日曜閑話71

今日は「もう1回桶狭間」です。前にやったおさらいみたいなものですが、見やすい地図が手に入ったのでグラフィカルにやってみたいと思ったのと、ついでの補足考察を入れてみます。


5/17から5/19 10時頃まで

義元は5/17に沓掛城に入ります。そして翌日の夜に松平元康に大高城への兵糧輸送を命じます。沓掛城から大高城へは街道が通っており、夜に出発したのであれば街道を通ったと見るのが妥当です。

5/18夜の松平元康による兵糧輸送
街道ルートで沓掛城から大高城までは地図上の概算で約20km(5里)ぐらいになります。夜道ですし兵糧輸送ですから7〜8時間ぐらいは必要としたかもしれません。では元康が夜の何時に沓掛城を出発したかですがwikipediaより、

翌19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。

6/18夜に出発して6/19の3時に丸根・鷲津砦の攻撃に取り掛かっています。そうなると元康も朝比奈泰朝も6/19の0時過ぎには大高城に到着しておきたいところです。とは言えこの時期の日の入りは19時ぐらいになります。日の入りと共に沓掛城を出発したとしても0時まで5時間しかありません。う〜ん、元康もそうですが朝比奈泰朝も夜を徹して沓掛城から大高城に歩き、そのまま丸根・鷲津砦の攻撃に取り掛かったと考えて良さそうです。ほいで丸根・鷲津砦は7時から9時ぐらいには落城したとなっていますから、戦闘時間は5〜6時間と言ったところでしょうか。

一方の信長ですが鷲津・丸根が攻撃されるの報告に反応し清州城から出陣します。

こう進んできたとなっています。これはルート的にも無理はないのでそのまま信じます。でもって善照寺砦に到着したのは10時頃となっています。信長が到着した頃の様子ですが、
5/19 10時頃の状況
丸根・鷲津砦は既に今川方に制圧されている状況です。


今川軍の作戦

今川軍の戦略計算は「信長は清州から動かない」が基本にあった気がします。そうなると松平元康・朝比奈泰朝の前衛軍は5/19に鷲津・丸根砦を攻略すればそのまま休憩になるはずです。そりゃ前夜から徹夜で行軍し攻城戦を一仕事終えたのですから、どうでも休まない事には疲労で使えなくなります。前衛軍は善照寺方面からの織田軍の攻撃に配慮しながら休息に入り、翌5/20以降の作戦に備えるはずです。次の戦術目標も明白で鳴海城救援のために中嶋・善照寺・丹下砦を蹴散らす予定だったと考えます。この前衛軍ですが丸根・鷲津砦攻略後に元康は大高城の守備担当になったの記載があります。信長公記からですが、

今度家康は朱武者にて先駆けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり。

これ信じれば大高城方面に展開する今川前衛軍は朝比奈・松平軍だけではなくさらなる増援が行われていたとも考えられます。丸根・鷲津攻略に従事した朝比奈・松平軍は休ませ、入れ替わりで新手を鳴海城救援に向かわせる作戦であったかもしれないです。5/18夜にまず元康、次に朝比奈軍が沓掛城から出陣しただけではなく、5/19払暁にはさらなる増援軍が出発していたぐらいの想像です。前衛軍が草臥れているところへの織田軍の逆襲に対する備えと考えても良いかもしれません。

前衛軍はそんな感じですが義元本隊はどうだろうかです。義元本隊の基本的な戦術は大軍の利点を活かした「後詰に徹する」ぐらいであったと考えています。前衛軍が蹴散らした後に悠々と馬を進める戦術です。ただ前衛軍とあんまり離れると奇襲による各個撃破にあいかねませんから、丸根・鷲津が陥落し大高城の安全が確保すれば沓掛城から大高城に速やかに移動するぐらいです。義元が沓掛城を出たのは前衛軍の増援部隊を送り出したのに引き続いてぐらいが考えられます。通説の義元の取った道は、

義元本隊の通説の進路
沓掛城から大高城に向かう途中で鷲津・丸根陥落の報を聞き、祝宴と昼休憩のために桶狭間に進んだです。ただ上の図を見れば不自然さがわかると思います。仮に義元が大高城を7時ごろ出発していたとすると、街道から桶狭間に向かえる地点まで約4里、ちょうど昼ごろになるのはなります。ただなんですがそこから大高城までそのまま進んでも1里ぐらいで到着します。丸根・鷲津が陥落したとは言え善照寺方面には織田軍がまだ頑張っています。わざわざ敵軍に近いところに進んで昼休憩を取るのは油断も度が過ぎていると感じます。桶狭間から中嶋砦までも1里少々しかないのです。つまり桶狭間に義元が寄り道する必然性が低いと言う事です。


