日曜閑話78-6

奈良湖のまとめみたいなものです。


奈良湖の形成

大雑把にまとめてみます。

  1. 87〜50万年前に六甲変動と呼ばれる地区変動があり、奈良地域では南北性の基盤褶曲(東から西に地盤を押し上げるよう運動)が起こり、生駒山地金剛山地・大和高原が形成される。結果として深い窪みが奈良地域に形成される。この時の深さはマイナス600mにも達した。
  2. その窪地に大和川水系および、古琵琶湖からも古瀬田川が流れ込み奈良湖を形成。
  3. 50万年前に奈良北部で新たな地殻変動が起こり佐保丘陵が形成される。そのために琵琶湖水系は奈良湖に流入しないようになる。
  4. 奈良湖に溜まった水は生駒山地金剛山地の地峡部である亀の瀬から河内湾に流入するようになる。
  5. 大和川水系は浸食作用により奈良湖を埋めていった。
これぐらいで堪忍して下さい。地学を取ってないもので興味深かったですが息切れです。大和川水系の浸食作用は人類が奈良湖周辺に住み始める頃には現在に近い地形にしていたと考えますが、それでも浅い湖として亀の瀬あたりを最深部として奈良盆地の1/3から半分ぐらいは残っていたと考えています。当時の奈良湖の想像ですが、湖と言うより広い低湿地帯だったかもしれません。亀の瀬は断続的に地滑りを起こすところであり、地滑りにより堰止湖が出来た時には湖となり、それが崩れて流れ出せば低湿地帯になるぐらいの感じでしょうか。そこには葦原が広がっていても不思議ではありませんから、神話で言う豊葦原中国状態だったかもしれません。


水上交通

現在のところ畿内最古の都市国家とも言える唐古・鍵遺跡は非常に広い範囲の交易を行っていた証拠が出てきています。大和内だけではなく、

    筑前(甕)、吉備(大壷)、吉備(大形器台)、摂津(高坏)、摂津(水差形土器)、河内(台付無頸壷)、河内(水差形土器)、紀伊(広口壷)、紀伊(甕)、近江(鉢)、近江(甕)、尾張(内傾口縁土器)、尾張(細頸壷)、中部(鉢)、天竜川(細頸壷)、伊賀(鉢)、三河(壷)、伊勢(広口壷)
これらは壷や甕や鉢が欲しかったと言うより、それらに入れて交易品を運んでいたと素直に考えます。輸送路は陸路の可能性も否定しませんが、当時の陸路はプアです。たとえば近江からなら木津川を使い、佐保丘陵を越える程度で運送は可能ですが、筑前からとかなると絶対無理と考えます。メインは水路と考えるのが妥当でしょう。水路と言っても奈良盆地から外に流れ出す川は一本で大和川になります。大和川水運は飛鳥時代から大和の命運を握っていたと見ても良さそうです。

同時に大和川が流れ出るのは河内湖です。飛鳥の政権が河内を重視するのも当然かと思います。外港でもある河内を抑えられると大和の首が締まる関係と言っても良さそうな気がします。大和川の水運を安定させるためには水路の改修が必要です。これは継続的に行われていたと見ていますが、水路として使うには水量の確保が欠かせないと見ます。


奈良湖の干上がり

大和川の水量なのですが、大和川水系河川整備計画原案(たたき台) には、

船の運行は、夏期の潅漑期と冬季の渇水期は利用できなかった

これは江戸期のお話ですが、普通に流れている水量ではこれぐらいしかなかったと見て良さそうです。基本的には江戸期も飛鳥時代も変わらないと思います。大和川の改修は水量を確保するために奈良湖の水を効率よく大和川に流し込む作業が中心だったと推測していますが、そうやっているうちに残っていた奈良湖の水も枯渇してしまったと考えます。自然に枯渇してのかもしれませんが、いつ頃にどれぐらいの状態になっていたかを推測するのに筋違道は参考になります。これは最古の官道とも呼ばれていますがwikipediaより、

7世紀中頃に、奈良盆地を東西・南北にまっすぐ通る大道が整備されたが、例外的に古い地割に則って斜めに通る道筋が整備された道があった。法隆寺飛鳥宮を直接まっすぐに結ぶ道として(北北西-南南東方向・南北から約20度)傾いて設置された。当時、聖徳太子が行き来したとされており、後に「太子道」とも呼ばれるようになった。

