日曜閑話74

相も変わらず古代史の知識整理をやっていますのでお付き合いを。


倭国大乱を考え直す

魏志倭人伝後漢書倭国伝、隋書倭国伝にある日本の1〜3世紀の確認できる年代の年表を再掲します。

西暦 事柄
57年 後漢に使者を送る
107年 後漢に使者を送る
150年 倭国大乱が起こる
230年 卑弥呼女王となり大乱収束
238年 魏に使者を送る
247年 卑弥呼死亡
疑いだせばキリがないのですが、とりあえずこの記録は正しいと前提します。正しいとした上での疑問です。西暦57年の使者は光武帝の時代のものです。あえて注釈を入れておくと、前漢は王莽により一旦滅ぼされ新と言う国が建てられます。これを再び漢の王朝に戻したのが光武帝です。後漢光武帝とその次の明帝ぐらいまでは人物でしたが、以後は人物に恵まれなかったとされています。それでも西暦107年の安帝の時代は後漢でも安定期として良いかと考えます。

さて後漢は西暦184年に黄巾の乱を迎えます。この乱による国の乱れから有名な三国志演義が始まる訳です。もう少しだけ後漢の歴史を追うと、黄巾の乱から董卓の台頭が始まり、袁紹による反董卓連合軍が形成されます。反董卓連合軍は董卓軍を洛陽から追い落とすのには成功しますが、董卓は皇帝を擁して長安に逃げ勢力を保ちます。反董卓連合軍は結束の悪さからこれを追い切れず、以後は後漢末の大混乱期に突入するぐらいで宜しいかと思います。それこそ三国志演義の時代です。

中国王朝は勢いが盛んな時には周囲の蛮異の国からの使者と言うより入貢(朝貢)を歓迎します。この中国王朝式の朝貢は、捧げられた貢物以上の下賜品を贈ると言うもので、なんちゅうか皇帝の権威がいかに広範囲に及んでいるのかのデモンストレーションみたいなものです。つまりは王朝が傾く、ましてや内乱状態になると朝貢を受ける余裕が王朝側になくなります。それこそ他国の使節団の道中の安全さえ保障できなくなりますし、朝貢に対する下賜品も国家財政の負担になります。

後漢書や隋書の表現は日本(倭)の一方的な事情(倭国大乱)で朝貢が途絶えたようになっていますが、朝貢を受ける側の中国王朝が朝貢を受ける余裕がなかった事の照れ隠しも含んでいるんじゃないだろうかです。ではでは卑弥呼が使者を送ったとなっている238年はどうなっていたかです。魏は曹操の孫の曹叡の時代です。三国時代ではありますが、234年には蜀の丞相諸葛亮五丈原で病死しています。三国時代の抗争図は単純化すると、ダントツに強い魏に最弱の蜀が侵攻を繰り返し、呉は蜀と連携しながら高みの見物ぐらいで宜しいかと思っています。

蜀が魏に侵攻できた原動力が諸葛亮の政治力であり、魏にとっての大敵である諸葛亮が死ねば魏は大安泰になります。曹叡は愚者ではなかったようですが、それこそ祖父曹操時代からの宿敵の諸葛亮が病没した事に安心したのか、以後奢侈に走ったと記録されています。細かい事はともかく、実態として長江以北に魏は安定した大勢力を築き上げており、正統王朝として朝貢を十分に受けられる状態になっていたと見れそうな気がします。つまり倭国大乱の時期は後漢末の混乱から三国鼎立時期に一致するぐらいが私の見方です。


当時の人口

社会実情データ図録の人口の超長期推移にある歴史人口学者鬼頭宏氏のグラフを引用します。

鬼頭氏と言えどもあくまでも推測値であり、絶対に正しいとは言えないかもしれませんが、それでも「こんなものだった」の参考には十分になると判断します。卑弥呼が魏に使者を送った時代は人口は100万足らずであったろうぐらいは言っても良さそうな気がします。それでも弥生の前の縄文時代の最盛期に比べても4倍近くに急増しているとしても良さそうな気がします。稲作の力、恐るべしと言ったところでしょうか。ただ卑弥呼の時代が100万人程度であったとしても、倭国大乱の時代は50万人程度であったとも言えます。

