日曜閑話66

前回出した桶狭間合戦の周辺図です。

この地図で確認できることは、
  1. 沓掛城から大高城は2里ほどしかない
  2. 沓掛城から鳴海城までも2里ぐらいしかない
  3. 桶狭間は鳴海城から1里程度のところにある
今川軍の作戦は大高城救援を主軸に展開されます。沓掛城から松平元康が大高城に兵糧搬送を行いまず成功します。引き続いて到着したと考えられる朝比奈軍と共に前衛軍を構成し大高城の織田方付け城である丸根・鷲津砦を攻略します。清州を出た信長が善照寺砦に到着したのはそういう時分であったとして良いかと判断します。史実はそこから桶狭間に居る義元を見つけ襲い掛かり歴史的な快勝を挙げます。桶狭間の信長勝利の謎はこれに尽きそうな気がします。通説では大高城に移動中の昼休憩で「居た」となっていますが、以下の理由で否定的見解を取ります。
  1. 沓掛−大高間は2里ほどであり昼休憩を挟むような行軍計画を立てるのは不自然
  2. 大高城に移動するだけなら別に丘陵地帯の道を取る必要性はなく、平地の街道を進めばOK
  3. 平地の街道を進みながら昼休憩のために桶狭間にいくには、わざわざ丘陵地帯に寄り道しないといけない
  4. 桶狭間から善照寺までは1里程度の至近距離であり、そんな敵前で休憩を取るほど義元は愚かではない
私の見解として義元はあくまでも確固たる戦術に基づいて沓掛城から桶狭間に進出し、予定通りに桶狭間に陣を構えていたと解釈しています。


信長の戦術

信長が籠城策を取らずに出撃を選んだのは史実です。信長は清州から熱田を経由して善照寺砦に進んだのも史実として良いでしょう。そこから桶狭間にいる義元を発見し襲い掛かり歴史的な勝利を挙げたのも史実です。ここでの疑問は信長はどういう理由で義元が桶狭間に居ると期待したかです。いなけりゃ桶狭間は成立しません。私が前に立てた完全偶然説では、

  1. とにもかくにも信長は出撃説を取り清州を出た
  2. 信長はとにもかくにも最前線の善照寺砦まで進出した
  3. そこでたまたま義元が桶狭間に義元が居るの情報をつかみ吶喊した
この説は見ようですが通説に近いものがあります。通説で桶狭間に義元が居た理由は緒戦の勝利に油断しきった義元がノンビリ昼休憩を取っていただからです。信長が本当にそんな偶然を期待して善照寺に進んだのかどうかです。もし義元が油断していなかったら桶狭間に義元はおらず、善照寺で立ち往生していたとも考えられるからです。通説通りに義元が沓掛城から大高城に移動を狙っていたとしても、時間は3時間ぐらいもあれば可能と見れますから、勝利の祝杯を挙げるにしても大高城に入ってからやろうと考える方が自然だからです。その方が安全かつ快適かつ盛大にできます。

私は信長がそれなりの確率で義元が桶狭間に進んで来ると予想していたと考えました。それも油断からの昼休憩ではなく、そうしたくなるように信長は仕掛けたと見ます。もちろん絶対ではありませんが、信長の戦術に義元が反応してくれた時のみにか細い勝利の期待を持っていたと仮定してみます。


今川の戦術

桶狭間が無かった時の今川の戦術を考え直してみます。丸根・鷲津を攻略した時点で今川軍は大高城の前衛部隊と沓掛城の義元本隊の2部構成になっています。ここで信長が来なければどうなっていたかです。次の戦略目標は鳴海城の救援であるのはあまりにも明白ですから、前衛軍のみで善照寺・中嶋・丹下などの付け城群の攻略を行ったみます。この辺は清州からの後詰が無ければ、丸根・鷲津以上の容易さで鳴海城の付け城群は攻略できるの読みもあるかと考えます。期待とすれば織田方は戦わずして鳴海城の付け城群を放棄しても不思議ないからです。

そうやって鳴海城の安全を確保してから義元本隊が大高城なり、鳴海城に進出すれば一番手堅い戦術になります。大軍を率いる義元は無理だとか、冒険を行う必要はどこにもなく、ひたすら大軍の有利さを活用しながらヒタヒタと織田領内を蚕食していけば良いからです。前衛軍に対し義元本隊は後詰部隊の役割に徹していればそれで必要にして十分ぐらいの考え方です。わざわざ鳴海城方面に織田方が頑張っているうちに敵前移動を行う必要はないぐらいです。つまり桶狭間に義元が進む理由はここにもない事になります。