他の東西南北に通る大道が飛鳥時代後期に計画に基づいて設置されたとされるのに対し、筋違道は沿線上に弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多数見つかっていることなどから、そのころには部分的ではあるが既に成立しており、飛鳥時代に他の大道と共に延長・整備し直したと考えられている。

聖徳太子が住んでいた上宮とは現在の法隆寺と考えて良いでしょう。そこから耳成山方向に真っ直ぐ伸びています。位置的には下つ道のさらに西側になります。ここに道が出来たと言う事は、奈良湖は7世紀頃にはそこまで縮小していただけではなく、湖畔に広がる湿地帯もかなり乾いた状態になっていたと考えます。また道が出来るぐらいですから、水田も出来ていたところはあったと見ます。前に大和三道をムックした時には奈良湖の範囲の推定が甘かったので、私のイメージとして大和盆地の中央部は手つかずに近いと想定していましたが、ちょっと違うと考えて良さそうです。


水運と都の関係

当時は「農業生産量 ≒ 人口」の関係が成立した時代と考えています。農業生産の分だけ人口が養え、人口の分だけ農業生産量が上がるです。大和三道地域が未開地開拓であれば、開拓してもそれを耕す人口がいない事になります。ここは条里制施行(それ以前の区画整理も含めて)以前に虫食い状でも水田は相当あったと考えた方が良さそうです。そうでなくては広大な水田を作っても耕す人がいなくなります。条里制施行後に新たに開拓した水田も少なからずあったでしょうが、大和三道敷設以前に水田開発は先行していたとした方が良さそうです。

そうなると今度は大和川水運は飛鳥時代でも冬季の渇水期だけではなく、夏の灌漑期にも使えなくなってきます。畿内王権は奈良朝の頃には全国政権に近くなったと見る事に異論は少ないと思います。初期の藤原京の頃にも支配領域は広がっていたはずです。律令制により整備された様々な税の少なからぬ部分は都に運ばれていたはずです。そういう財政が確立したので中国を見習っての大規模な都が建設されたとするのが自然です。もう一つですが、政権の中心地である大和は、既に大和一国で自給自足出来る状態ではなかったとも見ています。

外からの供給を支えていたのが大和川水運だったのですが、藤原京が出来た頃には既に供給不足を来していた可能性を考えます。大和川水運は冬の渇水期には使えず、さらには奈良盆地の農地が広がれば広がるほど、夏の灌漑期も使えなくなります。そのために不足する物資供給を佐保丘陵の北側に流れる木津川水運に依存するようになっていった可能性です。木津川水運の場合、佐保丘陵(奈良坂)を越えると言うネックはありますが、季節による輸送量の制限が大和川水運より少なく安定していた可能性です。

それとこれは憶測ですが、奈良朝は壬申の乱で近江を征服しています。大和川水運は海路を使った遠国からの物資もありますが、主体は河内の物資であったとも考えています。これが壬申の乱の結果として近江の支配を確実にした後は、近江の物資が奈良朝を支える部分が大きくなった可能性も考えています。


藤原京が短命で終わった原因は様々に推測されていますが、次の都の選定地に平城京が選ばれたのはJSJ様が指摘されているように木津川水運重視の現れの意見に同意します。では平城京からさらに奠都を行う要因ですが、平城京が栄えるとともに奈良坂越えの木津川水運でも物資が賄え切れなくなったのはありそうです。傍証は平安奠都の前に建設された長岡京です。長岡京は地形の狭隘さを指摘されますが、最大のメリットは都の南側に淀川の合流点があります。この意味合いは琵琶湖水系の水運により近江の物資を、さらに淀川水運を使って河内の物資を都に運びやすい点だったと考えています。

水運のメリットが最大限に活用できる魅力に他の悪条件は蹴散らされた気がしています。それぐらい末期の平城京は物資の不足に慢性的に悩まされていたのかもしれません。


どうでも良いような感想

琵琶湖水系が奈良盆地から切り離されたのはおよそ50万年前だったとの推測があります。それも現在の地形が完成する最終段階で佐紀丘陵が盛り上がって途絶えたぐらいの理解で良いようです。この佐紀丘陵の形成が起こらなかったら飛鳥地区の都はもっと続いていたかもしれません。また佐紀丘陵がずっとずっと小ぶりだったなら、それこそ運河を掘削して木津川水系を引っ張り込む工事が出来たかもしれません。そうすれば平城京はもっと続き、下手すりゃ今に続いていた可能性もあるかもしれません。そんな感想を最後に持ったところで今日は終わりにします。