桶狭間の戦い考2

今日は視点を変えて考え直してみます。テーマは

    信長はあんまり考えていなかったんじゃないか?
桶狭間は信長の天才性の発露と言う前提がどうしても出てしまいますが、「そうでもなかった」としてすれば見方が変わる気がするからです。


大高城

この城は信長が家督を相続した直後に山口氏の離反により今川方に帰属しています。沓掛城もその時に今川方になっています。結果として尾張の南半分が今川方になるのですがwikipediaより、

ただし、この4城以南の尾張知多半島地域であり、愛知用水開通以前の時代には不毛地帯であったため、濃尾平野の穀倉地帯であるそれ以北の地域とは経済的格差が大きく、面積では尾張の半分でも経済力では尾張全体の数分の一にも満たなかった。

米経済的には「しゃ〜ない」で済む程度とも言えます。大高城の奪還より信長は家督相続後の離反勢力、家督相続不満勢力との抗争に忙しく、赤塚・萱津・村木砦・稲生と激戦を重ねています。とくに弟・信行との戦いは危ういところまで追い込まれています。信行支持勢力を駆逐して大高城奪還に取り掛かったかと言えばそうでなく、尾張上四郡の守護代岩倉織田氏との尾張統一戦の浮野の戦いを2年かけて行っています。大高城奪還に取り掛かったのは1559年になってからで、丸根・鷲津・丹下・善照寺・中嶋と言った付城群を構築したとなっています。

一方の今川方も尾張進出への橋頭保とも言えそうな大高城を手に入れた物の積極的な展開を見せた形跡はありません。1551年に山口氏の働きで笠寺・鳴海・大高・沓掛の4城が手に入った後に笠寺城を奪還されたぐらいです。見ようですが1549年に支配下に置いた三河の安定化に取り組んでおり、尾張にまで手を伸ばす気が乏しかったのかもしれません。また今川は甲斐の武田とは安心できそうな同盟を結んで(信玄は信濃進出に熱中していたため)いましたが、河東の乱の不信感から北条には緊張的な関係の同盟状態で「動きにくい」のもあったのかもしれません。

笠寺城の攻防はありましたが、信長も義元も大高城を積極的にどうこうする事もなく、義元は三河の地固め、信長は残りの尾張の統一に勤しみ、大高城周辺は案外平穏だった気がします。


先に手を出したのは信長

浮野の戦いで岩倉織田氏を滅ぼした信長は尾張統一に残された大高城・鳴海城・沓掛城の奪還にようやく動いたと見ます。さして深い戦略に基づいたものではなく、

    残るはここだけ
こんな感じに見えます。もちろんまったく戦略的な意味のないものではなく、大高城・鳴海城が今川方であると織田家の金倉である津島の安全に支障があるのは間違いありません。wikipediaより、

今川家が尾張の南半分を占拠した事は、伊勢湾海域での制海権が脅かされている事を意味し、織田家にとって重大な脅威となっていた

wikipediaには「重大な脅威」となっていますが、これまた「どうも」ですが、義元はあんまり積極的に伊勢湾の制海権制覇に取り組んでいなかった気がします。その傍証が1559年に丸根・鷲津などの城砦群が出来た途端に大高城が孤立化してしまうからです。伊勢湾の制海権制覇なんて事をやっているのなら、拠点とも言える鳴海・大高にはそれなりの戦力を配置しているはずだからです。今川が大高城に熱心で無い点を信長は計算間違いしていた可能性を考えます。信長は、

    今川は大高城を含む尾張の領土の維持に不熱心である
だから攻めれば適当なところで大高城以下は「撤退するはずだ」の戦略計算です。信長は大高城以下の攻略で今川との正面切っての大激戦を呼び込むなんて考えもしていなかったぐらいです。せいぜいで今川が救援軍を送っても局所戦規模で、それぐらいなら対応できるの計算です。実際のところ大高・鳴海の今川勢は小さかったようで、目と鼻の先に付け城の構築をやすやすと許しています。この状態も信長にすれば計算のうちで、近いうちに大高城も鳴海城も奪い返す事は可能と考えていた気がします。


