日曜閑話78-5

今日は神武東征神話を考えるです。神話には歴史的事実が含まれている事がしばしばあります。有名なものなら神話じゃありませんが、ホメロス叙事詩イーリアスからトロヤを発掘したシュリーマンの例があります。神話の成り立ちは様々でしょうが、その集団に取って強烈なインパクトを残す出来事があり、これが伝承されていくうちに神話化する類型は確実にあるはずです。問題はこの伝承で、言い方を替えれば伝言ゲームみたいなものですから、伝承の過程で誇張、欠落、さらには創作が付け加えられていくのは不可避です。ですからどれが事実であり、どれが創作なのかを後世の人間が見極めるのは難しくなります。さて、神武東征神話の骨子として私が考えているのは、

  1. とにかく西から神武はやってきた
  2. 神武は目的として大和を目指していた
1.に関しては古代日本の先進地である北九州の「どこか」で良いと思っています。とりあえず先進の技術を携えた武装入植集団ぐらいのイメージです。問題は2.の方で何故に奈良なんだです。神武一行が難波に着いた頃のイメージ図が国土地理院 時報 2000 No.94「近畿地方の古地理に関する調査」にあるので引用します。
これは縄文時代のイメージ図なんで、神武が着いた頃には河内湾ではなく河内湖状態の形成が進んでいた可能性はありますが、とにかく神武一行は上町台地が形成する岬を回って河内湾ないし河内湖に入って行ったと考えられます。ここで神話は河内方面を選んで上陸し、おそらく大和川を遡り奈良を目指す事になっています。入植地として河内湾の淀川デルタを選ぶか、大和川沖積地を目指すかは二択ですから「たまたま」河内を選んだはありえますが、その後に大和をひたすら目指した点が引っかかります。常識的にまず河内に拠点を作るだろうです。

神武神話を考える時に私は大きな思い違いをしているんじゃないかと感じ始めています。何を思い違いしているかですが、神話のイメージで神武一行が難波を訪れた最初の入植団のイメージです。つまり最初と思うから河内をスルーする理由に苦慮しているんじゃなかろうかです。北九州からの入植団は神武が1号じゃないと考える方が自然だと考えます。神武以前の先行入植団が既に居た状態のところに神武が到着したぐらいのイメージです。先行入植団は河内湾の北岸にも入植していたと思います。当然河内にも入植していただけでなく、紀の川河口にも入植していたとしてもおかしくありません。さらには大和方面に進出していた入植団があっても良い訳です。

入植団が成功するかどうかは、入植団の規模、運不運、地理的条件に左右され、神武が到着する頃には大和が一番成功していた状況を想像します。淀川デルタに入植した者も、河内に入植した者も淀川や大和川の水害で満足できる発展が出来ていなかったんじゃなかろうかと言うところです。その中で大和の奈良湖周辺に入植した者が一番大きな成功を収め、中心地的な存在になっていたんだろうぐらいです。ここでなんですが、神武はその情報を予め知っていて難波に向かった可能性を考えています。wikipediaからですが、

日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。

これも取り様ですが大和を中心に成功している植民団がいる情報を知り、そこを征服する決意の描写にも受け取れます。最初から目的地は大和であり、どこに大和があるかもある程度情報として握っていたとしても良い気がします。後世で喩えるとマヤやインカに黄金文明がある事を知り、それを征服しようと考えたスペイン人みたいなものでしょうか。

そこまで考えると神武は武装入植団と言うより、純粋の征服者であったとした方が相応しくなります。神武が難波を目指した時期は、入植地はある程度までの開発段階を終えており、そこを乗っ取るつもりの東方遠征だったと考えています。そう考えると神話のストーリーが判りやすくなります。戦記としては古事記の方が使いやすいのですが、上陸した神武軍は最初の一戦で敗れています。これは既に河内に神武軍に抵抗できる兵力と組織があった事を示していると考えます。

この一戦は敗北と言うよりも、予想外の抵抗に驚いたぐらいの気がしています。大和に進むためには河内上陸が必要なのですが、河内での抵抗は無いか、あっても微弱なものぐらいが目論見だった気がしています。そこに組織だった抵抗勢力が存在し、戦意も十分あるとなると決戦による消耗を避けたと見たいところです。遠征軍の弱点は兵站と戦力補給が出来ない点だからです。そこで大手と言うべき河内から大和を目指すルートをあきらめて一時撤退を余儀なくされたぐらいです。

神武軍の撤退先は紀国の男之水門だとなっています。これは素直に現在の紀の川河口部で良いかと思っています。国土地理院 時報 2000 No.94「近畿地方の古地理に関する調査」に縄文期の紀の川河口部のイメージ図があります。

砂嘴があり水門と言うのに相応しい地形になっています。この事も神武は知ってたんじゃないかと考えています。もう少し憶測を加えれば紀の川河口の入植団は神武の同族であった可能性も考えています。つまりは援軍を求めて紀の川河口部に向かったぐらいです。と言うのもここから神武に協力者が次々と現れる事になるからです。古事記ではさらに熊野まで南下してしまうのですが、これは伝承の混乱もしくは後世の脚色で、神武軍は紀の川を遡って行ったと考えています。(天候に翻弄されて本当に熊野まで行ってしまった可能性もありますが、その場合も紀の川河口部に戻って来たと考えています)

古事記ではここで道案内が出てくるのですが、当時も大和と紀の川入植団は大和と交易関係を持っていたと考えます。唐古・鍵遺跡からも「紀伊(広口壷)、紀伊(甕)」が見つかっています。紀の川と大和の交易ルートは河内に向かう海路もあったでしょうが、紀の川を遡るルートもあったんじゃなかろうかです。紀の川で援軍を得た神武は大和への奇襲を計画したと見ています。古事記では宇陀に出たとなっていますが、道案内さえいれば紀の川を遡り山中を突破して本当に宇陀方面に進出するのも可能だったかもしれません。後は奇襲により一挙に大和の在地勢力の中心地を征服し、河内で頑張っていた長髄彦も最後は滅ぼされたぐらいです。

憶測を加えると神武のような侵略軍はしばしばあったのかもしれません。侵略軍と言うより海賊とした方が良い気がします。それがあったので河内方面に警戒体制を敷いていた可能性はあります。だから神武軍が上陸した時にある程度の即応体制が取れたぐらいです。大和側の防御戦略として、海岸沿いで防衛部隊がまず防ぎ、そこを突破されたら亀の瀬の天険でさらに防ぐプランだった気がします。搦手の紀の川ルートを使って来るとは予想外だったんじゃなかろうかと思っています。

神話に近い事を神武が本当に成し遂げていたのなら、間違いなく英雄として子孫に伝承され神話となってもおかしくありません。ま、仮説に過ぎませんけどね。