ツーリング日和12(第26話)魔性の女

 岩井温泉からひたすら国道九号を走って福知山に。ここまで来れば勝手知ったる道で、篠山から三田、さらに北神戸有料道路から六甲山トンネルだ。

「このトンネル抜けたら神戸に帰ったって気になるもんな」

 神戸の海が見えて来るのと、空気が変わるのよね。これも感覚的なものもあるけど、六甲山の北と南で温度が明らかに違う。温度で言えば六甲山トンネルを出た時と、ここから下って市街地に入ってもまた違うんだけどね。

 トンネルを抜けたら表六甲を下って国道二号を走り、岩屋の陸橋を潜ってHATの道に。そこから港島トンネルを抜けてポーアイ。見慣れ過ぎたクレイエールビル地下駐車場にバイクを置いて、エレベーターで三十階の我が家だ。

 お風呂に入って汗を流し、部屋着になって、まったりしていたらミサキちゃんとシノブちゃんがやって来た。

「お土産ありがとうございます」

 留守中の報告も聞いたけど、たいした事もなく平穏だった。なにも無しってわけじゃないけど、この程度の事は二人にとって日常業務に過ぎないもの。業務連絡が終わってからシノブちゃんが申し訳なさそうに、

「三田村風香については謎が多すぎて申し訳ありません」

 あれはわからないと思うよ。よく何を考えてるかわからない人って言うけど、風香はそれの究極型みたいなものだもの。シノブちゃんが集められる情報はテキスト化されたものと、せいぜい伝聞系まで。

 これは責めてるのじゃないよ。それ以上をそもそもどうやって調べるかになるもの。それに風香相手になると、三人から聞けばまったく違う三田村風香像になっていても不思議無い。

「そうやと思う。ある人は聖母を語り、ある人はどこにでもいるおばちゃんを語り、ある人は娼婦を語っても不思議とは思えん」

 実際に会い、マスツーやって、三夜も語り合ったけど、あの時に見ていた風香が本当の風香の実像かと言われるとわたしでも自信が無いぐらい。

「いわゆる魔性の女で良いでしょうか」

 どうだろう。魔性の女の定義と言うか、イメージは男と女でもだいぶ違うけど、だいたい共通してるのは男を手玉に取る点かな。女だって男を手玉に取れるのは多いけど、魔性の女とされるのは、魅力とか、雰囲気で男を虜にするもので、

「手腕とか才能でブイブイ言うのと別にしてるやろ」

 そのはず。優れた女性経営者は、男の部下や男の交渉相手を手玉に取ってると言えるけど、あれを魔性の女とは呼ばないものね。男性と同様に剛腕とか、辣腕と呼ばれるだけだものね。あくまでもイメージだけど陽性のカラッとしたものじゃく、

「淫靡なイメージがあるわ。そやな、男を手玉に取ると言うより虜にした上で、男をエエように利用して破滅させるぐらいかもな」

 ターゲットにされた男が必ず破滅する訳じゃないけど、男から見ると関わったばかりに後悔させられるタイプぐらいは言えるかも。

「それもちゃうんちゃうか。後悔するのは虜にされた男の周囲の人間で、虜にされた男は後悔する気持ちさえ奪われてまうんやないやろか」

 そこまでの魔性の女はさすがにあんまり見たことがないけど、

「それって、コトリ社長とか、ユッキー副社長の事ですか?」

 どうしてわたしが魔性の女なのよ。コトリならともかく、

「自分だけ逃げてどうするんや。女神に魔性なんてあらへんわ」

 そしたらミサキちゃんとシノブちゃんが、

「魔性の女を手玉に取るのが首座と次座の女神ですものね」

 あのね。あなたたちも女神なのよ。

「一緒にしないで下さい」

 あんたらねぇ。ボーナス無しにするよ。

「女神の事は置いとくけど、女神が相手にしても底が見えへんかったのは言えるやろ」

 そうだった。この首座と次座の女神が二人がかりでも、

「二人がかりやあらへんかったやろ。次座の女神はツーリング中でも必要があったら知恵の女神になれるけど、首座の女神のツーリング中は単なる温泉小娘に過ぎん」

 そんなこと言うけど遊びに行ってるんだから、

「そうやねんけど、呆け過ぎやろ」

 呆けは酷いよ。なにがあっても知恵の女神が対応してくれるから、ノンビリしてるだけじゃない。二人がかりでマジになって対応しないといけないようなトラブルに遠いじゃないの。あれはね、コトリを深く、深~く信頼している成果なのよ。