反応したのは義元

今川家の勢力拡張は伝統的に西に延びる事です。遠江から三河まで既に勢力圏に収めています。1560年段階では三河の平定も一段落がついていたと見て良さそうです。さらにラッキーな事に上杉謙信がこの年に関東に乱入します。この時の謙信の勢いは猛烈で北条氏康を一時的とは言え小田原城に追いつめています。つまり義元に取って東の北条の脅威がない状態です。甲斐の武田も川中島で上杉勢力との抗争を繰り返していますから、突如南下なんて事はまずありえません。かなり余裕をもって西に進める環境が出来上がっています。

大高城孤立の報告は義元のところにも届いており、大高城救援の必要が駿府で検討されていたと想像しますが、なんとなく駿府の軍議では信長の読み通り局所戦規模の救援軍の編成が主流だった気もします。そんなところに義元は北条が身動きできない状況を最大限に利用する計画を立てたんじゃなかろうかです。大規模救援軍の編成と「ついで」の尾張侵攻作戦です。ここが個人的には桶狭間の合戦の綾で、話が大高城救援から始まったので

    第一段戦略目標:大高城及び鳴海城救援
    第二段戦略目標:尾張海岸部の可能な限りの切り取り
あくまでもまず大高城の救援を行うことが決まっていたと見ます。一挙に尾張乱入の計画にならなかったので全軍が大高城に向かう格好になったのだと想像します。たぶんですが主眼が尾張攻略なら信長とてなす術もなかった気がします。でもってこの時の今川軍は2万5千とも3万ともされていますが、実兵力はどんなものだったんだろうです。今川の実力はモロモロ合わせて150万石ぐらいじゃなかったかと推測しています。そうなると動員兵力は4万〜4万5千ぐらいになります。乾坤一擲で勝負を賭けるなら動員可能ですが、そこまでのリスクを冒す必要は乏しそうに思います。今回、桶狭間を調べて確認する限りでは、
  1. 大高城に兵糧を運び込んだ松平元康が2千
  2. おそらく元康に引き続いて大高城方面に到着した朝比奈泰朝が2千〜3千ぐらい
  3. 義元本隊が5千〜6千
  4. 沓掛城にも後詰が必要でしょうから2千〜3千
これらを全部足しても1万2千ぐらいです。もう少し多いとしても1万5千ぐらいで、2万を越すには輜重部隊の人夫数が含まれていてこれが1万ぐらい。これぐらいじゃなかったかと見ています。外征なら妥当な動員で、これでも単なる救援軍なら半分ぐらいだったのを2倍に引き上げての規模にしたんじゃなかろうかと考えています。


信長の反応

義元が自ら3万の大軍を率いて来ると聞いて一番驚いたのは信長だったかもしれません。「なんでやねん」てなところでしょうか。織田側は全軍かき集めても5000程度なのに、今川は呼号であるから割り引くにしても3万です。出撃か籠城かで議論が割れたのは当然かと思います。信長も迷ったのかもしれませんが、迷った信長の脳裏にあったのは浮野での岩倉城包囲戦だった気がします。ごく単純に

    籠城はスカン
だから出撃に傾いてはいましたが、最後の決心がつきにくく迷っていたのが清州城の不貞寝期間だった気がします。それが今川の丸根・鷲津攻撃の報で飛び起きたのは、非常に漠然とした戦術ですが、
    今川3万と言っても1ヵ所に固まっている訳ではあらへん。少なくとも丸根・鷲津と義元本隊は分かれているのだから、これを各個撃破だ!
    (適宜、名古屋弁なりに脳内置換お願いします)
そこから計算すると今から出撃しないと間に合わないから「馬を出せ」の例の一騎駆けスタイルで飛び出して行ったと考えます。


