桶狭間の戦い考

ついでの確認だったはずがメインになってしまったので今日は桶狭間です。最近歴史散歩ばっかりやってますが、まあ休載するよりマシと言うことでヨロシク。


桶狭間まで

まずはwikipediaから掘り起こした桶狭間までの信長の合戦歴です。戦術家としての信長を見てみたいぐらいなところですなお桶狭間は信長本隊と義元本隊の兵力で表示しています。

年月日 信長年齢 合戦名 信長側兵力 相手側兵力 結果
1552.5.10 18 赤塚の戦い 800 1500 ドロー
1552.9.4 18 萱津の戦い 不明 信長勝利
1554.1.24 19 村木砦の戦い 不明 信長勝利
1556.9.27 22 稲生の戦い 700 1700〜3000 信長勝利
1558〜1559 24〜25 浮野の戦い 3000 3000 信長勝利
1560.6.12 26 桶狭間の戦い 2000 5000〜6000 信長勝利
赤塚・萱津・村木砦は信秀急死後の混乱の鎮定ぐらい位置づけで良いかと考えます。萱津・村木砦は兵力の詳細は不明ですが、おそらく1000人前後の動員力ではなかったかと見ます。合戦の状況はwikipediaを信じればどの合戦もかなりの激戦だったようです。兵力からしてそんな小細工の利くものではなく、それこそ平押しの戦いと見ても良さそうですが赤塚こそドローでしたが、萱津・村木砦は勝利しています。これは合戦場での統率力に秀でていた事を推測させます。

稲生の戦いは弟の信行との跡目相続争いです。兵力的に信行の方が優勢であり、宿老の柴田勝家も信行に付いています。この合戦も大激戦だったようでwikipediaには、

正午頃、信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったものの、兵力差に加えて戦上手で知られる柴田勝家の活躍があり、信長方は佐々孫介(佐々成政の兄で小豆坂七本槍の一人)ら主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられ、柴田軍が信長の本陣に迫った時には、信長の前に織田勝左衛門・織田信房・森可成と鑓持ちの中間40人ばかりしかいないという危機に立たされた。

それでもこれを凌いで信長が勝ったのは史実です。どういう戦術・戦闘展開だったかわかりませんが、劣勢の兵力で劣勢の局面に至りながらこれを乗り切って勝っています。赤塚・萱津・村木砦に較べると単に平押しの合戦だけでは勝てなかったと見るのが妥当と考えます。劣勢になっても失われない求心力・統率力が信長にはあり、苦戦に陥ってもこれを打開できる戦術を駆使したと見たいところです。とりあえず柴田勝家より戦術家、合戦場の指揮官としては遥かに上ぐらいとして良さそうです。

浮野の戦いは下尾張の支配権を手に入れた信長が上尾張守護代岩倉織田氏尾張統一戦を挑んだ合戦ぐらいで良いかと考えます。これは1558年に始まり、1559年に相手の本拠地である岩倉城を数か月の包囲の末に落城させる長期戦です。兵力的には五分五分だったようですが、文字通り圧勝し、岩倉織田氏を滅ぼしたとして良いかと存じます。この合戦の成果は大きく、織田軍の動員力が5000程度に増大します。この増加が無ければいかに信長でも桶狭間に勝つ事は難しかったかもしれません。

どうもなんですが信長には天性の統率力があり、またどんな苦戦に陥っても動じない強い精神力があったのは間違いないかと思います。そうでなければ稲生の戦いで苦戦に陥った時に潰走しているはずだからです。後は想像になりますが、どんな状況であっても「信長ならなんとかする」の信頼が部下に強かったとも推測します。「信長ならなんとかする」は実績が必要であり、これを築いたのは赤塚・萱津・村木砦で作られたと見るのが自然です。相当な戦術家だったんじゃなかろうかです。


桶狭間合戦前の情勢

現代から想像するのが難しくなっている上に、一の谷と違ってまったく土地勘のないところですから御容赦下さい。Google earthから取った画像です。

ちょっと見にくいですが、まず画像の真ん中あたり、愛知郡から豊明と書かれているあたりは山岳地帯と言うより丘陵地帯のようです。ただし標高にして50〜60mぐらいのようでなだらかな丘陵地帯みたいな感じです。ずうっと北側にあがると長久手と言う地名がありますが、このあたりまで来るともう少し「山」って感じに見えます。どうもなんですが、この高くもなさそうな丘陵地帯は合戦当時には越えられない天険だったようです。桶狭間合戦前の今川方城砦を示していますが、桶狭間の戦いの焦点になっていたのが大高城です。

