ツーリング日和7(第11話)中尊寺から毛越寺

 月見坂から中尊寺拝観。やっぱり見どころは金色堂。もちろん初めて見るけど、こりゃ、本当にキンキラキンだ。でも藤原氏時代から残っているのはこれだけ。これだけでも残ったのは凄いけど、やっぱり頼朝に焼き討ちされたんだろうな。

「いやそうじゃない。泰衡は撤退する時に平泉の街は焼いてるけど、寺は焼いてない。攻めて来た頼朝も寺はむしろ保護してる」

 じゃあ、残ったんだ。

「ああ、残った」

 現在の中尊寺にも十七の子院があるんだけど、吾妻鏡には四十の堂塔と四百の僧房があったとなってるんだよ。もうちょっと具体的には、

 ・多宝寺・・・・・釈迦多宝像二基
 ・釈迦堂・・・・・百体の釈迦像
 ・両界堂・・・・・両界の曼陀羅像を配置
 ・大長寿院・・・三丈の金色阿弥陀像、丈六の脇士九体
 ・日吉社
 ・白山宮

 主なものだけでもこれだけあったと記録されてるんだよ。とくに大長寿院は二階大堂とも呼ばれて五丈あったとなってるのよね。

「金色阿弥陀像の三丈って九メートルだから、五丈つまり十五メートルぐらいの高さは必要じゃないか。でも相当な大きさだね」

 釈迦堂の釈迦像百体もミニチュアとは思えないものね。それこそ京都の三十三間堂ぐらいの規模はあったとしても不思議はないはず。そういえば金色堂の仏像は定朝が作ったとてなってるけど本当なの?

「定朝は平安時代屈指の名工で代表作は平等院の阿弥陀像になる。と言うか確実に定朝作とされてるのもこれだけだ。それだけではなく、中尊寺の上棟は一一二四年なのがわかっている。一方の定朝は一〇五七年没だから、六十七年も間がある」

 そっか、定朝の工房に依頼したぐらいね。定朝の息子の覚助でも危なくて孫の院助ぐらいかもしれないね。戦火で焼けてないのなら火事。

「まあ、そうなるけど・・・」

 寺は残ったけど、奥州藤原氏が滅亡したのが最大の原因なんだって。言われてみればだけど、寺って自活してる訳じゃないのよね。そりゃ、今のお寺は法事とか有名寺院なら観光収入があるけど、奥州藤原氏時代の寺は葬式仏教じゃないから現代の感覚の檀家はいない。もちろん観光収入もない。

「極論すれば当時の寺はパトロンの趣味みたいなものだからね」

 中尊寺には四百の僧房があるとなってるけど、そこにいる僧侶の食い扶持もパトロンである奥州藤原氏が出してたことになる。でも大パトロンがいなくなれば、そんな数の僧侶を抱えられなくなる。

「僧侶が減れば空き家が出来る。空き家が出来ればゴロツキが棲むようになるのも必然だ。それを追い出したり取り締まったりする力もなくなるからね」

 歳月ともに中尊寺は荒廃していき、とくに建武四年の失火で殆ど失われたんだって。山火事状態になったんだろうな。現在の中尊寺の建物の多くは伊達氏によるもので良さそう。これはこれで立派なものだけど、奥州藤原氏時代のものと較べるとどうしてもね。


 次は毛越寺だよ。ここは中尊寺以上のものだったみたいで、吾妻鏡によると、とりあえず堂塔四十余り、僧房五百余りになっていて主な堂塔として、

 ・金堂円隆寺・・・丈六の薬師如来、十二神将
 ・吉祥堂・・・・・・・丈六観音像
 ・千手堂・・・・・・・二十八部像
 ・嘉勝寺・・・・・・・丈六薬師如来
 ・観自在王院
 ・小阿弥陀堂

 これぐらいが記録されてる。毛越寺は当時の礎石も確認されてるから復元図もあるけど、宇治の平等院がオモチャに見えそう。秀衡が建てた無量光院でも平等院クラスって言うものね。そりゃ、パトロンがいなくなったら荒廃するだろうし、代わりが出来るパトロンもそう簡単に見つからないと思うもの。

「パトロンと言えば基衡の話を知ってるかい」

 毛越寺の金堂円隆寺の本尊は雲慶に依頼されてれうのよね。慶が付くから慶派の仏師のはず。雲慶は依頼を受けて上中下のどのクラスがお望みかと言ったけど、基衡は『中』にしてるのよね。だけどその謝礼は、

