謝恩企画後編

元の作品は前後編ではなく一体なのですが、hatenaの容量の限界から、無理やり分けています。前編は伝説の「10.19」の1988年シーズンで、後編は1989年シーズンのお話です。私としてはこの2年はセットの2年間であり、分けて考えられない2年間です。そんな伝説のシーズンをリアルタイムで見たもののとして、拙くとも語り部でありたいと思って書いたものです。

前後編にした関係で大晦日までブログ更新しなければならない羽目になりましたが、お楽しみください。では皆様、良いお年を。

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上田オリックスの意気込み

門田博光
41歳の門田であったが、この年.305、本塁打33本、93打点と活躍し、オリックスを引っ張った。これは南海時代の写真。

阪急は日本職業野球聯盟が創設された時のオリジナルメンバーであり日本球界屈指の老舗球団です。長い低迷時代はありましたが、「闘将」西本幸雄に率いられてからはメキメキ頭角を現し、1960年代後半から1970年代にパ・リーグの覇権を握っています。西武の台頭の前に往年の圧倒的な強さこそ失われていましたが、前時代の覇者としてまだまだ侮れない戦力を擁していました。1988年こそ4位に低迷しましたが、監督の上田利治の闘志は覇権奪回にまだまだ執念を燃やしていました。

10.19の運命の日に、寝耳に水の身売り話です。この年はもう一つのパ・リーグの名門老舗球団である南海ホークスダイエーに身売りされていますが、南海の場合、正直なところ戦力的には枯渇しきっており、言っては悪いですが、球団としての寿命が尽きたかの感がありました。阪急は決してそんな状態でなく、リーグ優勝を十分狙う事の出来る戦力は残っており、選手たちの戸惑いは大きかったと思います。

オリックスの阪急への扱いはその後はっきりするのですが、ひたすら阪急カラーを払拭する事にのみ費やされる事になります。1989年の段階ではどうだったかはわかりませんが、これまで築かれてきた阪急の野球を継承発展させるには、余所余所しい態度であったろうぐらいは想像がつきます。西本の後を継ぎ阪急の黄金時代を作り上げた上田もまた日本球界屈指の名監督に数えても良い名将です。オリックスのユニフォームに身を包みながら、栄光の旧阪急ブレーブスの意地と誇りをファンの目に焼き付けておいてやろうと、密かに決意したのは想像に難くありませんし、選手たちもまたそうであったろうと考えます。

この年の攻撃陣には首位打者打点王の二冠に輝いたブーマー、松永浩美石嶺和彦に加え、南海から移籍したベテラン門田博光。さらに2番には福良淳一、下位打線にも藤井康雄本西厚博と玄人好みの渋い打者をそろえた強力布陣で、上田をして「ブルーサンダー打線」と豪語させる強力打線でした。投手陣もエース星野伸之を中心に、山沖之彦佐藤義則、ホフマン、今井裕太郎、さらにこの年新人王を獲得した酒井勉と駒をそろえていました。

この布陣で惜しむらくは、主力選手の平均年齢がかなり高い事と、投手陣の中で救援陣がやや手薄なところですが、監督、選手とも「これが最後のブレーブス」だの士気は極めて高く、1989年の序盤はオリックスの快進撃で幕を開けることになります。爆発するブルーサンダー打線はライバルたちを蹴散らし、シーズン前には前年度あれだけ激しく優勝を争ったので優勝候補の両翼見られていた西武と近鉄を見る見る引き離してしまいます。近鉄には最大で8.5ゲーム、西武にいたっては11.0ゲームも引き離し、オリックス独走ムードが1989年パ・リーグの序盤の展開となります。

森西武の油断

薄氷の末4連覇を達成し、日本シリーズでも中日を撃破して日本一の覇権を保持しましたが、球団は5連覇に向かい戦力のさらなるかさ上げを行っています。「超」がつくほどの強力補強で、「カリブの怪人」デストラーデと西武の黄金時代の後半を支える「快腕」渡辺智男です。攻撃陣は従来でも強力だったのに秋山、清原、デストラーデがクリーンナップに並ぶのは壮観です。この年優勝を争ったオリックスのクリーンナップ「ブルーサンダー打線」もブーマー、門田、石嶺も実績十分ですが、ブーマーが35歳、門田にいたっては41歳であり、実績は申し分はありませんがかなり不安視されていた事を思えば、リーグ最強とシーズン前に噂されたのは間違いありません。

