田老診療所の明日

6/13付読売新聞より、

岩手・宮古市田老地区…唯一の医師 苦悩の辞表

 岩手県宮古市の田老地区では、地区唯一の医療機関国保田老診療所が被災した。震災後、高台の宿泊施設に仮設診療所を開いたが、たった一人で奮闘してきた黒田仁医師(42)は来年3月で退任する予定。市は後任の医師探しに苦慮している。

 黒田医師は同診療所が46床の病床を擁する病院だった2001年に着任。07年、勤務医は黒田医師だけになり、翌年、19床以下の診療所になった。この4年間、約4000人が住む地区の医療を守ってきた。震災前は1日平均約60人の患者を診察し、往診もこなした。休みは月に1日だけ。看護師などスタッフの負担も大きく、増員を市に要請したが受け入れられなかった。

 昨夏、疲労のためか、診察中に一瞬、意識を失った。「このままでは倒れてしまう」。苦悩の末、今年2月、市に辞表を提出した。

 黒田医師は「市には今後の地域医療をどのように行っていくべきか本気で考えてほしい」と訴える。

この田老診療所なり、田老病院の情報が少なくて探すのに往生したのですが、とりあえず作られたのはこちらの資料(たぶん岩手県の資料です)によると1952年5月1日となっています。病床数48は最初かそうであったのか、途中で変遷があったかは不明です。

病院から診療所への転換については伊関友伸氏が保存されている2007.11.6付宮古日報に、

 宮古市が来年4月開所の計画で建設を進めている国保田老診療所(病床数19)は、公設民営方針に基づく指定管理者募集に応募がなく、市は開所時から当面直営することにした。直営で収支を見極めながら来年度以降、指定管理者を再募集する。

 田老診療所は、市が直営している同市田老字荒谷の国保田老病院(黒田仁院長、病床数46)を縮小する形で、同病院隣接地に建設。老朽化した同病院は、診療所開所後に取り壊す。

宮古日報の記事では診療所以降に伴い指定管理者制度の施行を計画したようですが、全部逃げられて直営による経営を余儀なくされたとなっています。その後にどうなったかの続報は確認できませんでしたが、たぶん直営のままではなかったかと思われます。宮古日報の記事では2008年4月から診療所にリニューアルされる予定となっていますが、これがどうなったかは2008年3月15日号「広報みやこ」に掲載されています。ここには黒田医師の写真も掲載されています。その時のコメントも紹介しておくと、

 時代の趨勢の中、国保田老病院は有床診療所へと生まれ変わります。

 規模は小さくなりますが、これまで同様、医療を通じて地域の方々とともに、時には悩み、時には喜びながら、科学的な視点を意識しつつ、微力ながら「生きる」ことを支援して参りたいと思います。

 本地域は歴史に語られるとおり、津波をはじめとする災害も考えられます。病と災害に対して、いわば「防病災」の一助になるべく務めていきたいと思います。

黒田医師が津波の話題を持ち出されたのは単に話の枕だったとは思いますが、今となっては示唆的なコメントになってしまったと感じます。それでもって田老病院の医師数ですが、読売記事では2007年で1人となっています。この医師数の変遷がさっぱりわからなかったのですが、おそらく最後の2人時代の同僚だった医師が増田進医師であったようです。予防医療臨床研究会の主な講師(なんとなく香ばしい方が筆頭におられますが)に経歴の紹介があり、

昭和9年盛岡市に生まれる、昭和33年東北大学医学部卒、昭和38年沢内村国民健康保険沢内病院副院長・沢内村健康管理課長、昭和50年沢内村国民健康保険沢内病院院長、平成2年〜5年医師国家試験委員、平成11年田老町国民健康保険田老病院院長、平成14年田老町保健福祉センター所長(兼務)平成19年緑陰診療所開院、平成22年緑陰診療所を西和賀町沢内に移す。

