頼朝の富士川

まず地図を出します。

吾妻鏡で拾い集めた頼朝の上総介広常と合流した後の動きです。足跡を追ってみます。


頼朝・広常会見再考

吾妻鏡より、

9月17日 丙寅

廣常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。千葉の介常胤、子息太郎胤正・次郎師常(相馬と号す)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・五郎胤道(国分)・六郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の国府に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり。

9/17に千葉氏と合流した時は下総国府で謁見したと見て良いかと思います。一方の上総介広常とは

9月19日 戊辰

上総権の介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す。

どう読んだって隅田川の岸辺で会ったとしか読みようがありません。ではでは下総国府と隅田川の位置関係ですが、千葉県立中央博物館の当時の地形の推測図によると、

下総国府は太白河の東岸にあり、隅田川の東岸に行くには太白河を渡る必要があります。当時の事で川筋に変遷があるかもしれませんが、頼朝が武蔵に向う時の記事も吾妻鏡にあります。

10月2日 辛巳

武衛、常胤・廣常等が舟楫に相乗り、大井・隅田の両河を渡る。

ここにかいてある大井河は太白河の事になります。そうなると頼朝と広常は会見のために大井河(太白河)を渡り隅田川の東岸に行った事になります。どういう状況だったかを3つほど考えてみたのですが、

左は上総から来た広常軍が下総国府を通り過ぎ大井河を渡って頼朝を待ち受ける状況です。頼朝は大井川の東岸に軍勢を引き連れ、そこから幕僚たちと渡河して広常と会見する感じです。でも一応ですが「頼朝 > 広常」の関係ですから、これでは礼に失しすぎる感じがします。それと頼朝が余りにも無防備です。

では真ん中ですが、広常軍が来ると聞いて頼朝が全軍を引き連れて大井河を渡り広常を待つ状況です。広常軍を大井河の東岸に留めておいて広常と側近だけが渡河して頼朝と会見する感じです。これなら頼朝の下に広常が参上するスタイルになり、礼としてはマシかもしれません。右は広常と頼朝が入れ替わっても良いのですが、両軍とも大井河を渡って会見する感じです。この状況のリスクはそれこそ頼朝に逃げ場がありません。

そもそもなんですが当時であっても渡河すると言うのは大変な作業です。吾妻鏡の10/2の記事にあるように簡単に歩いて渡れるような河ではなさそうな感じがあり、渡るからには舟が必要だったぐらいに考えて良い気がします。強いて考えれば頼朝軍は小勢なので「あえて」大井河を渡河して広常を待ち受けるスタイルを取ったぐらいは考えられます。そうしておけば広常が大井川東岸に着き、頼朝に会おうとしても自分の軍勢を容易に渡河できません。限られた舟しか用意されてなかったら広常と頭だつ武者しか頼朝と会見できない状況になるぐらいの考え方です。

ごく素直に下総国府で会見するのが一番自然だと思うのですが、あえてそうしなかったあたりに頼朝と広常の当時の関係を見る気がしています。


鷺沼の御旅館〜鎌倉

広常との会見後に頼朝は国府を出て鷺沼に移ったとなっています。ここも習志野の鷺沼城が有力地点として比定されています。ここでも頼朝は募兵していたと思いますが、それより重要な工作をやっていたようです。

9月29日 戊寅

従い奉る所の軍兵、当参二万七千余騎なり。甲斐の国の源氏、並びに常陸・下野・上野等の国の輩これに参加せば、仮令五万騎に及ぶべしと。而るに江戸の太郎重長景親に與せしむに依って、今に不参の間、試みに昨日御書を遣わさると雖も、猶追討宜しかるべきの趣沙汰有り。

大井・隅田を渡ると江戸氏の勢力圏になるのですが、江戸氏の後背が定まらなかったと見て良いようです。ここも吾妻鏡の記述に首をかしげるところで、本当に二万七千騎もいたのなら江戸氏は震えあがりそうなものですが、江戸氏が味方してくれない点を重視して頼朝は鷺沼にいたぐらいの解釈で良さそうです。頼朝が決断をしたのは10/2で大井・隅田を渡河して10/2に隅田の宿に入ります。でもって10/4になって

10月4日 癸未

畠山の次郎重忠、長井の渡に参会す。河越の太郎重頼・江戸の太郎重長また参上す。

これを頼朝の敵前上陸と見る向きもあるようです。ここでなんですが「隅田の宿」も「長井の渡」も比定は困難だそうです。隅田の宿はそれでも現在の浅草寺付近ではないかとされていますが、長井の渡については不明だそうです。現在の地図から推測するのは非常に無理があるのですが、一説には隅田の宿に近いと説を立てておられる人もいました。そうかもしれないのですし、その説を採用して地図に書き込んでいますが、ひょっとしたら全然違う可能性も考えています。つうのも