当時はもっと海岸線が近かったようで海辺の城ぐらいと見て良さそうなのですが、大高城とさらにすぐ北側にある鳴海城を今川方に抑えられ、これを逆に抑え込むために丸根・鷲津・丹下・善照寺・中嶋の砦が築かれています。織田軍が付け城のような城砦群を築いたため今度は大高城が孤立状態になり、その救援に義元はまずは向かったとなっています。桶狭間の合戦の真相は近年様々な説が立てられていますが、義元は大高城の救援にだけに向かっていたとする説もあるぐらいです。

つまり大高城が交通の要所で、ここを拠点に出来た方が相手側に攻め込めるぐらいの解釈で良いと思います。当時の交通路としてこのあたりに鎌倉街道が通っていたともされていますから一応わかるのですが、画像を見ながら何故に今川軍はもっと北方から侵入を試みなかったのだろうと思います。たいした天険にはとても思えないのですが、どうも今川も織田もそこは通る事が出来ないと「決まっていた」としか思いようがありません。だからになりますが、大高城周辺は織田側、今川方の城砦群が密集するように作られています。

恥ずかしながら丸根砦、鷲津砦は史上に有名なので知ってはいましたが、大高城のこんな傍にあるのを初めて知りました。直線距離にして1km足らずのところにあります。鳴海城の付け城と言える丹下・善照寺・中嶋も似たような距離です。鳴海城もその名の通り当時は海岸線のすぐそばの城だったようですが、当時の常識としてここを通り抜けないと今川は尾張に、織田は三河方面に進出できない傍証だったんだろうとしか言いようがありません。それとごく素直に画像を見て思うのは丸根砦のすぐ南側に大きな緑地帯が今でもあります。どうせ拠点を作るのならこの山こそが適地に見えて仕方がないのですが、当時の感覚としては「大きすぎる」だったのかもしれません。後世の人間は巨大な近世城郭を見慣れてしまっていますが、この時代の人間の感覚ではトンデモナイぐらいだったのかもしれません。


わからないと言えば重要拠点だったはずの大高城の規模です。大高城は1551年に信長が織田家を継承した時点で今川に離反しています。でもって信長が小城砦群を設けたのは1559年となっています。当時の信長は稲生の戦い、さらには浮野の戦いで目いっぱいで、大高城奪還どころではなかったと見て良さそうです。そうであれば今川には8年間ぐらい余裕があった事になります。義元が西に本格的に動けなかった理由は前に考察したので置いておくとして、前進拠点の大高城の整備拡張ぐらいしておいても良さそうな気がします。

つうのも丸根も鷲津も500人程度が守る砦です。この2つの砦の築城を許し、さらにその存在のために兵站路が塞がれてしまっています。大高城に十分な戦力があれば、そもそも敵前築城なんて出来ないはずです。またやろうと思っても大高城から妨害部隊が出撃します。それが出来てしまったのですから、大高城自体はたいした戦力が置かれていなかったとしか考えようがありません。鳴海城もまた同様としか考えられません。これをどう考えるかです。


今川の戦略

う〜ん、思い違いをしているのかもしれません。大高城は交通の要衝でもあったかもしれませんが、それより心理的な戦略ポイントであったのかもしれません。信長にすれば家督相続時のゴタゴタの最中に裏切られて失った城ですから「是非、奪還したい」の感覚です。一方の今川は拾った土地ですから、のんびり構えていたぐらいです。信長は兄弟内戦(稲生の戦い)、一族内戦(浮野の戦い)に漸く決着をつけると、失われた領土の回復のために大高・鳴海方面に戦力を向けてきたぐらいでしょうか。

そのために大高城が孤立したのですが、義元にしても見殺しには出来ない感覚で動いたんじゃなかろうかです。見殺しにすれば領主としての義元の評価が下がってしまいます。そこでこの機会に尾張に大きく進出してやろうの意図を込めて空前の大軍を動員したぐらいです。今川が西に勢力を拡張したい理由はもう良いでしょう。何が言いたいかですが義元の戦略の基本は、

