氷姫の恋:入学式

 入学式は体育館で行われたが、校歌斉唱、校長挨拶、なにやら注意があり、その後に順番に名前を読み上げられるありきたりのもの。少しだけ気になったのは校長の挨拶で、

    「わが校の校風は自主性と自由闊達です」
 カビの生えたような伝統校だから『質実剛健』ぐらいが出るかと思ってたら意外だったぐらい。入学式が終わると教室に移動。担任教師の挨拶と明日からのスケジュールの話しがあった。ここも進学校だからと思うが、あれやこれやと脅し文句が入ってた。

 それでもさすがにこの日はオシマイ。学校の敷地は田舎だけあって広い。そのうえ、校舎を建て替えた時に六階建てにしたもので、さらに空地が増えてる感じ。ウチもキョロキョロと見ながら歩いていたら、

    『ドスン』
 誰かに思いっきりぶつかった。拍子とはそんなもので、ウチは無様にもお尻から転んだ。正直なところ痛かった。ふと見上げると相手は同じ新入学の男子生徒。こんな奴にぶつかったんは不覚と思ったけど、そいつが、
    「だいじょうぶ」
 そう言って手を差し伸べてきた。そう、この時に不思議な感覚が体を走った。普段のウチならトットと立ち上がり、何事もなかったかのように立ち去るんやけど、つい差し伸べた手を握ってしまった。その手が温かかった。引き起こしてくれても、なぜか手を放したくなかった。
    「ゴメンね、よそ見してたから気が付かなかった」
 ここでも普段のウチなら何も話さずに立ち去るのに、なにか答えなくてはいけないの思いが心に湧き上がって止まらなくなってしまった。
    「ありがとう、だいじょうぶです」
 そして男は友だちに呼ばれて去って行った。ウチは茫然とした。掌には男の温かみがしっかり残ってる。そう、あのずっと手を握っていたい思いもずっと残ったまま。それだけでなく、確実に心拍が早くなってる。なんなのコレ、ウチの体に何が起ったというの。男にぶつかって、ちょっと手を握っただけなのに、ウチはどうなったというんや。

 なにかウチの中で確実に変化が起きてる。それも、時間が経つにつれて大きく、激しくなっているのが確実にわかる。中三の時に鬱陶しく絡んでくる奴に不快感情が動いた時に似ているけど、あれとは違うもっと楽しいもの、喜ばしいものの気がする。これは疑いようがない、

    『惚れた』
 好きになったじゃない、惚れたんだあの男に。このウチが男を愛しているんだ。そう自覚すると体が慄えてきた。男どころか人だって興味がなかったウチが、男をいきなり好きになるなんて信じられない。

 帰り道は自分との格闘だった。あの男は見栄えのしない男やないか。ウチだって女だから男を好きになっても構わないと思うけど、選ぶのなら他にもっといるじゃないか。どうしてあの男に惚れなきゃいけないんだって。単にぶつかって助け起こしてくれただけの仲じゃないかって。

 必死になって否定しまくったけど無駄な努力だった。その夜はあの男のことを考えると殆ど眠れなかった。どんなに頑張っても、あの男に惚れた感覚は排除できないどころか、ドンドン、ドンドン膨らんでいくだけだった。そんなウチの態度を訝しんだのか伯母が、

    「どうしたの、少し変よ」
    「なんでもありません」
 そうそう入学式の後のホームルームでウチは委員長に指名されてる。『なんでウチが』と思ったけど、どうやら新入学の一学期の委員長は入学成績のそのクラス内のトップが指名されるようだ。こんなところで断っても無駄やから受けといた。
    「起立、礼、着席」
 委員長やからこの仕事は逃げられないのが辛いけど、夏休みまでは仕方がない。ただ授業が始まっても考えているのはあの男のことばかり。一年生なのは間違いなけど、名前は、何組、それより何より、どうしたらもう一度、話が出来るかって。そうしたら当てられた、
    「木村さん、前に出てこの問題を解いてください」
 どうも上の空の様子を見抜かれたみたい。そういえば数学の授業だった。なにを教えてたか耳になんにも入ってなかったけど、とりあえず解いたら良さそう。
    「出来ました」
 なんか妙に捻った問題だったけど、トットと書き上げたら、
    「正解だが・・・ココとココに使ってる公式はまだ習っていないはずだが」
 しまった。まだ実質的に中学生だった。
    「すみません。公式の証明をします」
    「木村はそれも出来るのか・・・長くなるから今日はしなくても良い」
 ウチはあの男のことをひたすら考えてたのだが、よほど上の空に見えたらしく、英語の授業も当てられて黒板で和文英訳やらされた。英語の授業も全然聞いてなかったんやけど、和文の方はなぜかシェークスピア。シェークスピアは原語で全部覚えてるから、そのまま書いた。
    「木村はオリジナルの原文で覚えているのか・・・これがたぶん本当の正解だが、できれば現代英語で書いてくれたら嬉しかった」
 あ、そうか。ここは高校で英語の授業だった。シェークスピアは中英語時代から近代英語への変換期の偉大な戯曲家だけど、現代英語とはちょっと異なる部分があるんだった。
    「書き直します」
    「いや、それには及ばない。ボクだって原文まで覚えてないから」
 とんだドジだったんだけど、この日の授業でエライ目立ってしまった。妙に話しかけてくるのも多い。これも今までなら、睨んで追っ払っていたが、今日はそうする気にならなかった。ウチとしては飛び切りの愛想よさだったはずだけど、
    「木村は怖い」
    「委員長は怖い」
 わからんでもない。表情が変えられないのよ。十年近く笑ったり、喜んだりする顔してなかったから、やろうと思っても出来ないの。声の調子もそう。や、やばい、きっとあの男と話した時もそうだったに違いない。そうなるとウチがあの男に与えた印象も、
    『怖い』
 こんなもの、すぐにはどうしようもなじゃない。やっぱり男は可愛い女が好きだろうし、怖い女は避けるよなぁ。でも時間はまだある、いや始まったばかりやないの。まずあの男が誰であるかを調べ出さないと始まらない。とりあえず高校二日目は終了。それにしても可愛い女ってどうしたら良いものやら。