日曜閑話71-2

もうやめようと思った桶狭間ですがもう1回やります。今日は義元の本陣の推測です。


比定の前提

これは信長公記に頼るほかはありません。すべてが真実かどうかを疑いだしたらキリが無いのですが、実際の従軍者の現場記録の一級資料です。信長公記の記述に近いところが義元本陣の可能性が一番高いとして良いと考えています。ただなんですが具体的に言及しているところは案外少なく、

  • 御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。


  • 天文廿一年壬子五月十九日 午の剋、戌亥に向かって人数を備え


  • 信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向かって、足軽に罷り出で候らえば、瞳とかかり来て、鑓下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。是を見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたわせ、陣を居られ候。


  • 信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深困の足入り、一騎打ちの道なり。無様の様体、敵方よりさだかに相見え候。


  • 山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。


  • 沓掛の到下の松の下に、二かい三がゑの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余の事に熱田大明神の神軍がと申し候なり。


  • 未の刻、東へ向ってかかり給う。初めは三百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になって、後には五十騎計りになりたるけり。


  • おけはざまと云う所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云う事、限りなし。

これらの解釈ですが

  1. 義元は「おけはざま山」に本陣を構えた
  2. おけはざま山から西北の方向に軍勢を配備した
  3. 佐々・千秋の突撃が義元本陣から見え、善照寺から謡の様子が見えた
  4. 信長が善照寺から中嶋砦に移動する様子も丸見えだった
  5. 中嶋砦から信長は「山際」に進んだ時に豪雨(雷雨)に見舞われた
  6. 「沓掛の到」から義元本陣近くで雨が上がって晴れ間が見えてきた
  7. 義元は東に向かって逃げた。また信長も東から義元本陣に攻めたようだ
  8. 義元が戦死した「おけはざま」は谷間の狭いところであった
このうち義元戦死地は義元の墓がある桶狭間古戦場跡に比定します。ここも疑いだすとキリがないのですが、戦死地に墓所を建てたと考えても無理がないからです。地形的にも「おけはざま」の記述に合致します。


前回の推測

地図にしてみました。

前回の仮定
義元本陣比定地は桶狭間古戦場公園の南側の山です。ここに本陣があると西北に義元本隊軍が展開している記述には合致します。ただなんですが、
  1. 中嶋砦からチト遠い(場所は高いが前方に山があり中嶋砦が見えるか疑問)
  2. 織田軍の襲撃ルートが長くなる
  3. 義元本陣は北から南に攻める形になり、義元も東側に逃げにくくなる(むしろ南側に逃げる格好になりそう)
信長公記の記述に合致する部分は案外少なくなります。


候補地を考える

桶狭間には手越川が流れ、これが中嶋砦のところで扇川と合流します。扇川は桶狭間丘陵の北側を流れています。この手越川の流域が桶狭間であり、山は川の両岸にある形になります。桶狭間の当時の状況は上記した通り、