  1. 第一が孤立していた大高城の救援
  2. 第二が尾張の切り取り
こういう風になっていたと考えます。3万とも言われる大軍を動員したのは、織田軍も大高・鳴海圧迫のために大きな兵力を動員しており、中途半端な兵力では第一の戦略目標である大高城救援が失敗するかもしれないの懸念です。超大国の領主としてそんな無様な失敗は許されませんから、余裕で大高城を救援できる大兵力を動員したぐらいです。もちろんそれだけの大兵力を動員している訳ですから、単に大高城救援だけでは「もったいない」が第二の戦略目標であるついでの尾張切り取りになるわけです。

こんな捻った考えにしている理由は、今川軍の進撃路がどう考えても不可解だからです。本気で尾張併呑を目指していたのなら、他方面からの尾張同時侵入を行っても良いはずだからです。織田軍もかなりの兵力を大高・鳴海方面に向けてはいるのですが、その背後に今川軍が展開すれば撤退せざるを得なくなります。それが可能な地形に見えて仕方がないのです。5000程度の別動隊でも非常に効果的です。それをせずにまっすぐに大高城救援に向かったのは、そもそもの第一戦略目標が大高城救援であったと考える方が筋が通るからです。これを第一段階としてまず行うのが義元の戦略であり、その次は第一段階が終了してからぐらいの見方です。

そこまで考えると桶狭間の合戦は義元の上洛作戦と言うより大高城と言う局所戦が実相であったぐらいが説得力を持つ気がします。先に手を出したのが信長で、これに呼応したのが義元です。前にも調べましたが、ちょうどこの時に上杉謙信の関東への大攻勢が始まっており、北条が西に目を向ける余裕がなくなっています。余裕があった義元は局所戦と言うには過剰すぎる大兵力が動員できたので後世の誤解が生じたのかもしれません。もちろん「織田弱し」と見れば一挙に尾張を席巻するぐらいの準備はしていたぐらいはあったと思いますが、それはあくまでも「ついで」の第二段戦略であったぐらいです。


信長の戦略と戦術

これが謎めいています。通説では天下取りのために西に動いた義元の脅威に家臣が動揺したとなっています。そりゃ呼称でも3万の大軍が攻め込んでくるとなれば、当時5000程度の動員力しかなかった織田家が動揺しても不思議有りません。5000と言っても大高・鳴海方面に2000程度は派遣しているので手元には3000程度しかいないわけです。「勝負にならない」と判断するのが自然です。そこで信長は何を考えていたのだろうかです。信長の基本戦略は

    今川軍を撤退に追い込む
殲滅ではなくあくまでも撤退に追い込むです。いかに信長だって「5000 vs 3万」の兵力差を覆して今川軍を殲滅できるとは考えてなかったと思います。撤退に追い込むための具体的な戦術は浮野の戦訓じゃないかと想像しています。浮野では信長の戦歴からすると最大規模の兵力を率い、さらに最長期間の合戦を行っています。岩倉城の包囲戦だけで数か月とされています。信長が浮野で学んだ戦訓は、
    軍勢は飯を食う
浮野で信長は兵糧補給に案外手こずったんじゃないかです。3000程度の動員でもあれだけ大変なのであれば3万となればもっともっと大変だろうです。大軍のアキレス腱は兵糧及び兵站路の確保にあるぐらいの考え方です。これをどうやって襲い、そこから撤退にまで追い込むかです。そのためには今川軍がどこに向かうかの見極めが必要になります。現在の直接の係争地である大高城方面に向かうのか、他の方面に展開するのかです。これがはっきりしないうちは動けないぐらいです。清州で不貞寝していた期間がそれに当たるかと見ます。

信長の願いとして大高城に向かって欲しいはあったと思います。他方面への展開があると小兵力の織田軍での対応がより困難を極めますし、大高城方面に展開している織田軍の対応にも苦慮させられます。史書を信じれば信長が動いたのは今川軍が丸根・鷲津に攻撃をかけてからだとなっています。ちょっと微妙なところですが、大高城に兵糧が運び込まれた時点ではないところに注目します。これは兵糧米の搬入だけなら大高城救援隊は別動隊で、他方面への進撃があると考え、そこから丸根・鷲津に攻撃をかけたと言うのは、大高城を根拠地にして今川軍が動くと見切ったんじゃないかと考えます。ここで信長は敦盛を舞ってから出陣します。

今川軍が大高城を救援するだけでなく、そこを根拠地に展開する作戦ならば沓掛城にいる(これぐらいは情報として持っていたと考えます)義元本隊は大高城に進むはずです。信長は今川軍の編成をおおよそこんな感じで考えていたんじゃないかと推測します。

