日曜閑話75

今日も古代史の知識整理です。


仁徳朝

まず仁徳朝最後の武烈天皇のwikipeadiaの記述も興味深くて、

日本書紀』には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる天皇として描かれている。その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。事実『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。また、天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。

古事記ではシンプルに武烈に子が無かったから継体が迎え入れられたなっていますが、書紀ではかなり悪徳の天皇の側面が強調されているってなところです。wikipediaの後半の

    ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。
これはどういう事を指しているかと言えば、仁徳の跡はその息子の3人が皇位に就いています。履中、反正、允恭です。この允恭の跡は允恭の息子の安康が皇位に就いています。雄略は安康の弟なんですが、履中つまり伯父さんの息子の市辺押磐皇子皇位のライバル視したようです。安康 → 雄略への兄弟即位に異論でもあったのかもしれません。もうちょっと言えば雄略の質が低かったのかもしれません。そこで雄略は市辺押磐皇子を暗殺します。この辺の血腥さを「雄略の時代を経て」のニュアンスと思っています。「雄略の時代」にはたぶん続きがあります。市辺押磐皇子の2人の息子がおり、父親が殺されたと聞き逃亡生活に入ります。でどうなったかですがwikipediaより、

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。

清寧天皇は雄略の息子なんですが、父親と違って出来た人物だったぐらいでしょうか。気になるのは父親が暗殺した人の子供を皇太子に据えなければならないぐらい皇位継承者に困っていた点です。wikipediaで確認したのですが

  1. 仁徳には4人の息子がいたが、次男の住吉仲皇子はなんらかの反乱を起こし討ち取られている。残り3人は履中・反正・允恭と皇位に就く


    • 履中には2人の息子がいるが、御馬皇子についての伝承は不明、市辺押磐皇子は雄略により暗殺
    • 反正には1人の息子がおり、高部皇子の名前が見えるが、この人物も伝承は不明
    • 允恭には4人の息子が確認できますが、


  2. 安康には息子無し
  3. 雄略には2人の息子があり兄が清寧で弟が磐城皇子。磐城皇子も伝承不明。
判りにくいでしょうが、世代で分ければ、
  • 仁徳息子世代・・・履中、住吉仲皇子、反正、允恭
  • 仁徳孫世代・・・市辺押磐皇子木梨軽皇子、安康、境黒彦皇子、雄略
でもって市辺押磐皇子木梨軽皇子、境黒彦皇子は殺されている上に木梨軽皇子、境黒彦皇子には子供なしってなところです。そのため
    仁徳ひ孫世代・・・清寧、顕宗、仁賢
清寧には息子がいなかったので、仁徳血統の唯一の生き残りの履中の孫(仁徳のひ孫)の2人が珍重されたぐらいでしょうか。wikipediaを読みながら思ったのは、允恭の息子同士の皇位争いの血腥さです。仁徳の息子は1人は自滅していますが、残り3人はまあまあ平和的に皇位を継いだと見ても良いかもしれません。しかし允恭の息子は
  1. 次男の安康が兄と皇位を争ってこれを殺害
  2. 四男の雄略は皇位を狙って従兄弟の市辺押磐皇子、三男の境黒彦皇子を殺害
wikipedaiaに来歴の記載のない2人の皇子も無難に病死も考えられますが、安康や雄略の手にかかった可能性もあるかもしれません。もう少しぶっちゃけで書けば、安康と雄略が皇位に就くために候補者を殺して回ったために、皇位継承資格者が枯渇してしまったと見れない事もありません。でもって仁徳ひ孫世代の3人のうち清寧、顕宗には子が無く、仁賢のみが子供をもうけます。これがなんと一男七女で、唯一の男性である武烈が皇位を継ぐことになります。しかし武烈にも息子が出来ず仁徳朝は終焉したぐらいになります。

これが実際の歴史をどれぐらい反映しているか不明ですが、万世一系の確立が編集方針であった書紀にさえ記述されているのはポイントと思っています。つまりは何らかの歴史的真実が含まれているんじゃなかろうかです。個人的にはこう考えます。

  1. 万世一系理論のためには存在が必要(書紀を書いた時代でも存在を隠し切れない)な王権があった
  2. この王権は皇位争いのために皇位継承資格者が枯渇してしまった
  3. そこで滅んでしまっては都合が悪いので継体に王権を継承させる話を創作した
そう考えてしまうほど継体は記紀の中でも浮いた存在になります。