義元の本当の動きを考える

義元が沓掛城を出た時刻が不明なのですが信長公記には

 御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬休息これあり。

 天正廿一壬子五月十九日 午の刻、戌亥に向かって人数を備え、鷲津・丸根攻め落とし、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたわせられたる由に候。

とにもかくにも桶狭間に午の刻、つまり昼にはいた事がわかります。信長公記を読む限り信長は善照寺方面に進出して来ている事をとくに隠している様子は窺えません。今川軍に較べて遥かに小勢とは言え織田主力軍が1里先にいるところでノンビリ昼休憩を取るのは不自然です。これは前回までの推理になりますが、おそらく義元が沓掛城を出発する前に、

    善照寺砦方面に信長現る
この報告を聞いたんじゃなかろうかです。今川軍の作戦に取って信長の出現は戦術を大きく変更させる要素になります。別に信長が怖いのではなく、信長率いる主力と決戦を行える点です。義元の尾張侵入の意図は様々に現在は言われていますが、結構な大軍を動員して大高・鳴海城だけ救援するのが目的とは思えません。通説の上洛までは無理としても、尾張を大きく切り取りたいは絶対あったと見ます。この尾張切り取りを容易にするには織田主力軍を叩き潰し、できれば信長の首を取ってしまうのが最善の策になります。そうすれば尾張併呑も視野に入ってきます。清州に籠って出て来ないと考えていた信長が善照寺まで出てきてくれたわけですから、織田主力軍を殲滅する作戦に変更したと考えます。

織田軍との主力決戦となると今川全軍を結集する必要があります。戦術の基本は相手より少しでも多くの兵を決戦場に集めるのが鉄則です。信長が出て来なければ後詰で良かった義元本隊も当然ですが決戦に参加する必要が出てきます。つまりは前衛軍との合流運動が必要になるわけです。合流のためには

  1. 既定の街道ルートを通っての大高城での集結
  2. 街道ルートではなく桶狭間の丘陵地帯を通り、善照寺方面で前衛軍との挟撃作戦に出る
私は義元が選んだのは2.の挟撃作戦であったと考えます。1.の方が手堅いですが、義元がもっとも懸念したのは勝てるかどうかではなく「信長が逃げてしまわないか」ではなかったかと考えます。信長を逃がさないようにするには、義元本隊が織田主力部隊に近づき、決戦に応じる姿勢を見せる事ではないかと考えます。それでも信長が逃げる懸念はありますが、そういう状況で逃げれば尾張国内の信長への求心力は低下します。つまりはこういうルートだったんじゃないかです。
義元本隊の本当の進路
沓掛城から桶狭間まで2里少しぐらいですから、9時頃に信長出現の報告を聞けば午の刻(11時から13時)には桶狭間に着陣出来ます。信長公記にある義元本隊が
    戌亥に向かって人数を備え
戌亥とは西北方向になりますから、義元は信長公記にある少し小高い「おけはざま山」に本陣を置き、織田軍がいる善照寺・中嶋砦方面に守備隊を配置していたと取れば戦術的に妥当です。この体制で5/19は宿営し5/20の払暁を期して善照寺方面にいる織田主力軍に総攻撃をかける予定です。5/20になれば5/19に丸根・鷲津攻略戦に使った松平・朝比奈軍も使用可能になるとも計算できます。


通説も可能性は残る

ここもなんですが考えようによっては通説ルートも成立可能です。まず義元は12時頃には桶狭間に着陣ているわけです。沓掛城から桶狭間の丘陵ルートを取るには沓掛城出発時に信長が善照寺に現れている事を知っておく必要があります。そこを考えると少々微妙になるのです。丸根・鷲津陥落と信長の善照寺出現は時間的には非常に近いところがあります。何が言いたいかですが、義元は丸根・鷲津が陥落してから動いたのではなく、丸根・鷲津が陥落するのを見込んで行動していた可能性もあります。丸根・鷲津が落ちない、もしくは撃退されて今川軍がピンチになる状況は兵力差から予想しにくいからです。