投手陣は新戦力の渡辺智男は額面どおりの活躍を示しましたが、後年に200勝まで勝ち星を積み上げた工藤が休みの年になり、渡辺智男が活躍した分をきっちり帳消ししてしまったのが誤算とはなりました。工藤はこの頃から1年おきにしか働かない特徴があり、この年は4勝8敗とさっぱり働かず、万全の整備をしたと考えていた西武の首脳陣の大きな誤算となります。

シーズン前の戦力整備は工藤を除けば5連覇におつりが来るほどであったはずなんですが、開幕ダッシュにはつまづきます。「エエデ、エエデ」の上田節にのったオリックスが手をつけられない勢いであった事もありますが、それよりも前年の近鉄との死闘が骨身にこたえていたのではないかと考えます。6月からほぼ一貫して首位を走っての優勝とはいえ、最後の最後の130試合目の10回表まで近鉄に追い込まれたプレッシャーは相当なものがあったようです。

肉体的疲労はオフの間にある程度癒されたとしても、精神的疲労がシーズンが始まっても色濃く残り、また優勝慣れしたチームにはモチベーションがもうひとつ燃え上がらないものがあったと考えます。さらにチームを率いる森は、たしかに残した実績からは屈指の名監督ではありましたが、その手腕の本領は仰木や上田とはかなり毛色が違うところがあります。

森が広岡から引き継いだ西武はその時点から十分な戦力を有しており、さらに西武球団はチームの戦力強化に努力を惜しみませんでした。また与えられる戦力も、フロントがチームの補強点を十分吟味して、弱点になりそうなところを早め早めに補充する事に高い能力を示しています。結果として森の手の中には巨大戦力が常にあり、森に求められる役割はいかにこの戦力を生かすかと言う事になります。広岡から受け継いだ管理野球は巨大戦力の管理に非常に適合したものであり、ともすれば独善的になりわがままとなるスター選手を有無を言わせず統制する事が可能です。

管理野球により飼いならした選手たちを、森は道具の様に向き不向き、好不調を見極めて、あてはめて使いこなせば勝利は自然に積み上がるのが森野球の本質ではなかったかと考えます。ただし選手管理の本質が統率と言うより統制になっているのが強いて言えば難点で、森自身が選手の求心力になっていたかどうかは疑問符がつけられる事になります。選手は統制により球団やチームには忠誠心を誓ったでしょうが、森本人に対してはゲシュタポと選手に陰口を叩かれたように、敬慕の対象と言うより、近づきがたい恐怖の対象のように位置づけられた節があります。

つまりチームが危機に陥ったとき、監督が結束の要になって盛り上がる事が難しい体制であったとも言い換えられます。この年の序盤の西武は森野球の弱点を露呈したとも言えます。連覇を続けていた事による勝利への慣れ、戦力補強による高い前評判への油断、昨年苦しめられた精神的疲労によるモチベーションの低下。3つの要因を仰木のような巧妙な人心掌握術で素早く修正できなかったのが、最大11.0ゲームもの差をオリックスにつけられたシーズン前半の展開であったと言えます。

オリックスのリリーフ陣が手薄としましたが、それでも山内嘉弘が4勝1敗12Sとストッパーとして働いた形跡があります。ところが西武となると石井丈裕4勝4敗3S、西本和人4勝2敗1S、山根和夫6勝4敗1Sあたりが救援陣として働いたと考えられますが、それにしても「こんなもの」と首を傾げるほどの成績です。他の投手にはセーブ記録すらなく、西武はこの年69勝をあげていますが、そのかなりの部分は先発完投であったとしか思えません。質量とも充実していた西武投手陣では投手リレーすら必ずしも必要でなかったでしょうか。


先にも書きましたが、ストッパーという役割は当時でもあり、この年も近鉄吉井理人は5勝5敗20Sですし、4位のダイエーには井上祐二が6勝2敗21S、5位の日本ハムには佐藤誠一が6勝11敗11S、最下位ロッテでも伊良部秀輝が0勝9敗9Sといるのに較べても特異な印象を受けてしまいます。西武の野球にストッパーが存在しなかった訳ではなく、1986年には郭泰源が5勝7敗16Sと活躍した時期もあったのですが、近鉄と優勝を激しく争った1988年、1989年には有力なストッパーがいなかった事がいかにも不思議です。


