前から気になっていたテーマがありまして、江戸期には米がどれだけ取れて、本当に農民は滅多に米が食べれなかったかです。この辺は諸説が今は百花撩乱の様にあります。つうのも江戸期の全国的な統計データが乏しく、あるのは断片的な資料ばかりだからと思っています。ある資料を重視すればAの説が立ち、ある資料に基づけばBの説が唱えられる感じでしょうか。日本と言っても将軍家以下三百諸侯がおり、狭いと言っても鹿児島から青森(蝦夷地と沖縄はとりあえず除きます)まで気候風土は様々です。諸説が基づく資料は間違いとは思っていませんが様々な断片の一つの様子を表しているのに過ぎず、それを全国に拡大すれば無理が出るのだろうぐらいに考えています。今日の手法はなるべく全国平均的な見方で推論を展開してみようと思っています。
江戸期の大名経済の基本は米を年貢(税金)として徴収するのが基本です。米以外もあったでしょうが、米が中心であったとして良いでしょう。江戸期の人口も諸説ありますが仮に3000万人としてみます。江戸期の想定は化政期ぐらいを念頭に置いています。年貢として米を徴収した大名は米をどうしたかです。別に難しい話ではなく、
- 自分で食った
- 売って換金した
- 町人が食うために買う
- 業者が加工品製造のために買う
ただ江戸期、それも後期に五公五民の年貢を取り立てられたかについては疑問があります。八代将軍吉宗は享保の改革により傾いていた幕府財政の建て直しに成功していますが、このカギになったのが年貢率の向上であったとされます。吉宗の前には家康の頃には七公三民であったとされる年貢率が3割を切る状態であったとされます。吉宗は苦心惨憺してこれを3割8分9厘まで「一時的」に引き上げたとなっています。年貢率をあげて年貢は増えたのですが負担に耐えかねた百姓一揆が頻発したのは記録にも残されています。どうも年貢率は年数が経てば下がる傾向があり、これは将軍家だけではなく諸藩も同じような傾向があったと考えています。もちろん島津藩の様に強権で八公二民みたいな凄い税率を保持しているところもありましたが、実態的には四公六民ぐらいが精一杯じゃなかろうかです。
そうなると年貢の総額は1200万石ぐらいじゃないかの推測が出てきます。ここで武士200万人、町人400万の1人当たりの年間米消費量のシミュレーションを立ててみます。
年間米消費量 | 武士消費量 | 町人消費量 | 業者購入量 |
1.0石/人 | 200万石 | 400万石 | 400万石 |
1.5石/人 | 300万石 | 600万石 | 300万石 |
2.0石/人 | 400万石 | 800万石 | 無し |
この1.5石ですが一つ注意が必要です。3000万石もそうなんですが白米ではありません。あくまでも玄米ベースです。江戸後期には町人も白米を食べるようになっていたとされます。玄米を白米に精米すればどうなるかですが、1/6は糠になります。つまり5/6に量が減ります。そうなると年間の白米消費量は1.25石/人になります。1日あたりにすると3.4合/人になります。当時の米は文字通り主食であり、一汁一菜の食事とは具無し味噌汁に香の物が付くぐらいであったとされます。3.4合ぐらいなら平均的に食べていても不思議はないと考えます。
江戸期の貨幣制度と「かけそば」換算をやった時に参照した江戸庶民の生活があります。ここには文政年間漫録が引用されています。つまりは化政期のお話です。文政年間漫録には野菜の行商人の生活が描写され、そこを中心に文政期の物価をあれこれ考察されています。そこに書かれている庶民の一家の年間収入は30両ぐらいと推測できます。化政期には白米を庶民も食べていたとされています。文政年間漫録の家族構成は夫婦と老父と幼児二人と推定されるので、
- 旦那は白米4合(玄米換算で5合)
- 妻と老父は白米2.5合(玄米換算で3合)
- 幼児は2人で白米2.5合(玄米換算で3合)
-
米1升半〜2升 ≒ 100文
3000万石の収穫があれば農民に1800万石は残るはずですが、一番の問題は本当に3000万石も米が取れていたかです。隠し田説も含めて検証してみます。江戸期のデータはほとんどないので明治のデータを近似値的に参考にします。明治期のデータも現代のように厳密なものではなく推測値を多分に含んだものであるのは注意してもらいます。参考データは全国農産表と農林省累年統計表からです。老眼には非常に読み取りにくいデータでしたが、収穫量は明治9年から作付面積は明治11年から集まりました。グラフにしてみます。
人口は明治9年で3550万人ぐらいで明治44年には5000万人に達しています。それに伴い米の作付面積が拡大し、米の生産量が増えています。ここで注目したいのは作付面積です。グラフでは折れ線で表していますが、ほぼ漸増のラインを示しています。藩籍奉還が行われたのが明治2年、廃藩置県が行われたのは明治4年、地租改正が行われたのは明治6年です。隠し田等があれば明治9年以前に見つかった、もしくは持ち主が申告して自分の私有財産にしたと見ます。以後にも不自然な作付面積の増大は見られません。米の収穫量は豊作・不作の波があるのですがほぼ作付面積の増大に伴って増えていると見れそうです。まあ、よく見ると作付面積の増大より米の収穫量の増大ペースの方が早そうですが、これの原因として単位面積当たりの米の収穫量の増大があります。これもグラフにしてみると、
反収とは田1反あたりの米の収穫量です。ちなみに「1町 = 10反」になります。反収も豊作・不作の変動因子があるにせよ時代が下るにつれて向上しています。統計に残る明治11年ぐらいはまでは1.2石/反ぐらいが精一杯であったものが、明治20年ごろには1.5石/反ぐらいに増え、明治の末には1.75石/反ぐらいに達しています。この明治期のデータから推測すると- 江戸期の反収は1〜1.2石程度がせいぜいだろう
