日曜閑話58

今日のお題は「湊川の戦い」。太平記の時代は基本的に嫌なんですが、前にも当直明け様から「是非」のリクエストがあり、年末にやった一の谷合戦との相関性もありそうなのでやってみます。


太平記の時代が嫌いな理由

太平記の時代の前は鎌倉期です。この時代は長かった京都貴族による平安時代が終わりを告げ、京都貴族に代わって力をつけた武士が実権を奪った時代です。この鎌倉時代も相続制の問題などもあり、さらに元寇で生じた恩賞問題もあり終わりを告げます。この鎌倉期を終らせたパワーがよく言えば現実主義、悪く言えば物欲主義と見ています。

鎌倉期を通じてさらに力をつけた武士たちは、さらなる肥大化を欲していたのだと見ています。鎌倉初期の武士たちは数こそいましたが、各領主の力は戦国期以降の大名とは桁が違うと見ています。それこそ江戸期の旗本程度のものです。これが力をつけて大名クラスに近づきつつあり、さらに大名たらんとしたのが太平記の時代と見ています。

源平期から鎌倉期の個人の武勇が「一所懸命」につながっていた時代は終わり、自分の大きくなった所領の保護だけではなく、さらに大きくしてくれるリーダーを求めた時代とでも言えば良いでしょうか。南北朝と言う争乱の軸らしきものはありましたが、戦っている武士たちはその大義に参集している訳ではなく、「どっちがお得か」の判断だけで動いていた時代とでも言えば良いでしょうか。

そういう中で一番気前の良いリーダーが尊氏だったわけであり、尊氏もその期待に応えてバンバン褒美をばら撒き、最後の勝者となったぐらいでしょうか。そういう物欲主義者相手では、裏切りを「許せん」なんて感覚では誰も集まらず、「う〜ん、褒美が足りんかったか」ぐらいで対応していく感覚が必要だったと思っています。あまりにもその辺が露骨過ぎて、歴史ロマンが語り難いと言った所です。


これがまた良くわからない人物です。実質的な活躍期間はわずか6年ぐらいとされています。まさに彗星のように太平記の時代の初期に現れ消えていった人物です。鎌倉幕府御家人でもなく、出自も不明、どうもなんですが馬借や車借の大親分ぐらいのイメージがあります。当時的には悪党になるのですが、wikipediaより、

日本の歴史において、中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を指す。この場合の悪とは、剽悍さや力強さを表す言葉。あるいは、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価を指す。

それこそ山賊の親玉ぐらいかもしれません。そういう悪党なら既成の正統支配者である鎌倉幕府とはお互いに敵視する関係になります。後醍醐天皇が正成を苦境の中で呼び寄せたのは、そういう理由であったのかもしれません。ただ正成は山賊の親玉やヤクザ者の大親分よりはかなり教養があったのかもしれません。その辺が後醍醐天皇にも信頼された一因かもしれません。

それでも皇国史観にあったような皇室への一徹な忠義者かと言うと、最近の研究ではどうも違うの説が多いようです。これは私の推測ですが、正成が欲しかったのは身分であったと見ています。鎌倉体制では悪党としか生きられなかったので、これを正式の武士階級として認められたいです。悪党の方が今から見れば自由な感じがして良さそうですが、当時の身分観はそんな生易しいものではなく、悪党となれば人扱いされないぐらいとすれば良いかと思います。そういう教養が正成にはあったんじゃないかです。

正成が後醍醐天皇をどう見たかは不明ですが、正成が身分を得るには飛び切りの人物です。この時期でも天皇は身分の家元ぐらいのところがあります。落魄していたとは言え天皇に違いはありませんから、一世一代のチャンスとして鎌倉幕府打倒のバクチに乗ったんじゃないかと見ています。これこそ千載一遇の機会であり、かなり条件は悪いが、これぐらいは無理しないと身分を得る事は難しいの判断です。

正成のバクチは成功し鎌倉幕府は崩壊し、建武の新政が始まります。正成は功臣として列せられ、身分も地位もさらに名声も手に入れることに成功します。ただ建武の新政はこれまたアッサリ瓦解します。後醍醐天皇や京都貴族の政治感覚では、武士たちの肥大化要求に応えられなかったからです。鎌倉幕府さえ倒れたら京都貴族に政治の実権がかえって来る幻想を持っていたと思っていますが、実権は遠の昔に京都貴族から武士に動いていたと言う事です。