西武は1989年の後、1990年から1994年まで5連覇を成し遂げるのですが、この時には鹿取義隆潮崎哲也の2枚ストッパーが確立しているところを見ると、1988年、1989年の2年間は王者西武にして有力なストッパーの人材を欠き、それがシーズンで苦戦する遠因になったとも考えられます。

そして仰木近鉄

この年は去年あれだけの大躍進を遂げたのですから、悲願の王座奪還のために大型補強かと思いきや、シブチン近鉄の本領発揮で、ほとんど戦力的には変わり無しといったところです。オグリビーの代わりにリベラが新外国人として入り、投手陣は昨年とほぼ同じメンバー。まるで「仰木監督、後はマジックでよろしく」と言わんばかりの補強です。

近鉄もまた昨年の死闘が精神的に応えていた節はあります。考え方によっては西武以上で、もともと戦力的に劣るチームが、逃げる西武を何回も叩かれながらも必死の思いで巻き返し、130試合目でついに優勝を手にしたと思った瞬間「スルリ」と逃げてしまった徒労感は相当なものだったと思います。一方でシーズン前には昨年の躍進から慣れない「優勝候補」の文字が躍り、今年も西武との2強対決などと予想されたりすると、徒労感の上に「なんとかなりそう」ぐらいの妙な安心感も加わり、開幕序盤は浮ついた空回り状態であった事も十分想像されます。こればかりは仰木をもってしても如何ともし難かったかもしれません。

近鉄もまた上田オリックスの勢いの前に開幕序盤は蹴散らされ、早くも「去年はフロック」みたいな声が散見されるようになってしまいます。森西武も立て直しに苦悩していましたが、仰木をもってしてもチームの沈滞ムードを建て直すのは容易ではなかったようです。近鉄の戦力は贔屓目に見ても西武にはかなり劣り、オリックスとはチョボチョボ程度です。そんな近鉄が優勝争いをするためにはひたすらチームを「勢い」に乗せることが必須の要件なんです。

とくに近鉄のチームカラーは仰木以後ひとつの色がはっきりと現れ、勢いづくと手がつけられないぐらいの爆発力で勝ち進みますが、勢いに乗り損なうと果てしなく泥沼に沈む、まるでジキルとハイドみたいな面を見せる事になります。つまり監督には強烈な求心力が要求され、選手が監督に心酔しきり、トランス状態になる時に神がかり的な実力を発揮し、その神通力が失われた時、またはその能力の無い者が率いた時には実力以下のチームになると言う事です。

仰木をもってしても10.19で燃焼しつくしていた選手たちにもう一度神通力を揮うには3ヶ月を必要としました。

仰木野球は攻撃の時の用兵はたしかに巧みで「魔術師」とか「マジック」と敬称されましたが、投手起用は必ずしも全幅の評価を得ていると思いません。投手起用なんて攻撃に較べると奇策を駆使する余地は少ないのですが、エースやストッパーを酷使する傾向が濃厚にあったようです。その酷使ぶりは近鉄オリックスの投手コーチであった権藤博山田久志との対立を呼び退団騒動まで引き起こしています。後に先発投手として再生した吉井はともかく、吉井の後の守護神として活躍した赤堀元之は6年間で燃え尽き、オリックスに優勝をもたらした平井正史は実働2年で沈んでいます。


ここまで仰木が投手を酷使した影響はまず三原の影響が大きいかと考えます。三原は西鉄時代には「鉄腕」とまで称された稲尾和久を極限まで酷使して西鉄黄金時代を築き、大洋時代にも秋山登を酷使して大洋に初優勝をもたらしています。仰木は優勝のためには、投手には泣いてもらわなければならないという思想があったのではないかと考えます。これは仰木のもう一人の師匠である西本には無く、西本流の投手起用は決して投手に無理をかけず、西本采配下の投手は丈夫で長持ちが特徴となっています。


それでも仰木を弁護すれば、仰木に与えられたチームには間違っても巨大戦力は無く、巨大戦力を整備しようと言う発想もまたありませんでした。近鉄然り、オリックス然りで、ドラフトと2流助っ人以外の補強は基本的に望んでも無理でした。一方で常に仰木の前に立ち塞がった西武は王者の名の通り、常にライバルたちを圧倒する戦力を整える事に親会社上げて奔走しています。戦力的に遥かに勝る西武と覇を競うためには、どうしてもスーパーエース、スーパーストッパーに頼らざるを得なかったかと考えます。