ここも何が言いたいかですが、大乱が起こるほどの土地不足は果たしてあっただろうかです。もう少し時代を遅らせて比較してみたいのですが、平安期に関東平野に後の武士団の中核になる様な連中が続々と入植しています。それでも当初はそんなに合戦にならなかったぐらいに見ています。理由は単純で合戦して父の奪い合いをするより、新たに開墾を行ったらそれで済んでいたからだと思っています。当時の武家の相続法がそれを反映していると見ています。相続時に嫡男が本家を取りますが、兄弟にもそれなりの土地を分割して分家としています。これはこれから開墾する元手さえ与えれば、それぞれが自立できた事の反映部分もあると考えています。血を見る合戦に至るのは、手頃な開墾地が不足し、誰かから奪いとるのがメリットがある時代に移行してからだと思っています。

西暦150年ぐらいの日本でそこまで土地不足が果たして起こっていたのだろうかです。合戦のメリットは自分で開墾せずに耕作地が手に入る事ですが、血を見るのが避けられないために働き手の減少も起こります。総人口規模が50万人程度の時代の1人の戦死者の影響は小さくありません。弥生時代の都市遺跡として有名なものに吉野ヶ里遺跡、唐古・鍵遺跡などがありますが、そこに果たして何人住んでいたのだろうかです。これも難しいのですが、一説には全部ひっくるめて5000人程度だったの推測はあります。

5000人のうちで半分は女性ですから、総動員しても男性人口の1/10の250人ぐらいが外征なら目いっぱいじゃないでしょうか。この250人は戦士であると同時にもっとも旬の働き手になります。勝てば良いですが、痛み分けであっただけで大損失になりそうな気がします。負ければ論外でしょう。もちろんこれだけの都市が成立するぐらいですから、周辺部の境界争い、水利権の争いなどの小競り合いはあったでしょうが、国と言うか都市が命運を賭けての合戦が始終行われていたとは思いにくい気がします。


倭国大乱をもう一度考える

中国王朝への朝貢外交は、朝貢する側に大きなメリットがある事は上述しました。でなんですが、西暦57年と西暦107年の倭からの使者は、そんなに大きな国、たとえば広域王権が存在した上で行われたものだったのでしょうか。そうではなくて、北九州の有力都市国家が「中国に使者を送れば儲かる」の情報で送ったものじゃなかろうかです。中国王朝側としては、倭の誰が使者を送ろうがすべて政治的に倭の代表者として扱います。1世紀とか2世紀初めは先進地の北九州でも優雅な開拓時代だった気がします。

大乱に先に突入し、朝貢を受けられなくなったのは中国王朝だったと考えています。で、日本はどうであったかですが、吉野ヶ里遺跡や唐古・鍵遺跡を見る限り巨大な環濠を巡らした城塞都市の様相が現れています。これを吉野ヶ里も唐古・鍵も同じ状況だったかはチト疑問です。先進地である吉野ヶ里はそういう防備が必要な時代に突入していた可能性はあります。一方の唐古・鍵は本当に必要としてたのだろうかです。

唐古・鍵の文化は高いものがあるとの考古学的な検証が行われています。ごく単純に北九州の吉野ヶ里に匹敵するぐらいで良いと思います。時代的に並立しているのですが、これを北九州王権と畿内王権の成立から対決と考えるのは大層すぎないだろうかと考えています。当時の人口規模からすれば遠すぎるのが実感です。こんなに離れた都市を敵視して遠征軍を送るのはチト無理があるです。

唐古・鍵はもう少し穏和なものを想像しています。牧歌的なフロンティア時代から周辺勢力との抗争時代に突入するのは、局所的人口の飽和のためと考えます。食糧の豊かさは人口の増大に連動し、増えた人口を養うためにさらなる開墾地を求めるサイクルの果てです。この時に敵対勢力から土地を奪い取るのも一つですが、新たなフロンティアに開拓団を送り込む選択枝もあります。唐古・鍵を築いた連中は北九州からの早期の移民団じゃなかろうかです。母国は既に緊張状態時代に移行していたために、入植地として選んだ唐古・鍵は母国並みの厳重な防御態勢を敷いたぐらいです。

