浦島夜想曲:マリーの仕事(2)

 しかし事態はまたまた思わぬ方向に展開します。まず加納さんが協力してくれるの話だけで、現場の士気は見違えるように上がりました。これも新製品開発で一度は盛り上がったものの、開発予算の乏しさと、開発期間の短さで、

    『ムチャ言われても、無理なものは無理』
 こういう空気が漂っていたのです。カメラや写真業界で加納志織の名がどれほどビッグ・ネームなのかを改めて思い知らされた気分です。

 期待していなかった加納さんの協力ですが、マリーでさえ頭が下がる思いでした。基本コンセプトから関わり、自分がプロとして使ってきた、様々なレンズの使い心地、その特性を技術者たちに熱く語り、自分が本当に欲しいレンズの具体的な要望を納得いくまで何度でも語ってくれています。

 これは開発作業が始まってからも同じで、お忙しいはずなのに必ず週に一度以上は開発現場を訪れ、

    「どう、上手く進んでる?」

 こうやって声をかけて回られます。加納さんが現れるたびに社内の士気の高まりが熱気に変わっていくのをヒシヒシと感じます。もっとも製品の評価は厳しくて試作品を自らテストされ、

    「これがわたしの理想だって。舐めてもらったら困るわよ」

 現場もこれに応えるために懸命です。マリーも大変で開発費がドンドン膨れ上がります。こういう時の判断として、ここまでの開発品で妥協するのも十分考えられるのですが、ここは勝負に出るべきだと判断しました。判断はしたものの、カネが湧いてくるわけではなく、万策尽きて立花副社長に相談にうかがいました。

    「マリー、ロッコールはクレイエールHDの子会社やで」
    「それはわかってますが、クレイエールHDもこれ以上の投資について難しいとの判断がありまして」

 もちろんクレイエールHDにも何度も足を運びましたが、まさに剣もホロロ終わっています。他の金融機関に頼るにも、既に会社の資産は何重もの担保になっており、どこも門前払い状態です。

    「ムダ金はビタ一文も会社にないで」
    「そうなんですが、このプロジェクトは・・・」

 立花副社長はニコニコしながら、マリーの話を聞き、

    「クビかけなアカンで、自信あるんやな」
    「もちろんです」
    「おもしろそうやから、なんとかしたるわ」

 なんとか開発費を確保しました。そしてついに加納先生が納得してくれる新しいモデルが完成しました。ここでなんですが、この新たなフラッグ・シップ・モデルのネーミングも会議でもめにもめていました。そんな時に加納先生が現れ、

    『加納志織モデル』

 これを自ら提案してくれたのです。それだけでなく、そのレンズを使っての作品まで撮って頂き、

    「宣伝に必要でしょ。わたしの名前のモデルのデモ写真を他人に撮らせるわけにはいかないからね」

 新製品の発表も苦悩していました。JJ時代の悪評はしっかり続いています。そんなメーカーの新製品発表にどれほど注目してもらえるかなのです。そうしたら加納先生は、

    「乗りかかった船だから協力するよ」
 まるで魔法を見ているようなものでした。ロッコールの新製品開発に加納さんが深くかかわり、なおかつその発表会に加納さんも出席するとなっただけで、取材申し込みが殺到しました。業界誌や、経済紙はそれこそ全社、これに加えて一般紙、スポーツ紙、週刊誌、さらにはテレビ取材の申し込みがゴッソリです。

 当初は自社ロビーで行う予定でしたが、そんな規模では収まるはずもなく、クレイエール記念ホールを借りての大々的なイベントになりました。その席上で加納さんはレンズの印象を聞かれたのですが、

    「わたしの理想がここにあります」

 この一言の反響がまた凄かった。その日の夕方のニュースとして報じられるぐらいで、流行語大賞の候補にもなったぐらいです。広告費の捻出にも四苦八苦していましたから、本当にありがたかったです。製品評価も上々で、ある批評誌などは、

    『ロッコールの新たな伝説の始まり』
 手放しに近い絶賛の嵐です。超どころでない高級品にも関わらず、予定生産量を大幅に上回る受注が舞い込み、嬉しい悲鳴状態です。マリーの狙いは当たりました。加納志織のブランド力を利用して、ロッコールの不評を吹き飛ばす計画でしたが、これは想定以上の大成功を収めたと言えるでしょう。

 次なる展開は、加納志織モデルより幾分質を落としたライン・アップをそろえて行くことです。加納志織モデルを一〇〇点とすれば、まず九〇点、八〇点クラスのモデルです。とにかく加納志織モデルの価格はトンデモないものでしたから、いくら売れてもたかが知れているからです。

 加納志織モデルが百点の超高級クラスとすれば、九十点・八十点モデルは高級クラスになります。ここも成功を収めましたが、まだこれでは売り上げとしては不十分で、本命はその下のクラスになります。

 マリーは六十点クラスを中級品と位置づけ開発を進めました。この六十点モデル開発は加納志織モデル以上に重要で、質の維持と大幅なコストダウンの並立という難問でしたが、ロッコール技術陣は見事に期待に応えてくれたのです。辛口で有名な批評誌でも、

