前回は信長公記での本能寺の変を紹介しましたが、信長公記をいくら読んでも光秀謀反の真意は見えてきません。理由は他にもあるでしょうが、本能寺の変が6月1日、天王山で敗れて小来栖で死んだのが6月13日なので、
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光秀から真意を聞いて記録した者がいない
信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め
これは本能寺の変そのものの外形的結果論に過ぎず、光秀が本能寺を起こした目的の一つに過ぎません。本能寺の謎とは忠実な部下であった光秀が何故に信長を討ちと取ろうと考えたかになります。従来は怨恨説が主流でしたが、最近の研究は単独犯説から黒幕説まで百花撩乱状態です。興味のある方はwkipediaの本能寺の変をどうぞ、ここが諸説を一番手際よくまとめていると思います。今日は諸説をアラアラに追いかけながらムックしてみたいと思います。
残された逸話からして、信長は非常に仕えにくそうな主人の感触があります。主に仕えるというのは理と情の部分がありまして、理とは信賞必罰を明瞭にすることで、情とは表現が難しいのですが人と人との親しみぐらいでしょうか。信長の特徴は理については異常なほどに明瞭で、情についてはかなりどころでないぐらい薄い気がします。だから合理主義者と呼ばれるのですが、情が薄い分、その点についての斟酌が乏しかったぐらいでしょうか。怨恨説の一端となっていると考えられるルイス・フロイスの日本史より、
人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度明智を足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事であったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかもしれぬし、あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかも知れない。
これも良く読めば、本能寺後に出てきた噂話に過ぎないとも見えます。ただ足蹴にしたかどうかの真相は不明としても、重臣であっても平然と面罵するぐらいは信長ならありそうな気がしないでもありません。信長の言葉が短かったのは有名ですが、短いということは発せられた時には決定事項であり、これに反論することはたとえ重臣であっても、許さないてな感じがあった気がします。あくまでも想像ですが、
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信長:「・・・せよ」
光秀:「その件に関しては云々の事情があり・・・」
信長:「斟酌は不要だ、実行せよ」
光秀:「それでも・・・」
信長:「うるさい! 言われた通りに実行せよ。この田分け者めが(怒)」
ただ光秀に内政面を委ねているといっても、丸投げではなく節目節目では信長の指示が出るでしょうし、信長の決済が必要であったはずで、そこで内政官の光秀と信長との間で齟齬と言うか、軋轢が生じる場面が出てきたとしても不思議とは言えません。この信長と直接接触することによる軋轢は、遠征軍司令官として時候の挨拶に訪れる程度の勝家・秀吉・一益には軽く、常に接触を余儀なくされる光秀に重かったぐらいは考えられるところです。
まあ人を面罵する時には、面罵した方は忘れやすくて、された方がいつまでも怨みに思うパターンはしばしば起こる事で、信長にしたら基本的に光秀を信用し能力を高く評価した上での叱責であっても、叱責された光秀の方は怨恨を蓄積させていたぐらいはあっても良いだろうぐらいです。この辺はキャラもありますから、人の心の闇は誰にもわからないってところです。それでも、それだけで光秀を本能寺に駆り立ててとすべて説明するのは無理があるとするのが最近の主流のようです。
怨恨説で光秀を本能寺に駆り立てたとする根拠の一つに
惟任日向守に、出雲石見を賜ふとの儀也。…(中略)…乍レ去丹波近江は召上らるゝ由を申捨て、帰りける。…(中略)…光秀併家子郎等共、闇夜に迷ふ心地しけり。其故は出雲、石見の敵國に相向ひ、軍ヲ取結ぶ中に旧領丹波、近江を召上られんに付ては、妻子眷属小時も身を置く可き所なし。…(中略)…口惜しき次第なり。…(中略)…佐久間右衛門尉、林佐渡守、荒木摂津守、其他の輩滅却せし如く、当家も亡ぼす可き御所存の程、鏡に掛て相見え候。…(中略)…謀反の儀、是非に思立せ給ふ可しと、臣下の面々、怒れる眼に涙を浮かべて申ければ、光秀終に是れに従ひ
概要は光秀の中国出陣に際し、所領である近江坂本・丹波亀山を召し上げ、その代わりにこれから出陣する出雲・石見を切り取って所領にせよとの突然の通知があったとするものです。これに連動して光秀の出陣先は備中高松城ではなく山陰方面であったの説も出てきています。ただソースが問題で明智軍記である点です。言い換えれば信長公記にこれほど重要な事が一切書かれていません。
