日曜閑話76

今日も古代史の知識整理ですが、一応のテーマは蘇我氏です。小山田遺跡は遠いなぁ。


年表

これまでの知識整理で出来た年表を再掲します。


西暦 事柄
57年 後漢に使者を送る
107年 後漢に使者を送る
150年 倭国大乱が起こる
230年 卑弥呼女王となり大乱収束
238年 魏に使者を送る
247年 卑弥呼死亡
200年代半 大和・柳本古墳群築造開始
300年代前半 大和・柳本古墳群築造衰退
300年代末 馬見・佐紀盾列・百舌鳥・古市古墳群築造開始
500年代後半 馬見・佐紀盾列・百舌鳥・古市古墳群衰退
600年 遣隋使
607年 遣隋使
畿内では4世紀末ごろから並立して馬見・佐紀盾列・百舌鳥・古市古墳群の築造が始まります。これはシンプルに4大集団(国)があったと見たいところです。それとあれだけの大古墳、とくに百舌鳥や古市の大古墳の存在を考える限り、これらの4集団の仲は良かったと見ています。そりゃ、あれだけの大古墳を築造しようとすれば、当時の人口規模からして集団のほぼ全員を大動員しないと無理です。つまりそれだけの人手を古墳築造に向けられる時代であったぐらいです。4大集団が食うか食われるかの緊張関係では無理と言うところです。

古代的に仲が良いと言うのは血縁関係が非常に濃いとニア・イコールだと見ます。血縁関係があっても殺し合いは起こりますが、なければもっともっと激烈ぐらいの理解です。4大集団の関係の深さはシンプルには古墳の形式に見て取れます。形式の中心は前方後円墳だからです。集団として分かれていても、仲の良い親戚づきあいみたいな関係であったろうぐらいしか言いようがありません。この4大集団ですが、地形的に2つに分けて良い気がします。生駒・金剛山系で東西に分けて、

  • 河内・・・百舌鳥、古市
  • 奈良・・・馬見、佐紀盾列
古墳の規模からして河内の方が大きいので、河内が宗家、奈良が江戸期の御三家みたいな関係だったかもしれません。


卑弥呼の後の倭の使節の中国王朝側の記録として倭の五王があります。wikipediaから抜粋すれば、

西暦 中国王朝 倭王 ソース
413年 東晋 晋書安帝紀、太平御覧
421年 宋書夷蛮伝
425年 宋書夷蛮伝
430年 讃? 宋書帝紀
438年 宋書夷蛮伝
443年 宋書夷蛮伝
451年 宋書夷蛮伝、宋書倭国
460年
462年 宋書武帝紀、宋書倭国
477年 興(武) 宋書夷蛮伝、宋書帝紀
478年 宋書帝紀
479年 南斉 南斉書倭国
502年 梁書武帝
ここで中国史を簡単に解説しておくと、有名な三国時代は魏に取って代わった西晋により天下統一がなされます。西晋諸葛亮の好敵手であった司馬懿仲達の子孫の国と言えばわかりやすいでしょうか。この西晋の天下も北方遊牧民族の侵入により30年ぐらいしか続きません。西晋は中国北部を明け渡して中国南部に東晋となって続きます。中国北部は五胡十六国時代と呼ばれる争乱の時代を迎えますが、やがて統一され南北朝時代を迎える事になります。南北朝時代もややこしいのですが、北朝南朝とも王朝が代わりながら対立関係を続け、最終的には北朝の隋による天下統一が行われるぐらいの理解で良いかと存じます。

倭の五王使節南北朝五胡十六国時代も広義の南北朝に入れています)のうち南朝使節を送っています。これには理由が様々にあるでしょうが、地理的な問題も大きかった気はします。南朝が宋であった頃の勢力図をwikipediaから引用すると、