  1. 10/2:隅田の宿
  2. 10/4:長井の渡
  3. 10/6:鎌倉
頼朝が取った道は素直に東海道でしょうから、武蔵国府(府中市)に向ったとするのが自然です。隅田の宿を10/3に立ったとすれば10/4に武蔵国府に到着していてもおかしくないと思います。武蔵国府から相模国府(平塚)に向うとすれば多摩川を越える必要があり、その時に畠山・江戸・河越氏が参陣したんじゃなかろうかぐらいです。もっとも東海道で記録されているもっとも古い多摩川の渡河地点は丸子の渡となっており、他にも多摩川の渡しとして結構な地点があるようですが、当然ですが長井の渡はありません。

ここで、この長井の渡がどこに比定するかによって頼朝の行動の解釈が変わる気がしています。隅田の宿から近いとすれば頼朝は畠山・江戸・河越軍の参加を待っていた事になります。しかしながら、この三軍は石橋山の合戦で大庭氏に加勢し、三浦氏を追い落とした軍勢です。さらに言えばとくに江戸氏はその後背をはっきりさせていなかったのも吾妻鏡に書かれており、そのために頼朝は鷺沼に足止めを喰らっていたとも解釈できます。当然ですが10/2に隅田の宿に入った時点でも状況は同じです。

鷺沼で頼朝が考えていた戦略を想像したいのですが、広常の加担があっても鷺沼と言うか房総半島を根拠地にする気はサラサラなかったように見えます。目指していたのはひたすら相模であり、鎌倉であったとして良さそうです。つまりは房総平氏の助力を得たので一刻も早く相模を制したいぐらいでしょうか。そのために危険地帯である武蔵を如何に通り抜けるかに腐心していたぐらいを想像します。相模を目指した理由として、

  1. 石橋山の決起に参加してくれた武者を早く傘下に収めたい
  2. 敵対した大庭氏を駆逐して自前の領土基盤を持ちたい
鷺沼の時点で頼朝は房総平氏の助力を得てはいますが、頼朝自身は相も変わらず徒手空拳です。御大将として采配を揮うにも褒美の一つも出せる状況ではありません。そのためには相模に行くのが最優先の戦略として重視されたぐらいと想像します。そう考えると、鷺沼から隅田の宿への移動は武蔵の豪族たちが反抗しても、その軍勢が整う前に相模に突っ走ってしまう戦術であったとも見れる気がします。ここで長井の渡で畠山・江戸・河越の三軍が参加してくれたのは計算ではなく幸運であったかもしれません。


富士川

鎌倉に入った頼朝は敵対勢力である大庭氏の征伐をまず行ったの理解で良い気がします。石橋山の時とは違い、房総平氏に加えて武蔵の三軍も加わっていますから、征伐と言うより掃討戦に近かった気がします。ここもなんですが、頼朝の計算ではもう少し相模の掃討戦を続けたかったのでしょうが、10/16の吾妻鏡

平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。

頼朝の許にどの程度の精度の情報が届られていたかは不明ですが、平家の征伐軍の来襲には対応する必要があります。ここから吾妻鏡は頼朝主導で甲斐源氏との連合軍が形成される状況を連ねていくのですが、

月日 事柄
10/13 手越の駅に平家軍到着
10/14 鉢田合戦
10/16 頼朝出陣
10/18 黄瀬川着陣
10/20 賀島着陣
昨日も書きましたが、駿河勢も含めた平家軍の動きは甲斐源氏征伐に見えて仕方ありません。駿河勢は10/14に甲斐源氏と鉢田合戦を行っていますが、これは10/13に平家軍が手越の駅に到着した事と連動していると見るのが良さそうな気がします。つまりは駿河勢は本隊に対する先遣隊って位置づけです。もう少し考えると、相模の頼朝を本当の脅威と感じているのなら、この時点で駿河勢は甲斐に動くだろうかです。ここは見様なので、相模の頼朝と甲斐源氏の合流を阻止するために駿河勢は甲斐に動いたとは言えなくもありません。

そこはまあ良いとして、

治承四年十月十八日

晩に及び黄瀬河に着御す。来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる。爰に甲斐・信乃の源氏並びに北條殿二万騎を相率い、兼日の芳約に任せ、この所に参会せらる。

