平井山合戦雑感

三木本城攻防戦で大規模な合戦が行われたのは平井山合戦と大村合戦と見て良さそうです。そのうち平井山合戦を少し考えてみます。


合戦前の状況

秀吉の足跡(播州三木合戦)に良い地図があったので引用します。

三木合戦は「干殺し」と呼ばれる通り秀吉の兵糧攻めが行われたのですが、合戦当初の三木城の補給ルートは三木城の南方の瀬戸内ルートがメインだったようです。瀬戸内海の制海権は毛利の手にあり、兵糧攻めを行うには三木城南方の支城群をまず制圧する必要があったと見て良さそうです。この制圧には信忠が援軍を率いて行ったようで、細かな経緯まで追いませんが、平井山合戦までには神吉・志方・高砂・魚住の支城は落とされています。これによって瀬戸内経由の補給ルートが遮断されたぐらいの理解で良いかと思います。別所方に残された補給ルートは荒木村重離反によって新たに生じた花隈から丹生山を経由したものにみになったぐらいに考えて良さそうです。

この丹生山ルートですが、平成27年3月三木市教育委員会「史跡三木城跡及び付城跡・土塁保存管理計画書」(市教委資料)にある天正6年7月頃の秀吉方付城の配置を見てもらいます。

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丹生山経由の補給ルートは後の湯の山街道(有馬道)ないしは兵庫道を利用したはずです。ところが初期の付城のうち和田村四合谷村ノ口付城は丹生山経由ルートの障壁になると見えます。もちろんこの付城だけで兵糧輸送ルートを完全遮断出来なかったので、後に明要寺焼き討ち、淡河合戦が行われますが、とにもかくにも三木城に残された丹生山経由ルートは籠城を支えるほどの補給量は賄えない状況が出現したと見て良さそうです。つまりは時間の問題で三木城は飢えるのが籠城方にも計算出来たぐらいでしょうか。別所方だけでなく荒木村重も、播磨で毛利に味方した諸豪族も戦略目標は、

    大毛利が大軍を送ってきて織田軍を蹴散らす!
これへの熱い期待です。村重や播磨の諸豪族だけではなく本願寺でさえそうだったと思っています。兵糧の枯渇が時間の問題となった時点で取れる戦術は2つで、
  1. 兵糧がある限り食いつないで、あくまでも毛利の援軍を待つ
  2. 体力のあるうちに現有戦力で決戦
この2つの方針で別所方は揺れ動いたぐらいで良さそうです。当時の三木城内の空気は後世の資料で読み取るしかないのですが、別所方が手にしていた情報では三木城を包囲している秀吉軍自体の兵数は「互角らしい」というのはあったようです。互角なら現状打破のために決戦の空気が過熱していったぐらいが流れのようです。これも後世の資料でしか判断しようがないのですが、城内の穏健派は毛利来援期待であり、急進派は決戦ぐらいの色分けぐらいで良さそうです。


合戦経過

決戦に投入された別所方の兵力は2500騎とするものが多いようです。もちろん「2500騎 = 2500人」なんですが、大手門を出た別所軍はまず東条道を北上したようです。そのまま現在の長久橋あたりを渡河し、久留美村大家内田谷上付城を攻める姿勢を示したとされます。伝承ではこの付城を守っていたのは中村一氏であったとされます。しかしこれは擬勢で一転して東に向かい、再び渡河して平井山本陣に迫ったと言われています。たぶんこんな感じだと推測されます

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平井山本陣からは別所方の動き、兵数は十分に観察されるわけであり、秀吉は別所方が付城なんて攻撃するはずもないと判断(竹中半兵衛の進言との伝承もあります)し、平井山本陣で待ち受けて決戦に挑むことになります。平井山本陣は野戦陣地とはいえ恒久陣地の要素を盛り込んだものであり、実質的に別所方による城攻めの様相となったぐらいを想像します。そうやって正面突破(つうか搦手攻撃)が無理と判断した時点で別所方はある種の「中入り」戦術を取ったようです。別所治定率いる700が平井山本陣の大手側に回り込んで攻めかかったぐらいです。

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この別所軍の動きも平井山本陣からは丸見えであり、秀吉は的確に対応し逆襲を行ったとなっています。もっともこの平井山合戦については行われた時期から異説があり、本当に別所軍がどう動いたのかも判然としませんが、結果として別所治定(長治の弟)以下、戦死800の大惨敗になったと記録されています。