桶狭間周辺地形図

蓬左文庫桶狭間図と言うのがありこのページに当時の道の推測図があります。これもどれほど信用できるかは不明なのですが、今日はこれに信憑性を置く前提にします。そこで私もこれを参考に現在の地形図に重ねてみました。

中途半端に道が切れているのは原図がそうなっているぐらいで御理解ください。今川軍が沓掛城に集結していたのは事実として良いでしょう。そこから大高城に向かうメイン・ルートは地図にある丘陵地帯を南に迂回するルートであったとされています。そこに街道が走っていたようです。桶狭間合戦では松平元康がまず兵糧米を大高城に運び込みますが、この時には一番左側の街道を利用したと考えます。それでもって引き続き到着した朝比奈泰朝が鷲津砦、元康は丸根砦を攻略したで良いかと思います。地図上のアラアラの概算でこのメイン・ルートでの沓掛−大高が8kmぐらいです。平坦な道ですから軍勢の移動でも3時間もあれば到着するぐらいの距離です。

それと丘陵地帯内にも道はあるようです。一応山道になりますが、標高にして50mぐらいですから、メイン・ルートに較べると道幅は狭いでしょうが軍勢の通過は可能と考えます。史実でも信長はここを通過して桶狭間の義元に襲い掛かっているからです。信長2000なり3000が通れるのなら、義元の5000なり6000も通過は可能と考えます。

大高・鳴海の織田の付け城群の戦略的な意味もなんとなく理解できます。鳴海から大高には2つのルートがあり、一つは海岸線の道でもう一つは丘陵地帯の道です。鷲津砦は海岸線の道を抑える場所に、丸根砦は丘陵地帯の道を塞ぐために設けられたぐらいが考えられます。なるほどと思ったのは中嶋砦です。鳴海城の南に扇川が流れており、それが中嶋砦あたりで手越川と合流します。鳴海川から扇川を渡る渡河地点として重要だったようで、当時もこの地点に橋があったようです。扇川の渡河地点は中嶋砦の西側にもあるようですが、橋がある中嶋砦周辺がある種の交通の要衝で当時は大高−鳴海のメイン・ルートであったと推測されます。また中嶋砦から東の丘陵地帯に抜ける道は沓掛城に通じていると見て良いので、沓掛−鳴海の近道的な意味合いもある気がします。

中嶋砦付近が当時のメイン・ルートじゃなかったのかの傍証として当時の大高・鳴海城から海岸線までの距離はもっと近く、低湿地帯が広がっていたもされます。ですからルートとして内陸寄りの中嶋砦付近のルートがメインだったんじゃなかろうかです。もう少し考えれば、丘陵地帯で中嶋砦から鷲津方面、丸根方面に2つのルートがありますが、丘陵地帯を通る丸根ルートも裏道ではなかったの見方です。最近の研究では信長が決戦前に最後に入ったのは善照寺砦ではなく中嶋砦だったと言う説があります。私も中嶋砦説を取りたい気がします。この辺は移動の都合で善照寺砦の方が滞在時間が長かったかもしれませんが、最終段階では中嶋砦であったと考える方が妥当そうです。


信長の戦術みたいなもの

桶狭間合戦で織田方の謎の行動があります。wikipediaより、

正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら300余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかしこれは勇み足となって逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。

佐々政次・千秋四郎の出撃について近年では様々な説が立てられているようです。通説では戦場心理による暴発行動じゃないかとされているようですが、私としては信長が既に善照寺なりに到着している状態で「ありえんやろ」が結論です。信長はそういう勝手な行動を非常に嫌うタイプの人間です。そうやって信長は織田軍団を統制していると考えるからです。つまり佐々政次・千秋四郎の出撃は信長の命令によるものであり、さらに言えば中嶋砦にいる信長が下した命令と考えます。信長のこの時の漠然たる戦術構想は「各個撃破」です。その各個の相手として丸根・鷲津の今川軍はどうかと考えたんじゃなかろうかです。丸根・鷲津の今川軍はその日に砦を落としています。だったら、