正成も現実は見えていたと思いますが、御家人系統の既成武士と違い正成の身分の裏付けは後醍醐天皇であり、さらに出来たてホヤホヤです。どうしようもない建武政府ですが、正成としてはこれに加担せざるを得ない判断はあったと見ています。やがて尊氏と建武政府の抗争が始めるのですが、成り行き上、正成は建武政府に立って戦います。一度は尊氏軍を破り九州まで追い落としますが、尊氏は勢力を挽回して再び京都を目指して来ます。

この時に梅松論で正成が言ったとされる言葉です。

義貞を誅伐せられて尊氏卿をめしかへされて君臣和睦候へかし。御使いにおいては正成つかまつらん

これをどう取るかですが、正成にとって後醍醐天皇は必要な存在です。しかし後醍醐天皇の政治では武士は治まりません。そうなれば鎌倉期と同様に朝廷の下に幕府を作るのが現実的です。そうすれば正成もヨシ、武士もヨシです。では誰に幕府を開かせるかですが、この時の源氏の血統の有力者は2人で尊氏と新田義貞です。血統的には義貞が上ですが、人気では尊氏が上です。正成は義貞では幕府は無理と見たうえで、さらに両雄は並ばずと見て、義貞を殺した上で、尊氏を引き入れるように進言したと見ています。

そうすればライバル義貞の首(現物)を差し出した朝廷を尊氏が認めるだけではなく、後醍醐天皇の朝廷を認めた上で尊氏幕府を作る期待ができ、その交渉を正成が引き受けると言っていると見ます。これもたぶんですが

    御使いにおいては正成つかまつらん
これは子供の使いではなく、正成の実力の反映もあると見ています。正成の申し入れを認めない、もしくは破るような事があれば、尊氏幕府に対し千早赤阪をもう1度やるぞぐらいのカードをもっての交渉と考えます。そうなった時の正成がいかに手強いかは尊氏も良く知っているはずだからです。しかし朝廷は現実の味方である義貞を取り、正成を遠ざける選択を行います。

でやっと湊川です。


湊川の成算

湊川までの経緯を簡単に説明しておくと、義貞は主力を率いて赤松円心を白旗城に囲みます。おそらく尊氏が来る前に、有力な尊氏方である円心を叩き潰しておく戦略であったと見ます。しかし円心は巧妙に持久戦を戦い、義貞は兵庫に引いて尊氏軍を迎え撃つ体制を取ります。この時に朝廷は再び正成を呼び寄せ、援軍に派遣します。

この時に正成は死を覚悟し、嫡子の正行と櫻井の別れをやって湊川に進むとなっているのが太平記です。今日の本当のテーマは正成に勝算は無かったのかです。個人的には勝算はともかく成算はあったような気がします。まずなんですが湊川の朝廷軍です太平記では

本当に万もいたかはともかく、正成の軍勢が極端に少ないことがわかります。これを死地への道連れを小さくしたとも見る事はできますが、あえて小勢にしたと見ることもまた可能です。そいでもって尊氏軍はおよそ2倍とされます。兵力差が2倍なら平地で正面から激突すれば話になりません。おそらく後世の評価は無謀な小勢であえて平地の湊川で決戦に挑んだ点で正成を見ているのでしょうが、私はちょっと違うと考えています。

正成が陣を敷いたのは会下山です。ここは一の谷の古戦場である事がポイントです。


正成の戦略

尊氏側が大軍である事は正成も知っていたと考えます。大軍は正面決戦には絶対の強みを発揮しますが、弱点もあります。源平時代も、さらには戦国期に至っても共通の弱点である兵站線の問題です。大軍は長期戦を戦うには非常に不利と言う事です。正成はその点をまず狙っていたのではないかです。

これもどうもなんですが、水路を使っての輸送を考えるにしても大阪港は非常に使いにくかったと見て良さそうです。大阪港は淀川の水運が直接利用できるメリットはありますが、一方で河口港であり常に整備しておかないと使い物にならないぐらいで良いでしょうか。だから京都への上洛拠点として大和田の泊が重視されたんじゃないかです。これは朝廷軍も尊氏軍も共通理解で有していたです。だからこそ義貞もここに陣を敷いたわけであり、尊氏もここを橋頭堡として確保するのが重要と判断したわけです。