戦略・戦術評価

三木合戦の別所方の基本戦略は

    最終的に毛利の大軍が織田軍を蹴散らす
つまり毛利の大軍が来るまでひたすら戦力温存で籠城で頑張るぐらいでしょうか。城に籠って出てこない別所方に対し、秀吉が行ったのは補給ルート遮断による兵糧攻めです。三木合戦で秀吉は兵糧攻めを行っていますし、最終的にその効果による城兵の戦力ダウンで落としていますが、ある時期までは違う戦略構想を描いていたんじゃないかと考えだしています。この時期に秀吉が毛利の援軍が来襲する可能性をどこまで計算していたかは不明ですが、もし毛利の大軍が来ればどう考えても厄介ですから、出来るものなら早期の落城を狙っていたはずです。

そのためには毛利の援軍をひたすら期待して城に籠る別所軍を城外に誘い出し、そこでの野外決戦で粉砕し、一挙に落城までもっていこうの戦略です。つまり兵糧攻めは城兵を決戦に誘い出すための戦術というわけです。兵糧が乏しくなれば活路打開のために城兵は決戦を挑まざるを得なくなるだろうぐらいでしょうか。決戦となって城兵が目指すのは平井山本陣しかないわけで、秀吉は城兵の突出に備えて十分な迎撃準備を整えていたぐらいは想像できます。たとえば平井山本陣は城から見えない側の斜面に多くの階段状の曲輪を設けていますが、これは本陣兵力を別所方に悟られないようにする戦術の一つだとも受け取れます。

もちろんこの戦略も「決め打ち」みたいなものではなく、兵糧が乏しくなれば局面打開のために城方が動くのは普通に想定されることで、動いた時に「あわよくば」ぐらいとした方が相応しいでしょう。秀吉の迎撃準備が万端であった事は史実が証明しており、別所方は平井山合戦で惨敗を喫しています。証明はしているのですが、勝った秀吉軍も出撃してきた城兵を粉砕して合戦は終わっています。この結果をどう考えるかなんですが、

  1. 秀吉の迎撃計画はもともと出撃してきた城兵を粉砕するだけのプランであった
  2. 惨敗した別所軍であったが、退却が見事で付入りまで行えなかった
まあ、1.の可能性もあるのですが、それだけではもったいないと私は感じます。そこで播州太平記や別所軍記では2.の説を取っているようです。合戦の実相が不明なので最後のところは推測するしかありませんが、当時の秀吉軍の泣き所は兵力不足であったと考えています。諸説ありますが、平井山合戦時点では双方の兵力は五分五分であったの見方があります。五分五分なんですが、秀吉軍は包囲戦の関係で三木本城だけで7つの付城に分散しています。平井山合戦の後には明要寺の焼き討ち、淡河合戦が起こりますが、淡河城にも3つぐらい付城を築いています。

推測というか憶測にすぎませんが、合戦時に平井山本陣の秀吉軍は別所出撃軍とチョボチョボ、下手すると劣勢であった可能性も出てきます。見事な采配で押し寄せた別所出撃軍を破りはしましたが、追撃する余力が残っていなかったの見方も不可能ではありません。憶測を越えて妄想に近くなりますが、秀吉の迎撃プランはもっと少数の別所軍を想定していたんじゃないかと考え始めています。そうですねぇ、1000人ぐらいの兵力での夜討ち・朝駆けクラスです。

これを本陣であしらいつつ、付城の軍勢を呼び寄せ、最後は総崩れになった別所軍とともに城門に付け入ってしまおうぐらいでしょうか。ところが別所出撃軍は想定以上に多くて「あしらう」余裕はなくなり、全力で反撃を行う事態に変わったぐらいを思っています。勝ちはしましたが、戦い疲れた本陣兵に追撃の余力はなく、むしろ城に残っている軍勢の二次出撃を懸念したぐらいです。

私の妄想が正しければ、平井山合戦は別所方にとって局所戦での勝利チャンスだった気がしてきています。それこそ城を空にする5000以上で押し出せばどうだったんだろうです。2500なら快勝した秀吉軍ですが、これが倍以上になれば勝敗の帰趨は変わった可能性があります。本陣が敗退すれば付城の軍勢も撤退を余儀なくされ、さらに三木南方の瀬戸内補給路の諸城の奪還も可能になり、十分な兵糧を城内に積み上げることが可能になったかもしれません。

そうなったところで「やりなおし」に過ぎないの見方もありますが、秀吉が敗れると織田軍に微妙な変化が出る可能性があります。たとえば敗戦の責任を問われて秀吉が更迭されるとかです。更迭されて光秀なりが後任となっても「やりなおし」に過ぎないのですが、戦国史最大の事件の本能寺の日時が迫ってきます。果たして本能寺が起こったのか、また本能寺の実行犯が光秀ではなく秀吉になったとか・・・・

それぐらいは故郷ですから妄想を膨らませても良いとしておきます。