義元本隊は後詰ですから払暁に出発する必要はありませんが、朝食を取ってから8時頃には既に沓掛城を出ていても不思議ありません。沓掛−大高間は街道ルートで5里ぐらいですから6時間ほどはかかると見れば、丸根・鷲津陥落の報告を聞いたのも、信長が善照寺現れるの報告を聞いたのも沓掛から大高に移動する街道を移動中だった可能性も高そうな気がします。丸根・鷲津陥落は予定通りなんですが、義元の判断を変えたのは信長出現になります。信長が最前線に現れたのなら決戦の意図があり、決戦は義元に取っても大歓迎です。

御大将同士の決戦となると義元本隊も後詰と言っておられなくなるいます。上でも書きましたが義元が決戦を行うに当たっての懸念は信長が尻尾を巻いて逃げてしまう事です。そこで大高城に向かう予定を変更し、信長の目に見えるところに進む作戦に変更したのはありえます。それが桶狭間だったぐらいの考え方です。こう考えても義元は桶狭間に進む理由は十分出てきます。


信長の戦術はこうだったのかもしれない

信長は5/17に今川軍が沓掛城に到着した事を知っているはずです。隠しようがないですからね。しかしこの時点では反応せず清州で不貞寝状態です。反応したのは5/19の3時に鷲津・丸根が攻められた情報です。この情報の前に信長はもう一つ情報を得ていたと考えます。

    5/18の昼間に今川軍に動きなし
つまり5/19の3時に丸根・鷲津が攻められたと言う事は、攻めている今川軍は5/18の夜に沓掛城から移動した部隊であるです。さらに言えば義元自身が夜間行軍をする可能性はありませんから、鷲津・丸根の今川軍と沓掛城の義元本隊に今川軍は分かれているです。この状態を各個撃破だけではなく、今川軍中枢を襲撃できる好機と読んだぐらいです。信長の戦術計算として、
  1. 丸根・鷲津の今川前衛軍は5/19の午後は使い物にならない(休息中)
  2. 前衛軍が動けない状態で信長が主力を率いて善照寺方面に進出すれば義元は決戦のチャンスと見て必ず動く
  3. 義元は信長に逃げられないように最短ルートの桶狭間丘陵地帯を進んで来る
  4. なおかつ義元は決戦を前衛軍が使えるようになる5/20に設定するだろう
つまり自身を善照寺に囮として晒す事により義元を決戦に誘い出す作戦です。ですから信長が善照寺に出現した、もしくは主力を率いて進軍中の情報は隠す必要はなくむしろアピールするぐらいが必要であったと考えます。義元に一刻も早く信長が来ている事を知らせるのが戦術のカギになるからです。物凄いハイリスクの作戦ですが成功したのは史実です。


信長が義元本隊に突撃する時に懸念したものはなんだろうかになります。兵数の差は懸念以前のものとして良いかと思いますが、最後の最後まで懸念したのは今川前衛軍の動きだった気がします。桶狭間方向に突撃した時に背後から挟撃されれば文字通りの袋のネズミになります。信長は善照寺に到着してから今川前衛軍が松平・朝比奈軍だけでなくさらに強化されている情報を得た気がしています。信長に取って今川軍の決戦予定は明日である、つまり6/19に決戦予定がない事が生き残り勝つための必要条件になります。それが今川前衛軍の予想以上の増強に5/19に決戦に挑んでくる疑念が残ったんじゃないかと見ています。

これは自分が囮になる事で決戦に誘った作戦に伴うリスクでしょう。義元は信長に逃げられないように沓掛城から桶狭間に進んで来るとしても、さらに信長に逃げられないように5/19中に決戦を挑んで来る可能性です。信長はその懸念を最後まで残していた気がします。wikipediaからですが、

一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500余りを置き、2000の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。

これは最低限の退路の確保のためとも見れるからです。兵数で劣る織田軍は決戦に当たって可能な限りの兵力を突撃させたいはずですが、それでも織田軍にしては少なからぬ兵力を善照寺砦に残していると見えるからです。まあ、史実は義元の首まで取る圧勝劇でしたが義元の首を取れたのは僥倖に過ぎず、せいぜい桶狭間の義元本隊を追い散らすぐらいが関の山の計算もあった気もしています。義元本隊を追い散らした時に連動して今川前衛軍が中嶋砦や善照寺砦方面に進出されたら一転して退路を抑えられる形になりますから、この程度の後詰部隊は割かなければならないの判断だったのかもしれません。


