今日は「もう1回桶狭間」です。前にやったおさらいみたいなものですが、見やすい地図が手に入ったのでグラフィカルにやってみたいと思ったのと、ついでの補足考察を入れてみます。
義元は5/17に沓掛城に入ります。そして翌日の夜に松平元康に大高城への兵糧輸送を命じます。沓掛城から大高城へは街道が通っており、夜に出発したのであれば街道を通ったと見るのが妥当です。
5/18夜の松平元康による兵糧輸送 |
翌19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。
6/18夜に出発して6/19の3時に丸根・鷲津砦の攻撃に取り掛かっています。そうなると元康も朝比奈泰朝も6/19の0時過ぎには大高城に到着しておきたいところです。とは言えこの時期の日の入りは19時ぐらいになります。日の入りと共に沓掛城を出発したとしても0時まで5時間しかありません。う〜ん、元康もそうですが朝比奈泰朝も夜を徹して沓掛城から大高城に歩き、そのまま丸根・鷲津砦の攻撃に取り掛かったと考えて良さそうです。ほいで丸根・鷲津砦は7時から9時ぐらいには落城したとなっていますから、戦闘時間は5〜6時間と言ったところでしょうか。
一方の信長ですが鷲津・丸根が攻撃されるの報告に反応し清州城から出陣します。
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清州城 → 熱田神宮 → 丹下砦 → 善照寺砦
5/19 10時頃の状況 |
今川軍の戦略計算は「信長は清州から動かない」が基本にあった気がします。そうなると松平元康・朝比奈泰朝の前衛軍は5/19に鷲津・丸根砦を攻略すればそのまま休憩になるはずです。そりゃ前夜から徹夜で行軍し攻城戦を一仕事終えたのですから、どうでも休まない事には疲労で使えなくなります。前衛軍は善照寺方面からの織田軍の攻撃に配慮しながら休息に入り、翌5/20以降の作戦に備えるはずです。次の戦術目標も明白で鳴海城救援のために中嶋・善照寺・丹下砦を蹴散らす予定だったと考えます。この前衛軍ですが丸根・鷲津砦攻略後に元康は大高城の守備担当になったの記載があります。信長公記からですが、
今度家康は朱武者にて先駆けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり。
これ信じれば大高城方面に展開する今川前衛軍は朝比奈・松平軍だけではなくさらなる増援が行われていたとも考えられます。丸根・鷲津攻略に従事した朝比奈・松平軍は休ませ、入れ替わりで新手を鳴海城救援に向かわせる作戦であったかもしれないです。5/18夜にまず元康、次に朝比奈軍が沓掛城から出陣しただけではなく、5/19払暁にはさらなる増援軍が出発していたぐらいの想像です。前衛軍が草臥れているところへの織田軍の逆襲に対する備えと考えても良いかもしれません。
前衛軍はそんな感じですが義元本隊はどうだろうかです。義元本隊の基本的な戦術は大軍の利点を活かした「後詰に徹する」ぐらいであったと考えています。前衛軍が蹴散らした後に悠々と馬を進める戦術です。ただ前衛軍とあんまり離れると奇襲による各個撃破にあいかねませんから、丸根・鷲津が陥落し大高城の安全が確保すれば沓掛城から大高城に速やかに移動するぐらいです。義元が沓掛城を出たのは前衛軍の増援部隊を送り出したのに引き続いてぐらいが考えられます。通説の義元の取った道は、
義元本隊の通説の進路 |
義元が沓掛城を出た時刻が不明なのですが信長公記には
御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬休息これあり。
天正廿一壬子五月十九日 午の刻、戌亥に向かって人数を備え、鷲津・丸根攻め落とし、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたわせられたる由に候。
とにもかくにも桶狭間に午の刻、つまり昼にはいた事がわかります。信長公記を読む限り信長は善照寺方面に進出して来ている事をとくに隠している様子は窺えません。今川軍に較べて遥かに小勢とは言え織田主力軍が1里先にいるところでノンビリ昼休憩を取るのは不自然です。これは前回までの推理になりますが、おそらく義元が沓掛城を出発する前に、
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善照寺砦方面に信長現る
