甲斐源氏の富士川

波志太山の合戦

吾妻鏡の8/25からですが、

俣野の五郎景久、駿河の国の目代橘の遠茂が軍勢を相具し、武田・一條等の源氏を襲わんが為、甲斐の国に赴く。而るに昨日昏黒に及ぶの間、富士の北麓に宿すの処、景久並びに郎従帯する所の百余張の弓弦、鼠の為喰い切られをはんぬ。仍って思慮を失うの刻、安田の三郎義定・工藤庄司景光・同子息小三郎行光・市川別当行房、石橋に於いて合戦を遂げらるるの事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山に於いて景久等に相逢う。各々轡を廻し矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑戦刻を移す。景久等弓弦を絶つに依って、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぐこと能わず。多く以てこれに中たる。安田已下の家人等、また剱刃を免れず。然れども景久雌伏せしめ逐電すと。

これを波志太山の合戦と言うそうですが、石橋山の合戦の翌々日の事です。吾妻鏡のストーリーとして頼朝が主役になり主導権を取る体裁になっていますが、甲斐源氏が本当に頼朝に加担する気であったかどうかは不明です。文章がやや難解なのですが「どうも」夜討のようです。これって誰かを勘違いして襲った可能性もあると思われます。じゃあ、その前に何故に駿河目代が軍勢を連れて甲斐にやって来たのかの問題が出て来るので困るのですが、とにもかくにも平家に戦端を開く結果になった事だけは確かです。

10/20には富士川の合戦が起きますが、下向した平家軍の目的は頼朝ではなく甲斐源氏であったとの説にうなづけるところがあります。平家軍が下向したのは「今暁、追討使等発向しをはんぬと」(9/29玉葉)です。この時点で頼朝はようやく9/19に上総介広常軍と合流して有力勢力に成長しますが、その情報を知って平家軍が下向を決めたとは思いにくいところです。つまりは石橋山で敗れた頼朝より、波志太山で勝っている甲斐源氏が目的であったと考える方が自然だからです。


鉢田の合戦

吾妻鏡より

9月24日 癸酉

北條殿並びに甲斐の国の源氏等、逸見山を去り、石禾の御厩に来宿するの処、今日子の刻、宗遠馳せ着き仰せの旨を伝う。仍って武田の太郎信義・一條の二郎忠頼已下群集す。駿河の国に参会すべきの由、各々評議を凝らすと。

石禾の御厩とは現在の笛吹市石和に比定されます。石和と言っても甲府のお隣ですから、国府の近くにいたぐらいと考えても良いかと思います。ただ石禾の御厩からすぐには動かなかったようで、

10月14日 癸巳

午の刻、武田・安田の人々、神野並びに春田路を経て、鉢田の辺に到る。駿河目代多勢を率い、甲州に赴くの処、不意にこの所に相逢う。境は山峰連なり、道は磐石峙つの間、前に進むを得ず、後に退ぞくを得ず。而るに信光主景廉等を相具し先登に進む。兵法力を励まし攻戦す。遠茂暫時防禦の構えを廻らすと雖も、遂に長田入道・子息二人を梟首し、遠茂を囚人と為す。従軍の失命・疵を被る者その員を知らず。列後の輩矢を発つに能わず。悉く以て逃亡す。酉の刻、彼の頸を富士野傍伊提の辺に梟すと。

3週間ぐらい石禾の御厩に滞在した後に漸く進軍しています。でなんですが、ここからが今日のメインで、波志太山も鉢田も場所が特定されていません。ですから

  • 野並びに春田路を経て、鉢田の辺に到る
  • 彼の頸を富士野傍伊提の辺に梟す
これもどこの事かも特定できていない事になります。あれこれ調べていたら「大石駅」の出る合戦―― 貞観富士噴火と河口浅間神社 ―で詳細に検討されていましたので、それにおんぶに抱っこでムックしてみます。まず富士宮市HPの駿河と甲州を結ぶ古道の地図を引用しますが、