明智軍記の記載が創作とする状況説明として、秀吉の先例があります。秀吉も光秀と並ぶ出世頭で、近江長浜に所領を与えられています。秀吉は中国方面司令官として播磨に進みますが、この時に近江長浜を召し上げて播磨を与えるなんてしていません。これは光秀が丹波攻略に当たった時も同様です。あくまでも攻略終了後に褒美として与えれているのです。
信長は独裁者ではありますが暗君ではありません。織田家の中でも合戦の厳しさを一番よく知っている叩き上げの実戦経験者です。合戦には銭と米による士卒の求心力が必要な事を嫌と言うほど知っているはずです。また合戦は優勢と思えても、計算通りに必ずしもならないのも熟知しているはずです。長篠の合戦で勝頼が落とし損ねた長篠城、播磨で22か月も釘付けを余儀なくされた三木合戦、延々たる長期戦を強いられた浅井の小谷城。光秀が指揮しても出雲・石見が短期間にに占領できるかどうかは未知数の部分が多分に残るってところです。つうかなんですが、そんな切羽詰まった状態で遠征を行い拙速に逸って明智軍が負けでもしたら困ります。この段階で明智軍団を山陰で無駄死にさせる余裕は信長にはなかった気がします。
それより何より、本能寺の変時点の備中高松城の情勢を見ればこの説の矛盾が浮き彫りになります。この時期の信長戦術の基本は、じわじわと相手勢力を切り崩し、ジリ貧を避けるために決戦に出てくるところを叩き潰して息の根をとめるぐらいに考えています。これに従って秀吉は忠実に備中高松城まで進んでいます。備中高松城の戦略的位置づけは、毛利方にすればここを突破されると本拠地まで脅かされる地点であり、そう判断した輝元や元春、隆景は主力を集中しています。信長にとっては待ってましたの状態で、大軍を集めて一挙に粉砕する機会の訪れになります。信長公記より、
信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨
決戦に大勝するコツは軍勢を増やす事ですが、これは秀吉軍団に明智軍団を合流させることになり、2つの軍団に齟齬が生じないように信長自らが指揮を執ると宣言しています。もちろん備中高松城で毛利主力軍を粉砕した後に秀吉を山陽方面、光秀を山陰方面に展開させる算段はあったかもしれませんが、これはあくまでも備中高松で快勝した後の話になります。
この辺の展開の読みも微妙な点が残っており、信長が備中高松まで出張っても、毛利軍が決戦に応じるかの問題が残っています。決戦を回避して退却することも考えられる訳です。戦術的には秀吉の水攻めにより、決戦に応じるには不利と言う判断が出てくる余地があるってところでしょうか。ここら辺は続きが歴史で起こらなかったので不明ですが、毛利が退却の上で和議交渉に入る展開も十分にあったかもしれないぐらいです。
もう一つですが、光秀が実質的に織田家の内政面のトップであった説との矛盾があります。光秀が山陰方面担当になってしまえば、内政面に穴が開くのですが、誰か代わりを置けば済む話なのかどうかの問題です。これも見方は様々にわかれると思いますが、織田家にも文官官僚は少なからずいますが、光秀に取って代われる人材が果たしていたかどうかです。微妙な言い方になりますが、そんな人材がいれば光秀はもっと早く遠征軍の司令官として、どこかに送り込まれていたいた気がします。
光秀は畿内で有力な軍勢を指揮下に置いていますが、軍事面での光秀の代わりはいても、内政面での光秀の代わりは難しかったぐらいの見方があっても良い気がします。そうなれば、光秀の中国出陣は武田攻めの時と同様に純粋なる援軍で、備中高松城で毛利に大勝し、対毛利戦の行き先が見えた時点で安土に信長と共に帰る予定ではなかったかとも考えられます。武田攻めは喩に悪いので、姉川の合戦時の状態みたいなものです。ここまで考えると、やはり本能寺前の光秀の地位は内政面のトップであるだけでなく、信長近衛軍(直属遊撃軍)の司令官みたいな位置づけであったのかもしれません。
まずwikipediaより陰謀説への反論として、
良くまとめられています。ここで黒幕がいたとして、黒幕との接触に関しては機会はあったとは思います。光秀が信長に抜擢されたのは素直に京都外交のためと私は考えています。この方面に光秀は優れた実績を残し、そのために織田家の京都外交は光秀依存が強かったと見て良さそうな気がします。当時は外交も、諜報も、軍事も境界線なく一体のものですから、外交担当となれば怪しげな人物との接触も情報を得るために必要であり、黒幕がいれば接触するのはさして敷居の高いものではなかったと思います。
