日曜閑話72

今日のお題は「清州会議から考える」です。遺憾ですが映画は見ていませんのでそこのところは宜しく。


信長率いる織田軍団

信長率いる織田家は強大だったのは誰しも認めるところです。もし本能寺の変が起こらなかったら信長は天下を統一していただろう事は多くの者が認めるところです。だから信長が生き残った歴史の”if”の話はポピュラーな類型です。信長の強さの一つに人材登用があります。能力さえあれば門地・出自にこだわらない能力主義です。信長が能力を重視した事は秀吉の例が有名ですが一益だってだってそうです。これは信長の独創かと言えばそうでもない気がしています。勝家だって正体不明です。織田信秀時代からの物を疑問もなく受け継いだんじゃないかと見ています。

それと信長は人の能力を見極める能力が高く「使える」となればトコトン酷使します。信長に見込まれると抜擢は受けますが抜擢に相応しい仕事が常に降り注ぎ、これに応えるとさらなる抜擢と仕事の増大が待っていたぐらいでしょうか。厳しそうにも聞こえますが急成長産業の話に類似していると思います。でもって織田家の中の最大の能力者は信長になります。そりゃそうで、後に天下を取る秀吉や家康を顎で使えるほどの能力者であったと言えるからです。信長在世中に秀吉にしろ家康にしろ天下取りなんて夢にも思わなかったと考えています。それぐらい圧倒的な存在感で君臨していたと見ています。

信長の力の源泉は言うまでもなく軍事力です。強兵とは言えない尾張衆を率いて天下に君臨しようとしていた訳です。そのために信長は様々な戦略・戦術さらには謀略を駆使する訳です。これもまた当たり前のお話ですが、信長の覇業の前半は信長が自ら兵を率いて常に陣頭に立っていました。ところが晩年になると必ずしもそうではなくなります。織田家の肥大化と共に最前線は本拠の安土から遠くなります。本能寺の変の時期の最前線の状況は御存知の方も多いと思いますが、

他は明智光秀は山陰方面への出撃を命じられ、同盟軍の徳川家康は信長の接待を受けている状況です。信長はキャラからしてすべての陣頭に立ちたそうな気もしますが、これだけ遠方の最前線の陣頭に同時に立てないので安土で総司令官的な位置にいます。地図で示してみます。
さてなんですが織田家にも重臣はいます。一般的に知られているのは勝家が筆頭家老であり、長秀が次席家老だったです。他にも秀吉、一益、光秀も家老ないし宿老として位置づけられます。しかしながら他の家の重臣とは立ち位置も発言力も異なると考えます。家老は一般的には家来の最上位クラスであり、もう少し具体的に言うと大きな戦略を動かす時に相談と決定に関与するぐらいです。会社で言う代表取締役クラスの役割でしょうか。しかし織田家では筆頭家老とされる勝家でさえそんな発言力があったかどうかすこぶる疑問です。辛うじてそんな発言力があった、いやあると勘違いしていたのは佐久間信盛や林佐渡守じゃなかったかと思っています。だから逆鱗に触れて追放されたぐらいです。

信長晩年の重臣の立場は代表取締役どころか支店長クラスに過ぎなかったんじゃないかと見ています。任された権限はその支店内の経営裁量だけで、本店やグループ全体の事に口出しなんて出来なかったです。さらに信長は懐刀的な側近さえ置かなかったと見ています。一般的には森蘭丸がそうだともされます。蘭丸は頭脳明晰であったかもしれませんが、あくまでも信長の優秀な秘書であり信長の意思を忠実に反映させる以上の役割は無かったと見ています。これも秘書役以上の権限を揮おうものならすぐに追放されたと見ています。

こんなに言葉を重ねなくとも信長の織田家は完全な独裁体制であったで括っても良いと見ています。独裁者信長の下にはブレーン的な存在もなく、君主に近いもしくは一部代行できる権限を持った重臣さえ存在しない体制であったと言い換えても良い気がします。重臣でさえ支店長クラスの権限しかない訳で、だからこそ信長は重臣クラスも顎で使えたと見ています。信長は義昭を擁しての上洛戦以来、多方面作戦を余儀なくされています。世にいう信長包囲網の中での戦いです。多方面の内で決戦の機会が訪れた特定方面には、その他の方面から情け容赦なく兵力を引き抜きます。これは一部隊規模に留まらず他方面の軍団長ごと引き抜く芸当を平然と行います。これが当たり前の事として出来たのが織田軍団の強味であったと考えています。

