日曜閑話78-4

古代史ムックで河内湖、奈良湖にこだわっているのは、これが古代の畿内文明の発展に関係するからです。なんとか集まった資料から整理してみます。


奈良湖

奈良県HPに大和川・吉野川歴史年表の奈良湖に関連する部分を抜き出しておくと、

年代 出来事
300万年前 古奈良湖出現
200万年前 二上山麓の地すべりで、旧大和川がせき止められ、現亀の瀬付近より大阪平野へ流れ出る。
100〜150万年前 瀬田川を通って古奈良湖に流れ込んでいた古琵琶湖の水が、地殻変動によって淀川へと流れを変える。
シンプルに書いてあり、これだけでも十分なのですが奈良大学紀要25号「奈良盆地の地形学的研究」には約87〜50万前に生駒山地金剛山地、大和高原が隆起して現在の奈良盆地の原型が形作られたとなっています。おそらく奈良県HPにある古瀬田川が奈良湖に流れ込まなくなった時期と考えられます。それ以前はどうも結構フラットだったようで、最初はなだらかな隆起が起こり、次に大きな隆起が起こったぐらいのようです。それと200万年前に大和川がせき止められて亀の瀬から河内湾に流れ出したと言うのは、どうもそれ以前は生駒・金剛山地が無かったからと解釈した方が良さそうに思います。300万年前は奈良まで海は押し寄せていたようで、それによる内海的なものがあったぐらいと見るのが正しいようです。古代史に関連する奈良湖は生駒山地金剛山地、大和高原が隆起し現在の奈良盆地の原型が成立してからと解釈する方が妥当そうです。

イメージ画像が欲しいところですが、第2回大和川流域委員会(H16. 8. 25)資料4河川管理者資料に古瀬田川も含む奈良湖の推測図があったので引用します。

先ほど約87〜50万前生駒山地金剛山地、大和高原が隆起し現在の奈良盆地の原型が成立したとしましたが、一晩で隆起した訳でなく、隆起する過程で最終的に古瀬田川からの流れがなくなったと見る方が良さそうです。いやぁ、琵琶湖も位置が違うんですねぇ。地学は取ってなかったのでひたすら感心しながら(半分ぐらいチンプンカンプンで)奈良大論文を読んでましたが、もうひとつ図を引用しておきます。
生駒山地は奈良側から押し寄せる様に盛り上がって出来たものであるのがわかります。そのために河内側は断崖絶壁になっているのに対し、奈良側は比較的緩やかで裾野に丘陵地帯が広がった理由が説明されています。この図では奈良盆地がえらい窪んでいるのですが、これが本来の地層の底でその上に堆積物が溜まって現在の地面になっているぐらいの理解で宜しいようです。で、古代史ムックに関係する古墳時代の奈良湖の規模ですが、邪馬台国の会様に判りやすい地図がありました。
推測図ですが、弥生遺跡等の分布からこれぐらいの範囲が奈良湖であったんだろうです。この図で見る限り、いわゆる平野部は奈良盆地の東側から南側に広かった事が確認できます。弥生遺跡の分布は大雑把ですが、川が流れる谷間と大和川水系中流部が奈良湖に注ぐ河口域に広がっていたぐらいは見て良い気がします。ここでやはり注目したいのは唐古・鍵遺跡になります。


唐古・鍵遺跡

場所は奈良湖の東の平野部のほぼ中心、若干南寄りぐらいに位置するのがわかります。ここで気になるのがエライ奈良湖に近いと言うところです。つうか奈良湖の湖畔に位置しています。もちろん唐古・鍵遺跡だけではなく他の弥生遺跡も奈良湖畔にありますから、唐古・鍵遺跡の特色とは言えませんが、奈良湖が起こす氾濫による水害は受けやすいだろうは想像できるところです。唐古・鍵遺跡は生活の場であるのでもう少し奈良湖から離れた位置でも良さそうなものですが、そこである必要性があったのだと考えます。

