日曜閑話79-3

神武東征伝説をもう一度考えてみます。神話の中で骨子と考えているのは、

  1. 瀬戸内海を渡って西から来た
  2. 河内潟ないしは河内湖に入り、河内のどこかに上陸した
  3. 在地勢力に追い出され紀の川河口部方面に向かった
  4. そこから紀の川を遡り大和に進んだ
おおよそこういう行動を思い描いています。でもって個人的に大きな謎は、
    神武は何故に大和を目指したか?
これをなるべく無理なく説明できる仮説を考えたいと思います。


時期

神武神話は記紀編纂の時代まで連綿と伝えられています。それぐらいインパクトのある行動であったとみなします。そういう英雄的な行動が伝承され伝説から神話になる類型はよくあります。ただ伝承されていくためには、神武の子孫ないしは同行者の子孫が生き残る必要があります。生き残ってこそ伝承が続くわけです。さらに広範囲に流布される方が残りやすいです。記紀編纂時にも先祖の栄光として記録されるぐらいですから、少なくとも大和、河内の支配者階級の人々に共有されていたと考えます。

大和、河内にそういう共通文化があったかとなると確実にあります。畿内5大古墳群はひたすら前方後円墳を量産しています。同じ型の墳墓を作ると言う事は、同じある種の宗教を信仰していたと見なして良いと考えます。その中に神武神話の伝承が含まれていたとしても良いでしょう。古墳時代の始まりは現在の考古学的検証では大和・柳本古墳群に始まります。そうなれば神武はそれ以前に東征を行ったと考えるのが妥当です。現在、もっとも古い前方後円墳箸墓古墳とされていますが、この築造時期が3世紀半ばと推定されています。

そうなると少なくとも3世紀半ばより前のはずで、遅くて3世紀初頭、早くては・・・1世紀内ぐらいじゃないかと考えます。広く言えば弥生時代後期、あえて狭めれば紀元2世紀中ぐらいを想定します。


規模

海路で来たのはほぼ確実です。海路となると船になりますが、弥生ミュージアムの写真を引用します。

こんな感じの船だったとされます。これは準構造船と呼ばれています。準構造船とは丸木の刳り抜き船の進化型ぐらいに考えれば良いようです。構造的には太い丸太の上に舷側などの構造物を取り付けたものです。現代の船とどこが異なるかですが、浮力は丸太がすべての点です。上部に作られた構造物に浸水を防ぐだけの能力がありません。ちょっと判りにくいところですが、現代の船なら甲板の上の構造物みたいなものになります。甲板は丸太の上ぐらいになるとわかってもらえるでしょうか。

帆はこの時代でもあった可能性はありますが、主たる動力源は櫂であったようです。つまりは人力で漕ぐスタイルです。速度は人の歩く速度(条件によってはもう少し良いぐらい)程度は出たとされます。大きさですが丸太を継ぎ足す事によって30mぐらいまで可能であるとの意見もありますが、実際には10〜15m程度が大きさの限界ではなかったかともされています。10mクラスで10〜15人ぐらいは乗れたとも推測されています。まあ乗ると言ってもほぼ全員が漕ぎ手になるような状態だったと思われます。それでも外洋航海力はあり、西暦57年と107年に後漢の都の洛陽を訪れた倭の使節もこれを用いていた可能性は高いと考えます。

仮に10mクラスを10隻で150人ぐらいの船団になります。まあ多くて200人程度、現実的には100人前後ってところの気がします。


河内の一戦

遺跡の発見は宅地開発の程度に依存する部分は大きいです。家を建てる、もしくは建て替えるために基礎工事を行っていたら見つかったです。そういう点を勘案しても、縄文遺跡もそうですが弥生遺跡も奈良より大阪の方が多くなっています。だいたい4倍ぐらいです。なんとなく河内より大和の方が先に発展していた漠然たるイメージを持っていましたが、弥生時代でも河内を含む大阪の方が人口もかなり多かったんじゃないかの感触を持っています。少なくとも同等以上です。それと弥生時代後期の人口ですが、鬼頭宏氏の推測より多い感触を持っています。理由は遺跡発掘数の増加です。鬼頭氏も90年代までの発掘成果を基に推測を立てられたと考えていますが、基礎になる遺跡数が30年して増えている印象があるからです。とりあえず古代的にはかなりの人口密集地帯と考えても良い気がします。それと弥生時代後期の特徴の一つに高地性集落があります。wikipediaより、

高地性集落の分布は、弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸に、弥生後期に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。