    おけはざまと云う所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云う事、限りなし。
谷間の底部分は低湿地帯の様相があり、軍法に基づいても両岸の山に義元本隊軍は陣を敷いたと考えるのが妥当です。桶狭間古戦場跡の南の山は手越川の南岸ですが、義元本陣は手越川の北岸じゃなかいと仮定してみます。山と言うより丘なんですがややこしいので山とします。明治時代の地図を参照してみます。
明治期の地図からの推測
個人的に注目したのは神社と寺です。桶狭間合戦時にあったかどうかは確認しようもありませんが、神社や寺があると言う事はそれなりに平地ではなかったろうかです。もし桶狭間当時にも寺社があれば絶対利用するはずです。合戦当時に寺社はなかったかもしれませんが、手越川北岸に本陣を構えたのならココじゃなかろうかです。根拠はたったそれだけですが、ここに本陣があれば桶狭間古戦場跡に較べると信長公記の記述に一致する部分が増えます。信長公記情報と合せてみると、
  1. 桶狭間古戦場跡に較べると中嶋砦までの距離が近くなる(見える可能性が高くなる)
  2. 織田軍の襲撃ルートが半分ぐらいに縮まる
  3. 義元が本陣から追い落とされた時に沓掛城に到る道に自然になる(つまり東に逃げる)
それと「沓掛の到」とは扇川沿いに進んで桶狭間方面に向かう道に至った事を記していると推理します。沓掛の到の情景描写にある
    二かい三がゑの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余の事に熱田大明神の神軍がと申し候なり
これは山際から山に入る地点の情景描写じゃなかろうかです。ここまで来れば義元本陣は目の前ですから従軍していた太田牛一も印象深かったぐらいの見方です。これを地図で示してみると、
手越川北岸に義元本陣を比定した場合
この手越川北岸本陣説の難点は、
  1. 候補地Aは中嶋砦にあまりに近く、前衛と非常に近いと言うか実質的に高根山の最前線に義元本陣がある事になる
  2. 候補地Bは戌亥に備えるの描写に一致しない上に扇川に近いところになるため本陣にしては北側防御が手薄すぎる
  3. どちらも義元本陣攻撃時には「東へ向ってかかり給う」になりにくい
このうち戌亥問題は候補地Aなら辛うじてクリアします。候補地Aから戌亥の中嶋砦方面に向かって陣を展開していると見る事が可能だからです。高根山には松井宗信が陣を敷いていたと伝承されていますが、その真後ろぐらいに義元本陣があったぐらいです。強いて言えば義元が中嶋砦方面に押し出す時も丘陵伝いに軍を進めようとの意図があったぐらいです。高根山と言っても30mぐらいの山ですから道に必ずしもこだわる必要はないでしょうし、道にこだわると出口が狭いために大軍の利が活かせません。

それと地形図からではなんとも言えないところですが、手越川北岸の丘陵地の北側はやや急峻もしくは樹木が生い茂っていたんじゃなかろうかとも思っています。今日は織田軍が手越川北岸の丘陵地の「山際」を通ったと仮定していますが、いくら豪雨であっても距離的には丸見えです。そちらの方向の織田軍の動きが察知できなかったのは、察知しにくい地形的な要素があった気がします。豪雨は物音は消すでしょうから、姿は地形的な当時の様子の可能性です。

問題は「東へ向ってかかり給う」になります。これは項目を改めて検討してみます。


東へ向ってかかり給う

信長公記の「東へ向ってかかり給う」の前後部分です。

空晴るるを御覧じ、信長鑓をおっ取って、大音声を上げて、すは、かかれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはっと崩れなり。弓、鑓、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

天正廿一年壬子五月十九日

旗本は是れなり。是れへ懸かかれと御下知あり、未の刻、東へ向ってかかり給う。初めは三百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になって、後には五十騎計りになりたるけり。

天正廿一年壬子五月十九日」で文章は分けられている印象があります。あくまでも私の印象ですが、

  • 天正廿一年壬子五月十九日」より前は中嶋砦出発から義元本陣急襲までの描写(本陣急襲)
  • 天正廿一年壬子五月十九日」より後は義元が本陣から落ち延びて討ち取られるまで描写(義元追撃)
信長公記の描写を私の推測も交えて考えてみます。とにかく織田軍は義元本陣への急襲に成功します。その結果義元本陣は潰乱します。しかしこの時には義元は討ちとられていません。混乱の中を旗本部隊に守られながら「おけはざま山」を下り、沓掛に到る道に出たと考えるのが妥当です。義元に代わって「おけはざま山」を占拠した信長は沓掛へ落ち延びようとする義元を見つけたと考えます。この時に「おけはざま山」から見て東側に義元はいる事になります。信長は手近な部隊を集結させて義元追撃を命じた気がします。桶狭間丘陵の沓掛に至る道は細くてなおかつ両脇は深田の描写がありますから、織田軍も展開しての包囲戦を取りにくく追撃しながらの漸減戦になった描写と私は読みます。

