続銭経済のお話

公式枡

お金の話になるとその価値はどうであったかを評価したいのですが、これが非常に難儀なお話になります。常套手段として特定の物に対する価格の変遷を基準にしたりしますが、その物自体の貴重性も時代で大きく変わるために厄介至極になります。そういう物の中で比較的継続性が高いものに米があります。米の価格の変遷を一つの軸に貨幣価値を評価しようとするのは良く使われます。ただ米も実は厄介なところがあって、現代でこそ重量で数えられますが、歴史的には容量で数えられます。現代でも使われていますが、石・斗・升・合・勺です。

石・斗・升・合・勺が十進法であるのは古来同じなのですが、その容量は時代とともに変遷します。たとえば律令期、とくに奈良期は現在の0.4掛けだったようです(今日は奈良枡と呼んでおきます)。ではではこれが律令期に一貫して使われていたか言えばそうでもなさそうです。律令体制は平安期に崩れてくるのですが、容量を計る枡の大きさが変わってきます。よほどマチマチになっていたようでこれを統一するために後三条天皇時代に宣旨枡が定められます。これが現在に較べると0.627掛けになっています。奈良枡にくらべて1.5倍ぐらいになっています。

宣旨枡はどうやら鎌倉期ぐらいまで公定枡の地位を守っていたようですが、南北朝時代、さらには室町時代になると公定の権威を失い、マチマチの枡が使われるようになったとされます(鎌倉期も宣旨枡以外の枡もかなり使われていたようです)。米も商品作物の側面があるので計量の基礎である枡がマチマチなのは不便と言う事で、信長は畿内で広く使われていた京都十合枡(京枡)を信長領内の基準枡に定めます。

京枡は秀吉、家康にも受け継がれて定着したようにも見えましたが、ここでさらなる京枡が出現します(新京枡)。寛永年間のお話とされます。このために従来の京枡は江戸枡と呼ばれる事になったそうです。どれぐらいの違いがあったかですが、おおよそ3.7%ぐらい新京枡の方が大きくなったようです。1斗につき4合弱ぐらい新京枡の方が多くなることになります。容量の違う枡が並立するのは好ましくないと江戸幕府は判断し、江戸期は新京枡に法で統合される経緯を取る事になります。現在に至るまで新京枡が使われていると考えて良いようです(メートル法採用に伴い米は容量でなく重量で計るように明治期には変更されています)。ざっと公式枡の変遷をまとめておくと、

    新京枡1斗 = 江戸枡1.037斗 = 宣旨枡1.59斗 = 奈良枡2.5斗
こういう関係になります。ここから判るのは枡の大きさが時代と共に拡大している事です。大きくなり方は江戸枡から新京枡の変化が参考になりそうな気がします。ある基準の枡が出回った頃に新たな少し大きめの枡が出現するぐらいでしょうか。この辺はユーザーの要望と枡販売業者の思惑が絡み合ってのものにも見えます。

理由はってことになりますが、これは単純そうです。枡は米を税として取り立てる時の基準単位になります。その枡が大きいほど税収が増える事になります。たとえば国司が税として米を徴収する時に奈良枡より大きな独自の枡を使い、京都に米を送る時には奈良枡を使えば差益は自分の物になります。商売でもそうで買う時には大きな枡を使い、売る時には小さな枡を使えば利益が大きくなります。

もちろんそんな行為が酷くなれば不満の声が上がります。不満の声が大きくなった時に為政者がどう対処したかの類例が後三条天皇の宣旨枡にあるような気がします。正すとなれば横行している大きな枡を廃止し、律令期の奈良枡すればよさそうなものですが、実態が大きな枡での徴税により財政が現実に支えられてしまっており、これを小さな元の枡に戻すと困った事になってしまうの現実的な判断でしょうか。税率(合単位)を変えずに収入を確保するには現状追認で大きな枡を公認してしまったぐらいに思えます。

江戸幕府は枡の大きさを守るために重罰をもって臨んでいますが、幕藩体制下では諸藩は武家諸法度を除いて基本的に独立しています。そのために藩枡と呼ばれる独自枡が使われ続けたところもあったようです。これも考えれば理由は単純で税収アップのためと思います。年貢米を現金化するには大坂で現銀化しなければならないのですが、税として取る時は大きな藩枡、売る時は小さな新京枡てな具合です。