また会下山、大和田の泊、和田岬あたりは今のような平地ではありません。これは一遍上人縁起からですが、

鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」

これは湊川の戦いの50年ぐらい前の様相ですが、一遍上人の時代からこの地が開拓されたの記録はなかったかと思います。この規模の治水を行うには当時の技術ではどうだったかはありますし、そうしなければならないほど困ってなかったはあると考えます。つまり湊川の戦い当時もあんまり変わらない様相の可能性は十分あります。つまりは広い低湿地帯が西の守りとして天然の要害として存在していたんじゃないかです。wikipediaの地図を引用します。

これを見ると楠木軍がやたらと多いのは気になりますが、これに一の谷をやった時の航空写真を重ねて見てください。
ちょっと判り難いかもしれませんが、和田岬に新田軍は配置されていますが、wikipediaにある地図よりもっと広範囲に湿地帯は広がっていた可能性が有ります。現在のような乾いた平地が広がっていたのなら西から足利軍は攻め寄せて、新田軍を粉砕する方が固い戦術のように見えます。ところが西から攻め寄せた少弐頼尚軍は主力とも言い難く、実際の戦闘でもさしての活躍はしてなさそうに感じます。つまりはこの方面は戦闘に適さない土地なんであろうです。これは一の谷の西の木戸の合戦があまり書かれていないのと類似しています。

一の谷類似といえば、会下山です。ここに何故に正成は陣を敷いたかです。おそらく当時は会下山の南側は湿地帯から湖状態であったんじゃないかと推測します。ポコンと出た高台が会下山であり、そこをまず正成は選んだのであろうです。もう一つ理由があると思います。会下山は鵯越道の終点辺りになります。形勢不利となれば鵯越道から退却しようの算段もあったんじゃないかです。その退却も計算に入れていたのなら大軍は不要でむしろ千人程度の軍勢の方が都合が良いです。鵯越道を使えば藍那から山田にいたり、さらに丹波街道から京都への退却ルートが確保できます。

つまり正成は湊川での尊氏軍上陸阻止を第1段階の戦略とし、上陸が果たせなければ尊氏は九州なりに帰らざるを得なくなるの計算がまず一つです。次に上陸されても鵯越道から山中に籠ってのゲリラ戦が第2段階の戦略です。尊氏軍にしても兵站線の重要拠点である大和田の泊を、あの神出鬼没の正成が常に山から狙っている状況は気色の悪いところです。さらにそれも無理ならそのまま退却が第3段階の戦略です。楠木軍にとって山岳戦は好むところだからです。


尊氏軍の壮大な戦略

尊氏軍は鞆の津と言いますから、はるか広島県で軍勢を2分します。この辺は義貞の赤松攻めの影響かもしれません。陸路は直義が率い、海路は尊氏が率いています。尊氏は船団を率いて湊川の戦場に現れるのですが、注目したいのは直義軍です。おそらく明石あたりでまず軍を分けています。これも「たぶん」なんですが、ここで少弐頼尚軍は海岸沿いに塩屋を抜けて大和田の泊に進軍したと考えます。私は正成がこの情報に惑わされたのだ考えます。どう惑わされたかと言えば、

    これが尊氏軍の陸路のすべてである
まあ常識的な発想で朝廷側の新田主力軍は湊川にいるわけであり、これを陸路と海路から挟み撃ちにするつもりだろうの判断です。ところが実際の陸路直義軍は複雑な動きを見せます。おそらく明石から三木を経由して山田、さらに藍那に至るルートを取ったと考えられます。一の谷の義経ルートです。藍那からさらに軍を分け、山の手の完全包囲体制です。さらに白川道を下っていた直義軍はそこから長柄越をやり丸山方面に進撃しています。前に考察した義経の逆落としルートです。長柄越で直義軍が進出されると会下山の正成軍は背後を衝かれる形になります。さらに正成の生命線である鵯越道の退却ルートも遮断されてしまいます。尊氏軍の戦略は西と海からの挟撃作戦ではなく、これに北も含めた三方面作戦だった訳です。