    『この価格で加納志織モデルに匹敵する出来栄えとは信じられない。まさに夢のモデル。ロッコールの本気がここに詰まっている』
 マリーの戦略は高級品モデルでブランド力をV字回復させ、その品質に近い中級品で販路を拡大するものでした。実際のところはこんな単純な話ではありませんが、ついに単年度ですが赤字から脱却し、経営が軌道に乗りそうなところまで漕ぎ着けました。次はJJが閉鎖したカメラ部門の復活が検討されています。


ロッコール再建も目途が着いた頃に社長にバーに誘われました。

    『カランカラン』

 香坂常務に連れて行ったもらったバーです。なんか社長と二人で飲むのは怖いのですが、

    「まずまずね」
    「立花副社長が支援を決断してくれたのに感謝しています」
    「クレイエールHDが渋ったのは仕方ないわ。でもコトリはマリーの計画を認めてたわよ」

 副社長も一度『ウン』と言ってからは、追加支援も含めて満額回答でした。

    「それと加納先生の協力が得られたのがラッキーでした」
    「シオリもあそこまでやってくれるとはね」
    「本当に感謝しています」

 どうしても謝礼が気になっているのですが、

    「それはこっちで処理しとくから心配しなくてイイわ」

 話は変わって、

    「マリー、ロッコールへのテコ入れは期待通りだったけど、マリーにロッコールに行ってもらったのは他にも目的があるのよ」
    「他とは」
    「ミサキちゃんに聞いてるでしょ。女神の仕事よ」

 ああ、そんな話もあったけど、

    「ロッコールは写真文化振興協会に慣例的な理事枠を一つ持ってるのよ。マリーが社長になれば自動的に理事になってるでしょ」

 十年前はまだロッコールにも余裕があり、協会設立にかなりの資金協力を行ったためです。

    「そうなんですが、あの指示の理由はなんなのですか?」

 これもロッコールに派遣される時に受けていた指示で、理事会ではとにかくたどたどしくしゃべり、話が少しでも込み入ればわからないフリをするように言われてました。理事会は、ほとんどシャンシャンですからとくに不都合はありませんでしたが、

    「マリーは白人じゃない」
    「そうですが、エレギオンHD並びにグループで人種や国籍は・・・」
    「そうなんだけど、言葉の問題で便利なの。白人なら日本語が不十分でも怪しまれないじゃない」

 エレギオンHD本社の公用語はなんと日本語です。マリーもルナに言われてかなり勉強しました。でも国際化時代に今さらと思ったのも確かです。そしたら社長からルナと同じことを言われました、

    『この会社は日本にあるのよ。日本語ぐらいしゃべれなくてどうするの』

 公用語こそ日本語ですが、英語ともう一つぐらいは誰でもしゃべれます。社長なんてしゃべれない言葉がないんじゃないかと思うぐらいしゃべれます。

    「マリーが日本語を話せないのが有利なのですか」
    「ちょっとした駆け引きよ」

 香坂常務に言われた女神の仕事は加納賞に関わることで、その加納賞の主催団体が写真文化振興協会になります。そこの理事として、なんらかの影響力を揮えらしいのはわかりますが、

    「まずね、ロッコールとシオリとの関係は周知のものになったでしょ」
    「はい」
    「マリーが理事としてシオリの味方になっても不自然に見えなくなったじゃない」

 その通りですが、

    「でも理事一人では影響力が限定される気もしますが」
    「まともにやればね。だから大暴れしてもらう。材料はシノブちゃんが整えてくれてる」

 暴れ方はとにかく角を立てろの指示です。ぶっちゃけ大喧嘩して来いみたいですが、

    「そうなれば解任される可能性はありますが」
    「理事の中で、松原理事長、竹本理事、梅木理事、桜田理事の四人は敵よ。でも栗田理事は隠れた味方よ」
    「味方って?」
    「買収済みってこと」

 うわぁ、

    「バレると拙くないですか」
    「問題になるはずないよ」

 社長が買収っていうものだから、賄賂でも贈ったのかと思ったら、スケールが違いました。栗田理事はクリタ製作所の社長なのですが、ここの筆頭株主は丸菱HD。戦前からの名門財閥ですが、グループ企業の丸菱重工のさらに子会社の丸菱航空機が新型旅客機の開発で大きな損失を出しています。

    「資金調達のためにクリタの株を買ってくれって話が前からあったのよ。イマイチ乗り気じゃなかったから保留にしてたんだけど、丸菱さんも困ってたみたいで、値を下げてきたんよね」
    「で、買ったのですか」
    「だいぶコトリに叩かせた」

 これまたうわぁ、丸菱HDも大変な目に遭ったと同情したくなります。とにかく副社長のこういう時の交渉はエゲツナイぐらい辣腕です。

    「まあクリタの二割ぐらいだけど、筆頭株主だからこっちの味方ってこと。もし裏切ったらTOBかけて買収してクビごと飛ばしてやるって釘刺しといた。」

 クリタごときにTOBは大げさ過ぎると思わないでもありませんが、社長が有言実行、いや断行の人であるのは有名ですから、栗田理事も震え上がったはずです。

    「でも過半数はありませんが」
    「そこも考えてある」
    「かしこまりました。具体的にはいつから」
    「もうすぐよ」

 社長から当面の策を授けられましたが、そこまで準備しているのに内心驚かされました。女神の仕事って、こういうものを指すみたいです。

    「もうすぐあると思うわ。その時を見逃したら承知しないよ」
 かなりの臨機応変の力量が試されそうで、期待に応えられなかった時のことを思うと、背筋がゾッとする思いです。