田老関係のみ抜粋しておけば、

    平成11年(1999年)田老町国民健康保険田老病院院長
    平成14年(2002年)田老町保健福祉センター所長(兼務)
    平成19年(2007年)緑陰診療所開院
1999年に増田氏が田老病院長になられた時に何人の医師がいられたかは不明ですが、2007年に診療所開設のため退職された時は黒田医師と2人であったとしてもよさそうです。実情がよく判らないのは2002年に増田氏が保健福祉センター所長兼務された時にはどういう状態であったかです。なんとなくその前の保健福祉センター所長が退任後の後任がなく兼任になった気もしないでもありません。

ちなみに増田氏が院長になられたのは既に65歳です。地方の事ですから65歳で院長でも構わないのですが、新任で65歳ですから1999年時点でどれだけの医師がいたのかもあれこれ考えるところです。それと増田氏も「逃げた」は訳ではなく、院長になられた時が既に65歳であり、退職時は73歳ですから、後任が見つからなかっただけとした方が良さそうです。

田老病院が診療所に移行したのは他にも経営上の要因とか、建物の老朽化はあったとは思いますが、医師が1名限りになったのも要因の一つになったとも推測はされます。それにしても2008年4月1日に診療所が診療開始で、2011年3月11日に津波で大損害を受けていますから、3年足らずで新築の診療所は寿命を終えた事(修復可能かどうかは確認できませんでした)になりそうです。厳しいところです。


さて診療所移行後の患者数なんですが、読売記事では、

    震災前は1日平均約60人の患者を診察し、往診もこなした。
これの裏付けですが、岩手県国保連合会感動転職FA Doctorあります。国保連合会のページには在りし日の診療所の画像も掲載されていますが、診療所状況も書かれています。感動転職FA Doctorは2007年のデータのようなので病院時代末期が推測できます。ちなみに診療所の病床数は19(病院時代は46)となっています。2つの情報をまとめてみると、

2007.7〜9
(病院)
2010
(診療所)
入院 入院 入院外
患者実数 3500人 13848人
1日平均患者数 10.5人 9.6人 57.5人


入院患者の方は病院時代末期からあんまり変わっていないようで、だいたい10人前後の患者がおられると考えて良さそうです。外来は「入院外」と書いてあるのが趣の深いところで、おそらく「往診」を含むの意味ではないかと推測します。外来スケジュールが病院なびにあります。

受付時間
8:30〜11:00
13:00〜16:00
休診日 土日・祝日
備考 第2・4水曜午前のみ


午前診が2時間半で、おそらく11時〜13時の2時間は病棟業務と昼休み、それから午後診が3時間が基本スケジュールのようです。午後も16時からは再び病棟業務と言ったところでしょうか。

外来業務の1日60人程度なら、5時間半の外来時間で、それなりにはこなせるとは思います。1時間あたり10人チョットですから、そうですねぇ、ツブクリとフツクリの中間ぐらいでしょうか。もっともこれは小児科診療所の感覚ですから、内科診療所なら余裕でフツクリなのかもしれません。いずれにしても外来だけに専念であればさしての負担ではないとしてもよいでしょう。

木曜の午後とか、第2・第4水曜の午後は休みと言うより訪問診療やっているんじゃないかとも思われます。読売記事にある「往診」ってやつです。これも今どきの内科診療所であれば、この程度はやっているところは多いと考えられますから、とくに過剰な負担でないと考えられます。

やはり問題は病棟業務とすべきかと考えます。内科入院と言ってもピンキリではありますが、それでも10人程度を受け持てばそれなりに忙しいと思われます。1人や2人は手のかかる重症患者が混じりそうなものだからです。10人と言っても、これで外来の負担が無ければまだしもなんですが、外来をフルタイムでこなした上の入院患者10人は結構負担の様に思われます。

それでも診療所入院なので、病院に較べて負担は軽いとは考える事は可能ですが、一番重圧だったのは1人であった事かもしれません。あくまでもたぶんですが、当直の応援ぐらいはあったとは考えています。診療所なので必ずしも当直は置かなくても良いはずですが、国保連合会のページには、医師・歯科医師の週休は、

週休2日(田老診療所、川井診療所は当直あり)

週休2日」と言うのがブラックジョークみたいに書いてありますが、それはともかく「当直あり」となっています。ヒョットして休日のみの当直体制であったかもしれませんが、当直であろうとなかろうと、入院患者の容態が変われば呼ばれます。なんつうても1人しかいませんし、たとえバイト当直医がいても、ある程度以上の容態変化なら来ざるを得ません。