中国の海岸沿いの殆どが南朝側支配領域であり、中国に向えば南朝に着いてしまう感じがしないでもありません。ここで気になるのは、どういうルートで倭の使節は中国南部に向かったんだろうです。卑弥呼の時代は魏志倭人伝にあるように朝鮮半島経由で使節は往還していたで良いかと思います。しかし当時の朝鮮半島三国時代で通れなかった可能性が高そうです。そうなると後の遣唐使船ルートになり、北九州から一気に東シナ海を乗り切るルートになります。ただ遣唐使船ルートは難破の歴史と言うほど当時の日本の航海術ではハードルの高いものであったのは事実です。

倭の使節の頻度はまちまちですが、477年から479年の間なんか毎年使節を送っています。一般的な解釈では倭の五王畿内王権からの使節となっていますが、そうなるとルートは遣唐使船ルートになり、

当然の事ですが、北九州は畿内王権の支配下、もしくは友好関係である必要があります。瀬戸内海から一気に無寄港で中国南部を目指せるとは到底思えないからです。それと毎年使節を送ってはいるのですが、使節
  1. 倭から中国南部に行く
  2. 中国南部王朝に使節の役割を果たす
  3. 倭に帰国して使節の成果を報告する
これが終わってから新たな任務を受けた次の使節が出されると考えます。そういう状態で3年連続で使節なんて送れるだろうかの疑問です。何が言いたいかですが、畿内からではなく北九州王権から中国南部に使節を送っていた可能性はないだろうかです。北九州は古代の先進地です。吉野ヶ里に代表されるような都市国家形成もあり、おそらく卑弥呼も北九州王権の話じゃなかろうかとも考えています。また北九州には畿内の様な巨大な古墳群は築かれなかったようです。これはそういう力がなかったと言うより、古墳築造と別系統の文化であった可能性もあると考えます。

ここから先は今日は置いておきます。


古墳時代の終焉の理由

大古墳を築造するには、それだけのパワーを古墳築造に思う存分注ぎ込まれる平和が必要と考えます。逆に言うと他に人手やパワーを割かなければならない事情が生じると、古墳築造なんてやって暇がなくなります。そういう転機を記紀に求めると継体天皇になります。継体天皇の即位の経緯をwikipediaから再掲すると、

日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。

素直に読めば平和裏に継体天皇は迎え入れられ即位したように読めますが、捻って読むと河内王朝の有力氏族による一種のクーデターと読めない事もありません。この辺は想像の翼を広げるしかないのですが、武烈後の大王位問題で、有力とされている候補者が大王になると有力氏族に取って非常に都合が悪い状況が生じた可能性です。そのために一部有力氏族が結託して継体担ぎ出しのクーデターを企てたぐらいです。wikipediaからですが、

日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており

その間は都を転々としていた事になりますが、これはクーデター政権に対する反対勢力の勢いが強かった事を示している気がします。はっきり言って苦戦状態に陥った時期もあったと見ても良い気がします。もうひとつwikipediaから、

河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした

これについて政略結婚説もあるようですが、かなり捻った政略結婚説の可能性を考えています。これまた根拠なき想像ですが、継体のクーデターに対して旧河内王朝側は反抗し内戦状態に陥ったと見ます。戦況は一進一退で行き詰ったところで、奈良盆地側の勢力と同盟を結んだんじゃないだろうかです。武烈の姉なり妹と言っても異母関係で考えれば結構いてもおかしくなく、異母の一人が奈良側の出身であっても全然おかしくないぐらいです。婚姻による同盟関係はポピュラーな手法です。

奈良側勢力と同盟を結んだ根拠は、継体が大和(飛鳥で良いでしょう)に都を置いた点です。都を置く頃には旧河内王朝側の抵抗も少なくなっていたとは思いますが、長年の抗争により旧河内王朝領は占領地の色彩が濃く、同盟勢力の安全圏である飛鳥に都を置いた可能性です。飛鳥から河内を支配する形式を取ったんじゃなかろうかです。それと継体クーデターによる内乱での勝者は継体が連れて来た近江系(越前説もありますが私は近江説を取ります)と奈良の2勢力になります。継体と奈良の2勢力の関係は上下関係でなく水平関係であったと考えています。つまりは3勢力による連合王権です。後に続ける意味で言えば、大王位継承権を持つ家が少なくとも3つはあったと考えます。

