テンプレの誤用

ツイッターより、

朝日新聞文化欄に「福島の人たちは声を上げるべきです」って。上げてるよ。私は上げてるつもり。その声を聴いてくれる人もいるけど、「あなたは真実をわかっていない」みたいに言われたことが何回もあった。ほんとはさ「福島の人たちの声を聴くべきです」なんじゃないのかな?

朝日の記事を探そうとしたけどやめました。ソースを確認出来ていないので話を一般論にしますし、朝日への直接の批判でもない事は先にお断りしておきます。今日感じたのは「声を聞く」とはどういう事だろうです。

マスコミ記事は記者が書くものですから、声を記者が聞いているか聞いてないかが基準なのでしょうか。やはりどう考えても基準になりそうです。そりゃ記者が聞いていないものが聞こえるはずもありませんし、聞こえていないものを記事に出来るはずもありません。そうなると声が聞こえるかどうかは記者の主観に準拠している事になります。

記者がどうやって声を聞くかの伝達ルートを考えると、

  • 記者の交友関係に聞かされた(友人、知人系)
  • 記者が嫌でも聞かされた(デモ、集会系)
  • 他のマスコミ経由(テレビ、新聞、週刊誌系)
  • 声がありそうと考え聞き集めた(取材系)
  • ネット情報で拾った(ネット系)
これぐらいはありそうです。記者的にはどれが一番大きな声なのでしょうか。なんとなくマスコミで取り上げたものが一番大きな声で、そうでないものは相対的に小さいと私は感じます。少し言い換えるとマスコミで取り上げた声はメジャーな声で、それ以外はマイナーの小さな声とも考えられます。もう少し言えば、「聞こえる」とは記者が記事にしたくなるほど、いや記事にせざるを得なくなるほどの状況であり、それ以下では聞こえないとか小さな声として扱われるとすれば語弊があるでしょうか。


それはそれで一つの考え方なんですが、マスコミが声を取り上げて大きな声にした時のテンプレがあります。世間に知られていない声を取り上げてメジャーな声にした功績を誇るテンプレです。パターンとしたら、取材してみたら「意外な声」があり、これは社会問題として広く取り上げるべきものであるぐらいの時です。これもテンプレは2つあり、

  1. 世間がこの声を聞けていないのは問題だ
  2. これまで声をあげなかった人々も問題だ
1.は非常に同情的なスタンスで書かれます。それこそ記者は社会正義の権化のようになって記事を書かれます。一方で2.は「声をあげなかった人々」にかなり批判的なスタンスになります。2.のテンプレの極みは「知っていたのになぜに声をあげなかったか」の強烈な批判になります。

2.のテンプレ系でも本当に声がなかった場合もないとは言いませんが、殆んどの場合は声は出ています。この場合の「声はなかった」「声は小さかった」はあくまでも記者の耳に届かなかった、もしくは記事にするような気がしなかったと同じです。つまり声はあったかもしれないが、記事化するほどの声にしていなかった発信者が悪いぐらいの感じです。


さて問題はテンプレの適用で、今回で言えば福島県の方々の声はそんなに小さいかです。あくまでも主観ですが、私は小さいとは思えません。もう少し言えば、福島県には重大な声があるのを多くの人は知っているとしても宜しいかと私は判断します。ほとんどの人が福島県の人々が原発事故の影響を多かれ少なかれ受けられ、その影響に苦しんでおられるだろうぐらいは知っているとしてもおかしな考え方とは思いません。

ただしどれほど知っているかは濃淡はあります。申し訳ありませんが、神戸に住む私なら届く情報はネット経由もしくはマスコミ経由以上の情報はありません。ちょっと見に行くには遠いですし、1泊2日程度の旅行で行ったところでどれほどの情報が手に出きるかどうかは自信がありません。何が言いたいかですが、福島県には重要な声があるのは既知の事であり、それを掘り起こしてメジャーな声にするお仕事は誰のものかと言う事です。


2.のテンプレの用法は殆んどの人が知らない「意外な事」の時に有用なものであり、それを掘り起こしたから手柄になります。だから手柄を少々誇っても許容範囲です。今回の場合は2.でなく1.のテンプレを適用すべきであったと私は考えます。世間が声として知ったつもり以上のもっと重要な声があったんだぞのスタイルです。

記事本文自体を確認していませんが、

    ほんとはさ「福島の人たちの声を聴くべきです」なんじゃないのかな?
読む人にそう感じさせた時点で、テンプレの適用を誤っているんじゃないかの感想を抱きます。記事を読んでいないのであくまでも間接的な感想です。