こんな織田軍団の弱点はすべての権限と決定権が信長に集中していた点だと見ています。最大の強味が実は最大の弱点であったと言うところでしょうか。信長の卓越した能力、積み上げた実績によるカリスマ性に合わせて作られた組織であったので信長が率いれば強大ですが信長の代わりがいなかった点です。さらにがあって織田軍団は圧倒的な信長の存在感で統制したいたために織田家臣の忠誠心は信長にあって織田家にはなかったとも見れます。織田家臣と言うより信長家臣体制であったとする方が良いかと見ています。

本能寺の変は織田軍団のシステムのすべての要であった信長が突然いなくなると言う観点で見ても面白いと思います。


史実の清州会議

あくまでも俯瞰的に見ますが清州会議は表面上は織田家の跡目相続会議とされます。教科書的には三男信孝を推す筆頭家老の勝家と信忠の息子を推す秀吉の争いです。しかし判っている事は清州会議に勝った秀吉は織田家を藻屑のように扱っています。秀吉が天下を取るためにはそうする必要があったのは確かですが、そういう振舞いを行った秀吉に対して織田家臣団はさしたる反発を見せていません。清州会議後に覇権を争った勝家にしても織田家復興の旗印を掲げていたと思えないからです。掲げていたかもしれませんが織田家臣団はそういう大義名分への興味や関心が大変薄かった気がします。

清州会議の本質は天下の主であった織田家の跡目争いではなかったと見るのが正しい気がします。ちょっと判りにくいかもしれませんが、たとえば徳川将軍家では徳川家の跡目を継ぎ将軍になる事が天下の主になる事に直結します。わかりやすい例なら七代将軍家継の後継を巡って争いが起こりますが、勝った吉宗が将軍になればライバルとされた者たちは速やかに臣下の礼を取るみたいな感じです。しかし織田家はそうでなく織田家の跡目を継ぐ事がイコールで信長の代わりと見られていなかったと考えています。清州会議で織田家臣が注目したのは誰が信長の役割を引き継ぐのか、さらにその人物が信長の役割を果たせるのかの品評会であったと見るべきの気がしています。織田家の人間であるかないかはさしたる条件と思われていなかったぐらいです。本能寺の変織田家重臣の力関係を単純化します。

清州会議時点では勝家と秀吉しかいなかった事になります。この2人が織田家の跡目ではなく信長の跡目候補として見られ、支持されたのが秀吉であったのが清州会議であるとして良い気がします。


中国大返しの意味

秀吉は信長の一番弟子と良く評されます。この評価はある程度以上正しくて、本能寺での信長の急死が織田家にもたらす意味を一番よく理解していたんじゃなかろうかと考えています。つまり信長がいなくなれば軍団長クラスを制御できる人物が信長体制には無い事です。こういう当主が急死と言う事態になった時にありきたりの大名家の動きは、

  1. 宿老・一族の有力者連中が結束し求心力を保つ
  2. その中で新たな当主を選出する
  3. 選ばれた当主を中心に結束を固める
だから誰が家督を継ぐのかが最重要課題になり、そこが危機管理の焦点になります。しかしながら信長体制は非常時に当主の権限を一時的に代行するようなシステムがそもそもない事を秀吉は気付いていたんじゃなかろうかです。これは前から気づいていたと言うよりも、信長が急にいなくって見回せば「そうか、そうか、そうなってるんだ♪」みたいなものでしょうか。逸話的には軍師の黒田官兵衛が気付いて献言したとも言われていますが、秀吉なら気付いていてもおかしくありません。信長急死の報から連想した事として、
  1. 信長の跡目は誰だ?
  2. 誰が織田家の跡目なろうとも信長同様に従う奴はおらんだろう(だいたいオレが従わん)
  3. そうなれば織田家領は軍団長クラスの分け取りだ
  4. 大きく取った奴が信長の真の後継者になり天下を握れる道が開ける
  5. 毛利どころじゃなく京都に進撃だ!
織田家領を分捕るにも大義名分があった方が良いのですが、これは目の前に転がっています。逆賊光秀を討ち信長の仇を討つです。これ以上の大義名分はありません。後はこの信長が亡くなって織田家の天下が終わった事、つまりは秀吉の結論と同じになった者がいないうちに素早く行動する事です。中国大返しの経過をwikipediaからまとめると、
天正10年
(1582年)
中国大返し経過
6/2 本能寺の変
6/4 毛利と和睦。清水宗治切腹
6/7 姫路到着
6/9 姫路出発
6/10 兵庫宿営
6/11 尼崎宿営
6/12 摂津富田宿営
6/13 山崎の戦い
魔術のように対陣中の毛利と和睦し姫路に撤収しています。姫路までは風のように引き返していますが、そこから山崎までは比較的ゆっくり進軍したとなっています。wikipediaに、

