ツーリング日和3(第34話)神戸の夜

 小浜で時間食うてもたから、後は神戸に向かってひた走りや。最初の予定は舞鶴から綾部を走る予定やってんけど、時間と距離の短縮のために国道一六二号に変更や。

「周山街道を走りたかっただけでしょ」

 それはある。国道一六二号は初日も走ったけど別名周山街道、鯖街道とも呼ばれるところや。小浜から京都に鯖を運び込んでいたルートに一つで、一番西寄りのルートやねんよ。そやから小浜の鯖も京都の鯖にもなるってことや。

 もちろん京都までは行かずに美山で府道十二号に入るねん。この府道はチイと長いねんけど美山かやぶき由良里街道って名前が付いてて、

「半分ぐらい看板に偽りありじゃない」

 そう言うな。ホンマの茅葺屋根を維持するのは大変やねん。そやから元茅葺で現瓦葺になってるのは目を瞑らんとしゃ~ないやろ。

「それと南丹って地名は愛想ないね。やはりここは美山よ」

 行政の都合やからしょうがあらへんけどコトリも同意や。それでも由良川に沿った快走ルートや。そこからコチョコチョと道路の名前は変わるけど国道一七三号で篠山に向かい、県道で三田に行っても良かってんけど、そのまま国道で走って行った。

「もう四時ね」

 秋の日は釣瓶落としって言うけどホンマにそんな感じや。北六甲有料道路から六甲山トンネルに向かう登り道まで来たとこで、

「マイ、ここが最後の難関や」

 六甲山の北側から神戸市街に抜ける道は何本かあるけど、夕方は休日でも混んでるねん。何本かあるいうてもこの時間帯から裏六甲に挑むのは物好きだけで、新神戸トンネルか六甲山トンネルに集まってくる。

 唐櫃のホテル街を過ぎてしばらくしたら予想通り渋滞や。こればっかりはどうしようもあらへん。まあ、いかにも神戸に帰って来たって痛感させられるわ。なんとかトンネル抜けたら表六甲や。

「いつも思うけど空気が変わるね」

 空気と言うか気温がちゃうからな。六甲山の北と南で二~三度はちゃう気がする。表六甲も渋滞するのはいつも通り。ほいでもループ橋の終点にある信号を過ぎた頃から流れ出してくれた。

 ここまで来たら帰ったも同然みたいなもんやけど目指すは三宮つうか北野になる。さてどこにバイクを駐めるかや。バイクの駐車違反は基本はクルマと同じやねん。駐車禁止のとこにバイクを駐めたら駐車違反になる。

 そやけどクルマの駐車場に較べてバイクの駐輪場は桁違いに少ない。自転車の駐輪場より少ないのが現実や。そやからクルマに較べたらお目こぼし部分が多い運用をされとる。そりゃ、駐輪場もあらへんのにどこに駐めろって話になるからな。そやから田舎やったらバイクはわりとどこでも駐めれる感じのところはある。

 そやけど都市部は厳しいねん。これもわかるとこはあって、いくらクルマに較べて小さい言うても数が集まったら迷惑や。さっき言うたお目こぼし言うても、警察の裁量みたいなとこがあるからな。

「それもツーリングで都市部を避けたがる理由の一つよね」

 それだけやないけど、それもある。どうしようかな、

「後で落ち合うことにしたら」

 それしかあらへんな。夕食やしお酒も飲みたいやんか。バイクで行ったら帰りに困るもんな。着替えもせんと、いくらなんでもライダースーツで入ったら失礼やろ。マイたちのバイクはホテルがなんとかしよるから、

「文月で落ち合おう」

 マイたちはホテルに向かいコトリらはポーアイに。予約は七時やから間に合うやろ。家に帰って着替えて、

「シャワーは時間が無いね」

 それどころかポートライナー使う時間もあらへんからタクシーで文月へ。ちょっと遅れたけど許容範囲のはずや。店に入ってんけどマイたちが先に来とった。テーブルに案内してもうたんやけど。