正成が死地と考えた理由

この時代に一の谷の故事がどれほど知られていたかは不明です。ただ尊氏軍の陸路の配置を見ると義経の故事をかなり踏まえている匂いがします。また正成も会下山に陣を選んだのも同じような匂いを感じます。劣勢の湊川に出陣するに当たり、正成の成算とは実は尊氏軍が義経の故事を踏まない事ではなかったんじゃないかです。平凡に海岸伝いに攻めてくれれば、いざとなっても正成軍は簡単に山に逃げられます。

義経の故事は険路突破が条件ですから、それを尊氏軍が避けてくれれば正成は戦う事も可能ですし、逃げる事も可能な訳です。しかし義経流をやられると包囲戦滅される事になります。ただ正成は尊氏軍が義経の故事を踏む可能性をかなり高く見積もっている可能性を窺わせます。これも梅松論からですが、尼崎から朝廷に送ったものとされます。

正成存命無益なり。最前に命を落とすべき

色んな取りようが成立するわけですが、湊川の前の献策がある程度史実であるなら、「存命無益」は最終的に勝てない尊氏に一時の勝利を重ねる事の無益さを訴えていると取る事も可能です。対鎌倉幕府戦とは様相が違い、正成が朝廷軍を勝たせても、最終的な敗北を長引かせるに過ぎないことを嘆いていると見れない事もありません。そんな事をもうやりたくないとも読めない事もありません。

他の可能性としては、正成の出陣は土壇場の急場のものであり、正成が湊川に着陣してすぐに合戦は始まったはずです。正成の湊川での成算は上述しましたが、これはあくまでも着陣前の目論見であり、ひょっとすると尼崎の時点で尊氏軍が義経流をやっている「らしい」の情報をつかんだのかもしれません。そうなれば、どうやっても勝つどころか逃げる事も不可能になり覚悟と捨てセリフを投げつけた可能性もあります。


正成はなぜ逃げなかったか

太平記の時代の正成後は、こういうシチュエーションなら逃亡・裏切りなんでもありの世界がしばしば展開します。尼崎の時点で正成が朝廷に反旗を翻せば尊氏は諸手を広げて正成を迎え入れた可能性は低くありません。それ以前に湊川への援軍要請に対し遁辞を構えて応じないも選択枝としてあったはずです。この時に正成は朝廷から遠ざけられていたからです。

それでも正成が湊川に出陣した理由が本当の謎なのかもしれません。一説では正成は朱子学の徒であったされます。この学理に従って出陣したの説明もなされています。ただ、この点については一介の土豪にそこまでの教養が果たしてあったかの問題もあります。人は思わぬところで、思わぬ教養を身につけるので否定はしませんが、もうちょっと単純な理由を考えています。

時の流れは前時代の倫理を変質させ失わせます。太平記の時代の湊川時点でも栄光の鎌倉武士の精神は既に伝説化していたと考えています。一方で伝説化した鎌倉武士の精神はより純化された理想像として憧れられた可能性は十分にあると思っています。正成は遅れて正式の武士と認められ、この精神に強い憧憬を抱いたんではないだろうかです。

新参者として、また出自の卑しい者としてのコンプレックスはどうしてもあり、必要以上に鎌倉武士たらんと自己の矜持を高く持ったんじゃないかと思っています。正成にとっての鎌倉幕府は朝廷であり、これに潔く殉じる事が武士の誉れであり、これをなんとしても体現しなければならないの思い込みと実行です。

あくまでも仮説ですが、そうだったかもしれないの傍証ぐらいはあります。正成が南朝よりの太平記はもちろんのこと、北朝よりの梅松論でもかなりの敬意をもって扱われている事です。これには様々な解釈もあるでしょうが、同時代人にとって正成は敬意をもって接するに値する人物であった事の傍証ぐらいには十分なりうるかと考えています。その敬意の源泉として、正成が正統の鎌倉武士の精神を具現化したからは入っていても良いと思っています。そういう人物はいつの時代でも敬意をもたれます。

だから正成は朝廷の要請に敢然と応え、湊川に散ったんじゃないかです。戦略・戦術を無理やり一の谷の合戦と結び付けているところもありますが、それもまた宜しいかぐらいで今日はこの辺で休題とさせて頂きます。