貫高制

銭経済が鎌倉期に普及拡大した傍証として貫高制があるような気がしています。貫高制とは土地の産物を銭で評価したものです。どこそこの村は何貫の生産高があるってな評価ぐらいの理解で良いかと思います。そうなった背景の一つに税を銭で納めるのが拡大していたぐらいでしょうか。朝廷も律令制の物納から銭納に切り替えています。鎌倉幕府もまた同様であったと考えています。

銭で税金を支払ってもらうメリットは・・・再び米を税金で納めるようになった江戸期と較べると判りやすいかもしれません。江戸期は税を米で集めます。藩も家臣も自分で食べる分はともかく残りを換金しないと生活費が捻出できません。そこで藩なら大坂なりに米を運んで換金する訳です。とはいう物の米は嵩張る物品ですから、輸送費や大坂での蔵屋敷の運営維持費にコストが必要です。これが銭で手に入ればそういう手間は省かれます。また江戸期は秀吉が作った大規模取引市場が大坂にありましたが、鎌倉期はたとえば関東なら鎌倉に米を運び込んでも現金化するのは簡単じゃなかった気もします。もっとも納税者側の農民がどうやって銭を手に入れたのかは良くわかりません。小口取引のシステムは出来てたんでしょうかねぇ。とにかく銭さえあればなんとでも交換できる常識が鎌倉期には全国レベルで普及していたんだろうとおもいます。

でなんですが貫高制が確立するには銭の農作物(ここは米に単純化します)に対する交換レートが安定している必要があります。これが乱高下すれば貫高制はどうしようもなくなります。これがいくらだったかの情報は2つしか集められませんでした。

  1. 1251年の銭直法では米1石が銭1貫文であった
  2. 貫高制から石高制に切り替えられた頃の全国平均は「1石 = 2貫」になる
13世紀から15世紀終わりぐらいでに米価は2倍になったと見ても良いのですが上述した枡問題があります。13世紀の時点は宣旨枡であり、15世紀終わりの時点が京枡だと考えると米の量はおおよそ1.5倍ぐらいになります。そうであれば25%ぐらいの米高銭安ぐらいになります。200年間でそれぐらいであれば安定していたと見ても良さそうな気はします。実はこれに「さらに」が加わります。


撰銭令

恥ずかしながら撰銭令って言葉の意味を私は今まで勘違いしていました。撰銭が発生した背景を簡単に書けば、北宋は大量の宋銭を鋳造しています。しかし南宋になってからは鋳造量は減り、その代わりに銀貨と紙幣が中心になっていきます。元代は調べていないのですが、明代になると大陸帝国内での銭の流通が禁止され、銀貨と紙幣に置き換えられてしまったとなっています。ほんじゃ永楽通宝はどうなんるんだと言われそうですが、大陸帝国の日本も含む周辺国家は銭経済ですから、こことの交易用にのみ基本的に使われたそうです。さらに明は海禁政策を取るようになりますから大陸からの銭の流入はドンドン減る事になります。

経済は景気とそれに見合った量の流通貨幣のバランスが基本なんですが、当時の日本は常に貨幣不足状態です。経済規模に見合う銭の量がなかったぐらいの理解で良いかと思います。そのために鐚銭の比重が時代が下るとともに増えていきます。鐚銭には質の悪い私鋳銭(大陸のものが多かったそうです)もありますが、公式の宋銭であっても長年使っていると擦り切れて文字も読めなくなってきたものも含まれます。そういう鐚銭での取引を商人は嫌がる行為を撰銭とするようです。

それでは鐚銭を廃棄すれば良さそうなものですが、大陸からの新規供給が減り、一方で貨幣需要が増大していますから、鐚銭も使わないと銭経済が回らない事情もあります。そうそう鐚銭が増大した背景にはこんなものもあったそうです。wikipediaより、

元や明ではすでに銅銭の信用が低下しており、貿易を独占するような権力者や大商人たちは、これを安い元手できわめて容易に入手

鐚銭を大量に買い付けて流通させていたのが権力者であったぐらいです。そういう権力者にとって撰銭をされると困るので撰銭令、つまり良貨であろうが悪貨であろうが1文は1文として使えの命令が何度も下されたともなっています。どれぐらい鐚銭の比重が高かったかですが、信長が上洛時に朝廷に献上した鳥目がすべて鐚銭であったと言われ、口うるさい京雀に陰口を叩かれたとの記録が残っているそうです。これは信長であっても良貨を集めるのが容易でなかった証拠ともされています。もっとも信長が何らかの政治的意図を含ませた可能性もありますが、そんな話もあったぐらいでここは置いておきます。