「あのな、上手いこと言うたつもりかもしれんが、面倒事はコトリに丸投げして遊んでるだけってことやろが」

 そうとも言えるかも。

「そうとも言えるやないやろ。わざと手を抜いてコトリが動くように仕向けてるだけやんか」

 そう言うけど、コトリはこの手のトラブルが大好きじゃない。世の中には得手不得手があるから適材適所に割り振ってあげてるだけ。

「好きなもんか。コトリは平和と平穏を愛する女や」

 へいへい、本業になると手抜きのための策略を巡らしまくるのはどこのどいつだ、

「あれはユッキーがこの程度の仕事にガチ過ぎるからや」

 なにを。やる気なの。

「五千年来の決着付けたるで」

 そこにミサキちゃんが、

「どうぞご勝手に。ミサキとシノブ専務は巻き添えを喰いたくありませんから退散させて頂きます。その代わり、この仮眠室の建て替えの許可は出しませんし、一年間はタダ働きを楽しんでください」

 ギャフン。ちょっとじゃれてただけじゃない。

「そうやで」

 でも風香を魔性の女と見る視点は面白い気がする。成功している女優って魔性の度合いが強い連中と出来そうじゃない。

「それ聞いたことあるわ。葬式でも自分が本当に悲しいのか、悲しいふりの演技をしとるのか、わからんようになっとるって話があったもんな」

 親しい人物の葬式だから悲しいのは悲しいはずだけど、葬儀場に着いて悲しいと言う感情が湧きおこるとともに、悲しい時にはどういう演技をすべきかに自然に入ってしまうとか。そりゃ、涙ぐらい自由に自在に出せるのが女優だもの。

 親しい人の葬式だから、最大級の悲しみを演じようになってしまい、実際もそう出来てしまうのだけど、女優の演技は感情の発露だけじゃない。悲しみを爆発させながら、心の底で醒めた部分を持ち演技をコントロールしてるらしいのよね。

「そんな話やった。この場面ではこれぐらいの演技、インタビューがあればこうやってみたいに状態になってもて、醒めた心の部分で、これって本当に悲しんでいるのか、悲しみの演技をやってるのかの境がわからんようになることがあるらしい」

 もちろん女優のすべてがそうじゃないけど、逆に言えばそこまでなっている女優の方が大女優になっているのが多い気がする。

「ポイントはそういう感情表出が普段でもシームレスに出来るこっちゃろな。どこかで素の悲しみがあっても、そこから演技の悲しみに入ってまうし、演技の悲しみの間にも素が微妙に入り混じると言うか、入り混じるのも無意識にコントロール出来てまうのやろ」

 風香を見ているとそんな気がする。あまりにシームレスに移行するから観客として見てると、それが全部本物の感情の吐露に見えてしまうのだと思う。言うまでも無いけど、これは悲しみだけでなく、あらゆる感情表現も同じのはず。

「言うてもたら職業病みたいなもんやろな。色んな表情を見せるのが女優の仕事やが、ちょっとでも作為に思われたら大根のレッテルを貼られてまう世界やもんな」

 大根役者だって笑えと言えば笑うし、泣けと命じられれば泣く。だけど、そこに頑張ってその表情を出してますを感じられたら大根としか見られない。頑張って作った表情にはどうしたってギゴチなさが出てしまうのよね。

「そういうこっちゃと思う。とくに悲しんで涙まで必要になる演技にはキッカケを必要とするのが多いそうや。これまでの人生で涙が流れるほど悲しかったことを思い出すとかや。そやけど、そんなキッカケを必要としているうちは大根らしいわ」

 その登場人物に感情移入して、登場人物のその時の設定状況の感情になれば悲しくならないといけないぐらいかな。

「その程度は一人前の必要条件らしいで。とにかく感情コントロールのトレーニングは大変らしゅうて、日常生活でも、すべての感情を心の底の醒めた部分で自由自在に出来てまうレベルになってまうらしい」

 嬉しくなくとも嬉しい表情ができ、悲しくなくとも悲しい表情が出来てしまうってことで良いだろうな。これは恋愛感情だって例外じゃなくなくなるはずだから、

「恋愛感情だけ自在に操れるのが世間でいう魔性の女で、すべての感情を自在に操作してしまうのが女優になるのかもしれん。少なくとも風香はそう出来てると思うで」

 さすがコトリだ。よく見てると思う。