謎のレポート(第17話)御手洗のマナー

 アリサの日常で話しておかないとならないのは、尾籠なお話になりますが、暮らしていくうえで欠かせない御手洗です。この御手洗もマリ様の教えで欠かせない非常に重要なところになります。

 放屁については忘れられない事があります。始めの頃に躾けのまだまだ不十分なアリサは、こらえきれずに部屋の中でマリ様の前で粗相してしまう失態を起こした事があります。隠しようも、誤魔化しようもなくマリ様に知られてしまいました。

 マリ様は厳しくはありますが、決してアリサを頭ごなしに怒鳴ったりしたことがなかったのですが、見たことも無いぐらいに怒りの表情になられました。即座に服を脱ぐように言われ、マリ様の怒りのムチを数えきれないぐらい頂くことになりました。

 あれは愛のムチではなく、怒りのムチでした。一打一打にマリ様の強い怒りと、悲しみが込められているのが体でわかりました。そう悲しみなのです。こんな事さえ守れないアリサと、きっとそんな事さえ教えられないマリ様自身の悲しみであったはずです。

 ですから排尿、排便、放屁は必ず御手洗で行うことは常識以前ですが、御手洗の決まりでまず基本中の基本になるのは、排尿、排便、放屁を必ず分けて行う事です。

 これもアリサは苦戦させられました。排便中に排尿してしまったり、放屁をしてしまう大失敗を何度も行っています。とくに排便中の放屁は今でも克服しきれていないところがあります。

 マリ様が部屋におられる時は必ず監視の下に御手洗をするのですが、御手洗まで行く手順、下着の脱ぎ方、服のさばき方、便器への腰かけ方、そこから排尿、排便、放屁までに取るべき姿勢、表情の作り方、排尿、排便、放屁に至るタイミングもすべて決められています。

 もちろん排便、排尿、放屁中にどうするかもあり、とくにその量や勢いについてはマリ様の厳しい目が注がれます。もちろん後始末についても、トイレットペーパーの使用量は当然すぎますが、その汚れ方まで定めれています。

 昼間に御手洗に行くときにはマリ様の許可を頂くのですが、許可を頂くタイミングも重要です。まず食事の準備が始まれば、食事中は当然ですが、食後も三十分以内は厳禁です。口にするどころか、そういう素振りをするだけで反省が必要になります。

 マリ様の教えを頂いてる最中も、これを遮ることは間違っても許されません。許可を頂けるチャンスがあるのは、マリ様の教えが一段落ついた時のみです。ですがマリ様は教えが始まると一時間程度は必ず続きますし、これが二時間、三時間も続くことはザラにあります。

 さらに許可を願ってもなかなか許されることはありません。これも最初の頃はそうでもなかったのですが、最近では滅多に許可を頂けなくなっています。さらに許可を願って却下されるのは重大な失態になります。

 これは不要な御手洗の許可を願ったということで、マリ様の貴重な教えの時間を浪費させようとしたと見なされるだけでなく、マリ様の教えをサボろうしたとまで見なされてしまう事になるのです。言うまでもなく厳罰に処せられます。

 それと先ほども申し上げました通り、御手洗に行きたい素振りをすること自体が反省対象になります。具体的にはモジモジしたり、我慢を重ねるあまり正しい表情を保てなくなったりすればマリ様は即座に見抜かれます。

 とはいえ特に尿意が切迫すれば、それは苦しい状態になります。放屁ですらあれほどの厳罰が即座に下されるぐらいですし、失禁はマリ様から言い渡されていますが、たとえ一滴でも許されません。

 御手洗の許可を必ず頂けるのは夕食が終わり、反省の時間の前です。これは御手洗の中でも特別の許可になり、排尿、排便、放屁を順番に指定して頂きながら行います。これが特別の許可なのは量や勢いだけでなく、出なくとも許されるのです。

 特別の御手洗の許可の意味は、マリ様のムチを頂く時に失禁、失便、放屁が許されないためです。言い換えれば特別の許可をもらいながら粗相をすることは、マリ様のムチを穢すことになり、それはそれは厳しい罰を受けます。