- 作付面積は2400万町歩ぐらいが精一杯だろう
今日の江戸期と想定している化政期の人口も3000万人から3200万人で説が分かれます。そこでもう少しデータがはっきりしていて一番古い公式データである明治9年のデータで考えてみます。農産物の収穫量・米の消費量は江戸期とそんなに大差はないだろうの仮定です。上で試算した時には300万石から計算しましたが、米の収穫量が少なくなると様相が変わってきます。計算の便宜のためにある程度数字を丸めますが、
- 人口は3500万人
- 武士が250万人(≒7%)
- 町人が500万人(≒14%)
- 農民が2750万人
- 武士が250万人(≒7%)
- 米の取れ高が2600万石
- 年貢が1100万石(≒ 四公六民)
- 武士・町人は1.5石/人の米を食う
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0.44石/人
今回明治9年のデータを使ったのは米が食えない農民に対する定番の、
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米が食えないからアワやヒエを食べていた
年 | 明治9年 | 明治10年 | 明治11年 | 明治12年 | 明治13年 | 明治15年 |
大麦(石) | 5035709 | 5031724 | 4564276 | 4952337 | 5839255 | 5787685 |
小麦(石) | 1645111 | 1765633 | 1788808 | 1925337 | 2268602 | 2391025 |
裸麦(石) | 2205252 | 2823142 | 3038424 | 3011761 | 4120459 | 4291087 |
粟(石) | 1318112 | 1408462 | 1436557 | 1946952 | 1748804 | 1666499 |
黍(石) | 134354 | 170834 | 164042 | 184936 | 192161 | 175241 |
稗(石) | 828023 | 997357 | 875918 | 1081068 | 996415 | 1010748 |
大豆(石) | 1807872 | 1882331 | 1641083 | 2279021 | 2335872 | 2332755 |
蕎麦(石) | 447805 | 527391 | 571986 | 731591 | 689951 | 684456 |
蜀黍(石) | 168295 | 94122 | 81501 | 89931 | 89099 | 80962 |
玉蜀黍(斤) | 111140960 | 22761163 | 22793775 | 29286041 | 34913700 | 29514745 |
甘藷(斤) | 1239876294 | 3734046901 | 1381015777 | 1663744396 | 1638797258 | 1924073557 |
馬鈴薯(斤) | 27280755 | 37504277 | 53958781 | 54472604 | 56863797 | 76244241 |
年 | 明治9年 | 明治11年 | 明治12年 | 明治13年 | 明治15年 |
麦類(石) | 888万6072 | 939万1508 | 988万9435 | 122万28316 | 124万69797 |
雑穀類(石) | 47万04461 | 47万71087 | 631万3499 | 60万52302 | 59万50661 |
その他(斤) | 13億7829万8009 | 14億5776万8333 | 17億4750万3041 | 17億305万74755 | 20億2983万2543 |
- 麦類 900万石
- 雑穀類 50万石
- その他 14億斤
- 米 0.4石
- 麦類 0.3石
- 雑穀類 0.01石
- その他 36斤(≒ 22kg)
米が食えないから麦飯なんて話がありますが、現在の麦飯は「米7:麦3」ぐらいだと聞いた事があります。江戸期の地方の麦飯は「米3:麦7」であったの記述もありましたが、麦自体もこの程度の生産量ですから米を節約するために麦を増やしても麦自体が先に無くなるだけの話に見えてしまいます。稗や粟や黍は食いたくとも最初から少ないのも明治の統計から確認できます。
これも伝説の一つですが、
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農民は滅多に米など食べられず、祭りなどのハレの日に年に数回しか食べられなかった
ここでポイントは食料の配分からして農民は絶対に米を食べていたです。量としては武士や町人の1/3程度ですが米は間違いなく常食にしていたです。そうしなければ到底食い物が足りません。ただし常食にしていたのは白米でなく玄米であったぐらいでしょうか。「玄米食は実は美味しいんだ」と主張される方は現在でもおられますが、玄米が本当に白米に並ぶほど美味しければ白米食がこれだけ広がるわけがありません。かなり昔に母が玄米食に凝った時期があり、里帰りの時に食べさせられましたが正直なところ「実に不味かった」が感想です。
当時の農民だって基本的に同じであったと考えます。ただ白米にして食べると食い物が足りなくなるので普段は玄米食、それも麦などとの合わせ飯で我慢していたと推測します。そうやって我慢していた白米を食べる時がハレの日であったぐらいです。白米に精米し、白米だけの御飯を食べるのが非常に贅沢な行為とされていたです。農民が米を滅多に食べられなかったは少し勘違いされている部分があり実相的には、