    前軍:丸根・鷲津攻撃の主力部隊
    中軍:義元率いる本隊
    後軍:輜重部隊
前軍は既に丸根・鷲津に攻撃をかけています。義元は丸根・鷲津が陥落し大高城の安全が確保されてから動くだろうです。さらに次の作戦に必要な後軍輜重部隊はそれに引き続き動くだろうです。輜重部隊は沓掛城に集まっている兵糧物資をすべて大高城に運び込もうとするだろうです。そうしないと次の作戦に不便だからです。熱田で丸根・鷲津陥落の報を聞いた信長が思ったのは「これで沓掛城から大高城に義元は進む」の判断材料になったと考えます。

信長が襲いたかったのは後軍の輜重部隊ではなかったかと思います。今川の前軍も大高城に兵糧を運び込んでいますが、これはあくまでも当座の凌ぎの分です。今川全軍の兵糧は大高城の安全が確保されてから運ばれると考えるのが妥当です。この後軍輜重部隊が動くのは鷲津・丸根が陥落して1日ぐらいと信長は読んでいた気がします。これをなんとか見つけて大打撃を与えたいと考えたのが信長の戦術だった気がしています。輜重部隊が打撃を受けると大高城周辺に集結している今川軍が短期間で飢えるの計算です。

失った兵糧を再び集めて大高城に運ぶには時間がかかります。さらに今川軍の兵站路に織田軍主力がウロウロしている状況は大高城の今川軍にとって非常に気色の悪い状況になります。もちろん今川は大軍ですから兵站路の確保のための反撃は行われるでしょうが、その辺で義元がやる気をなくして帰国してくれないかの期待です。義元が大高城をまっすぐに目指したと言うことは、第一の戦略目標は大高城救援であり、その時点で兵糧・兵站路に不安を感じればリスクを冒してのさらなる織田領への侵攻は躊躇するんじゃないかの見方です。作戦は尾張切り取りから大高城への兵站路確保作戦に変更され、尾張切り取りは「また今度」みたいな感じです。

問題は今川軍が注文通りに動いてくれるかと、なんと言っても上手く後軍の輜重部隊を発見できるかです。信長は熱田から鳴海城の付け城群を巡りますが、これは情報待ちだった気がします。そのうちにようやくつかんだ情報が、桶狭間に今川の大きな部隊ありです。信長の戦術の際どいところは後軍が大高城に入ってしまうと意味がなくなる点です。つかんだ情報に飛びついて突撃してみたら後軍の輜重部隊ではなく義元本隊であったぐらいです。大乱戦の中で義元を討ち取れたのは「ラッキー」以外の何者でもなかったぐらいでしょうか。


信長の教訓

信長の桶狭間までの戦歴を見返す限り、非常な戦術家であったろう事は想像できます。戦術家でもあり有能な野戦指揮官でも良いと思います。相手より寡兵の状態で勝利をつかんでいます。その戦術家としての信長の才能が最大に発揮されたのが桶狭間だった気がしています。これしか無いようなタイミングで軍を動かし、ここしかありえないところで勝利をつかんでいます。しかし一方で冷や汗テンコモリだったとも考えています。あまりにもイチバチ勝負の度が過ぎたぐらいの感想です。

それとラッキーにも恵まれて勝ちはしましたが、大軍の有利さを骨の髄まで感じた気がしています。小勢ではあれだけの曲芸の粋を尽くしてようやく勝てる程度なのに、大軍であれば押し寄せるだけで圧倒的に有利な事です。合戦の確実な勝利の方程式を学び取ったぐらいです。以後の戦いでは大軍による決戦決着主義に大きく方針が傾いている気がしています。決戦のために少しでも相手方を減らし、味方を増やす算段をギリギリまで行い、圧倒的な戦力で決戦に臨めるまで待つ戦略面の重視です。六角攻めが典型です。

なんとなく信長の戦術家としての娑婆っ気が最後に出たのは金ヶ崎の気がしています。あの戦いでは大軍による奇襲戦術と言うマジックを行ったと見ています。大軍で相手を圧倒すると言う原則は守りながら、一方で戦術家としての奇襲戦術を活用したぐらいの感じです。結果は御存じの通り、マジックのタネであった浅井家が寝返り窮地に陥り、後世では退却戦のみが評価されています。信長にすれば心外な評価かもしれませんが「もうやめた」ぐらいでアッサリしたものであったかもしれません。