醤と大豆

律令期には今の醤油の元祖らしい醤と、味噌の元祖らしい未醤が存在していたのは前回のムックのお話です。当時の醤にしろ未醤にしろ高級食品であり、一部の上流階級の食べ物だったとされています。一方で延喜式には東西の市に醤塵、未醤塵が存在するように製造技術は民間にも広がって行ったのは確実と言うより史実です。平安期の次は鎌倉時代、つまり公家の世の中から武家の時代に変わるのですが、武家の食事には醤が日常的に用いられていたとの研究があります。これはどうも定説レベルと見て良いようです。

鎌倉期の醤は醤油と言うより味噌だった気がしますが、鎌倉期に醤が武家階級にも広がって行った理由に大豆生産量の増大があるとの説明が目につきました。この説明って逆じゃなかろうかと私は思っています。傍証として納豆伝説があります。横手市HPの平泉文化のルーツをめぐる旅(納豆伝説コース)から引用しますが、

後三年の合戦のとき、源義家が農民に煮大豆を差し出させたところ、農民たちは急ぎのために入れ物が間に合わず、俵に詰めて差し出しました。これが数日立つと、香りを放って糸を引くので、食べてみると意外においしかったため食用とし、農民たちもやがてこれを知って、自らも作って後世に伝えたといいます。

納豆の起源としては伝説つうか俗説に過ぎませんが、ここから大豆に関わるポイントがあります。大豆は農家に常備されているものであり、その事を知っていたから義家は供出を命じ、さらに農民は供出に応じる事が出来た点です。つまりは後三年時代でも大豆はかなりの量が作られており、農作物と言うか保存食・常備食としてポピュラーなものであったんじゃなかろうかです。鎌倉期の大豆生産量の増大は直接の食用に加えて醤製造のための大豆が必要になっただけじゃないだろうかです。つまりは醤の生産技術の拡散と、醤の味を好んだ需要に応えた結果にも見えます。

ではどれぐらいの大豆が当時に作られていたかですが、古代の事になるのでデータ根拠が曖昧になりますが、それなりにムックしてみたいと思います。


食品用大豆の必要量

大豆の需給動向と国産大豆振興の課題によると、2000年のデータとして日本の大豆自給率は5%ぐらいしかないのですが、その用途が味噌とか、醤油とか、豆腐とか、納豆の生産に向けられている訳ではありません。用途の多くを占めるのは大豆油の生産で全体の74%になるとなっています。でもって食品用大豆として使われるのは21%で、1998年で101万8000トンとなっています。この食品用大豆ですが1960年に較べると1998年は6割増しとなっていますから、ちょっと表を作っておくと、

1960年 1998年
食用品大豆量(トン) 1018000 636250
人口(人) 9400万 1億2700万
1人あたり大豆量(kg) 10.8 5.0
1960年には1人当たり5kgであったのは1998年には10kgとなっています。これに「さらに」が付きます。食用品大豆の使用内訳があり、これは1998年度のデータですが、
  • 豆腐が49%
  • 味噌・醤油が18%
  • 納豆が13%
  • 煮豆・惣菜が3%
奈良から鎌倉ぐらいを考えると豆腐生産はゼロとして良いでしょう。納豆も統計に出るかでないかぐらいになりそうです。その代わりに煮豆や惣菜の需要は多かったと考えます。ここは大雑把に1960年の半分の食用品大豆があれば足りるぐらいに考えます。そうなれば1人当たり2.5kgぐらいで醤を作るだけの需要を賄える可能性が出て来ます。歴史的人口の推測も幅があって難しいのですが、奈良期で400万人ぐらい、平安期で500万人ぐらい、鎌倉期で600万人ぐらいの説を取れば醤需要を賄うのに必要な大豆量は、
  1. 奈良期:1万トン
  2. 平安期:1万2500トン
  3. 鎌倉期:1万5000トン
これぐらいの大豆生産があればなんとかなっていたと推測されます。


田んぼと畑

大豆を作るためには畑が必要なのですが、どれほどの畑が律令期に存在したかです。高島正憲日本古代における農業生産と経済成長:耕地面積,土地生産性,農業生産量の数量的分析を参考にします。高島氏は当時院生だったようですが、研究手法が私と似ておりデータとして参照に値するものと見ています。高島氏の研究手法はリンク先を見て頂くとして、田の耕地面積は比較的推測しやすかったようですが、畑の方はデータが少なくて苦労されています。その少ない情報から、