織田軍との主力決戦となると今川全軍を結集する必要があります。戦術の基本は相手より少しでも多くの兵を決戦場に集めるのが鉄則です。信長が出て来なければ後詰で良かった義元本隊も当然ですが決戦に参加する必要が出てきます。つまりは前衛軍との合流運動が必要になるわけです。合流のためには
- 既定の街道ルートを通っての大高城での集結
- 街道ルートではなく桶狭間の丘陵地帯を通り、善照寺方面で前衛軍との挟撃作戦に出る
義元本隊の本当の進路 |
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戌亥に向かって人数を備え
ここもなんですが考えようによっては通説ルートも成立可能です。まず義元は12時頃には桶狭間に着陣ているわけです。沓掛城から桶狭間の丘陵ルートを取るには沓掛城出発時に信長が善照寺に現れている事を知っておく必要があります。そこを考えると少々微妙になるのです。丸根・鷲津陥落と信長の善照寺出現は時間的には非常に近いところがあります。何が言いたいかですが、義元は丸根・鷲津が陥落してから動いたのではなく、丸根・鷲津が陥落するのを見込んで行動していた可能性もあります。丸根・鷲津が落ちない、もしくは撃退されて今川軍がピンチになる状況は兵力差から予想しにくいからです。
義元本隊は後詰ですから払暁に出発する必要はありませんが、朝食を取ってから8時頃には既に沓掛城を出ていても不思議ありません。沓掛−大高間は街道ルートで5里ぐらいですから6時間ほどはかかると見れば、丸根・鷲津陥落の報告を聞いたのも、信長が善照寺現れるの報告を聞いたのも沓掛から大高に移動する街道を移動中だった可能性も高そうな気がします。丸根・鷲津陥落は予定通りなんですが、義元の判断を変えたのは信長出現になります。信長が最前線に現れたのなら決戦の意図があり、決戦は義元に取っても大歓迎です。
御大将同士の決戦となると義元本隊も後詰と言っておられなくなるいます。上でも書きましたが義元が決戦を行うに当たっての懸念は信長が尻尾を巻いて逃げてしまう事です。そこで大高城に向かう予定を変更し、信長の目に見えるところに進む作戦に変更したのはありえます。それが桶狭間だったぐらいの考え方です。こう考えても義元は桶狭間に進む理由は十分出てきます。
信長は5/17に今川軍が沓掛城に到着した事を知っているはずです。隠しようがないですからね。しかしこの時点では反応せず清州で不貞寝状態です。反応したのは5/19の3時に鷲津・丸根が攻められた情報です。この情報の前に信長はもう一つ情報を得ていたと考えます。
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5/18の昼間に今川軍に動きなし
- 丸根・鷲津の今川前衛軍は5/19の午後は使い物にならない(休息中)
- 前衛軍が動けない状態で信長が主力を率いて善照寺方面に進出すれば義元は決戦のチャンスと見て必ず動く
- 義元は信長に逃げられないように最短ルートの桶狭間丘陵地帯を進んで来る
- なおかつ義元は決戦を前衛軍が使えるようになる5/20に設定するだろう
信長が義元本隊に突撃する時に懸念したものはなんだろうかになります。兵数の差は懸念以前のものとして良いかと思いますが、最後の最後まで懸念したのは今川前衛軍の動きだった気がします。桶狭間方向に突撃した時に背後から挟撃されれば文字通りの袋のネズミになります。信長は善照寺に到着してから今川前衛軍が松平・朝比奈軍だけでなくさらに強化されている情報を得た気がしています。信長に取って今川軍の決戦予定は明日である、つまり6/19に決戦予定がない事が生き残り勝つための必要条件になります。それが今川前衛軍の予想以上の増強に5/19に決戦に挑んでくる疑念が残ったんじゃないかと見ています。
これは自分が囮になる事で決戦に誘った作戦に伴うリスクでしょう。義元は信長に逃げられないように沓掛城から桶狭間に進んで来るとしても、さらに信長に逃げられないように5/19中に決戦を挑んで来る可能性です。信長はその懸念を最後まで残していた気がします。wikipediaからですが、
一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500余りを置き、2000の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。