本来の撰銭令は鐚銭の公認なんですが、信長の行った撰銭令は私が知っている撰銭令です。wikipediaより、

織田信長は、1569年(永禄12年)から翌年にかけて撰銭令を発令している。まず厳罰を課して撰銭の阻止を目論んだ。また、当時京都で流通していた銭貨10種を品質によって3段階に分類してそれぞれの交換相場を定め、また金銀を代用貨幣として認めることで流通の円滑を目論んだ。

さらっと書いてありますが、従来の撰銭令とはかなり違うものであるのがわかります。鐚銭も通用させると言う面では撰銭令ですが、鐚銭と良貨のスクエアを強制するのではなく、鐚銭の良貨との相対レートを設けています。また銭と金銀との公式レートをもうけ、銭の価値の裏付けを行ったとも見えます。信長の撰銭令による銭の安定は秀吉、家康と受け継がれていったのですが、信長の前の状態を考えると鐚銭比重が増えた銭の価値が落ちていたと見ても良いかと思います。そこを勘案すると米に対する銭のレートはそれほど大きく変動しなかったと見ても良い気がします。


銅生産量

銭経済混乱の根本治療は江戸幕府が銭を公式発行する事により鎮静をみたとなっています。江戸期に銭が安定したのは平和と治安の向上もあったと思いますが、それまでの鎌倉期、室町期でも幕府が銭を発行しても良かったはずです。なぜだろうってところです。当時の銭需要は大きかったですから、少々作ったぐらいでインフレが促進されたとは思いにくく、また発行者である幕府は作った分だけそれなりに収益になりそうなものです。また銭鋳造技術はあったはずです。

それを行わなかったのは様々な理由があるとは思いますが、原料である銅の不足はまずあったと見ています。皇朝十二銭の質が下がったのも銅の不足とされていますし、平安期の末世思想が蔓延した時に仏像を作るために宋銭を輸入したのも傍証にはなります。他になにかソースがないかとググってみたのですが第2章 我が国の銅の需給状況の歴史と変遷を読んでも鎌倉期までの銅生産量はかなり曖昧な記述しかありませんでした。ただ室町期に入ると銅の生産量は上がっていたと考えても良さそうな記述になっています。

では室町幕府がなぜに銭を発行しなかったかになりますが、銅の全国生産量は増えたとしても、それを幕府が強制的にでもかき集める政治体制がなかったためではないかと考えています。室町期は守護大名の時代になりますが、幕府でも守護大名領内の銅山を幕府管理下に置けなかったぐらいの見方です。さらにを考えると日明貿易で大陸で価値が低下した銭を大量に集められたのもあった気がします。わざわざ作らなくても容易に手に入るので自らの手で発行しようとの発想は出なかったぐらいでしょうか。


国内の銭の量は?

これがまた雲をつかむようなお話になるのですが、平安後期の田から採れる米の量を延喜式と七分法で概算すると720万石(新京枡)ぐらいになります。「1石 = 2貫」とすると貫高で1440万貫になります。鎌倉・室町期の税率は米とそれ以外を合わせて50%ぐらいの説がありますから、すべて銭で納められたら720万貫が必要になります。銭は税だけではなく蓄財や、商品売買にも使われます。そこら辺を考えると1000万貫ぐらいは最低必要な気もしないでもありません。盛んに銭が鋳造された北宋期の生産量は、

北宋代には銅銭や鉄銭の鋳造量が格段に増え、太宗の至道年間(995年-997年)80万貫(八億銭)から、真宗の景徳年間(1004年-1007年)には183万貫となり、神宗の元豊元年(1078年)には506万貫と最高点に達する。元豊年間の増産により一応の安定を見たため、その後は6割程度の鋳造量で推移した。

北宋は960年から1127年までなのですが、どれぐらい作られたかは難しいのですが平均で200万貫を150年続けたとして3億万貫です。その1/30ぐらいですから運び込めたのかなぁ。それ以前に国内の銭の量が1000万貫で足りるかどうかも経済学に疎いので根拠は非常に薄弱です。よく判らないのでこの辺に留めさせて頂きます。