同盟を結んだ根拠としてもう一つwikipediaに、

継体天皇は他に沢山の子がいたにもかかわらず、嫡子は手白香皇女との間の皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)であった。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹を母に持つ、宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え敏達天皇をもうけた。

記紀を信じれば、クーデター前の妻子は一種の排斥を受けたとも考えられます。手白香皇女の子を後継にする事が同盟条件ではなかったかと考えています。そういう風に解釈すると奈良勢力との同盟はやはり対等に近いものであったとも推測できます。とにかく、こんな混乱期を20年も続ければ古墳築造なんてやってられなくなります。一応の内乱終息後も警戒のための軍備が必要であり、そっちにパワーを注がざるを得なくなって古墳時代が終わりを迎えたぐらいを想像しています。


やっと蘇我氏

蘇我氏の出自についても幾つか説があるようですが、どうも継体クーデター後に台頭した新興氏族と解釈しても良いと考えています。wikipediaに、

渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。

先進技術だけではなく先進思想もあったと考えています。ただこれだけでは急速に台頭するには乏しい気がします。今日の仮説では継体王朝は飛鳥に都を置きながら、河内を占領地として管理していたと考えています。蘇我氏は占領地の司令官、責任者として頭角を現したんじゃなかと想像しています。蘇我氏による統治は良好で、以後に河内で反政権行動はなかったぐらいです。そういう統治は同時に河内を蘇我氏の勢力圏に収める事になり、短期間で仁徳朝以来の氏族と肩を並べる、いやそれさえ凌ぐ勢力になったと考えています。

有力どころか最有力氏族の一つになった蘇我氏が中央政界に進出したのは素直に稲目の時代として良い気がしています。稲目のさらなる勢力拡張策は婚姻政策と見て良さそうです。これは成功して馬子の時代を迎えます。この馬子が目指したのが大王位継承権だったんじゃないかと考えています。もちろん稲目の時代から目指していたのかもしれませんが、馬子の代になって十分な条件がそろってきたぐらいでしょうか。今日の仮説では大王位継承権は継体近江系、奈良2勢力が有していたと考えていますが、蘇我氏にも大王継承権が欲しいぐらいです。後の経過から考えて馬子は大王継承権だけではなく、大王位を継承したいの願望があったと考えています。

蘇我氏の実力はNo.1であったとしても大王位継承権となると既得権の塊になります。従来から持つ者にとっては

    この成り上がり者の、新参者めが・・・
こういう異論反論が巻き起こったと想像します。世の中そんなものです。馬子は平和的に大王継承権を得られないと判断した時点で実力行使に出ます。他にもあったと思っていますが、象徴的なのが物部守屋との抗争と考えています。物部氏は反対派の旗頭みたいな地位にいたぐらいの見方です。記紀では蘇我氏物部氏の抗争となっていますが、実際は蘇我氏と反蘇我氏連合との関ヶ原みたいな様相じゃなかったかと想像しています。でもって勝ったのは馬子です。この一戦で蘇我氏に反抗する氏族はそろって没落、衰退を余儀なくされた状況を考えています。

記紀での蘇我氏物部氏の抗争理由は用明天皇の後継争いです。これは案外真実かもしれません。さらに対物部氏戦に勝利した後に崇峻天皇が擁立されたのも真実の気がします。馬子が大王になるには蘇我氏に大王位継承権が授与される必要があります。それを授与するのは大王であり、傀儡の崇峻をまず擁立したんだろうです。崇峻から大王位継承権を授与された後に馬子が求めたのは自分への譲位じゃなかろうかです。崇峻はこれを渋ったがために暗殺されたぐらいの展開です。