「お嬢はん、楽しみどすな」
「やっと来れたからな」

 よう聞いたら、関白園で修行して独立して店を持ったら、こうやって訪問しとるらしいんや。マメやな。

「神戸やんか。近い言うてもなかなか来れへんかってん」
「ひょっとして、最初から神戸に泊まるつもりやったとか」
「コトリはんは、なんでもお見通しやな」

 こうなったら誰でもわかるわ。なんかの試験みたいなものかと思たけど清次さんは、

「試験なんてありゃしまへん。機嫌良う食べはって、店を褒め、料理を褒め、居合わせはったお客さんに頭を下げて、これからもご贔屓にってやってるだけどす」

 マイがこれだけ慕われる理由がわかる気がするわ、

「そんなことあらへん。誰かってやってることや」

 やってへん、やってへん。それから料理が出て来たんやけど、見た目は完全に和食やから先付になるんやろな。さて、どんな味かな、

「ユッキーこれって」
「完全な不意打ちね」

 和食器に盛られとるし、盛り付けも和風やねんけど、味はフレンチや。フレンチ風の味付けをした和食いうたらエエんやろか。おもろいな。椀物かって、ここまできたらスープやな。こりゃ、ワインが合いそうやけど、

「でも、味の組み立ては和食よこれ」

 フレンチ仕立てやけど、あくまでも素材を活かした繊細な味やもんな。ワインで合わせるんやったっら赤より白、いややっぱり日本酒が合いそうや。マイも満足げや。

「隆史の家はフレンチ料理店やってん。そやけど和食をやりたい言うて関白園に入ってんけど、最後はフレンチの血が騒いでもたかな」
「そうどしたな」

 マイの懐の広さにも驚かされるわ。ガチガチの和食の正統派の関白園で育っとるし、その味覚は人間業をはるかに超えるものやんか。そやのに、なんでも認めてまうんよね。それこそサイゼリアでも余裕で認めてまうもんな。

「それが関白園の味の神髄やて言うたやんか。これしか、あかんなんて思たら料理の幅が狭うなってまう」

 つうか広すぎやろ。マイの味覚ってどうなってるんやろ。

「どうもなってへん、心の籠った料理やったら不味いわけあらへんやん」

 ここからマイの味覚というか味の感じ方の話になったんや。あれだけわかるってどんな感じなんだってな。とにかく食べただけで素材が何かは言うまでも無く、どんな調理法で、どんな味付けをして、調味料の産地や銘柄までわかってまうんやからな。味がわかり過ぎると不幸とマイは言ってたが、ひょっとして世界一不幸な人間だとか、

「生まれつきみたいなもんやから、誰でもそうやと子どもの時は思とった」

 まあそやろな。

「味の龍泉院の名乗りが認められてから、美味しいとはなんやを考えとった時期があってん」

 料理というか食い物には美味い不味いはある。これは誰もがわかるこっちゃ。簡単には確実に不味いもんはある。

「そやから確実に美味いもんもあるんやないかと考えとった時期はある」

 マイがその頃に考えとったんは、美味いものにも序列があるってやつや。別に変な考え方やない、世の中の人の殆どがそう考えるし、美食家が人生をかけて追及するテーマやからな。いわゆる究極の美味や。

 究極の美味の考え方も大雑把にいうと二つぐらいあって、一つは究極の料理が存在するって考え方や。最高の素材を最高の調理法で出来上がったすべての美味の頂点ぐらいや。その究極の美味から他の料理は序列化されるぐらいのイメージでエエやろ。

 もう一つは素材ごとの究極があるという考え方や。そやな牛肉とウニのどっちが美味いかなんか較べようにも土俵が違い過ぎるから、部門別のチャンピン美味を探そうぐらいや。

「そんなマンガがあったよね」

 マイの考え方も究極の料理から始まって部門別のチャンピオンに移行していったで良さそうや。この辺は誰でもとまで言わんが、食を真剣に考えて行ったら、そうなるもんが多いぐらいは言うても良いと思う。