まずはwikipediaですが、

とりあえず応神天皇仁徳天皇の父親になり、仁徳の先代になります。ちなみに応神は神功皇后(旦那は仲哀天皇)の息子となります。最近の説では応神も仁徳も同一人物ではなかったかの説が出るほど曖昧模糊とした存在です。ただ面白いのは応神にはたくさんの皇子や皇女がいたとなっていますが、仁徳の兄弟は仁徳以外は皇位を継いでいません。そう、仁徳の次は仁徳の息子の履中って事です。ちょっと不思議な感じがしませんか? 仁徳の息子世代も、孫世代も、ひ孫世代も兄弟で皇位を継いでいます。応神の息子がそうでなかったのはチト奇妙ってところです。応神・仁徳同一人説も出ているとはしましたが、個人的には応神・仁徳兄弟説も出しても良さそうな気がします。

ほいでもって皇位継承者が枯渇した仁徳朝ですが、まず候補にしたのは仲哀天皇の5世の孫です。つまりは応神の兄弟の末裔になります。これに逃げられたので次は仁徳の兄弟の末裔(これまた5世の孫)の継体天皇が迎えられたとなっています。先ほど応神・仁徳同一人説、もしくは兄弟説の可能性があるとしましたが、書紀の記載通りに応神・仁徳が親子であるなら、もう一つの可能性が出てきます。応神の息子たちの間で兄弟相続が起こらなかったのは、仁徳が皇位を目指して兄弟を殺しまくったのもあるかもしれないです。wikipediaからですが、

応神天皇崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。

綺麗に書かれていますが、ライバルが都合よく死ぬ理由として暗殺は当然あり得るぐらいのところです。そういう殺伐とした政争の中で逃げ延びたのが仲哀5世の孫とか、応神5世の孫ってところでしょうか。記紀ではそう解釈するしかないのですが、もうちょっとザックリ見たいと思います。


神功皇后もそうですが、応神や仁徳は書紀を書く時点でも伝説的な大王であったとまず考えます。記紀の描く仁徳朝は武烈で終わっています。記紀では武烈から継体への継承は穏やかに行われていますが、実際は継体が武力で王権を奪った気がします。その継体が自称したのが応神5世の孫です。その前に断られた仲哀5世の孫も実は武烈打倒に挙兵した話じゃなかろうかです。書きながら思い出したのですが下敷きになりそうなお話はあります。前漢は王莽により滅ぼされ新と言う国が建てられます。この新を打倒して漢王朝を復活(後漢)させたのが光武帝になります。

この光武帝ですがwikipediaより、

光武帝前漢の景帝の6世の孫って事になります。では下敷きに通りに6世の孫にしなかったのは何故かです。これまたwikipediaからですが、

皇親の範囲は、「継嗣令」(けいしりょう)の規定では、天皇の四世孫(玄孫、やしゃご)までが皇親とされた。五世孫は王を称したが、皇孫にはあたらないとされた。後の慶雲3年(706年)2月の格(きゃく)で、五世孫までが皇親とされ、五世孫の嫡子に王の称が許された。

継嗣令はそれ以前の慣例を基にしていると考えます。つまりもともとは4世の孫までが皇親(皇孫)であり、5世孫は皇親から外れるぐらいです。もうちょっと突っ込めば4世孫までは皇位継承権が残るが5世になるとなくなるぐらいでしょうか。5世孫ともなれば枝葉の広がりは大きくなるでしょうから、名乗られても確認しようがなくなるっちゅう感じです。それこそ4世孫なり、3世孫がその辺の女性に手を付けての子孫なんて名乗られれば調べようがないってところです。

なにが言いたいかですが、書紀を書いた時の感覚として4世孫までは朝廷がある程度管理しているが、5世孫ともなれば素性の確認は不可能ってなところです。朝廷の管理とは具体的には4世孫までは朝廷から給付金が出ますが、5世孫になると出ないです。給付金の認定のためには名簿管理が必要が生じますが、給付金支給がなくなる5世孫まで管理しきれない感覚です。うがって考えれば、わざわざ5世孫にしたのは「そういう素性の人物である」を言外に示しているのかもしれません。