それでも残る偶然説

今回の仮説の難点は信長戦術が際ど過ぎる点です。まるで三国志諸葛孔明の作戦のように異様に精密過ぎるとでも言えば良いのでしょうか。信長はある種の天才ですがそこまで計算し尽くした動きを果たして行ったのだろうかです。つうのも後の美濃の斎藤義龍戦ではわりと単純な作戦で吶喊してしばしば手痛い目にあっているからです。そこで出てくるのが偶然説です。骨子だけまとめると、

  1. 出撃に傾きながら籠城にも選択の余地を残していたのが清州城での不貞寝期間
  2. 丸根・鷲津が攻められたの報で漸く出撃の決断を下す
  3. とにもかくにも最前線の善照寺砦まで進出
  4. 進出したものの丸根・鷲津砦は既にどうしようもなく善照寺砦で立ち往生
  5. そこに桶狭間方面に今川の別動隊の進出を確認
  6. 別動隊だから前衛軍より弱くて少ないだろうから、これを蹴散らして撤退しようと決断
  7. 突撃したら大勝し、さらに義元の首まで手に入った
そういう中で義元本隊への突撃の引き金になったのは佐々・千秋の暴走で、目の前の惨敗にチト逆上してしまったぐらいです。対する義元は信長の決戦の意図を勝手に感じて動き回り結果として墓穴を掘ってしまったです。実際のところは純偶然説でもなく、純計算説でもなくミックスしたものであったぐらいが正解の気もしています。信長にもそれなりの計算があって善照寺砦に進出し、そこに偶然が重なって快勝劇につながっていったぐらいでしょうか。


奇襲説の可能性(by 信長公記

信長公記桶狭間に実際に従軍した太田牛一が書いたものです。現場の経験者が書いているので信憑性は高いのですが、書いたのは信長死後のさらに後年であるとして良く、記憶間違いもあるかもしれません。また太田牛一が実際に見えた範囲以外は又聞きか創作部分もある可能性は否定できません。それでも第一級の資料であるのは間違いありません。信長公記をある程度信用しながら奇襲説を考えてみます。

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向かって、足軽に罷り出で候らえば、瞳とかかり来て、鑓下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。是を見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたわせ、陣を居られ候。信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深困の足入り、一騎打ちの道なり。無様の様体、敵方よりさだかに相見え候。

さて桶狭間の時に太田牛一は清州から善照寺に信長に従って進軍して来たとして良いでしょう。佐々・千秋の討死も見ていたかもしれません。まず注目したいのは、

    信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向かって、足軽に罷り出で候らえば
読みようになるのですが、信長が善照寺砦に「見申し」とは「やって来るのを見て」ぐらいに解釈したいところです。ここも不思議な表現で信長の到着を待って行動を起こしたものでない事になります。いわゆる独断の行動です。この点から佐々・千秋の行動に様々な解釈が出てくるのですが、今日は佐々・千秋が独断で今川軍に突撃したと信長公記は記していると見ます。それと注目したいのは「義元へ向かって」と明記してあります。義元は桶狭間にいる訳ですから義元本隊に佐々・千秋は突撃した事になります。

佐々・千秋が信長が善照寺砦に到着した時にどこに布陣していたかですが通説では中嶋砦周辺だったろうとなっています。中嶋砦と善照寺砦はすぐ近くにありますから、佐々・千秋は信長が善照寺砦に到着したのは見えていたはずです。同時に義元本隊が桶狭間に着陣しているのも見えていた事になります。こういう状況に至れば次の展開として、

  1. 義元本隊と決戦
  2. 清州に向かって撤退
佐々・千秋の判断として信長が善照寺まで進出していますから決戦となったと判断したと考えます。位置的に佐々・千秋は義元本隊と一番近いところにおり、緊張感に耐えきれず暴発してしまったぐらいと考えても良いかもしれません。まあ、決戦となれば先陣はそれだけで手柄ですから、義元本隊の先鋒を少し蹴散らして味方の士気を鼓舞しようと言う発想もあったのかもしれません。ところが今川軍の備えは固く佐々・千秋は討死にするほどの惨敗を喫します。でもって