  1. 平安後期の畑地率は30%ぐらいと出来る(これは資料も多いそうです)
  2. それ以前は逓減すると見れそう
畑地率が上がった根拠としては、開墾は行われているのですが、当時の土木技術、農業技術からして後期に開墾されたところほど稲作が難しかったと推測されています。稲作には十分な灌漑が必要なのですが、条件の良いところが先に開発された結果、後になるほど「とりあえず畑」の比率が増えたぐらいの見方です。ちなみに近代統計では明治11年ぐらいが一番古くなりますが、作付面積で45%が畑地です。そこで平安後期の畑地率が30%なら、平安前期が25%、奈良期が20%ぐらいと仮定してみます。高島氏の田の面積のデータを参考にして表を作ると、
時代 田地(町) 畑地(町)
奈良期 621348 124270
平安前期 862915 215729
平安後期 956875 287063
1町が10段(反)なんですが、現在の1反は10aです。これは太閤検地の時に1反を360歩から300歩にしたためです。お蔭で「1反 ≒ 10a、1町 ≒ 1ha」と言う換算が出来ますが、高島氏の町は律令期の町のようですから、換算に注意が必要です。
大豆の生産量
これの推測も雲をつかむような話になりますが、高島氏はユニークな方法を駆使されています。田畑は当時から売買の対象になっており、その売買記録が残っているそうです。田畑の価値は生産量に比例するのは納得できる発想です。結果として高島氏は畑が田に対して57.1%、つまりは6割程度の価値(≒ 生産量)であるとの推計を出しています。さらにこのデータは明治初期の田と畑の生産量に近いとしています。最後の明治と古代が近いと言うのの評価は難しいところですが、他に適当な指標が無いのは合意です。今日は大豆に行かないといけないので、私も強引ですが明治初期の大豆生産量が古代に近いと仮定して試算してみます。明治11〜17年の大豆収穫量を表にしてみます。
作付面積(町)
収穫量(t) 作付面積(町) 1町あたり収量(kg) 古代町換算(kg)
1878 211700 411200 510 612
1879 294100 438000 670 804
1880 301300 420200 720 864
1881 280600 424000 660 792
1882 303300 429300 710 852
1883 287300 437000 660 792
1884 302700 439100 690 828
古代町換算で平均で800kgぐらいにはなります。次にどの程度の作付面積があったかです。これも他に指標が無いので明治期のデータを見てみます。
大豆 大豆/畑
1879 2001200 438,000 0.22
1880 1996300 420,200 0.21
1881 2002500 424,000 0.21
1882 2047900 429,300 0.21
1883 2079900 437,000 0.21
1884 2093100 439,100 0.21
畑地に対しておおよそ2割ぐらいです。これだけそろえばシミュレートできます。
時代 畑(町) 大豆畑(町) 1町当たり収量(kg)からの総生産量(t)
800kg 700kg 600kg 500kg 400kg 300kg 200kg 100kg
奈良期 124270 24854 19883 17398 14912 12427 9942 7456 4971 2485
平安前期 215729 43146 34517 30202 25887 21573 17258 12944 8629 4315
平安後期 287063 57413 45930 40189 34448 28706 22965 17224 11483 5741
1町あたりの収量は明治初期で800kgぐらいですが、この数値を古代にあてはめるのは無理があるので幾つかシミュレートしてみました。ざっと言えば明治期の半分程度の町あたりの収量があれば需要は賄える事になります。
感想
私の試算も様々な不確定要素があるのは仕方がないのですが、とりあえず良くわからないのは古代人がどれほど大豆を食べていたかです。食べていた事だけはわかるのですが、食生活のどれぐらいの比重であったかは不明です。そうなれば外形的な要素で推測するしかないのですが、あれこれググった情報として味噌を含む醤の普及は、
  1. 奈良〜平安期は上流階級の珍味
  2. 鎌倉期は武士の食事の基本として味噌汁が登場
  3. 室町期には庶民にも自家製味噌が広まり各種の味噌料理が誕生
こうなっています。私が気になるのは鎌倉期の武士の食事として定着したのは良いとして、あれこれ見ても武士の贅沢とはしていない点です。むしろ貴族階級の食事のアンチテーゼとして質素倹約の象徴として挙げられています。つまりは鎌倉期になるとかなり味噌は安く入手できた事を示唆します。つうか鎌倉武士は味噌を買ったと言うよりも、自家製味噌を作っていたと考える方が自然です。原料の大豆なら自分の所領から手に入れる事が出来ますから、ロハで味噌を手に入れ常食として用いていたんだろうです。

この鎌倉武士ですがルーツは平安期から存在します。鎌倉武士とは小領主の事ですが、当時の上級貴族と較べるとはるかに貧乏だったと考えて良い気がします。自家製味噌の製造も倹約のためが端緒だったとするのが良い気がします。鎌倉幕府成立後もそうですが、武士と言っても反面は農民です。鎌倉期には室町期の様な大領主(大名)はそれほど存在せず、貴族化した武士の割合は低かったと考えています。大部分の武士は日頃は農民として働き、「いざ鎌倉」となった時に武装して出陣するぐらいのイメージです。農民階級に近い鎌倉武士が味噌を食べていたのなら、その下の階級になる農民も味噌を既に食べていた気が私にはします。


歴史と言うのは記録されないと残らない性質があります。この歴史の記録者は平安期までは貴族を含む上流階級になります。そういう記録者が「記録しておこう」と思う対象でなければ歴史に残らない気がします。平安期の記録者から見た武士なんて、そもそも人とさえ思っていないところがありますから、誰も武士の生活を記録しようなんて思わなかったんじゃないかと思います。ましてや農民なんてなおさらです。鎌倉期に入って武士の味噌汁が登場するのは、旧来の記録者も新たな権力者となった武士を記録しようと思ったのと、武士自体が新たな記録者として登場したからと思っています。室町期に味噌が庶民にまで普及したと言うのは、室町期から普及した訳でなく、庶民に普及した事を記録する者が漸く登場したからじゃないかと思っています。

私の試算も前提がかなり怪しい面が多々ありますが、平安後期どころか奈良期だって味噌も含む醤を生産するだけの大豆の生産量はあった気がしています。もっとも醤にするより、とっとと大豆を食わなきゃ死ぬなんて状況が存在していた可能性は否定できませんが、味噌を含む醤も保存食ですから、定説よりもっと早くに広がっていた感触だけ持ちました。