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農民は白米だけを食べる時が年に数回しかなかった
明治の統計がどれほどの信頼性が置けるかの指摘はあると思います。明治1〜昭和28年農林省累年統計表の農作物の部の前書きによれば
作物の生産高調査は明治3年に始まるが制度として確立したのは明治16年である。調査方法を年代的にみると表式調査、申告調査、標本調査の三つの調査法で代表させることができる。
表式調査は昭和15年まで行われてきたものである。これは調査項目と報告様式を規定するだけでその調査方法を特に定めていない調査である。
しかるに昭和12年以降の統制経済の進行、殊に昭和16年産米より実施された食料供出制度のもとでは、このような簡単な表式調査では時代の要求に即応し得なくなった。そこで昭和16年から新しく申告調査が生まれたのである。これは農家に申告の義務を課し、夏冬年2回のセンサスによる属人調査である。ところが、戦後経済の混乱、供出制度の強化の結果、農家はしばしば虚偽の申告をするようになった。のみならず、地方の機関を通ずる調査さえも、またその各々の地方の利害によって動かされ易くなってきた。かくて申告調査も時代の推移と共に崩壊していったのである。
今回用いた明治10年前後の調査は未確立期の統計となります。また調査方法も表式調査で平たく言えば
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どれだけ取れたか記入して提出せよ
- 化政期の人口を3200万人とする
- 武士・町人は700万人(武士7%、町人14%)
- 農民は2500万人
- 武士・町人は700万人(武士7%、町人14%)
- 作付面積を2400万反とし表高の取れ高を2600万石とする(反収は1.08石)
政府は当初、検地が農民からの反発を受けることを懸念し、農民からの自己申告主義を採った。すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を算出し、地方庁は地方官心得書の検査例に基づいて点検し、これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行する形を取った。しかしこの方法では、全国一律公平の租税を徴収する目的は達しがたく、また、1874年(明治7年)の改租結果から、目標の租税額が確保できそうにないことが明らかとなった。また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と税額算定機構の分離)。
このため政府は、1875年(明治8年)に内務省及び大蔵省の両省間に地租改正事務局を設置し、これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換した(明治8年太政官達第38号)。この中で、府県庁は地租改正事務局があらかじめ見当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と費用をかけて算定した地価を否定し強圧的に変更させたことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各地で頻発した(地租改正反対一揆)。これを受けて政府は、1877年(明治10年)1月に、地租を100分の3から100分の2.5に減額することを決定した。
その後政府の強硬姿勢は、1878年(明治11年)頃まで続いたが、税収の見込みがつくようになると徐々に緩和されていき、1880年(明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了した。この地租改正は約7年にわたる大事業であった。
これも取りようなのですが、地租改正には面積要件と収量(反収)要件があった事がわかります。面積と反収の両方について農民が過少申告していた可能性も残りますが、面積については比較的正確なんじゃなかろうかと考えています。過少申告を行うのなら反収だろうです。これも推測にすぎませんが、なにか前提が無いと話が進みませんから面積(作付面積)についてはかなり正しいと考える事にします。そういう前提で計算すると
申告率 | 取れ高(万石) | 反収(石) | 農民平均(石/人) |
10割 | 2600 | 1.08 | 0.62 |
9割 | 2889 | 1.20 | 0.74 |
8割 | 3250 | 1.35 | 0.88 |
7割 | 3714 | 1.55 | 1.07 |
6割 | 4333 | 1.81 | 1.31 |
5割 | 5200 | 2.17 | 1.66 |
戦後経済の混乱、供出制度の強化の結果、農家はしばしば虚偽の申告をするようになった
これが具体的にどの年を指し、どの程度であったかですが、
終戦直後の昭和20年で良さそうだと考えます。この年の反収はわずかに1.39石です。前後の年が2石を越えているのに比べ非常に低い値になっています。実際のところも昭和20年は不作であったとされます。どの程度の不作かは推測するしかないのですが、仮に反収が1.8石程度であったとすれば例年からさらに2割ぐらいの過少申告になります。今回のムックで本当に判ったのは江戸期の米の生産量とか、農民が本当に米を食べていたかどうかについての説が百花撩乱状態になることです。少し試算前提を変えれば状況は大きく変わるぐらいのところです。真実はそれこそ闇の中みたいです。