頼朝の富士川・さらに訂正補足(暫定完成扁)

富士川の合戦の実相を推理するには、やはり富士川の流れが当時どうであったかを推測しないといけないようです。「そんなもんわかるか!」って言いたいところですが、ムックしてみます。


古文献

絵画が語る富士川の渡しより、

  • 『海道記』には「この川は川中によりて石を流す、巫峡の水のみ何そ船を覆さん、人の心はこの水よりも嶮しけれは、馬をたのみて打渡る」とみえる。川中を石が流されていくような急流のありさまを、中国長江上流の難所「巫峡」に例えており、馬で渡河したと記述されている。
  • 十六夜日記』では、「ふし河わたる、朝川いとさむし、かそふれは十五瀬をそわたりぬる」とみえる。『海道記』の記述とは趣を変えて、合計15の瀬を渡ったと述べられている。川の流れが15本に分かれていたとの記述で、急流との表現はない

これについては海道記は旧暦4月、十六夜日記は旧暦12月の差ではないかとしています。それだけ季節で差があったかですが東海道川を渡る道より、

富士川は旧暦正月から九月までは夏川、十月から十二月までを冬川といった。

  • 夏川 常水の水深八尺、増水して一丈で馬の船越しは中止、更に一尺増水で人の船越しも川留
  • 冬川 常水は六尺、ニ尺増水で馬を留められ、更に一尺の増水で人の渡船も禁止され、完全に川留

富士川の合戦は10月(新暦で11月9日になります)ですから水深は6尺(1.8m)ぐらいはあったかもしれませんが、水流は比較的穏やかだったぐらいに見て良いかもしれません。その代わりに気になるのは川の流れが15本にも分かれている点です。これは河口部が現在より非常に広い事を示していると考えられます。


吉原湊

海の東海道より

17世紀末頃までは、富士川の流れも吉原湊に流入していたため、河口の状況が良く、輸送ならびに交通上重要な役割を果たした。 その後、富士川が西の現在の流路方向に転じたため、水勢が著しく減退、湊口の状況も悪化して、 大津波の来襲や台風による土砂で港口の閉塞が繰り返されたため、港口の維持が困難になり、港勢は衰微の一途をたどった。

西岸は山があるので現在とあまり変わらないとして、東側にも富士川の流れがあり、現在の富士市吉原あたりと言うか田子の浦方面に流れ込んでいたようです。現在も潤井川がありますが、これと合流する状況ぐらいに理解して良さそうです。これが今に近いに状況に変わったのが雁堤による富士川の治水と社会への影響に詳しくまとめられています。

現在の新東名高速道路のあたりから富士川は山峡部から平野部に抜け出します。そこら辺を岩本と呼ぶようですが、そこから「どうも」なんですが、富士川の流れは東西に大きく2分されていたようです。このうち東側の流れを堰き止めて西側にまとめてしまったのが雁堤の概要です。それと東流と西流ですが本来は東流がメインであったようです。今から想像するのも大変ですが、富士川は大きく東側にメインの流路を持ちつつ、西側にたくさんの支流(十六夜日記では15本)を持つと見て良さそうです。

吉原湊は富士川東流に面していたようです。さらに吉原湊の位置自体も水害の影響を受けて変遷があるようで、明治期の吉原町はかなり内陸に引っ込んで位置にあり、かつてはもっと河口よりだったようです。当時のごく簡単な理解として東海道富士川の河口部で大きく東西に分割されており、富士川西岸が蒲原、東岸が吉原の関係になるぐらいで良さそうです。その間の渡河はその時の富士川の状況次第みたいな様相ぐらいに考えれば良いようですが、それでも主なルートはあったようで江戸期の整備になりますが、

  • 東海道上街道:岩淵 − 吉原
  • 東海道下海道:蒲原 − 五貫島 − 宮島 − 川成島 − 吉原
こうあったそうです。江戸期の整備としましたが、上街道は一遍上人絵巻にも登場するようで、下街道も徳川幕府が上街道1本にまとめようとしても、必要性から残り続けたとされます。富士川の河口部は氾濫の度に様相が大きく変わり、治承4年当時の記録は不明ですが、富士川の合戦当時も蒲原 − 吉原間は様相は違う部分はあっても上下の2つの渡河ルートがあったと推測します。ここまでの情報を地図に落としてみます。

富士川西流・東流の間は地図には描きませんでしたが、幾多の支流が洪水の度に変遷しながら流れており、その時の中州が五貫島とか、宮島とか、川成島みたいに点在していた状況を想像すれば良さそうです。


