ツーリング日和2(第9話)平家落人伝説

 さっきは保留にした、壇ノ浦の合戦から安徳天皇が祖谷に落ち延びて来たかどうかですが、

「それって、かずら橋の由来でしょ。源氏の追手が迫ってきたら、すぐに切り落とせるようにって」

 コトリさんがまず注目したのが落人が平国盛であり、これが実は平教経である点です。

「伝承の中には幼名の国盛にしたって書いてあったりするのもあるけんど、国盛なんて幼名があるかい。どこをどう見ても諱や。もし教経やったら改名やろ」

 貴族とか武士の名前はまず生まれら幼名と言って、子どもとしての名前が与えられるのだそうです。

「そやで。信長やったら吉法師、家康やったら竹千代や」

 これが元服して成人になる時に大人としての名前である諱を与えられるそうです。

「そういうこっちゃ。幼名に教経なんて大層な名前を付けるかいな。男やったら、なんとか千代とか、なんとか丸が多いんちゃうか」

 加えてそういう伝承が残っているのは、いわゆる庶民には諱がないそうで、幼名と諱がどういうものかを知らない人が語り伝えたのじゃないかとしています。

「教経は吾妻鑑では一の谷で討ち死にだよね」
「そやけど玉葉には生存説も書いてあるで」

 コトリさんからの受売りばかりですが、一の谷の平家はまさに惨敗で、教経の兄の通盛、弟の業盛を始め平家一門九人が討ち死しているぐらいです。一の谷の教経は義経軍の襲来を予期した宗盛の要請で兄の通盛と共に山の手を守ったていたとなっています。

「山の手ってどこですか」
「一の谷の最大のミステリーで、義経が鵯越の逆落としをやらかしたところや」

 あれはたしか須磨浦公園のあたりだったはず。

「コトリはちゃうと考えてる。まあ、この話をやりだすと長うなるから今夜は置いとくとして、まず教経が一の谷を生き残ったかどうかや」

 吾妻鑑にある教経の最後は、

『但馬の前司経正、能登の守教経、備中の守師盛は、遠江の守義定これを獲ると』

 義定とは安田義定のことで甲斐源氏の一族になり、一の谷の時には義経軍に所属していたとなっています。この安田義定によって教経だけでなく、経正、師盛も生け捕りになり首を切られたとなっているのですが、

「壇ノ浦の奮戦は創作ですか」
「そんなものわかるか! そやけど剛勇教経が生け捕られるのは妙やと思てる。教経が剛勇やったのも創作と見れんことないけど義経とはちゃうからな」

 コトリさん曰く、義経は判官贔屓の言葉が残されるぐらい人気があり、伝説が作られるぐらいですが、教経にそこまで人気があって伝説が作られる理由が乏しいとしています。ユッキーさんも、

「生け捕りになるのは降伏したからだけど、敦盛だって熊谷直実と一騎打ちして首を取られてるのよ。今と違って捕虜になってからって命の保証はゼロだし、現に首を切られてるじゃない」

 当時の武士の気風として一騎打ちまで行って勝てば相手の首を取るのがある意味礼儀らしく、わざわざ生け捕りにして恥を晒した上で首を切るのは理由があるはずとしています。つまりは命乞いするぐらいの状況になるそうです。

「あくまでも仮にやけど、影武者立てて落とすなんて小細工考えるんやったら知盛やろ」

 知盛は平家の総帥宗盛の弟で知略に優れた名将だそうです。

「清盛の息子の中でも重盛と並ぶぐらい出来が良かったとなってるわ。一の谷でも東の木戸は守り切ってたようなもんやし、屋島の時も彦島におって不在やってんよ。壇ノ浦では采配揮ったとなってるけど、平家も宗盛やのうて知盛が家を継いどったら歴史は変わったかもしれん」

 知盛は鎧を二重に着た上に碇を背負って入水したとか。生け捕りにされた総帥宗盛と対照的な最期であったとしています。ならばその知盛の策略で教経が壇ノ浦でも生き延びて祖谷に、

「それもおかしいやろ」

 平家物語にあるように壇ノ浦まで生き延びたとしても、あの奮戦と豪傑らしい最期があるとコトリさんはしています。たしかに義経を最後まで追いまくって八艘飛びの逸話まで残されています。

「影武者でコソコソ生き残るようなキャラになっとらん」

 たしかに。さらに壇ノ浦の合戦の様子に話が及びます。あの合戦は関門海峡で行われましたが、東から攻め寄せる源氏軍に対して平家は西から迎え撃っています。最初は潮に乗って平家軍が押しまくりますが、これを源氏軍が耐え忍び、潮が変わると数で優る源氏軍が押しつぶして勝ったぐらいの経緯のはずです。

「その話も平家物語にしか書いてあらへん。そやけど合戦があったんは間違いあらへんし、東西の位置が逆転するとも思われへん。屋島を追い払われた後の平家の拠点が彦島やからな」

 彦島は本州の西の端にある島で今は陸続きになっていますが、当時は島で関門海峡を押さえる要衝ぐらいで良かったようです。ここは平家が都落ちして以来の根拠地で、壇ノ浦の時点では最後の根拠地ぐらいで良さそうです。