「金百両、鷲羽百尻、直径七間半もある水豹の皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糠部の駿馬五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端ってなってるのよね」

 これが現在の価格でなんて誰も答えられんぐらいの桁外れのもの。さらにこれとは別に、

「ご機嫌伺いみたいに生美絹を船三艘贈っている」

 雲慶も仰天したんだって。これも現在の貨幣価値でいくらかなんか換算できるようなものじゃないけど、死ぬまで遊んで暮らせるぐらいは余裕のはずなんだ。でもさぁ、雲慶はうっかり練絹の方が良かったって漏らしちゃったんだよね。

「ああそうかと、練絹も船で三艘分追加で贈っている」

 この手の金持話は世の中にいくらでもあるけど、基衡の話に匹敵するのは珍しいと思うし、たぶんだけど実話のはず。と言うか、このスケールの財宝をポンポン払えるのが奥州藤原氏の栄華であり、富だったんだよね。

 それと奥州藤原氏の力は財力だけじゃない。その武力は奥州十七万騎として恐れられてたんだ。時代は源平争乱じゃない。秀衡の遺言通りに義経を御大将にして鎌倉に攻め込めば藤原幕府になっていたはず。泰衡のウスラトンカチ野郎が。

「話はそんな単純じゃないよ。まずだけど十七万騎って何人かな」

 そりゃ、十七万人。

「騎という単位は、馬に乗る小領主と従者の集団を言ってね。そうだな一騎で十人ぐらいの集団かな」

 だったら百七十万人の大軍団。頼朝なんぞ鎧袖一触だ。

「あのね、この時代の推定人口が五百五十万人ぐらいなんだよ。全人口の男の六割が奥州にいるわけないだろ」

 そんなに人口が少なかったんだ。でも十七万人ぐらいは、

「日露戦争の時の人口が四千五百万人ぐらいで、総動員兵力が百万。奉天会戦の時で二十四万人だよ。どうやって十七万人も動員するんだよ」

 たしかに。でもさぁ、でもさぁ、頼朝が攻め寄せた時に泰衡に味方しなかったとなってるじゃない。義経を殺したから人望を失なったって、

「あれも怪しいと言うか、歴史を書くのは勝者だからね」

 奥州藤原氏と源氏の決戦となったのが阿津賀志山の合戦だそう。この時の両軍の動員数はいつもの事ではっきりしないそうだけど、頼朝は関東で三十万人を動員したそう。でも阿津賀志山の源氏軍は二万五千ぐらいともされてるのよね。

「頼朝は乾坤一擲をかけて関東を総動員したはずなんだよ。三十万人は兵じゃなくて兵糧を運ぶ人夫も含めての動員数だよ。それでやっと二万五千。もちろん、当時としては雲霞の如き大軍勢になる」

 あくまでも推測だそうだけど、源平最大の決戦の一の谷でも両軍とも一万弱じゃなかったかとされてるぐらいだって。奥州は関東の北隣だから、頼朝もこれだけの動員が出来たのじゃないかぐらい。

「でも対する奥州藤原氏も二万ぐらいはいたとする説が多いんだよね。そりゃ、奥州十七万騎より少ないけど、これって奥州の軍事力を総ざらえしたと見えるのじゃないかな」

 阿津賀志山の合戦なんて日本史じゃマイナーも良いところだけど、見ようによっては日本史が始まってから空前の大軍の激突だったとか。

「話半分で万同士の決戦でもすごい規模だよ。このクラスの大合戦は戦国時代まで行われていない気がする」

 じゃあ泰衡は決して見放されていた訳じゃなかった。

「ボクにはそう見える。勝敗の機微は色々あるだろうけど、戦慣れしていた源氏軍に対して、奥州藤原氏はそうじゃなかった部分が大きかったのもあった気がする」

 結果として源氏軍は圧勝、奥州藤原氏は滅亡か。もうこのあたりになるとわからないけど、秀衡死後も泰衡にも求心力があり、阿津賀志山の合戦も奥州藤原氏が勝つ可能性さえあったのか。

「もちろん頼朝と泰衡の器量の差は歴然で、泰衡に鎌倉幕府を作るのは無理だ。歴史は次の武家社会を作る頼朝に微笑んだのだけど、奥州藤原氏の力は平家に勝った頼朝を以てしても全力が必要だったとぐらいは言いたいな」

 こういう歴史ムックはユリは大好きだし、それが出来るコウにまた惚れ直しちゃった。