地名考察

どうも私は頼朝本陣の位置を勘違いしていた気がします。頼朝が本陣を置いたのは吾妻鏡より、

武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。

この賀島の比定がはっきりしなかったのですが、これは素直に加島で良い気がします。賀島は「かしま」と書くようですから、頼朝本陣は吉原から富士川東流を渡り富士川の三角州の中央ぐらいの中州に陣取ったと考えても良さそうです。では武田軍と平家軍です。ヒントは玉葉にある、

程遠(隔一日云々)路峻、轍難参、又渡御可有煩、伋於浮嶋原(甲斐与駿河之間廣野云々)相互行向、欲遂見参云々

浮島原の場所がポイントで海の東海道より、

とくに新吉原宿が和田川沿いにあったため、 和田川は運河として飲料源として重要であった。元来、浮島沼の水位と駿河湾の潮位の差がわずかなので大型廻船は満潮時に入港せざるを得なかった。

この浮島沼は「どうも」現在の田子の浦港にあたるようで、田子の浦港の東側を現在でも元吉原と呼んでいます。このあたりに武田軍がいたと見て良さそうな気がします。武田軍が甲斐から中道往還を南下していたのは確実で、中道往還は吉原で東海道に合流します。吉原湊は大きな沼で海につながっていますから、その北方部ぐらいの河原を「浮島原」と呼んでいたと考えれば筋が通ります。そこを決戦場に武田軍は選んだと見ても不自然さはありません。日程的にも10/14に甲駿国境あたりと比定される鉢田合戦を行っていますから、そこから3日もあれば十分到達できると考えられます。

平家軍ですがが武田からの挑戦状を受け取ったのは10/17朝となっています。そこから次の宿泊地は蒲原と考えて良いかと見ます。蒲原まで進めば吉原の武田軍は遠望できた可能性は十分あると思います。おそらく玉葉にある

    程遠(隔一日云々)路峻、轍難参、又渡御可有煩
この表現は蒲原から吉原までの道のりの描写と考えれば納得できます。とくに「又渡御可有煩」は蒲原から吉原に至るまでの富士川の幾多の支流を踏み渡る事を意味していると考えれば判りやすくなります。でもって平家軍は10/18朝から富士川渡河を行い、富士川東流の西岸に陣を構えたと見るのに無理はありません。ルートは東海道下街道です。日付がややこしいので表にしておくと
治承4年10月 武田軍 平家軍 頼朝軍
13日 手越駅
14日 鉢田合戦
15日
16日 高橋宿 鎌倉出陣
17日 吉原に着陣 ・朝に挑戦状受け取る
・蒲原に移動し宿泊
松田
18日 富士川に陣を構える 夜に黄瀬川
19日 伊東祐親捕縛
20日 夜に退却 賀島着陣
平家軍が富士川東流の西岸まで陣を進めた証拠はやはり玉葉で、

同十八日、富士川辺構仮屋、明暁十九日、可寄攻之支度也

ポイントは「明暁十九日、可寄攻之支度也」つまり払暁を期して合戦を行うの宣言です。合戦を行うには敵軍が見える位置まで進む必要があります。当然ですが対岸には武田軍がいる必要があります。ここまでの情報を地図に落としてみます。

問題は頼朝軍の位置です。頼朝が進んだとされる賀島(= 加島)も富士川の中州の一つであったと見て良いかと考えます。当時と後世の地形の変化はあるでしょうが、頼朝の賀島は東海道上街道にあったと私は見ます。理由は後述します。


武田軍と頼朝軍

武田軍と頼朝軍の関係ですが、吾妻鏡では頼朝が主導で武田は従属関係の表現になっています。しかしこれは違うと言う説が現在の研究です。双方とも独自の行動を取っていたとするのが現在の説で、私もその考えを支持します。そうなると富士川の両軍の関係は、

    敵ではないが信用できる味方でもない
つまり平家は敵であると言う一点で合致するものの、それ以外は思惑テンコモリぐらいです。さて私のムックでは先に富士川に着いたのは武田軍であり、頼朝軍は後からの到着になります。当たり前ですが下街道で平家軍に対峙している武田軍を頼朝は見ているはずです。同盟軍であれば武田軍に合流するはずですが、ここで下手に合流すれば序列問題が炸裂します。序列問題は頼朝も武田も譲れない問題になるからです。そこで頼朝は上街道を通り賀島に進出したと考えます。距離を置いての別行動を取ったぐらいでしょうか。

ここで良くわからないのは何故に頼朝は富士川東流を渡り賀島まで進出したのだろうかです。富士川は東流がメインであり渡河するだけで体力を消耗します。しかし頼朝は渡河しています。あえて考えると渡河せずに富士川東流東岸に陣を敷くと、武田軍と無用の緊張関係を招く事を危惧したのかもしれません。ちょうど武田軍の背後を押さえる関係になるからです。当面の敵は西岸にいる平家ですから、武田軍への刺激を避けたぐらいを考えています。