さらに仰木に与えられた時間も必ずしも十分であったかと言われれば、常に即時の結果を求められる状態であったといえます。仰木のもう一人の師匠である西本は確かに大監督でしたが、チームの育成には4年、5年という長年月を必要とします。阪急時代なんてあそこまで阪急球団が我慢できたかと思うぐらいの成績低迷時代があり、近鉄でも後期優勝を就任2年目でしたのと阪急時代の赫々たる実績があったので近鉄球団は待てましたが、無名の仰木にはごく短期で結果を出さないと常に解任の危険性があり、そのため三原流の投手起用で成績を残しながら、西本流の選手育成を同時進行をする必要があったと考えます。


仰木にしても自らの手で西本のように選手を育成し、分厚い戦力を自前で作り上げて覇を競いたかったかもしれませんが、仰木にはそんな時間が与えられる事はついになかったと言えます。

波乱万丈のシーズン展開

仰木近鉄は7月には入ると別人のような猛進撃を見せる事になります。6月までのもたつきが嘘のような14勝6敗。一方でベテラン中心の上田オリックスは夏場に差しかかり、疲労からか開幕からの快進撃に翳りが差し始め、ついに首位の座を近鉄に明け渡す事になります。このまま近鉄が独走態勢を築くかと思われるほどの勢いでしたが、8月に入ると上田オリックスもしぶとく食らいつき、優勝争いは昨年同様一進一退の争いとなります。

上田オリックスも仰木近鉄も相手を振り切るほどの勢いは無く、抜け出せないままもたついている間に、ついに大本命森西武が凄まじい勢いで猛追してくる事になります。森も時間はかかりましたが、ようやくチームを立て直し、いったん立て直り投打の歯車が合い始めると、もともと戦力は12球団随一ですから、怒濤の如く逃げる上田オリックス、仰木近鉄をとらえ、9月にはついに最大で11.0ゲーム差があった首位の座を占める事になります。

ここからはこのシーズンのおもしろさなんですが、追いついた西武もまたそこから突き放す事が出来ず、西武、近鉄オリックスの3強は団子状態のままシーズンの最終盤まで優勝争いを繰り広げる事になります。ここで特筆したいのは上田オリックスで、6月までの開幕ダッシュの貯金をすり減らしながらも、疲労が見える主力を率い、仰木近鉄、森西武の急追にも最後まで離れず食らいついた事がこのシーズンの興味をより深いものにしたとも言え、上田が真の意味での名将であった証明であるとも考えます。

実に10月9日時点でも3強団子状態はほぐれることなく続きます。この時点の勝敗表は下記の通りです。


順位 試合数 勝率 残り試合
西武 126 68 50 8 .576 - 4
オリックス 125 69 53 3 .566 1.0 5
近鉄 125 67 53 5 .558 2.0 5

2位のオリックスは勝ち数で上回っていますが、負け数が西武より3つ多いのが不利な点です。しかしこの時点で他の2強である西武、近鉄との試合が終了しており、残り試合がこの年も最下位であったロッテとの対戦が4試合も残っているので、しぶとく勝ち星を積み上げればまだまだ優勝のチャンスは十分残っています。首位の西武は最後に勝率勝負となれば、引き分け数が多いのでその点は有利です。ところが残り4試合がすべて3位との近鉄戦であり、ここで星の潰し合いをすれば、オリックスに漁夫の利をさらわれる心配があります。

近鉄は悲愴です。首位西武とは2ゲーム差とはいえ、残り試合はたったの5試合。また西武を叩いても2位のオリックスが残り試合を全部勝ってしまったら追いつけません。10月9日時点では近鉄は自力ではオリックスを上回る事は出来ないのです。唯一の救いは首位西武と4試合も残している事で、近鉄に出来ることは首位の西武を自力で叩き落し、オリックスの取りこぼしを願うしかない状態でした。

それぞれの思惑を込めた日程は10月10日から西武-近鉄の3連戦、オリックスは裏でロッテとの4連戦を戦う事になります。ここでもし西武が敗れ、オリックスが勝つようなことがあれば、オリックスにマジック4が点灯するようなギリギリの展開となります。ところが運命の3連戦の初戦は近鉄が勝ちオリックスが敗れたため、消滅していた近鉄自力優勝のチャンスが芽生える事になります。勢いを持ち込みたい近鉄でしたが翌10月11日は雨天中止、日本シリーズを控え日程に余裕の無いパ・リーグでは10月12日にダブルヘッダーを組む事になりました。