  1. とりあえず今日のいくさはオシマイの気分
  2. 明日からの戦いに備えて休みたい気分
  3. 小勢の織田軍が襲い掛かる事はないだろう
これぐらいの理由で油断している可能性です。ただなんですが信長には今川軍が油断しているかどうか確信が無く、とりあえず佐々政次・千秋四郎に突撃させ、相手が乱れるようなら主力を投じて戦果を拡大する作戦です。結果は史実の通りで今川軍に油断なく織田軍は壊滅。信長は丸根・鷲津の今川軍は到底「各個撃破」の対象にならない事を300の犠牲を払って教えられることになります。同時に今川軍強しの情報も得たぐらいでしょうか。300とは言え織田軍にとって1割にも及ぶ損害ですから、同じ失敗はもうできない、次をやるなら小出しではなく全軍挙げてのイチバチ勝負しかないぐらいに考えなおしたとも考えています。

そんな時に今川の別動隊情報が入ります。佐々政次・千秋四郎部隊の壊滅は織田軍の目の前で起こっていますから、織田軍の士気の維持のために「これも予定通り」の顔をしながら吶喊していったぐらいです。つうか自分の戦術判断ミスで佐々政次・千秋四郎部隊を目の前で壊滅させてしまったので、信長が戦場心理で逆上してしまった気がしないでもありません。


義元の戦術

義元を考える上で重要な事は決して凡将では無い点です。花倉の乱以来、幾多の合戦を経験したベテランの指揮官です。大高城の局地戦に、これだけの大兵力を投じたのもその現れだと考えています。桶狭間の合戦の謎の一つは何故に義元は桶狭間に居たかがあります。通説ではちょうど昼休憩を取っていたとなっていますが、沓掛城から大高城に向かうのであれば桶狭間をわざわざ通らなくても良いんじゃないかの疑問です。それこそ元康が通ったと考えれれるもっと西側の街道を利用すれば安全だからです。上で推測したように3時間もあれば元康が通ったと推測されるメイン・ルートでも大高城に到着します。

ここは大きな誤解をしている気がします。桶狭間合戦で義元が桶狭間にいたのは沓掛城から大高城に移動するためと思い込んでいましたが、そうではなくて

    沓掛城から桶狭間に最初から向かっていたんのではなかろうか
地図を見ればわかるのですが、メイン・ルートを通りながら昼休憩のために桶狭間に向かうには、わざわざ丘陵地帯を登る必要があります。そもそも普通にメイン・ルートを進軍しても3時間程度で到着するのですから、丘陵地帯に寄り道してまで休憩する必要はないと言うことです。そうなると義元は最初から桶狭間を目指し、さらに昼休憩ではなく桶狭間に陣を構える予定で進んできたと考える方が自然です。では何のために義元は桶狭間に陣を構えたかになります。

今川の第一段の戦略目標は大高城救援としましたが、もちろんの事として鳴海城救援までがセットです。優先されたのが兵糧不足に陥っていた大高城で、ここに松平・朝比奈軍が進み鷲津・丸根を攻略しています。次に目指すのは書くまでもなく鳴海城周辺の丹下・善照寺・鳴海の攻略です。なんと言っても基本的に平地ですから信長が主力を率いて善照寺砦なりに進出して来た情報は義元も知っているはずです。また「そうするかもしれない」は今川軍の戦術の中に入っていたかと思います。