 これ以外にアリサに御手洗の許可が頂ける事があります。これはマリ様から与えられるもので、突然と言って良いものです。それこそ教養の教えを頂いてる真っ最中に、

「アリサ、御手洗に行きなさい」

 即座に御手洗に向かうのですが、この時も当然ですが排尿、排便、放屁が指定され、それ以外は許されません。指定通りに出来ない時は、それはそれは厳しい反省が必要になります。


 ここまで御手洗のマナーが厳しいのは、すべてアリサのためです。アリサは御手洗とは、自分が催した時に行くものだと本気で信じ込んでいました。しかしそれが根本的に間違っている事をマリ様に教えて頂いたのです。

 アリサのような考えの御手洗は女に決して許されるものではなかったのです。アリサのような御手洗を行う女はいますが、あれは無知で野蛮で哀れな女なのです。その理由もマリ様に教えて頂きました。

 女には正しい排尿、排便、放屁の仕方がキチンと定められているのです。それを守ってこその女のです。本能のままに催せば御手洗などもってのほかなのです。女であるならば正しい方法を覚えるのが女の美徳のはずが、

「これしきの事さえ身に着けられない女が多すぎる」

 マリ様はこう嘆いておられました。それ以前に女の正しい排尿、排便、放屁の存在さえ知らない女が多すぎるともされておられました。そう言えばアリサがこの館に来た頃にマリ様に許可さえ頂かずに、

「オシッコ」

 こう言って御手洗に駆け込んだことがありましたが、あの時にもマリ様は軽蔑した表情をされていました。あれはアリサが正しい方法を身に着けるどころか、その存在さえ知らないと見下されていたのは良くわかります。

 ですが今のアリサは違います。マリ様に女の正しい排泄法をあるのを教えてもらったかです。マリ様に出会わなければ死ぬまで知らず、無知で野蛮で哀れな女のままであったに違いありません。


 女の正しい排泄法と野蛮な排泄法は根本的な違いがあります。これは誰が排尿、排便、放屁の主体なのかです。実際に排泄するのは女ですが、野蛮な排泄法はこれまでアリサがしてきたように、自分が感じた尿意や便意が主体になります。

 これが正しい排泄法になると、自分以外の誰かに命じられた時になります。アリサは正しい方法の基礎を覚えているところですが、必ず排尿、排便、放屁を分けてするのは、そのうちどれを命じられるかわからないからです。

 アリサの理解もまだまだ不十分なところも多いのですが、マリ様が仰るには排尿、排便、放屁のコントロール術だとされます。これが自在にできるようになれば、なんの不自由もなくなるとされます。

 ここのアリサ的な解釈ですが、おそらくアリサ自身の自発的な尿意や便意を放棄するのだと考えています。でもこれは入り口でしかありません。これでは単なる便秘になっているだけです。

「そうだよアリサ、ちゃんと出さないと体に良くないからね」

 つまりアリサ以外の誰かに尿意や便意を委ね、命令があれば即座に感じるのはもちろんですが、感じないのは許されない事になるぐらいです。

「間違ってる部分が多いよ。いつ命じられるかわからないから、常に準備を怠らないのはもちろんだけど、与えられた機会にしっかり出せるようになるのもポイントだよ」

 だからマリ様はあれだけ量や勢いに厳しい目を注がれているのがわかります。

「アリサならもうわかるはず。御命令を頂いた時に感謝の心が生まれ、排泄するときに喜びが与えられる素晴らしい方法だよ。これが身に着けてこそ正しい女だよ」

 そうなのです。毎日の暮らしに欠かせない排尿、排便、放屁がこんなに素晴らしいものに変えられるのです。

「これは女の基本のすべてに通じるんだよ。つまりは耐える喜び、許される喜び、望みが叶う喜び。これを正しい排泄を身に着ける事によって、毎日繰り返し心の中で高めることができる」

 まだトレーニング中ですが容易に身に着けられるものではありません。ですがアリサは女の正しい排泄法を知ってしまったのです。いや、教えて頂いたのです。これも真のアリサを目指すのですから必ず完璧にマスターしてみえます。いかに困難な技術であろうともアリサにはマリ様がいらっしゃいます。