地力優勝の可能性が出てきたといっても近鉄がさほど有利になったわけではありません。近鉄に求められるものは首位の王者西武をダブルヘッダーで連破する事です。1勝1敗の5分なら優勝戦線から脱落してしまう可能性が大であるからです。昨年のダブルヘッダーも条件は厳しかったですが、この年の近鉄に架せられたダブルヘッダーの条件は昨年以上に厳しいものがありました。

神は再び降臨した

この試合間違いなくブライアントに野球の神は降臨していた。

10月12日のダブルヘッダーの幕が開きます。第1試合の近鉄の先発は加藤哲、西武は郭泰源。加藤哲は序盤から打ち込まれ2回を終わって西武4-0近鉄。4回にブライアントが本塁打を放ち1点を返すものの、西武もまた1点を追加する重苦しい展開で、5回まで2安打と好調の郭泰源がこのまま完投かとも思わせる展開となります。

近鉄がようやく反撃のチャンスをつかんだのは6回。安打と四球で無死満塁、迎えるバッターは主砲ブライアント。前の打席でも本塁打を打っているので、大いに期待したいところですが、ブライアントの打撃は当たれば大きいが一面猛烈に粗いところがあり、この年49本で本塁打王を獲得する一方で、三振も従来の記録である158三振を大きく塗り替える187三振を記録しています。そのスイングはたしかに猛烈で、昔「巨人の星」に出ていた中日のオズマを思い起こさせるものがあります。しかしオズマとは違い「当たらない事」も多く、近鉄ファンはブライアントのバットに郭泰源の投球が「衝突」してくれることをひたすら願いました。

期待と緊張を込めた1球目、いきなり振りぬかれたブライアントのバットは、ものの見事に郭泰源の投球に激突、打球は壊れたかと思うぐらいに叩かれて、一直線にライトスタンドに消えていく事になります。同点満塁ホームラン。あまりの凄まじさに所沢球場に集まった観客は一瞬何が起こったかわからなくなり、続いてスタンドが割れそうなぐらいの大歓声に包まれ、球場全体が一挙に異様な雰囲気に包まれる事になります。

5-5の同点で迎えた8回、近鉄のバッターボックスにはまたもやブライアント。なんとか最低でも同点引き分けに持ち込みたい西武は、ここまでブライアントに打ち込まれている郭泰源をあきらめ、渡辺久をリリーフに送り込みます。渡辺久はこの年15勝11敗、防御率3.41とエース格の働きをしていましたが、10月10日に先発しており、中1日の登板がやや不安視されましたが、森はその無理を承知で渡辺久に賭けたと言えます。それよりもその前の打席のブライアントの本塁打により、変わってしまった試合の流れをなんとしてもせき止めようとした、森の焦りが出たためかもしれませんし、冷静でもって鳴る森が試合の異様な雰囲気に飲み込まれたのかもしれません。

近鉄ファンの旧友から、渡辺久投入の背景について「ブライアントはこの年、渡辺久を天敵のように苦手としており、この交代を聞いて『森のタヌキめ』と呪詛した」と説明がありました。この説明で渡辺久投入の理由が分かったのですが、それでも疑問が残ります。


この時の西武としては引き分けで十分だったのです。近鉄にすれば引き分けであるだけで優勝の可能性が遠のく事になり、西武は優勝に近づく事になります。この試合で打ちまくっていたのはブライアントひとりであり、ブライアントさえなんとかすれば引き分けないしは勝利の可能性がでてきます。だから渡辺久だと言う事になりますが、もう一つ「敬遠」という選択枝があります。


冷血とまで言われた「ゲシュタポ」森ですから、あっても不思議の無い選択です。西武の先代監督の広岡なら取りそうな戦術ですし、広岡が模範とした川上野球でもやりそうな戦法です。しかし森は選択しなかったのです。これは当時を知る者で無いとわかり難いのですが、セ・リーグはともかくパ・リーグでは力勝負を行うことが美学とされていたのです。逃げて勝つのではなく、正面から戦って勝つのが野球であるとの美学です。


森の頭の中にどれぐらい「敬遠」の二文字があったかはわかりませんが、「冷血」「ゲシュタポ」の森でさえ真っ向勝負を選択するのが当時のパ・リーグ野球であり、その中で選ばれたのが渡辺久投入であったと考えます。