 壇ノ浦の合戦は関門海峡の東側付近であったと見て良いはずですが、合戦の後半で西側に押し込まれたのなら、負けた平家軍は西に逃げるしかないはずです。西となると彦島もありますが、合戦場から近いですから博多方面が思い浮かびますが、

「範頼が地味に働いとるんよ。壇ノ浦の前には範頼軍は関門海峡渡って豊後に入って、さらに豊前から博多まで押さえてるんや。それだけやない松浦党も平家物語やったら平家軍に参加しとるとなっとるが源平合戦の後は頼朝から褒美もろてるぐらいや」

 松浦党は松浦半島あたりに根拠地を置く水軍で、豪族連合みたいなものだったようです。平家物語を信じれば、松浦党の中でも親平家がいて参加したかもしれませんが、主流派は親源氏で、

「博多から西に逃げても捕まるってことや」

 じゃあ平家が西に逃げても上陸するところが、

「平家物語の平家の水軍の中に山鹿秀遠ってのがおるんやけど・・・」

 山鹿秀遠は平家の家人で、遠賀川の河口付近に勢力のあった豪族だそうです。平家物語でも平家方として最大勢力で壇ノ浦に参戦しています。これも平家物語にしかない記録ですが、源平合戦終了後に領地を没収されています。

「山鹿氏は最後まで平家方やったで良いと見てるわ。そやから壇ノ浦で生き残った平家の水軍は遠賀川に逃げた可能性が高いと思てる。川遡って逃げるのが自然やろ」

 別府は範頼が抑えていますから、田川から肥前や日向、さらに鹿児島方面か。

「四国に渡るにも河野水軍が源氏やから伊予には行けんし、しまなみ海道を抜けるのも無理やろ」

 じゃあどうやって四国に、

「祖谷の平家の落人伝説は教経だけやなく安徳天皇も一緒やとなってるやんか。もし四国に渡るとした日向ぐらいから土佐やろ」

 ですが祖谷の伝承では今の東かがわ市あたりから阿讃山脈越えて吉野川を遡り祖谷に至ったとなっていますが、

「そやからそんなとこに行かれへんやんか。そんなんしようと思たら、日向ぐらいから船出して、足摺岬も室戸岬も回って行かなあかん。大冒険もエエとこや。それにやで屋島落ちとるのに讃岐目指してどうするんよ」

 ですが伝承は伝承で、

「もしホンマやったら屋島合戦の前や」

 えっ、どういうこと。

「一の谷の平家は惨敗や。一族九人が討ち取られてるぐらいやからな。敗軍の中で起こるのは裏切りと脱走や。一の谷から屋島に帰らんかったのがおったんちゃうか」

 なるほど。屋島に帰って再起を図るよりも命惜しさに逃げるのはアリか。

「落人になるけど、そん時にニセ安徳担いだのはありやろ。どうせ顔なんか誰も知らんし」

 コトリさん曰く平家の一族どうかさえ怪しいとしています。平家の一門には諱で『盛』が付くのが多いので適当に国盛と名乗ったぐらいでしょうか。

「貴種であるほど昔は尊重されとったから、天皇担いだら効果あってんやろ」

 コトリさんが注目したのは平家屋敷民俗資料館。

「注目は言い過ぎやけど妙なんよ」

 たしか説明では安徳天皇の御典医として仕えていた堀川内記が壇ノ浦の後に落ち延びて云々だったはずですが、

「天皇の御典医はもともとは内薬司やってんよ。典薬寮と別でな。簡単に言うたら内薬司が皇族用で、典薬寮が官人用や。そやけど八九六年に二つは合併しとる。源平合戦の二百年ぐらい前や」

 では堀川内記は典薬寮の人。

「そないストレートに行くかいな。まだ律令時代やで。内記は職名なんよ」

 内記は詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録が仕事だそうですが、

「後世やったら祐筆みたいな職やねんけど、筆頭の大内記でも正六位上で内裏に入られへんかってん。そこに蔵人が出てきたんよ。蔵人は内裏に入れるから内記の職を奪ってもた格好になる」

 えっと、えっと、

「典薬寮と内記局は別の部門や。戦国時代みたいに勝手に官命名乗る時代やないってことや。そやから内記と名乗る限り医者やあらへんし、安徳天皇の御典医であるはずがない」

 さらに源平合戦の頃の内記局は大内記一名、小内記二名、史生四名の計七人が定員だそうで、

「内記の人間が都落ちに付き合うかな。付き合っても構わへんが、官人としては下っ端やったってことや」

 たしかに。ここでユッキーさんが、

「薬草に詳しかったのは事実かもしれないから典薬寮の薬園師かもしれないね。都落ちして屋島に根拠地を設けた時に祖谷まで薬草を求めに来て、そのまま土着したのはありかもよ」
「まあな。もし内記で医者やったら、安徳天皇やのうて、平家の医者やったかもしれへん。屋島に来た時に無官じゃ格好悪いから内記にしたぐらいはあるかもしれんへん」