秀吉は備中高松から姫路までの移動の迅速さにくらべれば、姫路からの移動は、慎重さをともない、着実な行軍に重点が置かれている。姫路までは、毛利方の追撃を免れるため何よりもスピードが重視されたのに対し、姫路からは光秀の放った伏兵などを警戒しながらの行軍であ、同時に同盟者を募り、情報戦を繰り広げながらの行軍だったのである。

本当にそうだったのかを検証してみます。秀吉は6/4の清水宗治切腹直後に姫路に驀進したとの説もありますが、とりあえず沼城まで撤退し6/6から姫路に向かった説が現在では有力のようです。この距離が約70kmとされています。姫路到着も諸説ありますが、先発の騎馬部隊は6/7に到着したかもしれませんが歩兵部隊はもう少しかかったと見るのが妥当で、6/8午前中には全軍姫路に到着したぐらいの解釈が妥当のようです。6/9に姫路からは諸説は史書の通りだろうとしています。進路を地図上にプロットしてみると、

こうやって見ると沼城から姫路城は爆走しています。姫路城で休んだ後に兵庫湊までもかなり強行軍と見えます。しかし兵庫湊から後は1日30km程度ですから織田軍団にしたら標準的な進軍速度に見えます。織田軍団の一つの特徴は移動速度が速い事で、第一次の朝倉攻めなんかが判りやすいところです。秀吉だって賤ヶ岳の時に大垣城からダッシュ(52kmを5時間で走ったともなっています)しています。その基準からしても沼城から姫路城は超弩級ですが、兵庫湊までは早い方、以後は普通の進軍速度と言ったところでしょうか。

兵庫湊から普通の進軍速度に戻したのは、決戦に備えて兵を疲れさせないとか、光秀側の出方や他の織田の比較的小勢力の動向を見極める戦術的な意味はもちろんあると思います。負けたら意味がなくなりますからね。それに加えて光秀討伐戦をチャンスに自分の勢力圏を極力広げたいの戦略的意図もあったと見ます。この他に秀吉が心配した事は、

  1. あの神出鬼没の信長の事だから、ひょっとして生き残っていないだろうかの確認情報
  2. 秀吉より京都に近い摂津の丹羽長秀の動向
信長が本能寺を脱出していればたぶん「しゃ〜ない」で光秀討伐の手柄だけを狙うぐらいでしょうか。もし丹羽長秀が四国方面軍をがっちり掌握して秀吉の代わりに山崎をやられれば・・・長秀の敗戦ないしドローを願うぐらいになります。長秀が勝ってしまえば「その時に考える」ぐらいでしょうか。史実は御存じのように信長・信忠は確実に死に、長秀の四国方面軍は「信長死す」の報に四散してしまい光秀討伐どころでなくなってしまいます。

大雑把なのですが中国方面軍としての秀吉軍の勢力圏は播磨を中心に但馬、備前、備中、因幡程度であったと考えます。これを光秀討伐戦を行うことで摂津・河内・和泉・山城・丹波・丹後・近江・大和・淡路ぐらいまで一挙に拡大してしまいたい戦略があったとしても不思議ありません。本能寺後を考える秀吉にとって自らの勢力圏を可能な限り肥大化させて既得権状態にしてしまう事が何より重要であったの見方です。でもって秀吉が光秀討伐戦で手中に収めた勢力圏に口出しできるものは、信長のいない織田体制には既に存在していないです。

秀吉の読みが正しかったのは史実が証明しています。清州会議で秀吉が膨らませた支配地はそのまま秀吉のものになっています。これは秀吉が持つ力に勝家でさえ抵抗できず、さらに織田家臣は目の前で光秀を粉砕して日の出の勢いの秀吉こそ信長の継承者として認めたと考えています。


信忠と言う"if" その1 どこに逃げるか

チョットお遊びの"if"なんですが実際の本能寺でも信忠には脱出のチャンスはあったとされます。しかしそれを拒否して死んでいます。ここは”if”ですからなんとか血路を開いて逃げ延びたとします。京都から逃げ延びた信忠は果たしてどこに向かうだろうかです。まずは安土が思い浮かびます。安土にも兵力はそれなりにいたと思います。家康接待中のエピソードとして秀吉から「上様、来援乞う」の使者が入り信長は光秀に出撃を命じるとともに、自分も備中高松に向かうとしていたはずです。でもって信長は光秀軍を率いるのではなく自前の直属軍を率いる手はずだったはずです。中国方面に向かうに当たって全部が安土に居たとまで思いませんが、安土にもそれなりに信長直属の兵力が常駐していたとは思います。これをとりあえずアテにするぐらいの発想です。