  • 是を見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたわせ、陣を居られ候
  • 無様の様体、敵方よりさだかに相見え候

ここが問題で果たして太田牛一はこれを見ていたのだろうかです。創作の可能性も捨てきれないのですが、もし実話なら義元の余裕と言うより義元の信長への挑発に見えます。信長もそうですが織田軍にしたら味方の部隊が惨敗した上で、それを祝して謡なんて目の前でやられたら普通は怒るでしょう。それを見越しての義元の行為であるなら、義元は5/20ではなく5/19に義元本隊で以て決戦を行う意図があったのかもしれません。義元の計算として、

  1. 松平・朝比奈軍のよる前衛軍は5/19はもう使えない。出来れば5/20も休息させたい。
  2. 信長がノコノコ進出して来ており、またとない決戦のチャンスである
  3. 信長はいつ逃げるかの方が心配であり、目の前にいるうちに決戦に持ち込みたい
問題は義元本隊の兵力です。現在の通説は5000程度じゃないかの説がありますが実数は不明です。つうか義元がそもそも何人動員したのかも不明です。ここで織田軍の決戦兵力はせいぜい2000〜3000程度であるのは義元も計算していたと思います。仮に現在の説のように義元本隊5000程度では義元が桶狭間に居る事自体がリスキーすぎると思います。ですから織田軍と決戦を行うに足る兵力が義元本隊にあったんじゃなかろうかです。つうのも大高城救援から丸根・鷲津攻略に向かった松平元康の兵力が2000程度であったとの記録があります。朝比奈泰朝と合わせても5000程度しかいない事になります。これで義元本隊が5000程度なら全部で1万程度の兵力になってしまいます。

そう考えると義元本隊はもっと多くて1万〜1万2000程度はいた可能性も出てきます。織田軍が2000〜3000程度であれば決戦に臨むのに十分な兵力になります。理想的には前衛軍との合流が望ましいですが、信長と言う大魚を仕留めるにはこの程度のリスクは冒しても良いの判断が出てもおかしくないと思います。義元本隊の兵力についても不明なところが多いですから、本当に5/19に決戦の意図があったかどうかは不明です。謡の話も5/20まで織田軍を「逃げないようにする」戦術だったのかもしれません。信長公記では佐々・千秋の惨敗後に信長は善照寺砦から中嶋砦に信長は移動するのですが、

右の衆、手々に頚を取り持ち参られ候。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。

「右の衆」は名前も出ていますが佐々・千秋隊の生き残りと見て良いでしょう。「右の趣」とは今川前衛軍は前夜からの移動合戦で使い物になる状態ではない事と決死の突撃で活路を開こうのお話です。ここで気になるのは、

    山際まで御人数寄せられ候ところ
これは一体どこの「山際」なんだろうです。中嶋砦は川の間にある河原様の地形です。信長は中嶋砦を出てどこかの「山際」に織田軍を集結させていたとしか読みようがありません。中嶋砦に信長が移動した目的として考えられるのは、
  1. 佐々・千秋の敗兵の収容
  2. 中嶋砦守備兵を決戦兵力に編入
今川軍に較べて兵力の乏しい織田軍としては1人でも兵力を増やしたいの狙いがあっても不思議有りません。善照寺砦に到着前に丹下砦の守備兵も吸収しているからです。ここでなんですが、
    俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。
強い西風を伴う豪雨があった事が明記されています。ここでなんですが信長公記を素直に読めば「山際」に人数を結集している時に豪雨があったとなっていますが、少しだけ状況が違うと見ます。信長が中嶋砦にいる時に豪雨が始まったと私は考えます。中嶋砦で豪雨があったからこそ「敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる」これが表現できるわけです。でもって豪雨の中で信長は「山際」への移動を行ったです。義元にもし決戦の意図があったら挫かれた気はします。天候は描写からして雷雨であったと見て良く合戦が始まっていれば関係ありませんが、合戦開始前なら「やっぱり明日にするか・・・」ぐらいの心境の変化です。

桶狭間あたりは地元情報によると地面は粘土質であり、雨でぬかるむと非常に足場が悪くなるそうです。そこまで義元が見ていたかどうかは別にしても、時刻も昼をかなり過ぎていますから気勢が削がれたぐらいはあった気がします。1日待てば信長に逃げられるリスクが出る代わりに前衛軍の活用が可能になり、戦術的にはより負ける要素が減りますから「無理しない」ぐらいでしょうか。