倭国も大乱と言うか、北九州から中国王朝に使節を送る余裕は失われていたかもしれませんが、畿内までひっくるめての大乱状態は果たしてあったのだろうかです。


女王卑弥呼

唐古・鍵遺跡から後は本当に謎の時代になります。かなりの都市であったはずの唐古・鍵は古墳時代の到来と共に衰える事になります。それと入れ替わるように大和・柳本古墳群が作られます。これだけでも解釈は「???」なのに、大和・柳本古墳群が衰えだすと、今度は佐紀盾列古墳群、馬見古墳群、百舌鳥古墳群古市古墳群がほぼ同時に作られ始めます。いったい何が起こったんだろうと言うところです。それでも卑弥呼は北九州にいた方が魏志倭人伝の記述に合う部分が多いのは確かです。なんらかの理由で北九州の諸勢力が卑弥呼の下で和平状態を作ったと考えるのが無難だからです。ここに畿内勢力を含めてと考えると説明にかなり無理が出ます。魏志倭人伝畿内の記述は案外これの気がしています。

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり

当時の北九州から見た畿内はこの程度であっても不思議とは思えないからです。同族の国が遥か東に存在するぐらいの位置づけです。



さて、ここで考えても良さそうなのは、なぜに女王であったかです。卑弥呼記紀神功皇后みたいな女傑ではなさそうな気配が漂います。つまりは卑弥呼の圧倒的な武力で北九州諸勢力を武力統一したものじゃないだろうぐらいの想像です。卑弥呼が和平の象徴として仰がれたのは、やはりその卓越した呪術的才能とするのが良さそうです。呪術と言えばアレですが、ある種の卑弥呼教みたいな宗教的権威による統一です。現在でも宗教の力は時に巨大ですが、当時なら圧倒的な権威を持ったとしてもこれは無理とは言えないと思います。

でなんですが、卑弥呼教の存在を仮定すれば、畿内の古墳群は無理がありながら説明が可能になります。北九州に和平をもたらした卑弥呼教は割と早くに畿内にも伝えられただけではなく、爆発的に広がった可能性です。宗旨は北九州に和平をもたらしたぐらいですから、そうですねぇ、

    武を選ぶものは祟られる、立派な墳墓を作る物は恵みを受ける
えらい都合の良い宗旨ですが、和平の宗教ですから戦争は禁じる必要があります。一方で長年、戦争に駆り出されていたパワーをどこかに発散する必要があります。そのパワーの発散先が古墳造りにした考え方です。卑弥呼教の影響で唐古・鍵の要塞都市は衰退し、その代わりに大和・柳本での古墳づくりに情熱が移行してしまったぐらいです。それと卑弥呼教による平和は人口増大をもたらしますが、北九州のように都市間戦争に発展せず、それこそ開拓先の佐紀盾列古墳群、馬見古墳群、百舌鳥古墳群古市古墳群の並列造営として現れたぐらいです。より巨大な古墳を作る事のみにパワーが注がれたぐらいです。もちろん古墳造営に必要な人手の開拓にのみ力が注がれていたんのだろうです。

もう少し言えば、卑弥呼教の影響は畿内の方が長く定着し、平和の果実を長く手にしたがために、卑弥呼の後に再び緊張状態に陥った北九州より繁栄をもたらしたの仮説も出てきます。宗教の影響は後進地域の方が色濃くなるのは、よくある話です。争乱が克服できなかった北九州はやがて巨大化した畿内勢力に呑み込まれてしまったぐらいです。つうのも畿内王権の成立もよくわかっていませんが、北九州にあったはずの王権の行方もはっきりしないからです。壮大な合戦で征服したと言うより、自然に吸収されてしまった可能性の方が高そうな気がします。