ただなんですがどれだけ残っているかは未知数です。参考になるのは四国渡海準備中の丹羽長秀軍の惨状です。長秀は本能寺の夜にたまたま本営を置いていた住吉ではなく岸和田にいます。四国方面軍の名目上の司令官である信孝とともに蜂屋頼隆(この人も四国方面軍の副将)の接待を受けていたとされています。大将不在の状況で信長死すの報告が全軍に知れ渡ってしまい、長秀が岸和田から住吉に駆けつけた時には四国方面軍は四散して激減してしまったとなっています。仕方がないので残った兵力で守りを固めながら待ち、秀吉軍が中国大返しで進軍してくると参加する状態に陥っています。同様の事が安土でも起こると予想可能です。たとえ信忠が安土に逃げ込んでも信長の直属軍的なものは大して残っていない可能性が十分にあります。

摂津住吉も京都から遠くないですが、安土となると非常に近いです。本能寺で信長を亡き者にした光秀軍が安土に向かって来るのは誰でも予想できます。史実でも6/2が本能寺で6/5に安土に入城しています。信忠が逃げた、さらに安土に健在であることが判れば同様の日程、いやもっと早くに安土に進撃してくるであろう事はごく当たり前に予想されます。そういう状況で安土で光秀軍の攻撃を凌げるだけの戦力が短期間で集められるかになります。安土での抵抗は無理ではないかと見ます。安土では安全圏と言えないと考えたのならさらなる逃避行が必要ですが選択枝としてまず上がるのは、

    岐阜まで逃げて再起を図る
安土に織田家の本拠を移したとは言え岐阜は重要拠点であり堅固な城塞もあります。また初期からの織田家の支配地で兵力を集めるにも適していそうだからです。ただなんですが兵力を集める条件は安土とあんまり変わらない気もします。この時期の織田軍主力は遠い国境線沿いに展開しています。織田軍の主力として美濃・尾張勢は信長の覇業の初期から大動員されており、目ぼしい美濃・尾張の武将はあんまり残っていない様にしか思えないのです。残っているのは二線級以下ってな感じでしょうか。それに史実では光秀は岐阜まで兵を進めていませんが、信忠が岐阜に健在となれば追撃してくる可能性は十分にあります。いやそういう懸念がある状態での兵力集結になります。


考え方の基本は本能寺で信忠が失った物は父信長だけでなく自前の兵団も失ってしまい、光秀軍の追撃を交わしながらこれを再集結させるのは非常に困難な状況に陥るであろうです。光秀反逆・信長横死の混乱状態では安土に逃げても岐阜に逃げても信忠は光秀に反撃するだけの軍勢をそろえるのは到底無理ではなかろうかです。そうなると光秀軍の追撃に対して短期間で対抗兵力を得るには、この時点で自前の兵団を持っているところに頼るのが上策になります。岐阜近くでそんな軍団があるのは三河の徳川ぐらいになります。しかし徳川軍は頼るには難があります。古くからの同盟国ですが、しょせんは他家です。信長死すの混乱状態でどういう態度を取るか未知数の部分があります。そのうえ家康が不在であることは信忠も知っています。信忠が頼るなら

    北陸の勝家に頼る
勝家なら臣下であり筆頭家老です。上杉氏と交戦中とはいえ有力な軍団を持っています。勝家軍主力は越中に展開していますが、勝家軍主力に近づけば近づくほど安全が確保されます。それだけでなく光秀討伐の先頭に立ってくれるのは間違いありません。また勝家の勢力圏である敦賀まで逃げれば光秀の判断も微妙になります。クーデターのこの時期に勝家と全面戦争状態に陥るメリット・デメリット判断です。追撃して敦賀ぐらいで信忠を討ち取れれば良いですが、北の庄からさらに加賀方面まで逃げられたら厄介だぐらいの考え方です。どっちにしても信忠も敦賀なんかに留まらずに一目散に北の庄、さらに光秀軍が木の芽峠を越えそうとなると加賀から越中まで逃げるかと見ています。光秀もまたそう判断すると見ます。

しょせんは仮定のお話ですが信忠は北陸に逃げ勝家と合流すると見ます。安土で籠城したり、岐阜で再起を図るようならやはり信忠は生き延びられない可能性が高いぐらいです。"if"で生き残るにしてもそれぐらいの状態と考えます。まあ岐阜に逃げても後述するように秀吉の中国大返しは起こると考えますから、岐阜でも生き残っていたとは言えるかもしれません。とりあえず今日の"if"では北陸説を取っておきます。結局のところ北の庄でも岐阜でも結果に変わりはなさそうだからです。ポイントは信忠に自前の軍団を集結させる余裕が失われるです。