実はこれでもわかりにくいのでYahoo地図を見てもらいます。

石禾の御厩は石和温泉あたりと思えば良いかと思います。そこから富士北麓に向うには山を越えないといけません。「駿河甲州を結ぶ古道」と照らし合わせると

  • 中道往還 → 国道358号
  • 若彦路 → 県道36号線(国道358号線と国道137号線の中間、ウッドストックCCって書いてあるところ)
  • 鎌倉往還 → 国道137号
でもってまず神野ですが甲斐国志にある(原文は読めますが手強いから孫引きでお茶を濁します)

神野路

東鑑に曰「治承四年十月十四日午刻武田安田の人々神野並に春田路を経て鉢田辺へ至る。(『吾妻鏡』からの忠実な引用、途中略)」今此の道、大田和より西南富士山下を経て駿州上井手及び人穴へ出づ。此の間七里余人家なし。東鑑に建久四年(1193)鎌倉右大将家富士山狩の時神野に旅館を建ること見ゆ。下方の郷に対し上野の義なるべし。本州(甲州)中のこんのうと云路より(駿州へ入り)人穴村の北へ出て上井出に会す。東鑑に所謂若彦路是ならん。之に據る時は神野路は若彦路の別称なり。富士麓野不毛の地なれば路は縦横何条も有りしなるべし。(『甲斐国志』古蹟部第十六上)

甲斐国志の説明は、

    神野路は若彦路の別称なり
こうしています。では春田路とはどこかになりますが中道往還の甲斐国志の説明に、

若彦路は東の方富士裾野より駿州の人穴、上井手に来会す。東鑑に春田路と云へるは中道を指に似たり。春田は墾田の義にて、この路線の精進、本栖の辺にて刈生畑とて焼畠を作る。この墾田と云ふは、春時山野の草莽を焼払ひ塊を起こして種を下し耘[優の人偏が来](こうゆう 耕すこと) に労せず。熟するを候ひ(待ち)収め取るなり。明春またこの如く新墾を為す如くして耕すなり。若彦路は無人の境を歴る故に、この路(中道)は春田と呼しならん。

古格溢れる文章なのですが、春田とは墾田であり、さらに焼き畑にも通じるとしています。若彦路は貞観6年(864年)の噴火の影響で耕作地ではなく、耕作地でないから人が住んでいない道なので、それに対して墾田がある中道往還を春田路と呼ぶと結論しています。もとの考察が非常に詳細なので面白いのですが、私はごく素直に甲斐源氏軍は石禾の御厩から2つのルートで峠を越えたと考えます。

  1. 若彦路(神野路)
  2. 中道往還(春田路)
どっちの道も険しくて細い山道でしょうから、軍勢を2分して進むのは良くある事です。では若彦路とはどこになるかですが、

若彦路 

板垣村より東南に出、国玉、小石和、八代、武居を経て鳥阪を超え、上下壹里余、蘆川村に口留の番所あり。府中より五里、都留郡大石村へ三里(乃ち東鑑記す所大石の駅なり。是より先は中の金王路と云い、富士山の西麓を過ぎ駿州上井出に到る)。(以下略) (『甲斐国志』第一巻提要)

都留郡大石村はYahoo地図に辛うじて読める、西湖の北岸にある大石に比定して良さそうです。ここも正確には

  • 甲府から都留郡大石村までは若彦路
  • 大石村から上井出(人穴経由)は中の金王路
今日はそこまでやると煩雑なので中の金王路も若彦路としておきます。では若彦路、中道往還はその先はどうなっているのかです。

富士五湖周辺に出た甲斐源氏軍が合流した上で若彦路(神野路)なり春田路(中道往還)を通った可能性もありますが、地図で示した通り2つの道は上井出で合流します。それであればあえて富士五湖周辺では合流せずに上井出まで別行動だった可能性も十分あります。問題の鉢田ですが吾妻鏡の地理描写として、