話が進まないなぁ、でも舒明天皇です

寄り道が多すぎて本来の目標に一向に進まないのですが、確認したかったのは皇位の兄弟継承の系譜です。ここまで確認した範囲では、

  1. 応神の兄弟継承は無し
  2. 仁徳の兄弟継承は無し
  3. 履中は兄弟継承(反正、允恭)
  4. 安康は兄弟継承(雄略)
  5. 顕宗は兄弟継承(仁賢)
さて継体後ですがwikipediaより、
表を見ればお分かりのように、
  1. 継体は兄弟継承なし
  2. 安閑(継体の息子)は兄弟継承(宣化、欽明)
  3. 敏達は兄弟継承(用明、崇峻、推古)
それと良く見れば、兄弟継承を行った場合、末弟つうか最後に皇位継承を行った者の息子が次世代の皇位を継承しています。問題は敏達兄弟の跡目になります。敏達兄弟も関係は記紀では複雑で、敏達の奥さんは異母妹の推古です。これって古代的な感覚なのでしょうか? つうのも允恭天皇の長子である木梨軽皇子は同母妹と近親相姦の悪評のために弟の安康に追い落とされています。これが異母妹なら何の問題にもならなかったぐらいです。そりゃ同母と異母では血の濃さがかなり違いますが、なんともです。

まあそこはさておき、敏達兄弟で最後に皇位に就いたのが推古です。それまでの慣例からすると推古の息子が次世代の皇位に就くはずです。推古には竹田皇子と言う息子がいましたが、これが早くに亡くなります。そうなると誰が跡目を継ぐかになります。wikipediaにはこうあります。

先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。

舒明は敏達の孫ですが、推古の孫ではありません。舒明の父は押坂彦人大兄皇子なのですが、押坂彦人大兄皇子の母は前皇后の広姫で推古の子ではありません。ついでに言うと舒明の母親は敏達の異母妹の糠手姫皇女。さらに言えば舒明の后は推古の娘の田眼皇女。つまりは叔母さんにあたります。もう一人の山背大兄皇子は用明天皇の孫になります。でもって用明と推古は同母兄妹になります。さらに言えば山背大兄皇子の父親はあの聖徳太子で、推古時代の皇太子になります。この辺の近親関係は非常に複雑なので、欽明天皇ところから大雑把に整理してみます。

地位 名前 おもな子女
皇后 石姫皇女 敏達天皇
蘇我堅塩媛 用明天皇推古天皇
蘇我小姉君 崇峻天皇穴穂部間人皇女
欽明天皇は他にも子を産んだ后が3人おり、wikipediaに乗っているだけで26人の子女(たぶん)が確認できます。敏達の妻が異母妹の推古としましたが、用明の妻も異母妹の穴穂部間人皇女です。自分でも書きながらこんがらがりそうなのですが、田村皇子と山背大兄皇子に絞り、なおかつ推古の視点で見ると
  • 田村皇子
    1. 敏達と推古は異母兄妹
    2. 父親は敏達の前妻(前皇后)の息子の押坂彦人大兄皇子
    3. 母親は敏達の娘であるが、推古の子どもではない
    4. 妻は推古と敏達の娘
  • 山背大兄皇子
    1. 敏達と用明は異母兄弟、用明と推古は同母兄妹
    2. 用明の妻は敏達の娘の穴穂部間人皇女(推古の娘ではない)
    3. 用明と穴穂部間人皇女の子どもが父親である聖徳太子
    4. 母親は敏達とも推古とも関係のない膳大郎女
なんかよう判りませんが、血縁的には微妙ですが田村皇子の方が推古に近そうです。ごく単純には田村皇子は自分の娘婿だからです。ただ山背大兄皇子の父は推古時代の皇太子であった訳で、皇太子の息子と言う地位はあったかもしれません。聖徳太子はとりあえず偉人ですし。もちろん蘇我氏との絡みが出てくる訳で・・・とにかく推古は在世中には太子を立てられなかったらしいぐらいです。


また今度♪

えっとですが、今日の本当の目標は新たに見つかった明日香の小山田遺跡について書きたかったのです。現時点では舒明天皇が最初に葬られたところじゃないかの説が出ています。で、ハタと考えたのは舒明天皇って何者です。舒明天皇あたりでさえ、実在については怪しまれている部分があったはずで、そんなドデカイ古墳を作る様な人物かいなってと言う素直な疑問です。で、毎度の事ながらその周辺のムックをやっていたら、舒明天皇にたどり着いただけで大長編になってしまいヘバり切りました。つう事でそのうち続編を書きます。