歳とったな

 旧友と話をしていたのですが、観光するにしても歩くのが楽しいと感じるのは意見が一致しました。歩く速度で見るからこそ発見も多いぐらいで、街角のちょっとしたものでも面白がれるぐらいの感覚です。

 若い時はどうだったかと言うと、ひたすらピンポイント観光で、できるだけ歩かないだったと二人で笑っていました。クルマで目的地に直行し、そこを見たら次のスポットに直行みたいな感じです。

 これは興味を持つ物への変化が確実にあります。観光と言えば名所旧跡か風光明媚ですが、正直なところ、それを見るのが目的ではなかった気がします。なにを目的にしていたかですが、とにかく出かけるのが主目的で、出かけるからには目的地が必要ぐらいの位置づけでしょうか。

 真の目的は・・・まあ若かったということで、そこらあたりは察してください。

 ですが今は観光がガチの目的です。若いころの真の目的はさすがに消えかけています。観光もさすがにこの歳ですから、京阪神のメジャーなところは一通り見て回っています。そういうところをもう一度見るのも楽しいですが、もっとマイナーなところを見たいというか、そういうところでの発見を楽しいと思うようになっています。

 ですが、これも一致した意見でしたが、体力の衰えは如実にあります。私は春夏のハイキングを趣味としてますから、歩くのはさして苦痛ではありませんが、この歳でも既に歩けなくなっている人は多くなっています。

 つうか一部の歩ける人と、もう歩けなくなっている人にはっきり分かれているとしても良さそうです。これもはっきり言うと、殆どが歩けなくなっている感じです。旧友との見解も一致する部分が多くて、

    田舎の方が歩けなくなっている人が多い
 理由は単純で交通が不便なことです。大昔は不便だから歩いたかもしれませんが、今は不便だからクルマです。それこそ100メートルでもクルマを使いたがるのが田舎です。これはアメリカの田舎でも同じような傾向があるとYouTubeで見ましたから、いずこも同じと感じたものです。

 都会人がそんなに歩くわけではありませんが、都会になるほどクルマは不便になる面があり、そこそこの距離ならまだしも歩くぐらいでしょうか。

 前にも書いた気がしますが、旧友が同級生と旅行に行って痛感していました。その旅行は予め歩くのはわかっており、それぐらいは歩けるはずと参加したものだそうです。ところが実際に歩き始めるとすぐに顎が上がり、座り込み、

    ここで待ってる
 こうなってしまったとか。記憶の中では歩けても、実際となると無理になっていたオチでした。旧友曰く、あの連中でダメなら、後は推して知るべしとしていました。

 たぶんですが今の年代は「歩けるはず」がまだしも残っているぐらいで、もう少し進むと「もう歩けない」の自覚が育つんでしょうね。さらにそうやって一度衰えたら、これを回復させるのは半端な努力では無理です。つうか努力するモチベーションを持続させるのは奇跡的なものの気がしています。

 私もせいぜい、衰えを防ぎながら、歩ける時間を少しでも伸ばせるようにしておきたいものです。そのためにもコロナ禍が一日も早く終息することを願っています。