でもって山際とはどこになるかですが、扇川を上流に少し遡ったあたりと推測します。桶狭間の丘陵地帯は険阻と言うよりなだらかな丘陵地帯です。高いところで50mぐらいです。この丘陵地帯の北側を扇川は流れているのですが。どこかから丘に踏み込みこれを越えたんだろうです。雷轟く豪雨の中の移動ですから大変ではあったでしょうが、義元本隊に対してはその行動を隠せる効果があったと見ます。でもって織田軍はどこに出たかですが、

沓掛の到下の松の下に、二かい三がゑの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余の事に熱田大明神の神軍がと申し候なり。

「沓掛の到」は鳴海から沓掛に到る桶狭間の丘陵地帯を抜ける道を見下ろせる地点であったと考えます。そこの地点に到着してから、

空晴るるを御覧じ、信長鑓をおっ取って、大音声を上げて、すは、かかれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはっと崩れなり。弓、鑓、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

ちょうど雨があがってきたようです。ここもポイントがいくつかあって、織田軍は「山際」から「沓掛の到」の間に戦闘行為を行った記述がありません。もし信長が中嶋砦から桶狭間の丘陵地帯を抜ける道を進んでいたら、佐々・千秋部隊が惨敗した義元本隊の前線部隊に接触するはずです。いくら豪雨であっても2000の織田軍が通り抜けるのに気が付かないはまずあり得ません。またつい先刻に佐々・千秋部隊の襲撃があった訳ですから、撃退して安心すると言うよりも豪雨に乗じた織田軍の奇襲を警戒していたと考えるべきと思います。また佐々・千秋部隊に較べると10倍程度の兵力はありますが、その程度の兵力で、

    黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはっと崩れなり
こんな状態に即座になるとも考えにくいところです。織田兵は鬼神の様な強兵集団ではなくむしろ弱兵に属します。信長が陣頭で指揮を執ったからと言って義元本隊の前線部隊を木の葉を散らすように吹き飛ばせるとは到底思えません。やはり自然に考えて、
    中嶋砦 → 山際 → 沓掛の到
こういう迂回奇襲ルートを取ったと考えます。義元は本隊が崩れた時に

未の刻、東へ向ってかかり給う。初めは三百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になって、後には五十騎計りになりたるけり。

義元の戦死場所も諸説あるのですが、信長公記を信じれば桶狭間の丘陵地帯の道を沓掛城に向かった退却したんじゃなかろうかと読みます。そうなると織田軍が「沓掛の到」として丘陵地帯を乗り越えた地点は前線部隊の背後、義元本陣の前ぐらいになる気がします。突然の織田主力軍の襲撃に今川軍は大混乱を来しあの桶狭間が出現したぐらいです。参考図を出しておきます。

信長の奇襲ルート推測
この航空写真は国土地理院から引っ張り出したもので1945年陸軍撮影となっています。現在の航空写真では当時を想像しようもないのですが、1945年ならまだしも想像可能です。義元本陣があった「おけはざま山」は現在の桶狭間古戦場跡から少し登る丘に比定しています。本当のところは判らないのですが信長公記には、
  1. 善照寺方面から義元本陣は見えているようだ
  2. 桶狭間の義元本隊は戌亥に備えを固めている
現在の桶狭間古戦場跡近くの丘から善照寺方面まで見えたかどうかは確認できないのですが「戌亥」は桶狭間の丘陵の道に対する備えであると考えて良いかと思います。情報として高根山、幕山、巻山に井伊直盛や松井宗信が布陣ともなっており、佐々・千秋が惨敗した相手は松井宗信だったと言う話もあります。高根山は中嶋砦を見下ろす位置にあり、ここを戌亥とすると現在の桶狭間古戦場跡近くの丘ぐらいが義元本陣と否定しても無理はないだろうぐらいです。ちなみにこの山と言うより丘は最高部で64.9mとなっています。