これは最低限の退路の確保のためとも見れるからです。兵数で劣る織田軍は決戦に当たって可能な限りの兵力を突撃させたいはずですが、それでも織田軍にしては少なからぬ兵力を善照寺砦に残していると見えるからです。まあ、史実は義元の首まで取る圧勝劇でしたが義元の首を取れたのは僥倖に過ぎず、せいぜい桶狭間の義元本隊を追い散らすぐらいが関の山の計算もあった気もしています。義元本隊を追い散らした時に連動して今川前衛軍が中嶋砦や善照寺砦方面に進出されたら一転して退路を抑えられる形になりますから、この程度の後詰部隊は割かなければならないの判断だったのかもしれません。
今回の仮説の難点は信長戦術が際ど過ぎる点です。まるで三国志の諸葛孔明の作戦のように異様に精密過ぎるとでも言えば良いのでしょうか。信長はある種の天才ですがそこまで計算し尽くした動きを果たして行ったのだろうかです。つうのも後の美濃の斎藤義龍戦ではわりと単純な作戦で吶喊してしばしば手痛い目にあっているからです。そこで出てくるのが偶然説です。骨子だけまとめると、
- 出撃に傾きながら籠城にも選択の余地を残していたのが清州城での不貞寝期間
- 丸根・鷲津が攻められたの報で漸く出撃の決断を下す
- とにもかくにも最前線の善照寺砦まで進出
- 進出したものの丸根・鷲津砦は既にどうしようもなく善照寺砦で立ち往生
- そこに桶狭間方面に今川の別動隊の進出を確認
- 別動隊だから前衛軍より弱くて少ないだろうから、これを蹴散らして撤退しようと決断
- 突撃したら大勝し、さらに義元の首まで手に入った
信長公記は桶狭間に実際に従軍した太田牛一が書いたものです。現場の経験者が書いているので信憑性は高いのですが、書いたのは信長死後のさらに後年であるとして良く、記憶間違いもあるかもしれません。また太田牛一が実際に見えた範囲以外は又聞きか創作部分もある可能性は否定できません。それでも第一級の資料であるのは間違いありません。信長公記をある程度信用しながら奇襲説を考えてみます。
信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向かって、足軽に罷り出で候らえば、瞳とかかり来て、鑓下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。是を見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたわせ、陣を居られ候。信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深困の足入り、一騎打ちの道なり。無様の様体、敵方よりさだかに相見え候。
さて桶狭間の時に太田牛一は清州から善照寺に信長に従って進軍して来たとして良いでしょう。佐々・千秋の討死も見ていたかもしれません。まず注目したいのは、
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信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向かって、足軽に罷り出で候らえば
佐々・千秋が信長が善照寺砦に到着した時にどこに布陣していたかですが通説では中嶋砦周辺だったろうとなっています。中嶋砦と善照寺砦はすぐ近くにありますから、佐々・千秋は信長が善照寺砦に到着したのは見えていたはずです。同時に義元本隊が桶狭間に着陣しているのも見えていた事になります。こういう状況に至れば次の展開として、
- 義元本隊と決戦
- 清州に向かって撤退
- 是を見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたわせ、陣を居られ候
- 無様の様体、敵方よりさだかに相見え候
ここが問題で果たして太田牛一はこれを見ていたのだろうかです。創作の可能性も捨てきれないのですが、もし実話なら義元の余裕と言うより義元の信長への挑発に見えます。信長もそうですが織田軍にしたら味方の部隊が惨敗した上で、それを祝して謡なんて目の前でやられたら普通は怒るでしょう。それを見越しての義元の行為であるなら、義元は5/20ではなく5/19に義元本隊で以て決戦を行う意図があったのかもしれません。義元の計算として、
- 松平・朝比奈軍のよる前衛軍は5/19はもう使えない。出来れば5/20も休息させたい。
- 信長がノコノコ進出して来ており、またとない決戦のチャンスである
- 信長はいつ逃げるかの方が心配であり、目の前にいるうちに決戦に持ち込みたい