合戦模様

川、とくに大河で向かい合う対陣戦術では相手を渡河させたところを叩くのが基本と考えます。玉葉の平家軍は10/18に陣を構え、10/19に相手に攻撃をかけるとしていますが、平家軍の思惑としてはあれだけの挑戦状を送ってきた上に、平家軍はその使者の首を刎ねて対応していますから、武田軍は渡河してくると読んだのかもしれません。もちろん玉葉の記述にあるように士気の低下から脱走が相次ぎ合戦どころでなくなっていた可能性もあります。

一方の武田軍ですが、着陣が早い分だけ渡河決戦の準備は整えていた可能性はあるかもしれません。それこそ舟をかき集めていたぐらいです。武田軍が動かなかったのはヒョットしたら黄瀬川から頼朝軍が富士側に向っている情報を入手したからもしれないと見ています。武田軍と頼朝軍の関係は上記した通りですから、頼朝軍がどう動くかを見てから平家軍との合戦を考えようぐらいです。

そうやって10/19はにらみ合いで終わります。10/20のいつぐらいに頼朝軍が賀島に着陣したかは不明ですが、この着陣により情勢は動いたと見ます。平家軍は大きな勘違いをしていたと思っています。勘違いとは頼朝軍を武田の別動隊と思い込んでいたと考えます。だから玉葉には頼朝の名前が全く出てこなかったと考えれば話が分かりやすくなります。武田の別動隊が富士川東流を渡り平家軍の北側に進出してきたとなると、当たり前のお話ですが密接な戦術行動を行うためと見なすのが自然です。思いつくのは、

  1. 10/19から武田軍が動かないのは、この別動隊の到着を待っていたんだ
  2. 別動隊が南下すれば側面攻撃、もしくは背後に回り込まれる危険性がある
  3. いやそのまま上街道を進まれ、蒲原を押さえられたら退路を塞がれる可能性だってある
10/20の夜にパニック状態になり退却してもおかしくない気がします。平家軍はそう思い込んで蒲原に向って退却したのはわかるとして、武田軍も頼朝軍も有効な追撃戦を行えなかったして良さそうです。これは平家軍の逃げ足が早かったのもあるかもしれませんが、平家軍がいなくなった後の武田軍と頼朝軍の関係の気がします。つまり、どちらかが追撃戦に移れば、
    背後を取られる可能性がある
背後とはモロ退路になるため、双方とも迂闊に動けず、今度は武田軍と頼朝軍のにらみ合い状態と言うか腹の探り合いになったと考えています。


吾妻鏡 10月21日

再掲します。

小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。これに依って宿を黄瀬河に遷せしめ給う。安田の三郎義定を以て、遠江の国を守護せんが為差し遣わさる。武田の太郎信義を以て駿河の国に置かるる所なり。

ここは武田軍と頼朝軍の交渉結果を書いている気がしています。平家軍が一夜にしていなくなった事で、武田軍と頼朝軍の戦術的な位置関係がどうなったかを考えれば良さそうです。様々な理由があるにせよ

  • 頼朝軍は富士川東流の西岸にいる
  • 武田軍は富士川東流の東岸にいる
頼朝軍は武田軍に退路を押さえられる配置になり、これは頼朝軍にとって宜しくない位置取りです。この状況を打破するために平家軍退却後に武田、頼朝双方の勢力圏確定交渉のための使者を送ったと考えます。そうですねぇ、やはり北条時政でしょうか。でもって武田軍が出した条件が、
  1. 駿河武田信義が支配する
  2. 遠江はこれから安田三郎義定が攻略する
  3. 上の2つの条件を吞むのなら頼朝軍が相模に帰るのを邪魔立てしない
要は頼朝に手ぶらで帰れと言ったに等しい事になります。これに怒った(怒ったふりをしたのかもしれません)頼朝は
    武田軍を打ち破らん(小松羽林を追い攻めん)
こう息巻きますが、重臣たちはこれを諌め
    常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。
駿河で武田と合戦を行うには情勢が宜しくない。ここは武田の条件を受け入れて駿河を譲ろうぐらいの提案です。その代わりと言ってはなんですが、これから常陸を攻めれば勘定は取り戻せるぐらいの趣旨と思います。そこからの頼朝の退却速度も猛烈であったようです。10月21日の吾妻鏡を信じれば、
  1. 10/21のうちに黄瀬川まで退却し義経と会っている
  2. さらに同日中に三島神社を参拝
三島神社参拝の証拠として、