理由として考えられるのは周囲が稲作の適地であったのが第一で、たしか地形的に微高地であったはずです。それだけで弥生時代の集落の形成条件を備えているのですが、他にも理由があった気がします。唐古・鍵遺跡は御存じの通り単なる生活の場ではなく工房都市の性格も持っています。土器はもちろんですが、木器、織物、石器、玉、さらには青銅器の鋳造も行われています。これらを作るためには他所から原料を運び込む必要があります。また作られた製品は自家用のものも多かったでしょうが、交易にも用いられたとして良いかと思われます。

交易を考えると交通路が必要なんですが、陸路はプアです。道の整備は十分とは到底思えないからです。また陸路は重量物の運送に適していません。古代人は水路を交通路として重視したと考えています。小舟であっても運送量は人力で陸路を運ぶより桁違いに多いからです。湖畔域に広がった他の集落との連絡は陸路より水路をメインに考えていた、いや他の湖畔域の集落も唐古・鍵遺跡との交流を重視して湖畔域に住んでいた可能性もあります。もちろん奈良湖での漁業も重視していたのももちろんです。奈良湖や河川での獲られていたもので確認されている物は、スッポン、ウナギ、アユ、コイ、フナ、ドジョウ、シジミ、ナマズと定番のものが確認されています。

漁業の事は少し置いといて交易に話を戻します。唐古・鍵遺跡から発掘された絵画土器に

こういうものがあります。これに関連して大和川の歴史には、

唐古遺跡の弥生土器に、舟をあやつる人物が描かれる。ハマグリやアワビなどの外洋性の貝殻も発掘され、大和川を通じて大阪湾まで漁に出ていたことがうかがえる

唐古・鍵遺跡からハマグリやアワビを獲りに行こうと思えば、大和川を下って河内湖まで、いや汽水化が進んでいたと考えられますから、さらに大阪湾まで出る必要があります。ハマグリは砂浜を掘れば入手可能ですが、アワビとなると潜って取る必要があります。唐古・鍵の住人がやっていた可能性もありますが、これは河内の住人が交易のために持ち込んだ可能性の方が高い気がします。唐古・鍵遺跡で確認されている遠方から持ち込まれた土器は

    筑前(甕)、吉備(大壷)、吉備(大形器台)、摂津(高坏)、摂津(水差形土器)、河内(台付無頸壷)、河内(水差形土器)、紀伊(広口壷)、紀伊(甕)、近江(鉢)、近江(甕)、尾張(内傾口縁土器)、尾張(細頸壷)、中部(鉢)、天竜川(細頸壷)、伊賀(鉢)、三河(壷)、伊勢(広口壷)
これぐらい遠方からの土器があった訳です。ハマグリやアワビだって獲りに行くより持ってくるのを待ったと考える方が自然です。これらの土器は交易品を詰め込んで唐古・鍵に持ち込まれたんじゃなかろうかです。しっかし広範囲だなぁ。交易ルートは陸路もなかったとは言いませんが、メインはやはり水路でしょう。それも河内湖まで海路で運ばれ、さらに大和川を使って唐古・鍵に運び込まれるものが多かったと推測します。そこまで考えると河内の重要性が出てきます。唐古・鍵にとって河内方面は交易のための外港部に当たる事になります。ここを抑えられると広域交易は出来なくなります。


今さらなんですが、古代史のイメージを少し変える必要はありそうです。古代日本の文明先進地は言うまでもなく北九州です。これに異論は少ないと思いますが、かなり早い時期から他地域への入植活動を行っていたと見て良さそうです。唐古・鍵はそういう中で最も成功・発展した都市の一つぐらいに見た方が良さそうです。つまり神武東征神話の見方を少し変えた方が良さそうぐらいの感想です。やはりあれは征服伝承の神話化ではなかったかです。神武が来る以前から先行植民者がかなり文明を作っており、そこに神武が乗り込んで征服したんじゃなかろうかです。この辺はもう少し考える必要がある点です。