信長の秘策

どうしたって沓掛城から義元が桶狭間に動いてくれないのですが、今川軍が嫌う戦術を考えてみれば見方が変わります。今川軍は大軍を動員しているだけでなく、義元本人が出陣しています。つまり大高・鳴海城の救援だけのつもりで出てきた訳じゃなかろうです。通説の上洛戦まではどうかとして、織田領をこの際、切り取ってやろうの戦略構想はあったとするのが妥当です、織田領を切り取るために望ましいのは、織田軍主力を叩きのめしたいがあると見ます。織田軍主力が温存されてしまうと、切り取った後に本国に帰った後に反撃が当然予想されるわけです。今川があれだけの大軍を動員したのは、もし決戦に至っても余裕で勝てる兵数を計算したと考えます。

この余裕の兵数がちょっとした綾で、余裕の兵数になるには前衛軍と後詰の義元本隊が合流する必要があります。前衛部隊だけでは余裕とは言えないです。ただなんですが義元にしても信長が決戦に出てくる確率は低いと読んだ気がします。言うまでもないですが今川軍は織田軍の3倍は確実にいるわけで、濃尾平野の平坦なところで決戦をやれば織田軍が壊滅するのは自明だからです。だから信長は出て来ず籠城するの読みです。主力を清州に温存しながら今川の来襲を耐え抜き、義元が帰国後に反撃に出るぐらいの計算です。

そういう状況で信長が主力を率いて最前線の善照寺に現れれば義元はどう考えるかです。決戦が難しいと考えていたのに、ノコノコ信長が出てきてくれたことにむしろ大喜びしたと考えても良いかもしれません。信長が決戦を望むのならこっちも願ったり叶ったりぐらいの判断です。ただ決戦で確実に勝つには前衛軍だけではなく義元本隊も決戦場に集結しないといけません。そのためには、

  1. 沓掛城から大高城に義元本隊が移動合流後に決戦を挑む
  2. 大高城から前衛軍、沓掛城から桶狭間経由で義元本隊を同時に鳴海城方面に殺到させる
義元が心配したのは勝てるかどうかではなく、せっかく前線まで来てくれている信長が逃げないかではなかったかとも考えます。大高城に移動合流後の決戦となると翌々日になってしまう可能性と、合流した今川軍を見て信長が逃げてしまわないかの懸念です。信長が逃げないうちに決戦を行うのなら翌日が望ましい事になります。ここで沓掛城からの後詰部隊を翌朝に鳴海方面に出撃選択させる選択もありそうですが、ここは心情的な理由にしますが、相手の大将との決戦には義元も臨戦したいぐらいがあったぐらいにしておきます。ここは日本の軍制的なところもあって、功名手柄は主君である義元の前で立てるのが一番宜しいので、主力決戦には義元臨席が望ましいぐらいのお話です。


でもって、そういう風に義元が動いてくれるのを信長は期待して善照寺砦に進出しひたすら待っていたんじゃなかろうかです。つまり信長は御大将である自分が善照寺で囮になる事により、沓掛城に居る義元本隊を決戦に誘ったと言うことです。決戦となれば今川軍は合流運動を必ず起こすはずで、それも義元自身が桶狭間の丘陵地帯を抜けて鳴海方面に向かって来るだろうの計算です。その時に義元本隊にのみ決戦を挑む形に持ち込みたいです。信長が義元の行方を必死で探してたのは、自分が仕掛けたトラップに義元が乗ってくれるかどうかの情報を必死で求めていたと見ます。そりゃ動いてくれなければ、決戦をしたくとも相手は前衛軍になり、前衛軍はその気になれば大高城に籠って義元主力を待つ戦術を取れるからです。

秘策とは書きましたが、かなり希望的観測が入っているものです。また義元が乗ってくれても義元本隊との決戦の見通しは有利とは言えません。兵数は義元本隊の方が信長率いる織田主力軍の倍ぐらいはいる上に、少しでも決戦が長引けば前衛軍の加勢が当然予想されます。信長が勝つための条件は、

  1. 信長の決戦誘導に呼応して義元が沓掛城から出撃する
  2. 義元は大高城での合流を目指さず鳴海方面での合流を目指す
  3. 義元本隊との決戦は短時間でケリを付ける
この3つが実現した時なります。書きながら無理がある条件と思うのですが、史実は信長が思い描いたものをほぼ完璧に実現させてしまったぐらいでしょうか。どれか一つでも思惑が外れていたら勝てなかった、もしくは義元が生き延びて捲土重来の事態に陥っていたです。この義元戦死がとくにそうで、このラッキーがなければ義元の雪辱戦に信長が勝てたかどうかは大きな疑問符が付けられます。まあ、本当にそこまで信長が計算していたかどうかは歴史の彼方のお話です。