    駿河目代多勢を率い、甲州に赴くの処、不意にこの所に相逢う。境は山峰連なり、道は磐石峙つの間、前に進むを得ず、後に退ぞくを得ず。
一方の駿河勢は一手だった可能性が強いと思われます。春田路と神野路ですが、どちらも険しいのは険しいですが、春田路の方がメイン・ストリート、つまり幾分でも通りやすかったとしてよさそうです。そう考えると駿河勢は春田路を通ってきたと思いたいところです。でもって「不意にこの所に相逢う」となっていますから、甲駿国境の峠道の頂上ぐらいで出くわした可能性を考えます。もっとも神野路も可能性は残ります。と言うのは波志太山の合戦を踏まえている可能性があるからです。波志太山の特定はされてはいませんがwikipediaより、

「波志田山」の位置は富士北麓の西湖と河口湖の間に位置する足和田山富士河口湖町)などが考えられている

地形と平家軍の戦略から可能性があるってところです。駿河勢は何のために甲斐に攻め込んで来たかですが、これはもちろん甲斐源氏討伐のためです。さらに駿河勢は強力な援軍が都から下向しつつあります。駿河勢は甲斐に侵入しようとしていましたが、駿河勢単独で甲斐源氏を討伐する気はなかったと見て良いかと考えます。つまりは都からの援軍(つうより主力軍)の露払いの役割です。具体的には、駿河から甲斐への進行路を確保するために、

甲府から駿河に進むのに富士五湖周辺を制圧されると甲斐源氏は困ります。残るルートは身延道とも呼ばれる富士川周辺の道(河内路)だけになります。つうか甲斐源氏は攻められる立場ですから、甲府から山一つ越えた富士五湖周辺に平家軍が頑張れれば、河内路を通って駿河進出どころのお話ではなくなります。それを狙っての神野路もありえるぐらいです。もっともほぼ同じ戦略を春田路でも取れますから、さてどっちだろうぐらいです。


鉢田の比定はこの辺にして、最後の

    彼の頸を富士野傍伊提の辺に梟す
これは判りやすくなりました。「伊提 = 井出 = 上井出」です。春田路にしろ神野路にしろ上井出で合流しますから、峠の合戦で勝った甲斐源氏は全軍合流の上で勝鬨をあげたぐらいにみて良いかと思います。


富士川までどこにいたか?

10/14の鉢田の合戦の後、吾妻鏡では10/18に頼朝が黄瀬川に着陣し、その時に甲斐源氏も合流したとはなっています。そこから賀島に移動し10/20に富士川です。字で書けばそんなものかと思うのですが、地図にプロットするとチト不自然な気もします。

この地図には書いていませんが、10/16に平家軍は手越の駅に到着しています。吾妻鏡通りであるなら甲斐源氏軍は

  1. 伊提から賀島にまず南下し、そこから東海道を歩いて黄瀬川に向った
  2. 10/20に今度は黄瀬川から賀島に向った
距離は伊提〜賀島、賀島〜黄瀬川とも約20kmです。当時の人ですから伊提から黄瀬川まででも1日で歩ける距離ですし、武装しており軍勢を引き連れてでも2日もあれば十分可能とは思います。ここで考えないといけないのは、吾妻鏡史観では「頼朝 >> 甲斐源氏」ですが、当時はそうなっていたかです。あくまでも推測ですが、甲斐源氏が打って出たのはあくまでも駿河勢侵入に対する防御戦であった可能性もあります。ま、ただの防御戦なら鉢田で勝って引き返すはずですから、平家追討軍対策に駿河に拠点を築く意図があったとも考えられます。

ところが駿河まで出てみると平家追討軍が迫ってきている情報が入手できたぐらいを考えます。その時に頼朝が相模から進出してきたので共同戦線を張る提案をしたぐらいの方が妥当そうな気がします。ちょうど手元に北条時政親子もいます。つまり甲斐源氏全軍が黄瀬川に向った訳ではなく、使者が訪れたぐらいの状況を考えます。これには他の理由も考えられます。甲斐源氏がどれほどの軍勢を率いていたかは不明ですが、軍勢には補給が必要です。補給は本国から離れるほど不利になります。補給は食料もそうですが、鉢田合戦で使った矢の補給も重要です。

伊提と黄瀬川の位置関係で、賀島で決戦の意図で合意したのなら賀島で合流したと考える方が自然な気がします。真実はどうだったんでしょうねぇ。