渡辺久-伊東のバッテリーは慎重に攻めます。2ストライク1ボールと追い込んだ後、内角高めに渾身の速球を投げ込みます。これはここで勝負に行ったというより、吊り球であり、振ってくれれば三振、手を出さなければ見せ球として、最後は外角低目や内角低めの落ちる珠あたりで勝負する計算であったと伝えられます。球速もコースも申し分なかったと捕手の伊東は後に証言しています。投げた渡辺久もブライアントのバットが反応しかけた瞬間「三振」と確信したそうです。

西武バッテリーの計算し尽くされた精緻な配球ではありましたが、ブライアントのバットはそんなものを物ともせずに渡辺久の投球を打ち砕きます。打球はライトスタンドに文字通り突き刺さります。3打席連続の文句なしの特大ホームラン。第1試合は西武5-6近鉄の逆転勝ちとなりましたが、近鉄の全打点を叩き出したのがブライアントの3打席連続ホームランだったのです。

第2試合も2-2の同点で迎えた3回、またもやブライアントのバットが炸裂し、この日4本目の本塁打。ブライアント一人に打ちのめされた西武にチームを立て直す余裕は無く、後は近鉄打線が大爆発、14-4の圧勝で不可能と思われたダブルヘッダー連勝、土壇場の西武3連戦を3連勝で飾る事になります。それにしてもこの時のブライアントのバッティングは、昨年の1019で野球の神が降臨しながら、勝利の女神に嫌われたのとは対照的に、野球の神も勝利の女神も独り占めして微笑まれたかのようです。

オリックスも最後の意地をみせ、ロッテ戦とのダブルヘッダーに連勝したもののここで力尽き、翌日のロッテ戦に敗退。マジックを1とした近鉄は129試合目のダイエー戦に勝ち、2年越しの激戦となったパ・リーグを遂に制する事になります。それでもシーズン終了時、優勝した近鉄と2位オリックスとはゲーム差なし、3位西武ともわずか0.5ゲームであった事を思うと、いかに凄まじいシーズンであったかがよくわかります。

仰木彬上田利治、森祗昌といういずれも球史の残る名監督が、持てる戦力を振り絞り、知謀の限りを尽くしたシーズンの最後を飾ったのが、ブライアントの3連発。昨年の10.19と合わせて、近鉄ファンのみならずプロ野球ファンの心の中に伝説を越えて神話として今も息づいている事だけは間違いありません。

エピローグ

1988年、1989年の激闘を戦い抜いた3人の名将のその後ですが、西武の森はその後1994年まで西武の指揮を取り、そのすべてを優勝し5連覇の金字塔を打ち立てる事になります。ところが勝ち続けた西武の人気は徐々に下降線をたどり、1994年の日本シリーズで巨人に敗れると勇退させられています。
西武在任9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝くと言う実績の割には西武球団は森には冷淡で、1989年3位に終わった時の報告ではオーナーの堤義明から「やりたければ、やれば」だったと伝えられますし、1994年退任の時もアッサリ「さよなら」です。この頃からオーナーの堤義明は球団経営に熱意を失っていたのかもしれません。

そんな森にリベンジのチャンスが巡ってきました。横浜からのオファーです。横浜は1998年に優勝後、成績は下降気味で、当時の監督権藤が自由放任主義で選手を管理していたのを問題視した横浜球団は、森の管理野球で黄金時代到来を夢見たのです。2001年から横浜の指揮を取った森でしたが、その年こそ3位になりましたが、翌2002年には49勝86敗5分、勝率.363の惨憺たる成績となり解任されています。西武時代はあれだけ成功した管理野球でしたが、横浜ではまったく受け入れられなかったのです。この辺はヤクルト、西武に管理野球を導入成功させた広岡より手腕が劣るのか、時代が既に管理野球を受け入れなくなったのかは難しいところですが、栄光に満ちた森の監督評価の大きな失点となったのだけは間違いありません。

ブレーブスの意地を最後に見せた上田利治ですが、1990年で実に17年間勤めたブレーブスを退団。勇退となっていますが、非阪急化の方針の球団姿勢の産物であったろう事は想像に難くありません。上田も1995年に日本ハム監督に招請されています。1996年には圧倒的な勢いで独走し、優勝は間違いないと言われましたが、家族の事情で突然の休養、その後失速し、優勝を逃し、選手の信頼を失った上田は以後思うような成績が上げられず、1999年5位に終わると勇退を余儀なくされています。