「わたしたちもそうだよ」

 ある美味しい料理、なんでもエエんやがタコで美味しい料理を食べたら、感想として、

『タコなら最高の料理』

 こんな風な褒め言葉が自然に出てくるからな。とにかくマイは関白園で生まれ育っとるから、最高の素材で、最高の料理人が作る美味を追求しやすいとは言える。

「同じ素材で、同じ調理法で作られた料理やったら巧拙の差は確実にあるねん」

 これも誰しも知ってる事で、焼き加減、茹で加減、塩加減で美味い不味いは確実に出る。生焼け、生煮え、塩の入れ過ぎは食えたもんやない。

「そやけどな・・・」

 料理は美味しく出来るし、美味しくなるための様々なレシピ、技法、ノウハウはある。これを向上させるのがプロの仕事やが、

「どういうたらエエのかな。ホンマの素人の料理を美味しくするのは難しゅうない。ちょっとしたコツとかその料理のポイントを知るだけで格段に美味くなる。そやけど・・・」

 欠点を減らせば味は向上する。そこにコツが入ればさらに美味しくなる。そうやって突き進んで行った先に究極の味があるかと言えば、

「美味しいって合格点ぐらいに過ぎんと思い出したんや」

 マイの合格点は神の舌の合格点やけど、そこまで言わんでも、ある水準から先の味の向上は誰もが気づくような差でないどころか、

「人によってバラツキが大きいんよ。そりゃ、人によって生まれ育った環境がちゃうから好みは変わる。マイが美味いと思うても万人が美味いと思うとは限らへん」

 ある水準以上の味の差は無いに等しいぐらいの考え方になったと言うから怖ろしいわ。だってやで、まだ中学生やってんから。そこからマイが重視したのは、

「純粋の料理の味と、人が美味しいと思う感覚の関係や」

 これも別に難しい話やあらへん。同じ握り飯でも、トイレで隠れて食べるのと、ハイキングで山頂で食べるんやったっら雲泥の差がある。マイは美味とはそっちの要素が大きく左右するとの結論になったぐらいかな。

「もちろん料理そのものの味は大事や。そやけど本当に大事なのは、その味をいかに食べる人に美味しく感じてもらうかや」

 平凡そうな話やけど、これをマイが言うから重みが違う。とにかく神の味覚やからな。

「そういう環境整備の中で重要なんは、美味しいものを食べてもらいたいと言う心や。心は食べる方にも必要や。これを忘れたらアカン。料理は作る方と食べる方の共同作業やねん」

 これも当たり前の話やねん。愛しい人のために手作り弁当を作るとするやろ。そりゃ、美味しいものを作ろうと張り切りまくるやんか。食べる方かって愛しい人の手作り弁当やったら、それだけで美味しいなんてもんやないはずや。

 これは家庭料理にも通じる。家族に美味しく食べてもらおうと作り、その愛情を家族は食べてるわけや。そやから毎日でも食べれるし、死ぬまでその味を忘れんぐらいや。

「いわゆる、お袋の味ね」

 ユッキー、今どきそんな言い方したら、過激なフェミニストに性別役割固定ってデモで抗議されるから、無難に家庭の味ぐらいにしとけよな。そんなことはともかく、マイは笑いながら、自分の考え方さえ結論でないとしてた。

「どれが答えなんかあらへん。ひょっとしたら究極の美味があるかもしれん。それも含めて楽しむのが料理やし、幻の究極の美味を求めるのもありやと思うし、それを目指して精進を重ねるのが料理人でもあるんや」

 そもそもやねんけど、美味の定義や概念も時代で変わるんよ。ある時代で美味とされたものが、時代が変わると変な味とされてまう。

「そやからこそ料理は心やねん」