延喜式民部省主税寮の諸國運漕雜物功賃に海路部分の規定がありま、そこからのムックです。この海路運送の解釈が思いの外に難しくて、「とりあえず」はこんな解釈をしましたぐらいに留まらざるを得なかったのを遺憾とさせて頂きます。
延喜式からです。
ここも読み分けると
この5つ航路に- 敦賀 → 塩津
- 大津 → 京
- 若狭・越前は挾杪1人・水手4人が1セットで50石を輸送
- 越後は水手1人に付き8石
- 佐渡は書いていない
海路 | 米1石 | 挾杪 | 水手 | 計 | 1斗コスト | 15斗(1駄) | 輸送単位 |
勝野津 →大津 | 0.20 | 8.00 | 6.00 | 42.00 | 0.08 | 1.26 | 50 |
比楽湊 →敦賀津 | 0.70 | 40.00 | 20.00 | 155.00 | 0.31 | 4.65 | 50 |
蒲原津湊 →敦賀 | 2.60 | 75.00 | 45.00 | 338.20 | 1.06 | 15.85 | 32 |
佐渡→敦賀 | 1.40 | 85.00 | 50.00 | 329.80 | 1.03 | 15.46 | 32 |
塩津 →大津 | 0.60 | 12.00 | 8.00 | 74.00 | 0.15 | 2.22 | 50 |
石別米二升,屋賃石別一升
屋賃ってなんぞやなるのですが、とにかく1石あたり1升コストが増えると解釈します。それと
加賀・能登・越中の海路も越前と同じとなっています。この「亦同」なんですが、越前海路で書いてある比楽湊は加賀の手取川の河口部に位置します。そうなると加賀・能登・越中の雑物はすべて加賀の比楽湊に集められて、そこから敦賀に向ったと解釈して良さそうに思います。能登からも少々距離がありますが、越中からとなると海路でも能登半島をグルっと回る必要があります。気になるのは「能登・越中 → 比楽湊」の間の輸送費ですが、「亦同」とあるのでマルメと解釈して良いのでしょうか。謎は残りますが書いていないので「亦同」と見なす事にします。
これも難儀しました。あれこれ考えた末なんですが北陸航路は単純化すると
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北陸諸国 → 敦賀 → 塩津 → 大津 → 京
自敦賀津運鹽津駄賃,米一斗六升
実はこれだけでは何が米一斗六升か不明です。そこで他の陸路部分の表現を並べてみます。
並べてわかるのは与等津−京は車賃であり他は駄賃となっています。へぇってところで与等津から京へは荷車輸送だったようです。それと与等津−京の表現は明快で1石につき5升が運賃となっています。そう考えると大津−京の「別米八升」も1石につき8升と解釈して良さそうです。そうなると敦賀−塩津も1石につき1斗6升と解釈すべきと考えます。石単位の表現は舂米単位と解釈しますから束に換算すれば2倍になります。でもって1駄は年料舂米で15斗(1.5石)になりますから、陸路 | 15斗(1駄) |
敦賀→塩津 | 4.8 |
大津→京 | 2.4 |
与等津→京 | 1.5 |
美作 → 方上津 | 5.0 |
美作國。【廿一束。但從國運備前國方上津駄賃五束。】
ここは1駄(15斗)につき5束と解釈しています。
後は継ぎあわせれば北陸の海路コストが計算できる事になります。ごそっと集計してみます。
国名 | 行程 | 1駄(15斗)換算 | ||||
→敦賀 | 敦賀→塩津 | 塩津→大津 | 大津→京 | 海路 | 陸路 | |
越前 | 4.65 | 4.80 | 2.22 | 2.40 | 14.07 | 24 |
加賀 | 4.65 | 4.80 | 2.22 | 2.40 | 14.07 | 24 |
能登 | 4.65 | 4.80 | 2.22 | 2.40 | 14.07 | 78 |
越中 | 4.65 | 4.80 | 2.22 | 2.40 | 14.07 | 78 |
越後 | 15.85 | 4.80 | 2.22 | 2.40 | 25.27 | 105 |
佐渡 | 15.46 | 4.80 | 2.22 | 2.40 | 24.88 | 108 |
- 播磨國海路。【自國漕與等津船賃,石別稻一束,挾杪十八束,水手十二束。自與等津運京車賃,石別米五升,但挾杪一人,水手二人漕米五十石。美作、備前亦同。】
- 美作國【廿一束。但從國運備前國方上津駄賃五束。】
- 備前國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束,挾杪廿束,水手十五束。自餘准播磨國。】
