ツーリング日和12(第31話)サイコパス

「風香を説明するのやったらサイコパスやろ」

 サイコパスは一般に自分以外の人間に対する愛情とか思いやりがない人を指すで良いと思う。だから自己中心的になるのだけど、それでは周囲に被害が及ぶじゃない。だけどサイコパスはそうなっても気にならないぐらいだ。

「良心の欠如って説明されるけど、そもそものサイコパスって良心だけ欠如するもんか?」

 精神科はあまり得意じゃないのだけど、サイコパスのそもそもの定義は感情の一部の欠落で良かったはず。良心の欠如ってされるのは、それが社会的に害悪になるから病的として認知されてるぐらいのはずなんだ。

「コトリの思うサイコパスもそんな感じやねん。どの感情が欠けても本来はサイコパスでエエはずやねん」

 そのタイプのサイコパスは居る気がする。たとえば怒りの感情が極度に乏しい者。乏しいぐらいなら善人だけど、極地まで行ってしまうと聖人として扱われてしまってるとか。

「信じられんぐらい慈悲深いのもある種のサイコパスやと思うねん」

 病的なサイコパスの対極の人物ね。これは社会でも害にならないから病気として扱われようがないぐらい。そういう意味では、

「楽天家も心配という感情が欠如してるのかもしれん。ああいう連中は後悔は母親のお腹の中に置き忘れてるんやないかと思うぐらいや」

 いるよね。苦しい状況に陥った時に、人はどうしたって後ろ向きになるし、後悔に苛なまされる。そこから立ち直るのにあれこれ努力を重ねるものだけど、びっくりするぐらい前向きなのは実在する。

 苦しい状況で前向きになれるのは良い事なんだけど、傍から見てると、正直な感想として、ちょっとは悩んで苦しめよと思うぐらいだもの。これだって、社会の害にはならないけど、

「そうでもないで、失敗を教訓と出来へんとこまで行ってるやつは、同じ失敗を何度も繰り返すのもおるやんか」

 あれはウンザリさせられるものね。それだったら、

「そうちゃうかな。浪費癖は自制心の欠如やろ」

 生活って収入の範囲内で暮らすもの。だから自分の収入の範囲を超える物はいくら欲しくても我慢するか、それこそ買うための貯金をするかな。

「ローンを組むのもありやけど、あれかって収入の範囲内の話や。ローンを使うメリットは、先に手に入れられところにある」

 家なんかそうよね。これを貯金で買おうなんて思うと、それこそ手に入るのは二十年も三十年も先になってしまう。だから金利を払っても、先に手に入れるのにメリットを見出すぐらいになる。

 ここでだけど、何かが欲しくなるのは何の問題もない。それがたとえ趣味の物でも、価値観は人によって違う。もちろん、買うために貯金に励むのも構わない。

「欲しいものを買ってしまって、その月なりの生活でピーピー言うぐらいもセーフやろ」

 そこまで行ったら微妙だよ。収支の上ではセーフかもしれないけど、実際の暮らしにストックなしはキツイもの。これも独身だったらまだしもと言うか自業自得の範囲ぐらいだけど、

「そやからギリギリやけどセーフや」

 殆どアウトに近いけどね。でも本当のアウトはこんなレベルじゃない。収入なんて端から無視してカードを使いまくり、

「リボ払いぐらいじゃ追いつきようもなく、消費者金融から闇金まで突っ走る」

 ある種の生活破綻者よね。実際に生活は破綻してるのだけど、そうなっても浪費癖は止まらない。欲しいと言う欲望を留める自制心が欠如しているし、多額の膨れ上がる借金にも無頓着のサイコパスと言っても良いと思う。

 ギャンブルで身を持ち崩すのも同類なのかもしれない。ギャンブルが好きなだけで色眼鏡で見られるのはともかく、負けても負けても、借金してもひたすら注ぎ込むも自制心の欠如として良いと思う。

 人ってね、どこかにセーフティネットと言うか保身感覚を持っていると思うのよ。破滅に至らない最後の防波堤として良いと思う。これがなんらかの理由で欠如しているのが病的なサイコパスとして良いかもしれない。

「そりゃ、全部を満遍なくつうか、ふんだんに持ち合わせとるのは少ないし、大きい、小さいの差はあるけど、欠如となると周囲にとっては迷惑でしかあらへんからな」

 もちろんコトリのサイコパスの考え方は、精神医学としては大雑把すぎるところはある。実際の診断と分類は、

「それは置いとかせてくれ」

 でも考え方としては面白いと言うか使いやすいところはあるのはある。風香の性格はサイコパスで説明できる部分はあるからね。とりあえず恐怖心がないよあれ。鬼舞スカイラインで半グレに襲われた時にどこ吹く風って顔をしてたもの。