上田の野球の師匠は言うまでもなく西本ですが、西本に比べはるかに陽性な面がありました。用兵も西本流の頑固一徹采配ではなく、意表をつく采配をしばしば行い、上田節と呼ばれた「エエデ、エエデ」で選手を乗せていく巧みさを持っていました。その辺が阪急で黄金時代を築かせた要因であったと考えますが、上田の情熱はやはりブレーブス時代に燃え尽きたのではなかったでしょうか。1996年の突然の休養の事情はわかりませんが、かつての上田であれば何があっても考えられない事だからです。

そして仰木です。近鉄はその後、超大物新人である野茂英雄を獲得し、ストッパーにも赤堀が台頭しましたが、ついに西武を脅かす事は出来ませんでした。それぐらいその後の西武には圧倒的な戦力があったと言う事です。1991年には77勝48敗5分、勝率.616でも西武と4.5ゲーム差、1992年にも74勝50敗6分、勝率.597でもやはり西武と4.5ゲーム差と、どう歯噛みしても、とても追いつけるような戦力差では無く、ついに覇権奪回は果たせずこの年仰木は近鉄を去ります。

仰木も1994年にオリックスからオファーが来ます。当時のオリックスは上田の後を継いだ土井正三が阪急カラーをぶっ壊し、ついでにチームもぶっ壊した後での再建を託されての監督就任です。オリックスで仰木はその名将の名を不滅にした大抜擢を行ないます。イチローの登用です。あの阪神大震災の年、打ちまくるイチローに引っ張られるようにオリックスは大躍進を遂げ、王者西武の6連覇を阻み優勝を飾る事になります。翌1996年もオリックスは連覇を飾り、今に伝えられる「仰木マジック」「魔術師仰木」の評価を残し、2001年オリックスを去ります。

2005年、70歳になった仰木に再びオリックスからオファーが来ます。オリックスはこの年近鉄と合併しましたが、内情はガタガタで、オリックス内にめぼしい選手が払底しただけではなく、合併で当てにしていた近鉄の主力選手たちも、エース岩隈、選手会長磯辺は楽天に去り、主砲中村紀はメジャーに、ローズも巨人に移籍し、正直なところオリックスにあったのは、残りかすの選手と、旧球団間の選手のわだかまりだけと言っても良かったかと思います。

70歳になり健康に不安(このとき肺がんを患っていた)を抱えていた仰木にオファーが来たのは、かつて両球団を率い優勝させ、なおかつ選手間に声望が保たれていたからです。仰木は何を思っていたのでしょうか、自分しか適任者がいないという使命感もあったでしょうが、それより師匠である三原脩近鉄を率いた時の事を思い出していたように思われてなりません。「師匠もあれだけやった、果たして俺はどれだけやれるだろうか」と。

さすがにいきなり優勝は無理としても、2004年からパ・リーグにはパラマス式のプレイオフが導入されています。なんとか3位に潜り込めば、プレイオフの舞台に選手を送り込むことが出来る。プレイオフまで行けば短期決戦ですから何が起こるかわからないと考えていたようでしたし、周囲にも漏らしていたようです。最後の「仰木マジック」が展開されます。しかしシーズンはダイエー、ロッテの2強が他を引き離し、3位の座を争ったのはは前年度優勝チームである宿敵西武です。肺がんは確実に仰木の体を蝕み、シーズン終盤にはダッグアウトの階段の昇り降りさえ支障をきたす事になったと言われています。

死力を振り絞っての采配でしたが、またもや西武に阻まれてプレイオフ進出は叶わぬ夢となってしまいます。仰木は思ったに違いありません「あと2年、いやあと1年でもいいから時間が欲しい」と。後1年あれば現有戦力は数段レベルアップできるだろうし、トレードで大型補強も不可能ではありません。構想自体は仰木の頭の中にはあったにちがいありません。清原や中村紀の移籍も「俺なら使いこなせる」の自信以外の何者でもなかったはずです。「もう一度優勝を」の執念の炎は最後までメラメラと燃え盛っていましたが、悔しいかな命の方が先に燃え尽きてしまいました。享年70歳、死の床にあった仰木は最後に何を思ったのでしょうか。