光秀の謀反で誰しも困るのが、信長や信忠を始末したところまでは良いとして、その後の秀吉の決戦までの動きの悪さです。ここも秀吉の反転が早すぎて、光秀の行動が間に合わなかっただけの見方で説明しようとする者もいますが、当時の信長を倒すという行為は天下を取るのに近い行為であり、黒幕付きのクーデターであれば、本能寺の変直後から、光秀の行為を正統化する援護運動がセットで起こるとするのが当然です。クーデター計画の基本で黒幕付きなら、
- 光秀は軍事面担当で、信長を始めとしてクーデター後に邪魔になりそうな人物を可能な限り粛清する
- 黒幕は政治面担当で、クーデター直後から光秀の擁護、正統性の確立、光秀支援の拡大に動く
wikipediaよりノイローゼ説を引用します。
ストレスなどから発症する自律神経失調症などで精神的に追い詰められて、冷静な判断が出来ず謀反を起こしたとされる説。不安説から派生したもので、心理面に特化されたもの。精神病理学・心理学的な推測であり、特に根拠を持たない。光秀の行動(怨恨説等の論拠と同じもの)から心情を推し量ったもので、精神科医や司馬遼太郎のような作家が提唱した。しかしこれらは作家が創り出した光秀の偏った人物像によるもので、それがそもそも史実に反しており、小和田哲男は「従来説と違って金ヶ崎退き口や比叡山焼き討ちでも主導的な役割を果たしていたことがわかっている光秀が、神経衰弱や将来不安のノイローゼなどといった原因で謀反を起こすことは考えがたい」と否定的である。
かなり否定的な扱いになっていますが、私はこの説に近いところがあります。小和田哲男氏は金ヶ崎退き口や比叡山焼き討ちでの光秀の行動から否定していますが、ノイローゼはいつ発症しても良い訳で、金ヶ崎や比叡山当時は精神的にも健康であっても、本能寺の変時点で変調を起こしていない根拠にはなりにくいと思います。光秀の年齢についても諸説があるのですがwikipediaより、
『明智軍記』では没年が天正10年(1582年)6月14日の享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年)8月17日)。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記に記された67歳から逆算した永正13年(1516年)などもある。
享年諸説を整理すると、
ソース | 生年 | 享年 |
明智軍記 | 1527 | 55 |
細川家文書 | 1528 | 54〜55 |
細川家記 | 1526 | 56 |
当代記 | 1515 | 67 |
西暦 | 事柄 | 光秀年齢 |
1568 | 信長上洛 | 41 |
1570 | 金ヶ崎退き口 | 43 |
1571 | 叡山焼き討ち | 44 |
1573 | 坂本城完成 | 46 |
1575 | 丹波攻略開始 | 48 |
1576 | 天王寺の合戦で苦戦 | 49 |
1579 | 丹波攻略完了 | 52 |
1581 | 天正馬揃運営 | 54 |
1582 | 本能寺 | 55 |
ノイローゼ説が有用なのは、これで本能寺の光秀の謎が説明できてしまう点に尽きます。本能寺の謎として基本的なのは、
- 外形的に信長に優遇されていた光秀が何故謀反に走ったのか
- 信長、信忠を殺すところまでは計画的なのに、その後に行動がなぜ鈍ったのか
- 謀反後に誰も理由がわからなかったのか
おそらく信長との応接は気合が必要と言うか、信長に張り合うぐらいテンシュンを上げてないと勤まらない性質のものであり、外からは近畿管領として内政面のトップとして羨ましがられても、テンシュンが下がる一方の光秀にとっては辛い職務になっていたのかもしれません。こういう感情としては逃げ出してしまいたい業務から、理性として逃げられない状態が続くと精神の変調を来しても不思議はないと思います。
そういう時にはしばしば健康人から見ると、思いもよらない逃避法を取る事があります。むりやり例をあげれば、職務が辛いから上司を殴るとかです。殴るぐらいなら職場もクビになってまだ無難に逃避できますが、これを殺してしまうぐらいになる事も話としてはあります。これは非常に視野の狭い発想法に追い込まれ「あいつさえいなくなればすべて解決する」しか見えなくなっているとすれば良いでしょうか。そういう発想に追い込まれるということが精神の異常になります。
一方で発想の視野は狭い代わりに、行動は妙に具体的なところは具体的であるというのがあります。それでも視野の狭さからは逃げきれず、自分の立てた目的を達成してしまうと、何をすれば良いか既に見えなくなっているぐらいの状態になったりします。あえていえば「これで解決しているはずだ」ぐらいの状態でしょうか。そういう精神状態の人間の行動に合理的な理由を見つけるのは困難と言うより、最初から無理なんじゃなかろうかです。ノイローゼ説を取らなければ精神的にも健康な光秀が謀反を起こした事になり、あれだけ犀利であった光秀の謀反後の行動の疎漏さを説明するために百花撩乱の説が展開しているように私は感じてしまう次第です。