「そやねん。それかって、コトリらが女神がやから安心しとったと解釈できんこともあらへんけど、金縛りにした半グレどもをまるでオブジェみたいに見とったやんか」

 あんなことが目の前に起こったら、普通は驚くなんてもんじゃないはずなんだ。なのに平然と展望所から展望台に歩いて行ったし、展望所に戻って来ても、

「一緒にお手洗いに行ったやんか」

 そこから尿道へのカテーテル挿入の話を金縛りで身動きできない半グレどもの前でペチャクチャ話していたんだよ。あれは度胸の一言で済ませられるようなものじゃないと思う。どこか心の持ちようが違い過ぎてる。

「何かが欠けてるで」

 かもしれないけど、あれは欠けてるのじゃないのかもしれない。

「どういうこっちゃ」

 風香はたしかに動揺していないように見えたけど、やっぱりしてたよ。コトリには見えなかったの。指がかすかに震えてたじゃない。風香だって怖かったんだよ。でもそれを抑え込んでしまっていたと思う。

「震えた言うても一瞬やんか」

 風香は怖いと言う感情が間違いなく生じてた。だから指の震えに出たけど、その直後にあの場でどう演じるかに切り替わったはずなんだ。そのまま恐怖に打ち震え、泣く選択もあったはずだけど、共演者であるわたしやコトリの様子を見て場に相応しくないの判断をしたと思う。

 この場に求められるのは、まるで何事もなかったかのようにするのがベターと見たはず。ならば感じている恐怖を心の底に封じ込め、平然とツーリングを進める演技を行ったんだ。そうだね、あの金縛りをサスペンスではなく、コメディにするのが良いとしたぐらい。

「それって後からガクガクするってパターンか?」

 それも違うと思う。風香が演技に入ると心の底からそう感じ、そう思い込めるのだと見てる。本当は恐怖体験であるはずなのに、風香がコメディにすると判断した瞬間に、それは楽しい思い出になってしまうはずなんだ。

「多重人格みたいなものか」

 それも違う。風香の人格はあくまでも一つだ。もしコトリが多重人格に見えたのなら、風香が多重人格者の演技をしたからに過ぎないよ。風香はね、その場に必要なら、サイコパスだって、メンヘラだって、純情乙女だってなれるってこと。

 それだって本来は演技のはずだけど、演技が始まると心の底からそう思い込めるはずなんだ。人はそう思い込めばそう信じ込める精神構造があるんだよ。これも人の持つ防御機構の一つだからね。

「それって逃避か」

 それが近いかもしれない。メンタルに深刻なストレスを受け、それが精神を壊しそうになると逃避を起こそうとする。ポピュラーなのは忘却で、辛い経験を忘れてしまうだ。他だったら、耐え切れない辛い経験を書き換えてしまったりもある。

 これは気が狂っているわけでもないし、精神疾患でもない。人間の精神が持つ正常の反応の一つになる。もっとも誰しも常に作動するものじゃないから、現実にはまともに受けて精神が崩壊してしまう者は多いけどね。

「風香はどうなってるんよ」

 逃避も含む精神防御メカニズムは本来は自分でコントロール出来るものじゃない。だけど風香はそれを自由自在に操ってるはずだ。そんなことが出来るのは生まれつきのはずだけど、これをさらに研ぎ澄ましたのは女優になったからだ。

 風香の女優としての成長はまさに驚異的なんだよ。コトリも半分ぐらい忘れてるけど、デビュー作であるあのアイドル映画でも序盤は大根なんだよ。それが撮影が進むにつれて見る見る上手くなっている。あの才能を見出し開花させたのは、

「そっか、あれは親王寺監督じゃ無理や。可能性があるのなら滝川監督や」

 わたしもそう思う。それだけじゃなく、風香の才能は滝川監督の才能さえ開花させたと思ってる。そんな二人のつながりは、恋人とか愛人みたいな陳腐な枠内におさまるようなものじゃない気がする。

「それでも・・・」

 そこはわからないよ。平凡なら二人はそのまま結婚するのもありだったとは思うけど、そうせずに風香はハリウッドに挑戦したし、日本に帰った後も安土と結婚してる。そうしたのは合理的には説明出来ないけど、一つだけヒントがある。それは、

『普通の結婚がしたかった』

 これは風香の精神コントロールが限界に達していたと考えてる。風香の精神コントロールは無意識でなく、意識的にやっている。意識的なコントロールにはかなりのパワーが必要だったか、それとも、

「怖い話やけど、自分を見失いそうになっとったとか」

 あると思っている。本当は何を自分が感じているかわからなくなってしまっていたのかもしれない。そういう状態がさらに進行すれば、それこそ精神が破綻してしまう兆候を感じていた気がする。

 ハリウッドだけど、風香には結構な数のオファーが来てたんだよ。そりゃ、オスカー女優だもの。だけど風香はどれも受けていない。あれは気に入らなかったのじゃなくて、受けられなかったと見てる。

「だから日本に・・・」

 そのはずよ。アメリカにいても回復しそうにないと見切りを付けたはず。再起をかけてあの日をもう一度を撮ったけど、あそこであきらめたんだろうね。