氷姫の恋:桐山家での新生活

 桐山教授の家は立派だった。いわゆる洋館作りなんだけど、美知子さんに言わせると、

    「広いけど、古くて大変」
 戦災も潜り抜けた旧男爵家ってところ。華やかなりし頃は使用人も大勢いたはずやけど、今は美知子さんが一人で切り盛りしてはります。息子さんや娘さんは既に家を出ていて、たまに帰ってくる程度ですが可愛がってくれてる。

 教授の家に住むようになって良かったと思うのは通学時間が短くなったのもあるんやけど、教授のライフワークのエレギオン関連の研究書を読めるようになったのがあるの。お父さんがウチのために最後に手懸けていた問題やから、ウチも是非知りたいことなのよ。エレギオンを調べることでお父さんと一緒にいるような気分になれるもの。

 さてそのエレギオンやけど、殆どわかっていることがないのに改めて驚かされてもた。実在したのかさえ怪しいんやけど、シチリアの火炙りの話ははっきりした記録にも残るものやし、中世から伝説として語り継がれるエレギオンの金銀細工師は今でも実在するらしいともされてるみたい。

 エレギオンの女神は聖ルチア伝承から推測する以外になさそうなんやけど、この聖ルチア伝承もいわゆる正統派の物やなく、どっちかと言わなくても異本とか、秘められた伝承から調べる必要があるみたいなのよ。教授の話に聞かせてもらったり、家にある研究書を読んだ印象やからやけど、

    「教授、どうにも聖ルチアは能動的に動いている感じがしません」
    「どういうことかね」
    「実質を取り仕切っているのは第一の天使ないし、第二の天使ぐらいの感じがするのです」
    「ホントに由紀恵君は鋭いね。あくまでも仮説だが、聖ルチア信仰がエレギオンの女神信仰を置き換えたものなら、エレギオンでもメインの女神とそれを支える四人の女神がいたことになる」
    「そして実質を取り仕切っているのが第一の女神と第二の女神」
    「ブラボー」
 教授はいつの日かエレギオンを発掘したい夢があるそうやねん。ただし、現実的な資金問題もあるんやけど、古代エレギオンがどこにあるのかさえ特定できないのが現状だそうなんや。発掘計画はともかく、エレギオンの五女神が日本に来たのなら、どうやってになるかやけど。これも兵庫津に舞い戻ってきた女性の話から考える他はなさそうで、
    「兵庫津に現れた女性は一人だったのでしょうか」
    「一人だったとしか記録に残されていない」
    「では残りの四人はどうなったのでしょう」
 教授とて答えようのない問題なのですが、
    「木村は面白い記録を見つけてた。正確には古記録が引用しているものだが、伝承に残る二人目は突然変わったとなっている」
    「変わった?」
    「民間伝承を拾い集めたような記録みたいだが、最初の女性の近くにいた女性が別人になったとしてるんだ」
    「それって、突然乗り移ったってことですか」
    「そうとしか読めんが、大聖歓喜天院家の能力継承とは異質な気がするのでなんともいえない」
 教授の家にあった蔵書は二年ぐらいで全部覚えちゃいました。そんなにかかったのは、日本語や英語だけじゃなく、イタリア語やフランス語、さらにはギリシャ語とかラテン語のものが多かったからなの。ウチもドイツ語なら第二外国語で覚えたから読めたけど、それ以外は読むために言語から覚えなあかんかったから。教授は、
    「ホントに由紀恵君の頭の中を見てみたいよ。どうやったら、あんなに早く読めるようになるんだ。例の特待生の満点条件なんて由紀恵君には大したものじゃないのが思い知らされる」
 教授の家の蔵書を覚えてしまったので、ウチはなんか教授の秘書役というか、助教みたいな仕事もしてる。それだけ知ってる人間は桐山教室にもいないからだそうで、教授はすまなさそうな顔をしながら頼むの。たいした負担じゃないからウチは別にエエんやけど、
    「由紀恵君、前に作ってもらった院生の試験だけど」
    「なにか不都合がありましたか?」
    「うん、もう少しレベルを落としてくれたら助かる」
 医学部生が考古学の院生の試験を作るのに無理があるとは思うけど、お世話になってるから協力してる。でもね、これが美知子さんに知れたら大変、
    「あなた、何を考えてるんですか。由紀恵さんは医学生であって、考古学部の学生じゃありません。木村さんから預かった大事な大事な娘さんを自分の雑用にコキ使うなんて、私が絶対に許しません」
 医学部の方もちゃんとやってる。医者がウチに向いてるかどうかは良くわからへん。他人の事は言えないかもしれないけど、カズ坊が医学部を目指したのに付き合ってなったようなものだから。