- 備中國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束二把,挾杪廿三束,水手廿束。自餘准播磨國。但挾杪、水手各漕米十石。】
- 備後國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束三把,挾杪廿四束,水手廿束。但水手一人漕米十斛。自餘准播磨國。】
- 安藝國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束三把,挾杪四十束,水手廿五束。但水手一人漕米十五石。自餘准播磨國。】
- 周防國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束三把,挾杪四十束,水手卅束。自餘准播磨國,但挾杪一人、水手二人漕米五十石。長門國亦同。】
- 長門國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束五把,挾杪四十束,水手卅束。自餘准播磨國。】
- 紀伊國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束,挾杪十二束,水手十束。自餘准播磨國。】
- 淡路國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束,挾杪十二束,水手十束。但挾杪、水手各漕米八斛二斗。自餘准播磨國。】
- 阿波國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束一把,挾杪十四束,水手十二束。但挾杪、水手各漕米十斛。自餘准播磨國。】
- 讚岐國海路。【自國漕與等津船賃,石別六把三分,挾杪廿束,水手十六束。但挾杪、水手各漕米十斛。自餘准播磨國。】
- 伊豫國海路。【自國漕與等津船賃,石別一束二把,挾杪卅束,水手廿五束。但挾杪、水手各漕米十斛。自餘准播磨國。】
- 土佐國海路。【自國漕與等津船賃,石別二束,挾杪五十束,水手卅束。但挾杪、水手各漕米八斛。自餘准播磨國。】
- 太宰府海路,【自博多津漕難波津船賃,石別五束,挾杪六十束,水手四十束。自餘准播磨國。】
こっちも難儀です。それでも瀬戸内海航路は北陸航路より琵琶湖を挟まない分だけシンプルで
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自国 → 与等津(伏見)→ 京
- 播磨・美作・備前・周防・長門・紀伊は挾杪一人・水手二人で50石とします
- 備中・安芸・阿波・讃岐・伊予は挾杪、水手各漕米十石・・・挾杪・水手2人で30石とします
- 備後は水手一人漕米十斛・・・挾杪・水手2人で20石とします
- 淡路は挾杪、水手各漕米八斛二斗・・・挾杪・水手2人で24.6石とします
- 土佐は挾杪、水手各漕米八斛・・・挾杪・水手2人で24石とします
海路 | 輸送単位 | 米1石 | 挾杪 | 水手 | 計 | 1斗コスト | 15斗(1駄) |
播磨→与等津 | 50 | 1 | 18 | 12 | 92.00 | 0.18 | 2.76 |
方上津→与等津 | 50 | 1 | 18 | 12 | 92.00 | 0.18 | 2.76 |
備前→与等津 | 50 | 1 | 20 | 15 | 100.00 | 0.20 | 3.00 |
周防→与等津 | 50 | 1.3 | 40 | 30 | 165.00 | 0.33 | 4.95 |
長門→与等津 | 50 | 1.5 | 40 | 30 | 175.00 | 0.35 | 5.25 |
紀伊→与等津 | 50 | 1 | 12 | 10 | 82.00 | 0.16 | 2.46 |
備中→与等津 | 30 | 1.2 | 23 | 20 | 99.00 | 0.33 | 4.95 |
安芸→与等津 | 30 | 1.3 | 40 | 25 | 129.00 | 0.43 | 6.45 |
阿波→与等津 | 30 | 1.1 | 14 | 12 | 71.00 | 0.24 | 3.55 |
讃岐→与等津 | 30 | 0.63 | 20 | 16 | 70.90 | 0.24 | 3.55 |
伊予→与等津 | 30 | 1.2 | 30 | 25 | 116.00 | 0.39 | 5.80 |
備後→与等津 | 20 | 1.3 | 24 | 20 | 90.00 | 0.45 | 6.75 |
