日曜閑話78-3

河内湖の話の続きです。もう一度国土地理院 時報 2000 No.94「近畿地方の古地理に関する調査」図を引用します。

縄文時代の推測図を見て欲しいのですが、河内湾があり生駒を挟んで奈良湖があるのはわかります。さらに北側に目を転じると巨椋池があるのがわかります。ここでJSJ様から教えて頂いた大和川の歴史に非常に興味深い記述がありました。

二上山麓の地すべりで、旧大和川がせき止められ、現亀の瀬付近より大阪平野へ流れ出る。古瀬田川を通って古奈良湖に流れ込んでいた古琵琶湖の水が、地殻変動によって淀川へと流れを変える

つう事は奈良湖の形成は大和川水系と琵琶湖水系の2つによって行われていた事になります。その深さは山の辺の道が出来る頃にも50mぐらいはあったと見ても良さそうです。奈良盆地全体が巨大な湖であったと見ても良さそうです。大和川の歴史には二上山麓の地滑りで奈良湖の水が河内に流れ込むようになったと書いてありますが、少し違う気がしています。奈良湖に溜まった水は周囲で一番低い生駒・金剛の地峡部から太古から流れ込んでいたんじゃなかろうかと思うのです。これが途中から琵琶湖水系が淀川に変わり、奈良湖の供給は大和川水系だけになってしまったぐらいです。

何を考えているかですが、河内湾を埋め立てたのは大和川と淀川の理解で良いと思うのですが、古代人は大和川の沖積地には住んでも淀川沖積地にはどうやら住まなかった点の説明になりそうな気がするからです。つまり河内湾を埋め立てたのは大和川がかなり先で、淀川の方が後だったと考えればどうだと言うところです。古代人は北九州からの入植者であるのは間違いないと考えていますが、瀬戸内海を渡って来た入植者はとにもかくにも河内湾なり河内湖に入ったはずです。上町台地の岬の先を回って入るはずですから、先に見えるのは淀川が形成した沖積地になるはずです。しかしそこには食指を示さなかったとして良いんじゃないでしょうか。

もう少し言えば淀川自体にも食指を示さなかったで良い気がします。古代の入植者は河内方面を選び入植したのは間違いないと思います。それは大和川が形成していた沖積地の方が魅力的であり、淀川が形成していた沖積地は入植するには不適当と判断された可能性は十分にあると思います。他にも大和川の歴史に興味深い事が書いてありました。

  • 唐古遺跡の弥生土器に、舟をあやつる人物が描かれる。ハマグリやアワビなどの外洋性の貝殻も発掘され、大和川を通じて大阪湾まで漁に出ていたことがうかがえる
  • 裴世清ら一行は、難波津から舟で大和川をさかのぼり、初瀬川から海柘榴市に上陸し、飛鳥小墾田宮へと至った。平城京造営を行う様子を詠んだ万葉集に「わが行く川の川隈の八十隈おちず」とあり、川が数多く曲がりくねっていたことがうかがえる。万葉集に「四の船、船の舳並べ」とあり、この頃の大和川の水量の多さがうかがえる。

古代の大和川は水量が多く、船で容易に交通が可能であった傍証になると考えられます。河内の入植者はその気になれば大和川を遡って奈良湖に達する事はさほどの難事でなかったと見たいところです。もう少し話を広げたいのですが、大和川の水量が多いと言う事は氾濫も多かったにつながります。大河の下流域は氾濫による湿地帯を形成しやすく、そんな湿地を利用する原初の稲作の適地と見れない事もありません。一方で大規模の氾濫はすべてを洗い流してしまう水害にもなります。

稲作技術は原初の自然の湿地に稲を植えるから、田の整備に進むのは発達の常識です。で、河内の入植者は既にその段階に達していたと考えています。そういう段階に達していた者にとって氾濫は恵みでなく水害そのものになります。そこでより穏やかな稲作適地を求めて大和川を遡った気がしています。そこで見つけたのが奈良湖であり、水位が下がり始め、その湖畔に広がる湿地帯ではなかったかと思います。唐古・鍵遺跡の形成から大和・柳本古墳群の築造に至っていったぐらいです。

古代を考える時に何故に河内でなく奈良なのかは疑問でしたが、こういう風に考えると少しは合理的な説明が出来そうな気がします。