一方の信長の進路は完全な想像です。想像の材料にしたものは、

  1. 航空写真で比較的通りやすそうに見える
  2. 丘を越えて出てきた場所が義元本隊の前備と本陣の間ぐらいになる
その程度のものです。ただ信長公記の記述で無理と言うか不思議なのは松井宗信が高根山に陣を敷いていたのなら、いかに雷を伴う豪雨とは言え中嶋砦から山際までの織田軍の動きを察知出来なかったのだろうかです。ここも言いだすとキリがなくなるのですが、それぐらいの猛烈な雷雨であったと考えるぐらいしかないところです。


全然違う可能性(by 信長公記

信長公記では当然ですがすべては信長の計算通りに動いているように書いてありますが、案外困っていた気もしないでもありません。つうのもこんな記述があります。

あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。

これは今川前衛軍の観察で良いかと思います。配下の兵に「だから」今川前衛軍は今日は襲って来ないから背後は安心の説明になりますが、ヒョッとして信長本来の狙いは戦い疲れている今川前衛軍を叩く予定じゃなかったろうかです。そう考えると信長の行動は現実的になります。5/18の昼間の時点で沓掛城の今川軍に動きが無く、5/19の3時ぐらいから攻撃が始まっていますから鷲津・丸根を攻めている今川軍は沓掛から徹宵行軍して戦っているしか考えられません。つまり疲労困憊状態と判断するのは容易です。ちょうど今川前衛軍が鷲津・丸根を攻略した後、いや攻略中に前衛軍の背後を襲えば勝てるの計算で動いていたんじゃなかろうかです。

ところが善照寺まで来てみると既に鷲津・丸根は手の施しようがない状態になっています。さらに今川軍は前衛軍に後詰を手早く送っている情報も得たのかもしれません。このまま前衛軍に突撃しても勝算が微妙すぎるぐらいの判断です。そこに義元本隊が桶狭間に出現の情報が入ります。これで前衛軍攻撃プランは完全に放棄せざるを得なくなります。そんな事をやれば義元本隊に背後から襲われます。佐々・千秋の突撃の解釈は今日は独断としていますが、この考え方を取れば信長の命令の可能性が出てきます。

着陣したての義元本隊の先鋒を軽くでも攪乱させておいて「勝った」の形だけでも作って撤退するぐらいの腹積もりと言うところでしょうか。ところがものの見事に惨敗です。負けたままで逃げる訳にもいかなくなった時に雷雨が来ます。この時に信長は瞬時の判断で中入り戦法を全軍挙げて行う決断を下したんじゃなかろうかです。正面からは織田軍全部で突っ込んでも無理の判断です。中入り自体は戦国期にポピュラーな戦法の一つですが、戦国期でもリスキーな戦法とされているのは随所に記録が残されています。でもそれしかないの決断です。

義元の桶狭間も前衛軍を守ると言う観点から言えば妥当な戦術の気がします。信長不在の状態なら丹下・善照寺・中嶋砦の守備兵が前衛軍に逆襲する可能性は低いと判断できます。しかし信長が清州から新手を率いて来るとなれば話は変わります。善照寺の信長を鷲津・丸根方面に動かさないようにするには、いつでも背後を襲える場所に布陣する事です。それが桶狭間だったぐらいです。義元に油断があったとすれば、この状況で無謀な中入り戦術を信長が取るとは予期しなかった点ぐらいになります。


いろんな可能性を再検証してみましたが、とにもかくにも今川軍来襲に対し常套戦術である籠城策を取らず、出撃策を取った時点で運命の女神は信長に微笑み続けた気がしています。そうとでも考えないと信長が勝つ理由を見出すのが難しい決戦と思っています。


全然違う可能性(by 信長公記)延長戦

うん、うん、うん、ちょっと待ったです。少し長くなりますが信長公記を引用し直します。

あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しろぞかば引き付くべし。是非に於ては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

これは中嶋砦で出撃前に信長が全軍相手に演説しているところと解釈します。この後に山際に移動する話が続くのですが、この演説内容はどう読んでも義元本隊ではなく今川別動隊を攻撃するための内容です。もし義元本隊を攻撃するつもりなら、それこそ、

    狙うは義元の首、ただ一つ!
こうなるはずです。それが今川前衛軍は草臥れているから、今なら小勢でも十分勝機はあるぞになっています。これを味方も騙したと解釈できない事もありませんが、それよりこの演説の直後に雷雨が襲ってきて気が変わったと取れないでしょうか。まあ、そこまで信長公記を信用するかどうかの問題は言っても始まらないので置いておきます。