信忠と言う"if" その2 秀吉の中国大返しから清州会議

やはり秀吉は断行すると考えます。つうかやらない理由がありません。史実と違い信忠は生き残っていますが、この時点で反逆者光秀を討つのは絶対の大義であり、光秀追討戦をやれば史実と同じように多くの織田家臣団を吸収できるからです。もちろん支配領域の肥大化も史実同様にセットになります。こんな戦略的に美味しい中国大返しを秀吉が指をくわえて見ているとは思えません。信忠がどういう態度に出るかに未知数の部分は残っても、信長の仇を取る事は文句なしの大手柄であり、褒められこそすれ罰を与えられる理由はまずないからです。

でもって清州会議になります。史実と違い跡目相続問題はありません。あるのは論功行賞になります。焦点は言うまでもなく秀吉の処遇をどうするかです。ここで信忠・勝家が見るのは現実かと思います。織田家の所領の多くを抑え込んでいるのは秀吉であると言う現実です。強大になった秀吉に信長のように頭ごなしに命令できる力が無い事を悟ると思います。秀吉だってホイホイと支配領域を明け渡すつもりはさらさらなく、手柄として既成事実を認めよの要求をすると考えます。この要求を拒否できる実力は勝家と組んだ信忠にもないと見ます。結局のところ本能寺の変で信忠は逃げただけであり、勝家とて何もしていないからです。

秀吉の支配地を認めると対抗上勝家勢力の強化も必要になります。織田家の中で秀吉に対抗できる勢力は勝家しかなく、史実の清州会議と同様に宿老連中の支配地域はそのまま領地になる織田家分割にならざるを得なくなると見ます。ここに「さらに」がつきます。当主となった信忠の処遇です。北の庄に置いておけないと秀吉が主張すれば信忠も勝家も反論できません。そうですねぇ、安土は燃えているのでやはり岐阜に移る事になると考えます。領地は美濃・尾張プラスアルファぐらいでしょうか。史実で三男信雄がもらった領域ぐらいです。これで信忠と勝家は切り離されます。


信忠と言う"if" その3 でもって賤ヶ岳に戻る

会議が終われば勝家は北の庄に戻らざるを得なくなります。信忠は勝家との関係を強化するためにやはりお市の方を付けたと見ます。そして雪が降ります。秀吉は即座に動き出すと考えます。それこそ信忠を軟禁状態にして「勝家討伐令」の強要です。理由なんていくらでも付けられます。信忠は拒否するかもしれませんが、それなら死んでもらい三法師を擁立するだけです。でもって賤ヶ岳に歴史は収束していくぐらいです。

信忠が有能であったのか、凡愚であったのかは残された資料からはなんとも言えません。個人的にはそれなりに有能であった可能性はあると考えています。そうですねぇ、秀忠ぐらいは十分有能ではなかったかと思っています。それぐらい有能であれば"if"はもっと違う展開もあるんじゃないかの考え方もありますが、本能寺と言う修羅場で求められる有能さのレベルが高すぎる気がしています。相手は日本史に残る英雄である秀吉です。秀吉を抑え込み顎で使える人物は信長クラスにならないと難しかったぐらいです。残念ながら秀忠が家康でないのと同様に信忠は信長ではなかったです。

秀忠が天下を受け継いだ頃には、それこそ信長が搗き、秀吉が捏ね、最後に家康が調理した天下を食べる時代になっています。これぐらいの状況で信忠が天下を受け継いでいたら問題なく持てる才能で統治可能であったかもしれません。しかし信忠が"if"で生き延びて放り込まれる世界は戦国期のクライマックスとも言える大激動期です。信長の死で天下への野望に目覚めた秀吉に対抗するのは余りの役不足であったんじゃなかろうかと考えています。信忠の求心力では秀吉に傾いた流れを押し戻せないであろうぐらいの考え方をしています。

もちろんですが不確定要素はたくさんあります。たとえば毛利。毛利は秀吉と和睦した後に信長の死を知りましたが、秀吉が天下を取るとみて和睦条件を忠実に守る方針を取ったとされます。これが信忠健在であったらどう変わるかは未知数です。さらに家康の動向も変わる可能性があります。史実では勝家 vs 秀吉を横目に見ながら甲信の切り取りに専念していますが、信忠健在状態なら同じ動きになるかです。すべては信忠の織田家臣への求心力を見極めてになるかと考えます。でも私の推測としては「いても、いなくても変わらない」可能性の方が高い気がします。