秉燭の程、御湯殿。三島社に詣でしめ給う。御祈願すでに成就す。偏に明神の冥助に依るの由、御信仰の余り、当国内を点じ、神領を奉寄し給う。則ち宝前に於いて御寄進状を書せしめ給う。その詞に云く。
伊豆の国御園河原谷長崎
早く敷地を三島大明神に免じ奉るべし
右件の御園は、御祈祷安堵・公平の為、寄進する所件の如し。
治承四年十月二十一日      源朝臣

えらいスピードですが、頼朝は鎧を脱ぎ側近だけ引き連れて一目散に黄瀬川に向ったぐらいなら可能性はあります。武田軍が追撃に移る公算がかなり高いと踏んでの行動と見ても良いかもしれません。


平家軍は惰弱であったか

結果は戦わずに逃げただけですから、何を言われても仕方がないのですが、私の今日の推測が正しければかなり頑張った気がします。まずなんですが10/16に駿河勢が鉢田で大敗した情報を得ています。玉葉を信じれば平家本隊が四千四騎、駿河勢が三千余騎ですから、戦力の半分近くを失ったことになります。平家軍の戦略として駿河勢と併せて7000余騎で戦う予定であったと考えるのが自然ですから、この情報だけで惰弱なら退却してもおかしくありません。

それでも平家軍は武田軍の挑戦状を受けて前進しています。とくに富士川を渡ったのは高く評価しても良いと思います。恥ずかしながらこのムックをするまで、平家軍はせいぜい現在の富士川の西岸ぐらいまで進出していなかったと思ってましたが、富士川東流の西岸まで進んでいます。東岸に武田軍がいるからと言ってしまえばそれまでですが、平家が陣を置いた西岸は富士川の中州に過ぎません。中州は現在でもしばしばニュースになりますが、雨が降れば沈没する危険性があります。当時でもそれぐらいは常識としてあったと思っています。維盛が玉葉で言ったとされる

    明暁十九日、可寄攻之支度也
これはハッタリではなく、中州に陣を敷いたからには早急に合戦を行い決着をつける必要があったとも受け取ることができます。長期の中州での対陣は兵糧問題もありますが、自然の水攻めのリスクも生じる訳です。それでも敢えて平家軍は武田の挑戦に応じて進んで来たと見てもエエんじゃないかと思っています。ただなんですが、平家軍全体の士気はイマイチであったようです。飢饉による兵糧不足もあったとされます。それに鉢田の敗戦のニュースも士気を下げたとしても良さそうです。

ひょっとしてそういう士気低下も見込んで、あえて富士川東流西岸の危地に兵を進めたのかもしれません。わざと兵を危地に追い込む事によって発奮させる戦術です。しかし平家軍の士気低下は維盛や忠清の予想以上で、やむなく退却に追い込まれたと「無理やり」見れないこともありません。私は平家贔屓ですから、これぐらいは御容赦下さい。これぐらいの能力がないと都落ちから後の平家の頑強さが説明できなくなるからです。


最後にちょっとした”if”

史実では平家軍は富士川まで進んでいますが、もし進まずに防御態勢を取っていたらどうなっただろうと思っています。具体的には鉢田の敗報を受ける形で、薩堆山の険に防衛線を敷き、都からさらなる援軍を要請する戦術です。薩堆山は有名な難所ですから、ここに平家が頑張れば武田軍にしろ、頼朝軍にしろ突破は難しいと思います。いや、難しいと言う以前に武田軍と頼朝軍の関係からして、平家どころじゃなくなった可能性もあります。平家軍がもし富士川に進まなかったら、東駿河の情勢はどうなっていたかと言うと、

  • 西の吉原に武田軍
  • 東の黄瀬川に頼朝軍
こういう構図になります。どちらも遠征軍ですが、こうなってしまうと双方退けなくなります。つまりは武田と頼朝の間に東駿河争奪戦が嫌でも起こるって予想です。さらに東駿河争奪戦が勃発すれば長期化する可能性が十分にあります。どちらの戦力も東駿河から相手方を一時的に駆逐する事は可能でも、互いの本拠である甲斐や駿河まで押し寄せるにはチト足りないぐらいです。一時的に東駿河で勝っても、本国からの巻き返しが繰り返される構図とすれば良いでしょうか。長期化は怨念と執着を産みますから、頼朝は相模から関東に手を伸ばす余力をう失わせる可能性も出て来ます。

結果的に富士川で頼朝が武田に譲ったのは歴史の妙で、これにより頼朝は背後を固め、関東進出からその経営の余裕を得たとも言える気がします。富士川から黄瀬川に退却した頼朝が何を考えたかはわかりませんが、

    富士川進出は結果的に失敗だったが、な〜に関東を制すればいつの日か奪還できる
これぐらいに思い直して鎌倉に帰っていったんじゃないかと思っています。