淡路→与等津 | 24.6 | 1 | 12 | 10 | 56.60 | 0.23 | 3.45 |
土佐→与等津 | 24 | 2 | 50 | 30 | 158.00 | 0.66 | 9.88 |
国名 | 行程 | 1駄(15斗)換算 | ||
→与等津 | 与等津→京 | 海路 | 陸路 | |
播磨 | 2.76 | 1.5 | 4.26 | 15 |
備前 | 3.00 | 1.5 | 4.50 | 24 |
周防 | 4.95 | 1.5 | 6.45 | 57 |
長門 | 5.25 | 1.5 | 6.75 | 63 |
紀伊 | 2.46 | 1.5 | 3.96 | 12 |
備中 | 4.95 | 1.5 | 6.45 | 24 |
安芸 | 6.45 | 1.5 | 7.95 | 42 |
阿波 | 3.55 | 1.5 | 5.05 | 27 |
讃岐 | 3.55 | 1.5 | 5.05 | 30 |
伊予 | 5.80 | 1.5 | 7.30 | 30 |
備後 | 6.75 | 1.5 | 8.25 | 33 |
淡路 | 3.45 | 1.5 | 4.95 | 12 |
土佐 | 9.88 | 1.5 | 11.38 | 105 |
遠江國,【卅五束。】海路米一斛充賃稻廿三束
こうなってるのですが、どことどこを海路で結んでいたのかわかりません。遠州灘と言うか伊勢湾の水運と言えば七里の渡しで宮宿と桑名を結ぶものがまず思い浮かびます。また湊として安濃津も有名です。ちょっと古代の街道を考えてみたいのですが、古代でも東海道も東山道(中山道)もありました。このうち東海道は太平洋沿岸を通って鈴鹿関を目指し、東山道は不破関を目指したとなっています。このうち東海道ですが今の濃尾平野が一つの難所だったようです。濃尾平野には長良川、木曽川、揖斐川の木曾三川を越えるのは容易でなかったぐらいでしょうか。そのために江戸期の東海道も七里の渡しを設けたとされています。
これは律令期でも基本的に同じで、濃尾平野を迂回するために伊勢方面への航路が活用されていたと言われています。遠江からの海路がどこから始まったかは不明ですが、やはり伊勢湾を横断するルートを使っていたと考えたいところです。ここもどうやら程度の知識で申し訳ないのですが、古代の公式輸送時には尾張から北上して不破関を目指すルートは禁じられてなんて情報があります。ですので東海道を西に進んで来たらどうでも伊勢から鈴鹿関を越える必要があったようです。遠江のケースをもう少し細かく考えると上陸した伊勢からの駄賃は12束です。遠江のマルメの功賃は1石に付き23束、1駄(15斗)換算で34.5束になります。つまり、
- 遠江 → 伊勢:22.5束
- 伊勢 → 京都:12束
遠江が海路を利用していたのは確認できるのですが、ほいじゃ、それ以外の国はどうだったんだろうと言うところです。三河もそうですし、駿河以東の国々もそうです。もちろん利用していたと思います。それが安濃津の繁栄につながり平氏台頭の基になったのは史実だからです。ほいでも遠江だけ延喜式に何故記載されているかは興味深いところです。
北陸航路も面白いところで、江戸期には北前船で栄える事になったのは周知の事です。その原型みたいなものが既に存在していた事はわかります。それは良いのですが敦賀以西の国々の海路が延喜式には乏しいのがあります。そんな中で因幡だけがあります。
因幡國,【卅六束。但海路米一石運京賃,稻十四束五把三分。】
この因幡から京へのルートはどうだったんだろうと考えるのは興味深いところです。ありきたりに考えると、
こういうルートがまず思い浮かびます。ただそういうルートが使えるのなら因幡だけでなく但馬や出雲、伯耆だって使いそうなものです。海路のコスト上の有利さは上記した通りですから因幡だけが使うと言うのも妙と言えば妙です。延喜式の海路の表現には類型がありそうで、とりあえず遠江と因幡は似ています。遠江は上述したように一部海路を使うと推測しています。同時に多くの陸路を併用します。遠江なら桑名や安濃津あたりに上陸して鈴鹿関を越えて京を目指す感じです。そうであれば因幡も陸路が多いコース設定だった可能性が出て来ます。おおよそで言えば因幡を南下して美作を抜け方上津から瀬戸内海航路を使うルートです。具体的には、-
因幡 → 美作 → 方上津 → 与等津 → 京
- 美作 → 方上津:5束
- 方上津 → 与等津:2.8束
- 与等津 → 京:1.5束