もう一つですが、作者の太田牛一の記憶です。「沓掛の到」時点ぐらいまではまだ周りの風景を見る余裕があったと見ますが、義元本陣突入時には頭に血が上っていたと考えて良い気がしています。戦場心理とはそんなものだと聞いています。少し飛躍しますが突撃前後の記憶は無我夢中であやふやなんじゃなかろうかです。気が付いたら義元本陣は潰滅していたぐらいです。そのためか「沓掛に到」から義元本陣襲撃までの描写はかなり曖昧な印象があります。方角や風景描写が乏しくなっています。それが義元本陣を壊滅させて「いくさに勝った」を実感してから再び心に余裕が出てきた気がします。

かなり強引なところのある解釈ですが、

  1. 義元本陣突入時の方角については記述が無く不明
  2. 「東へ向ってかかり給う」は本陣襲撃後の義元追撃戦時の描写である
こう取りたいと思います。この推測を前提に考えると候補地Bでは本陣から桶狭間丘陵の道まで500mぐらいあります。信長の追撃は「東へ向ってかかり給う」ですから500mの間は追撃しなかった事になります。これは少々不自然ですから、義元本陣比定地は山を下りればすぐに道に出る候補地Aの方が有力と考えます。


純急襲はない気がする

私は信長が扇川沿いに迂回奇襲ルートを取ったと仮定しています。しかしあれこれ推測は付けましたが高根山に今川軍が居る状況で、豪雨の助けがあったとしても迂回急襲が成立するかは疑問符が付けられるところです。また「東へ向ってかかり給う」をあれこれ捻らずに本陣急襲時からそうだと解釈すれば純強襲になります。図にしてみます。

中嶋砦から高根山の山際に真っ直ぐ寄せ、雷雨と共に山頂(つうても標高30m)を目指して突撃したです。そうやって前備えを突き崩し義元本陣に殺到したです。これなら「東へ向ってかかり給う」に合致します。ただなんですが信長公記を読んだ印象に過ぎませんが、山際から義元本陣突撃までに移動時間があるように感じてなりません。正面からの純強襲なら描写としてすぐに戦闘に突入するはずですし、「沓掛の到」での描写が不自然に感じてならないです。純強襲説は私は否定したいと思います。


ほいじゃ信長はなぜに義元本陣の背後に迂回できたか?

桶狭間合戦の経過についてどこかで勘違いしている気がしています。時刻関係を信長公記から整理しておくと、

信長公記 時刻推定 事柄
夜明け方 5-7時 鷲津・丸根への攻撃の報を聞き、信長は敦盛を舞って出撃
辰の剋 7-9時 ・源太夫殿宮前で東側に鷲津・丸根が燃える煙を見る
・最初に浜手の道を目指すが通れず、熱田の「かみ道」を通る
午の剋 11-13時 善照寺砦での描写。この時には義元本隊が目の前に既に出現
未の剋 13時-15時 義元追撃中
太夫殿宮とはどこかですが、どうも上知我麻神社の事を指すと考えるのが妥当のようです。この神社は現在は熱田神宮の境内にありますが、明治期までは熱田神宮の南の鳥居のすぐ南側にあったようです。この下りが信長が熱田神宮で必勝祈願を行った話のタネの気がします。でもってかつての源太夫殿宮は美濃道と東海道の追分にあったとされます。ま、清州から鳴海方面に向かうのであれば通っても不思議有りません。そこで鷲津・丸根が燃えている状況を確認したと記されています。気になるのは「東を御覧じ候へは」と書いてあるところですが、ここは気にしだしたらキリがないのであえて目を瞑ります。この時点が「辰の剋」です。

そこから信長は浜手の道を選ぶのですが潮の関係で通れない事が判明し「かみ道」に変更したとなっています。この寄り道でどれぐらい時間を喰ったかは不明ですが、次の時刻描写が「午の剋」です。午の刻の描写は