 でも授業自体は大したことはない。例の記憶力は加速がついてパワーアップしてるみたいで、覚えるのも、理解するのも呼吸してるのと同じぐらいにしか思えないの。図書館の蔵書もあらかた覚えちゃった。ウチは意識してなかったんやけど友だちがビックリしてた、

    「木村さん、何してるの」
    「組織学の勉強」
    「なに読んでるの」
    「とりあえずジュンケイラ」
    「それ読んでるの? 覚えられるの?」
 友だちに言わせると、
    「ページ繰ってるだけじゃない」
 横で見てると猛烈な勢いでページを繰ってるだけしか見えないみたいなの。ウチにすればページを繰る時間が無駄で困ってるんだけど、この辺は人によって見方が変わるぐらいに思ってる。ただ医学は次々に進むところがあるのでそこはある意味厄介。ネイチャーやNEJMとかは読んでるけど、数えきれんぐらいある学会誌をカバーするのは大変。
    「ねえ、学会誌とかはみんなどうしてるの。とにかく種類は多いし、図書館だってみんなそろってるわけじゃないし、全部買ってたら高いし」
    「木村さん、読んでるの」
    「図書館にある分しか読んでないけど」
 なぜかそれ以上の会話は続かなかった。みんなどうしてるんだろう。教えてくれてもイイのに。講義もなんか高校の時の焼き直しみたいに感じてる。授業内容じゃなくて、その進め方。これはお父さんに聞いたんだけど、わざと難しい質問をして、
    「これぐらいわからないのか」
 こうやって叱咤する手法があるんだって。お父さんは好きじゃないって言ってたけど、それをやる教師も少なくなかった。仕方がないからウチが答えてたんだけど途中から、
    「木村以外にわかる者はいるか」
 これに変わってた。これも考えてみたら不自然だから、そのうちしなくなってた。大学も似たようなやり方をする教授とかもいた。教授は教師よりプライドが高いのか、医学生になぜあれほど先端の議論の分かれる質問をするのか不思議やった。議論が分かれてるから、答えるのに大変というか、時間がかかったけど、講義の三分の一ぐらい潰れちゃうから、そのうちやらなくなった。

 医学部の勉強の方はとりあえず順調。それと教授のところからの通学で時間に余裕が出来たので、友だちと遊びにも出かけられるようになった。これもそんなことをしたら、教授や、美知子さんに怒られるんじゃないかとヒヤヒヤしてたんだけど、

    「美知子、服をちゃんと考えてやれ、小遣いもちゃんと渡すんだぞ」
    「言われなくたって、ちゃんとしますよ」
 なんかポカンとしてたウチやけど、
    「大学生なんだから、遊びも大事よ。由紀恵さんは勉強の方は何も心配してないけど、それ以外が心配だったの。パアッと遊んでらっしゃい」
 お酒も覚えた。これも理由はようわからへんかってんけど、ビールを飲むと妙に懐かしい気がした。初めてのはずなのに、昔から、それも半端やないぐらい昔から知ってる気がなぜかした。昔、昔と言っても、そんなに生きてる訳じゃないし、お父さんも高校教師だったからか、
    「由紀恵、お酒は二十歳から」
 こういって一緒に飲んだことないの。もっとも、お父さんはお酒に弱くて、家でもほとんど飲まなかったのが大きかったと思う。もっともお父さんとは違って、ウチはなんぼでも飲めるみたい。コンパってのにも誘われて行ったんだけど、とにかくお酒を勧められたんだ。

 ビールから始まって、ワインとか、ウイスキーとか、ブランデーとか、カクテルとかいっぱい飲んだ。美味しかった。いくらでも奢ってくれるみたいだから、ドンドン梯子して、

    「次はどこ?」
 そう言って振り返ったら、
    「木村は酔わないのか」
    「酔ってるよ」
    「まだ飲めるのか」
    「えっ、もう終り」
 真っ青な顔してぶっ倒れちゃった。大騒ぎになって、救急車まで呼ばれて哀れ母校の救急に。急性アルコール中毒だったみたい。帰ってから教授と美知子さんに、
    「お酒、弱かったみたい」
 聞かれるままに、どれだけ飲んだかを話したら美知子さんがあきれるように、
    「由紀恵さん、気を付けなさい。あれはね、由紀恵さんを酔い潰して襲う気だったのよ」
    「でも、まだまだ飲めたし」
    「由紀恵さんのお酒は底なしなんてものじゃないわね。でも気を付けなさい」
    「は~い」
 なんか危なかったみたい。そうそう生活費も心配だったんけど、教授も美知子さんも話題にさえさせてくれないの。美知子さんなんて、
    「おカネのことを口に出したら家から追い出す」
 甘えちゃってるけどイイのかな。