そう考えると義元本隊はもっと多くて1万〜1万2000程度はいた可能性も出てきます。織田軍が2000〜3000程度であれば決戦に臨むのに十分な兵力になります。理想的には前衛軍との合流が望ましいですが、信長と言う大魚を仕留めるにはこの程度のリスクは冒しても良いの判断が出てもおかしくないと思います。義元本隊の兵力についても不明なところが多いですから、本当に5/19に決戦の意図があったかどうかは不明です。謡の話も5/20まで織田軍を「逃げないようにする」戦術だったのかもしれません。信長公記では佐々・千秋の惨敗後に信長は善照寺砦から中嶋砦に信長は移動するのですが、
右の衆、手々に頚を取り持ち参られ候。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。
「右の衆」は名前も出ていますが佐々・千秋隊の生き残りと見て良いでしょう。「右の趣」とは今川前衛軍は前夜からの移動合戦で使い物になる状態ではない事と決死の突撃で活路を開こうのお話です。ここで気になるのは、
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山際まで御人数寄せられ候ところ
- 佐々・千秋の敗兵の収容
- 中嶋砦守備兵を決戦兵力に編入
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俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。
桶狭間あたりは地元情報によると地面は粘土質であり、雨でぬかるむと非常に足場が悪くなるそうです。そこまで義元が見ていたかどうかは別にしても、時刻も昼をかなり過ぎていますから気勢が削がれたぐらいはあった気がします。1日待てば信長に逃げられるリスクが出る代わりに前衛軍の活用が可能になり、戦術的にはより負ける要素が減りますから「無理しない」ぐらいでしょうか。
でもって山際とはどこになるかですが、扇川を上流に少し遡ったあたりと推測します。桶狭間の丘陵地帯は険阻と言うよりなだらかな丘陵地帯です。高いところで50mぐらいです。この丘陵地帯の北側を扇川は流れているのですが。どこかから丘に踏み込みこれを越えたんだろうです。雷轟く豪雨の中の移動ですから大変ではあったでしょうが、義元本隊に対してはその行動を隠せる効果があったと見ます。でもって織田軍はどこに出たかですが、
沓掛の到下の松の下に、二かい三がゑの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余の事に熱田大明神の神軍がと申し候なり。
「沓掛の到」は鳴海から沓掛に到る桶狭間の丘陵地帯を抜ける道を見下ろせる地点であったと考えます。そこの地点に到着してから、
空晴るるを御覧じ、信長鑓をおっ取って、大音声を上げて、すは、かかれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはっと崩れなり。弓、鑓、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。
ちょうど雨があがってきたようです。ここもポイントがいくつかあって、織田軍は「山際」から「沓掛の到」の間に戦闘行為を行った記述がありません。もし信長が中嶋砦から桶狭間の丘陵地帯を抜ける道を進んでいたら、佐々・千秋部隊が惨敗した義元本隊の前線部隊に接触するはずです。いくら豪雨であっても2000の織田軍が通り抜けるのに気が付かないはまずあり得ません。またつい先刻に佐々・千秋部隊の襲撃があった訳ですから、撃退して安心すると言うよりも豪雨に乗じた織田軍の奇襲を警戒していたと考えるべきと思います。また佐々・千秋部隊に較べると10倍程度の兵力はありますが、その程度の兵力で、
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黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはっと崩れなり
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中嶋砦 → 山際 → 沓掛の到
未の刻、東へ向ってかかり給う。初めは三百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になって、後には五十騎計りになりたるけり。