  1. 信長の善照寺到着を見て佐々・千秋が突撃惨敗
  2. それを見ていた義元が謡をする
  3. 信長が善照寺から中嶋砦に移動する
ここはどう読んでも信長が「午の剋」に到着する以前に義元は既に「おけはざま山」に陣を構えていたと取る方が自然な気がします。佐々・千秋の突撃には謎が多いのですが、この謎の突撃に連動して何故に鷲津・丸根方面への加勢に動かなかったもあります。兵力差が大きいので加勢しても戦術的に無駄は妥当ですが、謎の突撃も戦術的にはやはり謎です。謎を言うとそもそも佐々・千秋は何をしてたんだも出てきます。通説では中嶋砦の前面に展開していたとなっていますが、なんのために砦の外に布陣していたんだと言う事です。

かなり飛躍した強引な解釈になりますが、やはり佐々・千秋は鷲津・丸根の加勢に行くつもりだったんじゃないかと見ます。砦の外で兵力を集めたところで桶狭間方面に義元本隊が出現したのを見たんじゃなかろうかです。佐々・千秋も最初はそれが義元本隊と思わず今川別動隊と見たのかもしれませんが、とにかく鷲津・丸根の救援より5/19に鳴海方面にも今川軍の攻撃がある可能性を考えたぐらいです。そういう状況で動くに動けなくなっていたぐらいです。つまり義元は信長の動きに関係なく桶狭間に予定通り進出していた可能性です。なんのためになりますが、やはり鳴海城救援しか考えられません。戦術的には、

  1. 5/18夜から徹夜で戦っている大高城の今川前衛軍に鳴海方面からの反撃を封じるため
  2. 目の前で鷲津・丸根砦が陥落している織田軍の動揺を増幅させ、撤退を促すため
今川軍の作戦の大前提は信長は「清州に籠って出て来ない」だと考えています。そういう状況で最前線の鷲津・丸根があっさり陥落すれば鳴海方面に展開している織田軍は撤退を考えるでしょうし、それをより強く後押しするには鳴海方面への圧迫示威行動が有効です。圧迫示威行動で一番効果的なのは義元が陣頭に姿を現す事です。御大将が進出してくるとなれば大軍で襲い掛かられるのは必至ですから、後詰の無い織田軍は尻尾を巻いて逃げるに違いないぐらいです。何が言いたいかですが、
    義元も信長も相手が来ていると思わなかった!
信長の抱いていた戦術も不明ですが、今川前衛軍が鷲津・丸根を攻めている背後を襲うぐらいの計算だった気がします。今川前衛軍が戦い疲れる頃を計算しながら善照寺に来てみたら「既に落ちていた」ぐらいです。その上、見上げると桶狭間に義元本隊が出現していたぐらいです。


佐々・千秋の突撃は信長公記を読む限り信長が善照寺に到着すると「すぐ」ぐらいの印象があります。さらに善照寺から中嶋砦に移動し「山際」に動き出したのもかなり早い時間の印象があります。傍証は山際に出撃する前の演説で、まず1回やってから佐々・千秋の敗兵が戻ってきたらもう1回やっているからです。とにもかくにも信長は義元出現により迂回襲撃を即座に決断し動いていったぐらいで良い気はします。正面攻撃は佐々・千秋が惨敗していますからやめたぐらいでも良いかもしれません。

信長はまあ良いとして義元ですが「信長は来ない」「鳴海方面の織田軍は逃げる」の前提で布陣した問題点が出てきた気がします。中嶋砦方面には厚い配置はしたものの、北側側面が手薄になっていたぐらいです。でもってなんですが、義元はそれを放置せずに陣替えによる布陣の変更を命じたんじゃないでしょうか。信長出現への対応策です。この陣替え指令が出た頃に豪雨が降ります。この豪雨のために義元本隊は背後に回り込み襲ってくる織田軍を陣替えのために移動中の友軍と誤認した可能性です。だから織田軍はやすやすと義元本陣の背後から襲いかかる事が出来たぐらいです。

相当な力業の解釈ですが、そういう僥倖でもないと信長の快勝劇は説明できない気がしています。