で、蘇我大王が誕生します。次は推古女帝だって? 私はそうでなく馬子大王で良いと考えています。聖徳太子も存在しません。これも馬子大王の政治的業績であったと私は考えています。大王位継承権獲得までの手法は荒々しい部分はありましたが、政治手腕は卓越したものであったと考えています。チト過大な評価かもしれませんが、古代ローマ帝国におけるカエサルみたいな存在であった可能性も十分にあると考えています。馬子が大王であった最大の証拠は前にやったので簡略にしますが隋書倭国伝です。日本から国書を送った大王は男性名であり、さらに后もいます。推古女帝じゃ無理がありありです。当然の事ながら馬子大王の次の舒明は蝦夷であり、さらにその次の皇極は入鹿になります。私はそう考えています。


蛇足1:継体が近江系の理由

ぶっちゃけ越前と近江の両方を勢力圏に置いていたの解釈でも良いのですが、ちょっと考察です。蘇我大王が誕生した時点で大王位継承権家は蘇我氏と継体家に実質としてなったと考えています。どうも継体家は蘇我氏物部氏との抗争に関与しなかったぐらいです。とはいえ日の出の勢いの蘇我氏と継体家では実力差は大きく、馬子 − 蝦夷 − 入鹿と続く間は大王位継承権を持っている家ぐらいの地位にいたと想像しています。乙巳の変の主役は中大兄皇子ですが記紀では舒明の息子となっています。しかし私の仮説では「舒明 = 蝦夷」です。では中大兄皇子の出自はどこかと言えば継体家の当主みたいな位置じゃなかったろうかです。

そう考えると筋が通る部分があります。中大兄皇子天智天皇になり大化の改新を断行しますが、白村江の敗戦などもあり政治的に苦しい状況に陥ります。その時に天智が目指したのはどこであったかです。近江への遷都です。近江遷都には色々理由が付けられていますが、個人的にどれもシックリ行くものがありませんでした。これが継体家はもともと近江に地盤があり、大和の情勢が芳しくなくなってきたので自分の安全圏に都を遷したと考えると判りやすくなります。

これぐらいの理由で継体は近江系と考えさせて頂きます。


蛇足2:蘇我氏不比等

不比等が書紀を書いた目的は万世一系理論の確立のためとされています。何故に万世一系理論の確立が必要であったかと言うと、時の天皇に取り入るためです。時の天皇の持統は孫の文武に皇位を継がせる事に執着していました。この執着の正当化のための理論武装の一つが書紀による万世一系理論であるとの見方です。その万世一系理論で問題となったのが継体と蘇我氏であった気がしています。このうち継体は存在を認め、蘇我氏が抹消された理由は何であるかです。

おそらく継体は応神五世の孫の伝承が確立しており、実質として当時の皇室の直系の先祖にあたるため認めざるを得なかったぐらいと考えています。一方の蘇我氏は仁徳朝あたりから考えても大王家の一員とは言えなかったのが大きな理由の気がします。かなりの新興氏族であり、これを大王として認めると皇室が万世一系と到底言えなくなるぐらいです。

もう一つ不比等日本書紀の編纂責任者ですから、蘇我氏の本当の業績を知っていたと思います。そこから藤原氏が今後どうあるべきかのヒントを得た気がします。不比等が出した蘇我氏の失敗の原因は大王位を望んだ点だと見た気がします。蘇我氏の勢力拡張手法で婚姻政策は藤原氏は大いに活用しています。ほとんど藤原の血としか思えない天皇ばかりを量産していきますが、決して藤原氏自体はトップになりません。あくまで臣下筆頭のNo.2です。藤原氏は実権を握るだけで決してトップに立たない様子は歴史の奇観ですが、蘇我氏の滅亡を手本にしていたのなら納得できる気がしています。