それとこれは探しても見つからなかったのですが、時間外患者への対応がどうなっていたかです。シャット・アウトはどう考えても難しそうな気がしますから、それなりに受け入れていたと考える方が妥当と思われます。

そういう状態になれば24時間常にスタンバイしているような環境に陥ります。これは正直なところ辛い状態です。もちろん24時間拘束に近い医療機関は幾らでもありますが、これが後がないたった1人でやるとなれば精神的にはかなり応えると推測されます。ここまで極端でないにしろ、ほんの気持ちだけ近い状態で半年ほどやむを得ない事情で入院付き内科を担当した事がありますが、だんだんに抜け切らない疲労が蓄積する感じになります。

読売記事にある、

    休みは月に1日だけ。看護師などスタッフの負担も大きく、増員を市に要請したが受け入れられなかった。
ここも解釈は微妙で、あくまでもヒョットしたらの可能性ですが、月に1日の休日とは、月に1回だけ来るバイト当直の日を指しているような気がしないでもありません。他の週末はすべて当直みたいな感じです。いずれにしろ労働環境だけで「労基法は?」なんて話も出そうですが、肩書きは院長ですから、名ばかり管理職とも言い切りにくいところもあります。

2007年のいつからかははっきりしませんが、4月からとしても、こういう状態で4年近く続いたわけです。ついでに言えば、病院を診療所に建てかえる事業が行われていますから、それに対する政治的なお付き合いも院長なら求められているはずです。ついでに言えば、これも院長ですから経営問題やスタッフの確保の問題にも無関係であるわけではありません。

黒田医師は1人になった2007年から医師の増員と言うか欠員補充を訴えていたはずです。いや、前院長が退職する前から「1人では無理だ」を市に訴え続けていたとしても良いでしょう。それに対して「もう少し待ってくれ」との小田原評定が続けられていたとは容易に推測出来ます。ま、実際のところ勤務してくれる医師をそう簡単には見つけられない土地柄ではあります。

ただ1年経ち、2年経ち、3年を越えて限界に達したとして良さそうです。気合や精神論、さらには地域への愛着だけではニッチもサッチもいかなくなったと考えられ、その前にもさんざん折衝があったとは思いますが。

    今年2月、市に辞表を提出した
これは最後の交渉カードであったかもしれません。黒田医師が退職してしまえば診療所の医師はゼロになり閉鎖を余儀なくされます。診療所の閉鎖と、医師を増やすのとちらを選ぶの瀬戸際戦術です。辞表を巡る扱いがどうなっていたかは知る由もありませんが、3/11には運命の震災が訪れます。非常事態に再び医師魂を燃焼させたのだと思っていますが、
    来年3月で退任する予定
震災によりさらに医師を招く状況はさらに悪化したとするのが妥当です。どう考えても良くなる材料が見つかりません。震災後の黒田医師の奮闘は「最後の御奉公」としてこの地区に捧げられたような気がします。



とりあえずここら辺までは調べられたので、ここからチョット重めの話を展開する構想でしたが、ここまでで重すぎて書けなくなってしまいました。ただこれで終わりにすると尻切れトンボなので、軽めにお茶だけ濁して代わりにさせて頂きます。

とりあえず診療所のハコモノの再建はされるんでしょうか。これは色々補助金が出ると思いますから、資金的には再建は可能かもしれません。もちろん被災後の地域全体の診療体制の再編により再建されないかもしれませんが、今のところは何の決定もされていないんじゃないかと思っています。また仮に再建されたとして、有床で再建されるか無床になるかなんての検討もまだまだの状態のようには思っています。

それでもって黒田医師の後任が現れるかどうかですが、再建された診療所が無床ならまだ現れるかもしれません。地方僻地と呼ばれるところでも無床なら案外現れる印象を持っています。だってあの上小阿仁村だって後任が現れた(風の噂です)そうですから。

ただ有床に医師1人では、現れても続けられる医師は少なそうに感じています。経験と知識だけではなく、ある程度の若さと体力が求められます。もっとも復旧段階はそんな事を考えるにはまだまだ遠そうです。