これも様々な見解がありますが、見解の大勢は防御施設であろうと言われています。防御とは相手がいての事ですから、近隣の集落との緊張関係、さらには海賊みたいな集団に対するものの可能性もあると考えます。河内の発展は初期の平地集落から、近隣との抗争も想定した都市国家に近づいていた可能性も考えています。


神武はそういうところに乗り込んだので撤退を余儀なくされたんじゃなかろうかです。ここが一つのポイントですが、前回の仮説では神武を侵略軍に定義しましが、そうではなく植民団だったと考えます。先ほど船の話をしましたが、航海は夜は出来ません。昼だってお天気次第です。屋根があるような構造とは思えませんので雨が降るだけでお休みになっていてもおかしくありません。仮に北九州(神話では日向)から出航したとしても、何度も寄港していたはずです。記紀にもそう書いてあります。

寄港地は浜でしょうが、そこに人がいる場合も当然あったと思います。その時にどうなったかですが、案外歓迎された可能性を考えています。当時でも人口希薄地では外部からの人の訪問を歓迎する習慣があっても不思議とは思えないからです。さらに先進文化地から来ていますから、場合によっては交易も可能だったかもしれません。そうやって神武一行は河内にたどり着いたと考えています。あくまでも推測ですが、神武は河内でも同様の待遇を受けて平和的に入植する目論見だったんじゃないかと考えています。つうか「そう出来る」と聞いて九州から河内まで来たとも思っています。

しかし河内の発展はそういう段階を既に終えていたのが誤算だった気がしています。長髄彦との一戦です。思いもしていなかった反応に驚いて河内湖(ないしは河内潟)から逃げ出したと言うのが真相の気がしています。その後に神武は泉州沿岸を南下する事になりますが、そこでも似たような反応をされたぐらいを考えています。そしてついに加太岬を回ったぐらいです。


紀の川河口から大和へ

東征神話では熊野まで行った事になっていますが、熊野から山中を突破して大和を目指すのはあまりに無謀ですから、神話では立ち寄っただけとされる紀の川河口に上陸したと考えます。ここにも弥生集落は当然あったと考えますが、ここでは歓迎された可能性を考えています。河内では人口が多い状態になっていましたが、紀の川河口部はまだ人がそれ程多くなかった可能性です。傍証も神話しかないのですが、河内から紀州に移ってからの神武には次々に協力者が現れるからです。

そこで神武は重要な情報を入手したと考えています。紀の川を遡った奥地に入植に適した土地があるとの情報です。この情報に魅力を感じ紀の川を遡り、山を越えて大和に入ったと考えています。大和でもほぼ平和的に入植に成功したと推測しています。少しは諍いもあったかもしれませんが、河内に較べるとはるかに穏便に大和開発に着手出来たぐらいです。その成果が唐古・鍵遺跡に発展し、さらには大和・柳本古墳築造に結びついて行ったぐらいのところでしょうか。長髄彦との再戦はあったと思います。ただこれが最初の一戦の長髄彦と同一人物かと言われるとチト疑問です。世代を重ねて大和で実力を蓄えてから大和川を下ったと考えています。


ひょっとしたら神武は本物の英雄?

神武東征伝説の仮説を書いてきましたが、神武って本物の英雄かもしれないと思い始めています。もし本当に神武が古墳時代の幕を開ける立役者であったら凄い事をしています。北九州でもそうであったと考えているのですが、発展段階で戦国状態に陥るのはある程度不可避の気がしています。一時的に覇者(広い意味で卑弥呼もそんな感じ)が現れたとしても、個人芸での天下ですから、覇者がいなくなればまた昏迷状態に逆戻りします。大陸の春秋戦国時代もそんな展開です。古代ギリシャもそんな感じです。河内もそんな状態になりかけていたはずですが、そうはさせなかった事になります。

古墳時代はとにかく平和だったと考えて良いと思います。平和だからこそあれだけの大古墳を量産できたと考えています。一方の北九州は文化・宗教の違いもあったかもしれませんが、大古墳を作れなかったのは、都市国家間の緊張状態が慢性的に続き、そんなものを作る余裕がなかった可能性を考えています。もちろん神武一代の成果かどうかわかりません。それでも神武の子孫、ないしは子孫と自称する人々が達成したと見て良いと思います。そういう人々に広く伝承され語り継がれたのなら、神武個人も相当の英雄であったと考えるのが妥当な気がしています。言い過ぎかもしれませんが、神武が敷いた路線が古墳時代の平和の礎を築いたと信じられていたのではなかろうかぐらいです。