ここはやはり首をかしげます。かなり飾っている気がします。黄瀬川に来たのは甲斐源氏の許に使者として送られていた北条親子プラスアルファだけだったとするのが妥当と見ます。まあ甲斐源氏が2万騎も率いていたのもアレで、せいぜい2000人ぐらいと見たいところです。その傍証として

    来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる
これは甲斐源氏への申し送りと受け取るのが妥当かと思います。当時の主要街道を富士宮市HPの駿河と甲州を結ぶ古道の地図を引用しますが、

甲斐源氏軍が10/14に上井出あたりまで進出しているのは吾妻鏡でも確認できます。10/18時点の位置は不明ですが、上井出に留まっていたのか、もう少し南下していたぐらいが考えられます。でもって甲斐源氏が進んでいた道は南下していくと吉原に至ります。この吉原と頼朝が10/20に進んだとされる賀島はほぼ同一地点として良いかと思います。つまり甲斐からの街道と東海道の2つの街道の合流点が賀島であったぐらいと見て良さそうです。地形図を出したいのですが、現代のものではピンと来ない点も多いので、せめてと言う事で明治期の地図を出します。

富士川の河口部は明治期でもかなり幅広い河原があった事がわかります。とりあえず平家側は西から来るのですが、地図を見てもお分かりの通り海岸線にしか富士川に至るルートはありません。でもって東海道富士川を渡るのは蒲原あたりから少し北上するようです。さすがに河口部は渡るのは大変だったぐらいでしょうか。ここも実はなんですが、平家軍がどこに陣地を置いたのかハッキリしません。富士川の西岸であるのは間違いないでしょうが、地図で描いた地点まで進んでいたのか、それとも蒲原あたりだったのかは不明です。

頼朝軍は甲斐源氏軍との合流を意識して中道往還と東海道が交わる賀島あたりであったで良いと思います。吾妻鏡でも10/24の矢合わせとしていますから、賀島で合流してから富士川の東岸に進む予定であったと考えるのが良さそうです。ここで確認できるのですが、10/20の時点では源平両軍は結構離れています。地図上で計測すると平家軍との距離は6.5kmぐらいはあります。近いと言えば近いですが、合戦を行うにはまだまだ遠い距離です。


平家の敗因を玉葉から推理してみる

でもって10/20の夜に例の水鳥騒動が起こって平家軍は逃げ散ってしまうのですが、wikipedia

10月18日、追討軍は駿河国に達して富士川で反乱軍と対峙するが、数万の敵兵に対して官軍はわずか千騎という有様で、忠清は形勢不利と判断して維盛に撤退を進言する。忠清は「次第の理を立て、再三教訓」して、撤退を渋る維盛を説得したという(『玉葉』治承4年11月5日条)。

これは玉葉の原文を探さないといけません。これが実に興味深くて、

先去月十六日、着駿河国高橋宿、先是彼国目代、及有勢武勇之輩、三千余騎、寄甲斐武田城之間、皆悉被伐取了、目代以下八十余人切頸懸路頭云々、同十七日朝、自武田方以使者(相副消息)送維盛館、其状云、年来雖有見参之志、于今遂其思、幸為宣旨使有御下向、雖須参上、程遠(隔一日云々)路峻、轍難参、又渡御可有煩、伋於浮嶋原(甲斐与駿河之間廣野云々)相互行向、欲遂見参云々、忠清見之大怒、使者二人切頸了、同十八日、富士川辺構仮屋、明暁十九日、可寄攻之支度也、而之間、計官軍勢之処、彼是相並四千余騎、作平定陣議定巳了、各休息之間、官兵之方数百騎、忽以降落、向敵軍城了、無力于拘留所残之勢、僅不及一二千騎、武田方四万騎云々、依不可及敵対○以引退、是則忠清之謀略也、於維盛者、敢無可引退之心云々、而忠清立次第之理再三教訓、士卒之輩、多以同之、伋不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損、適所残之輩、過半逐電、凡事之次第非直也事云々、