義元の戦死場所も諸説あるのですが、信長公記を信じれば桶狭間の丘陵地帯の道を沓掛城に向かった退却したんじゃなかろうかと読みます。そうなると織田軍が「沓掛の到」として丘陵地帯を乗り越えた地点は前線部隊の背後、義元本陣の前ぐらいになる気がします。突然の織田主力軍の襲撃に今川軍は大混乱を来しあの桶狭間が出現したぐらいです。参考図を出しておきます。
信長の奇襲ルート推測 |
- 善照寺方面から義元本陣は見えているようだ
- 桶狭間の義元本隊は戌亥に備えを固めている
一方の信長の進路は完全な想像です。想像の材料にしたものは、
- 航空写真で比較的通りやすそうに見える
- 丘を越えて出てきた場所が義元本隊の前備と本陣の間ぐらいになる
信長公記では当然ですがすべては信長の計算通りに動いているように書いてありますが、案外困っていた気もしないでもありません。つうのもこんな記述があります。
あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。
これは今川前衛軍の観察で良いかと思います。配下の兵に「だから」今川前衛軍は今日は襲って来ないから背後は安心の説明になりますが、ヒョッとして信長本来の狙いは戦い疲れている今川前衛軍を叩く予定じゃなかったろうかです。そう考えると信長の行動は現実的になります。5/18の昼間の時点で沓掛城の今川軍に動きが無く、5/19の3時ぐらいから攻撃が始まっていますから鷲津・丸根を攻めている今川軍は沓掛から徹宵行軍して戦っているしか考えられません。つまり疲労困憊状態と判断するのは容易です。ちょうど今川前衛軍が鷲津・丸根を攻略した後、いや攻略中に前衛軍の背後を襲えば勝てるの計算で動いていたんじゃなかろうかです。
ところが善照寺まで来てみると既に鷲津・丸根は手の施しようがない状態になっています。さらに今川軍は前衛軍に後詰を手早く送っている情報も得たのかもしれません。このまま前衛軍に突撃しても勝算が微妙すぎるぐらいの判断です。そこに義元本隊が桶狭間に出現の情報が入ります。これで前衛軍攻撃プランは完全に放棄せざるを得なくなります。そんな事をやれば義元本隊に背後から襲われます。佐々・千秋の突撃の解釈は今日は独断としていますが、この考え方を取れば信長の命令の可能性が出てきます。
着陣したての義元本隊の先鋒を軽くでも攪乱させておいて「勝った」の形だけでも作って撤退するぐらいの腹積もりと言うところでしょうか。ところがものの見事に惨敗です。負けたままで逃げる訳にもいかなくなった時に雷雨が来ます。この時に信長は瞬時の判断で中入り戦法を全軍挙げて行う決断を下したんじゃなかろうかです。正面からは織田軍全部で突っ込んでも無理の判断です。中入り自体は戦国期にポピュラーな戦法の一つですが、戦国期でもリスキーな戦法とされているのは随所に記録が残されています。でもそれしかないの決断です。
義元の桶狭間も前衛軍を守ると言う観点から言えば妥当な戦術の気がします。信長不在の状態なら丹下・善照寺・中嶋砦の守備兵が前衛軍に逆襲する可能性は低いと判断できます。しかし信長が清州から新手を率いて来るとなれば話は変わります。善照寺の信長を鷲津・丸根方面に動かさないようにするには、いつでも背後を襲える場所に布陣する事です。それが桶狭間だったぐらいです。義元に油断があったとすれば、この状況で無謀な中入り戦術を信長が取るとは予期しなかった点ぐらいになります。
いろんな可能性を再検証してみましたが、とにもかくにも今川軍来襲に対し常套戦術である籠城策を取らず、出撃策を取った時点で運命の女神は信長に微笑み続けた気がしています。そうとでも考えないと信長が勝つ理由を見出すのが難しい決戦と思っています。
うん、うん、うん、ちょっと待ったです。少し長くなりますが信長公記を引用し直します。
あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しろぞかば引き付くべし。是非に於ては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、
これは中嶋砦で出撃前に信長が全軍相手に演説しているところと解釈します。この後に山際に移動する話が続くのですが、この演説内容はどう読んでも義元本隊ではなく今川別動隊を攻撃するための内容です。もし義元本隊を攻撃するつもりなら、それこそ、
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狙うは義元の首、ただ一つ!