義元が懸念したのは信長主力軍が丘陵地帯を抜けての迂回作戦を取る事じゃなかったかと見ます。今川軍の主力が大高城に集結してしまえば沓掛城が手薄になり、後方拠点とも言える沓掛城に信長が襲い掛かる心配ぐらいでしょうか。それを未然に防ぐためには鳴海から沓掛に通じる丘陵地帯を押さえておくのが戦術になります。鷲津・丸根を落とせば信長主力は大高城方面に進出できなくなります。信長が「それでは」として沓掛城方面に迂回襲撃作戦を考えたとしても義元本隊がガッチリ塞いでしまうです。桶狭間付近まで義元本隊が進出すれば丘陵地帯を抜けて今川軍の後方に出るルートは塞がれてしまいます。

これもおそらくですが、運命の桶狭間決戦が無ければ、翌日は松平・朝比奈軍および義元本隊による鳴海城周辺の織田方城砦群の攻略が行われたのはまず間違いありません。この攻防戦に信長の主力が加わっても鷲津・丸根の攻防戦に毛が生えた程度にしかならないと想像されます。つうかそういう状況で信長が踏みとどまって迎え撃つかどうかがそもそも疑問です。善照寺方面に進出した信長はなす術もなく後方に撤退せざるを得なくなったぐらいです。そうしておいて義元本隊と松平・朝比奈隊は鳴海で合流するぐらいでしょうか。

以後は第二段戦略で、信長が退却した後の鳴海城の北側の織田方諸城砦(けっこうたくさんあります)を順次虱潰しに攻略していく算段のような気がします。


義元の油断は?

史書では義元の油断が桶狭間の敗因として書かれていますが、広義の油断はやはりあった気がします。あまりにも作戦が予定通りに進行し過ぎた点が考えられます。ある程度の妨害も予想された大高城への兵糧搬入はアッサリ成功し、ひょっとすると手こずる可能性も考えた鷲津・丸根もあっさり陥落です。ここまでのあえての計算外は信長が清州から主力を率いて進出して来たぐらいでしょうか。それも計算外と言うより織り込み済みのもので、信長が来ようが来よまいがこれを圧倒できる大軍を義元は動員しています。

義元の見通しとして、鷲津・丸根がある程度持ちこたえる展開になっていれば今川の前衛軍が足止めになり、捨て鉢でも義元本隊に各個撃破を仕掛けてくる可能性を考えたかもしれません。しかし鷲津・丸根があっさり陥落した事により信長主力軍を今川全軍で攻撃できる態勢が出来上がった事になります。この状況で、

    つっかかってくるタワケはおるまい
そういう意味で義元及び幕僚の見方は「今夜にでも信長は尻尾を巻いて清州に帰るだろう」ぐらいで観測していた可能性です。信長が去れば明日の鳴海城周辺の攻略戦は容易になります。容易というか空き城になっている可能性も大で、明日には鳴海城で祝杯ってな感じです。そういう楽観的な気分が油断になっていたぐらいでしょうか。もう少し言えば、桶狭間くんだりまでわざわざ出張る必要もなかったかもしれないぐらいの軽口も出ていたかもしれません。そういう気分のところに信長軍が殺到したぐらいでしょうか。

ここももう少し考察を加えると今川本隊には5000〜6000がいますが、丘陵地帯に陣を構えた関係で相互の連絡が悪かった可能性もありそうです。大軍のメリットは相手を包囲殲滅できる点なのですが、丘陵地帯ではそうはいかず、捨て鉢の信長軍に各個の戦闘を余儀なくされたぐらいです。結果的な各個撃破です。実質として本隊の決戦になった時に今川本隊5000も有機的に働かず、局所では信長主力軍とチョボチョボぐらいの状態に陥ってしまったです。そのうえ、義元の本陣に行き着くまでに今川本隊の前線の敗報が届いている訳で、戦場心理とし動揺があったのかもしれません。もう少し言えば義元が「こりゃ、いかん」と大高方面なり、沓掛方面に後退しようと動き出している真っ最中の逃げ腰を信長が襲い掛かる状態だったのかもしれません。

後は史実の通りで義元の首は飛び、歴史のターニング・ポイントになったぐらいです。