と見られていたものね。

 外形的には立派な家に住み、何不自由ない優雅な生活を送っているはずと思われていたようだけど、実態は母子のDVコンボによる陰惨な日々しかなかったもの。そうなったのはムチュコチャン・ラブ一筋のクソ姑の存在とガチガチのマザコン息子の強力タッグ。

 姑がムチュコタン・ラブに突っ走る原因は色々あるだろうけど、姑の夫婦関係が原因のものも多そうだって。お母ちゃんの結婚相手の家も既に舅は亡くなっていたけど、舅姑の夫婦関係は冷え切っていたで良さそう。舅は浮気にも走っていたんじゃないかとお母ちゃんは見ていた。

 そうなると家の中で頼る者が息子になるけど、それだけでなく女としての愛情も息子に傾けてしまうのじゃないかって。ここで息子が反抗期で反発すれば適当な距離が取れるかもしれないけど、そうならずに引っ付いてしまうとマザコン息子が誕生するぐらいかな。

 お母ちゃんだってあの結婚相手をそれなりに慎重に選んでるんだよね。恋人時代は優しかったって言うし、ちょっと気の弱いところもあったそうだけど、それが逆に気遣いになって現れてるって思ってたって。

 お母ちゃんもボヤいていたけど、優しさや気が弱いは単なる優柔不断に過ぎなかったのは結婚してからやっとわかったって。息子が母親を大切に思うのも一概に悪いわけじゃないけど、そう見えたのは強烈なマザコンの反映だったんだよね。

 姑の印象はさすがに最初から要注意人物ぐらいに感じていたようだけど、別に婚前同居していたわけじゃないし、幼いころから家族ぐるみの付き合いがあったわけじゃない。さらに言えば、結婚前の姑との顔合わせは数えるほどで、

「若かったよ。姑を気にするより、結婚することに舞い上がっていたのよね」

 それは責められないと思う。恋人になるのと結婚するのは別物の面もあるけど、恋人になって結婚したいほど好きになるのが基本だものね。そりゃ、結婚するとなると歳の差やら、相手の年収やら、将来性やら、婚家の家族との関係も考えるだろうけど、それを冷静に客観的に評価しきれるものじゃないよね。

 結婚したいほどの恋愛感情に熱中しているから、見えなくなるものはたくさんあるはず。たとえば後から見たら欠点の部分だって高評価に見間違えてしまうとか。

「そうだったよ。結婚さえすればなんとかなるはずだって思い込んでたもの」

 極論すれば結婚という熱狂が醒めて、結婚生活と言う現実を冷静に見れるようになって、やっとわかる事が多すぎるんだろうな。その時に初めて結婚相手の良いところ、悪いところの再評価が総合的に下せるようになるんだろう。

 もちろん全部が不幸になるものじゃない。良い方に転んで幸せな夫婦生活を過ごせるカップルもいるもの。幸せまで行かなくとも、それなりに不満を持ちながらも、これぐらいで満足しておこうぐらいで過ごす夫婦もいるはず。

 でもね、でもね、誰だってラブラブの幸せな結婚生活を夢見るし、自分はそうなるはずと思うから結婚するのはあるよ。そう思わなくちゃ誰が結婚なんかするものか。罵られたり、殴られたり、蹴られたりするために結婚するはずないじゃない。


 さて問題の早瀬君の家だけど家庭内事情は複雑。正直なところ聞いてるだけで逃げ出したくなるような家なんだよ。そりゃ、財産はあるだろうけど、そんな中に飛び込んだらお母ちゃん並みに大変な目に遭いそうな空気がプンプンするぐらい。

「一つ聞いてもイイ。どうして家の事は伏せてたの」
「早瀬の息子扱いされるのが嫌で嫌で仕方なかったから」

 早瀬君が言うには、存在するだけで特別扱いされたんだって。なにか羨ましい気がするけど、

「イジメじゃないけど仲間外れのようなもの」

 小学生の時から家庭教師がバッチリついて、普通の勉強だけでなく帝王学まで教え込まれたって言うからトンデモナイ世界だ。

「家庭教師も一人じゃないよ。普通の勉強、礼儀作法、あのクソ帝王学の先公」

 どうも帝王学の先生とはよほど反りが合わなかったで良さそう。小学生でも塾とか習い事をする子は多いけど、早瀬君の場合は低学年から家に帰ると家庭教師が待ち構えてる生活だったみたいで、友だちと遊ぶ事さえなかったらしい。そんな籠の鳥のような生活に不満が爆発して家から飛び出したぐらいの理解で良いのかな。

「そんな部分もあるけど、そこまで単純でもない。結果的にそうなったぐらいかな」

 中学から親元を離れて中高一貫の私立に進学したのだけど、そこでは家の事は完全に伏せたらしい。そこで早瀬君は新しい世界を見つけたみたい。早瀬の息子じゃなくて、タダの一人の男として見られる世界を。

 この辺が想像を絶する世界になるのだけど、早瀬君は小学校の時から早瀬君目当てでわざわざ転校してくる女の子が結構いたんだって。まだ小学生なのに玉の輿狙いがミエミエだっていうからビックリしすぎる。まだ小学生なのに早瀬君を誘惑しようとしたって言うから魂消た。

「モテモテだったんだ」
「諭吉が好きな女の子は多いからな」

 それが中学生になると、当たり前だけどごくありきたりの平凡な男子。悪いけど早瀬君ぐらいなら普通にもてないタイプかな。ああいうタイプはあの頃の女子に目を懸けられないものね。

「あははは、現実をやっと知ったよ。だから本当のボクを好きになってくれる人以外は選ばないと決めたんだ」

 高校の時に好きな子が出来て突撃したら、あっさり振られたんだって。ヒロコは二人目かな。この夜は色んな話をしたけどヒロコが早瀬君が好きなのは変わらない。少なくともマザコンじゃない。早瀬君はヒロコを守ってくれるナイトだと信じてる。