玉葉を読んで気が付いたポイントですが、

  1. 10/16の合戦は鉢田合戦の事を指すだろう
  2. 10/17に武田の使者が訪れているが、令旨ではなく院宣を持っていると伝えている
  3. 頼朝はどこにも出て来ず、相手は武田としている
平家陣地についてもある程度具体的に記され、玉葉を信じれば私が平家軍の所在地と示したあたりに進出していた事になります。それより注目したいのは
    明暁十九日、可寄攻之支度也
払暁を期して攻撃に当たるのは戦術として良くあるパターンですが、そのためには富士川の対岸に武田軍がいる必要があります。吾妻鏡では鉢田の合戦を10/14にしていますが、玉葉と併せて考えると
  1. 10/14に鉢田合戦
  2. 10/16に伊提(上井出)で梟首を行い勝鬨を挙げた
そこから平家軍に使者を送り武田軍は10/18ないしは10/19に富士川の東岸に進出していたとしても日程的に無理がありません。たしかに頼朝は黄瀬川に10/18に進出していますが、
    晩に及び黄瀬河に着御す
頼朝軍が黄瀬川に到着したのは10/18の夜と明記されています。頼朝が賀島に着いたのは10/20ですが、必然的に黄色瀬川出発は10/19朝になります。賀島と黄瀬川の距離はおおよそ30kmぐらいですから、軍勢を引き連れてとなると10/20にでも「そんなもの」と見て良さそうです。つまりは頼朝は富士川の合戦に間に合わなかったと見て良い気がしてきました。平家軍、武田軍、頼朝軍の動きを可能な限り広域に示せば、

合戦の軍勢数を推測するのは難しいのですが、玉葉を前提に考えてみます。10/16の高橋宿の時点で、

  1. 維盛が率いていたのは四千余騎
  2. 鉢田の合戦に向った駿河勢が三千余騎
この年は西国が飢饉であったのは有名ですから、維盛が道々にかき集めても「これぐらいだった」と見るのは可能です。つうか飢饉の影響が比較的少なかった(と想像)駿河勢をかなりアテにしていたのかもしれません。もう少し言えば平家の目的が甲斐源氏であるのなら、主力は駿河勢で追討軍は後詰的な役割を構想していた可能性もあります。ところが駿河勢は鉢田で壊滅します。そうなると残りは四千余騎です。それでも10/18に富士川西岸まで進んで
    明暁十九日、可寄攻之支度也
ここまで進みますが、おそらく対岸にいる武田勢の方が多かった、もしくは多く見えたと想像します。とりあえず武田軍は駿河勢を撃破して士気も軒昂ってところでしょうか。それを見て脱走者が出現します。
    各休息之間、官兵之方数百騎、忽以降落
ここの読みようですが、最初に結構大きな集団が脱走したと読みたいところです。それを見た他の平家勢も櫛の歯を引くように次々と逃げてしまったぐらいです。翌朝になって確認すると、
    僅不及一二千騎
半分以下に減ってしまっていたぐらいと受け取りたいところです。これでは払暁を期しての合戦などは無理となり10/19の決戦は中止。おそらくですが、決戦中止後も脱走は続き、10/20の夜に伊藤忠清の説得もあり撤退を決定したぐらいと見ます。もしそうなら妥当な形勢判断になります。


富士川の真の構図は

昨日から甲斐源氏と頼朝の動きをあれこれ追ったのですが、とりあえずの結論と言うか感想です。甲斐源氏は9/24から石禾の御厩で軍勢の終結を図ったとみています。石禾の御厩は国府のすぐ近くですから、合戦のために国衙の資材も押さえにかかったと見ても良いかと思います。つうか東下来る平家軍は武田討伐を掲げて進んできたとも想像しています。武田軍としては甲斐を守る姿勢で行くか、駿河に出て迎撃するかである程度意見が分かれていたぐらいを想像します。

でもって迎撃に意見が決したのが10/13あたりで、富士五湖周辺に出て国境に差し掛かるあたりで、たまたま進出してきた駿河勢と不期遭遇戦みたいな鉢田合戦となった気がしています。これに圧勝した武田軍はそのまま南下し、富士川東岸に陣を敷いて平家軍を迎え撃ったぐらいのストーリーを考えます。頼朝との合流話は、後方支援の要請ぐらいだったかもしれません。対平家戦の一点では利害を共有する両者ですから、連携交渉が北条時政の奔走もあって成立し頼朝軍は東に進んだぐらいです。

つうのも吾妻鏡を読んでも頼朝が賀島から東に積極的に進んだように読みにくいところがあります。賀島は富士川に近いですが、富士川東岸と言うにはチト遠い気がします。この辺も富士川の流路が一時的に東側にずれていた可能性もありますが、玉葉に頼朝の姿がゼロと言う点を重視すれば、やはり富士川東岸まで頼朝軍は達していなかったと見ても良さそうな気がします。そうなると富士川の合戦の真の構図は、

最後に軍勢の推測ですが、これぐらいじゃなかったかと思っています。