日曜閑話64

今日は先週の続きで桶狭間の後の動きです。


今川家

1560年の桶狭間で義元が戦死した後を継いだのが氏真です。大変な時期の家督相続なのですが、まず三河の家康が離反します。最初は西三河を掌握し1962年には信長と織徳同盟を成立させ、1564年までには三河全土を掌握したようです。遠江も離反騒ぎが起こったようですが、こちらは1566年までになんとか鎮圧させているようです。見ようですが、義元死後に三河遠江に離反騒ぎがほぼ同時に起こり、氏真は三河を失ったものの遠江はなんとか確保したと言うところでしょうか。

つまり桶狭間後は今川の駿・遠・三のうち遠江三河で内乱が6年間続き、氏真は三河の家康の独立を許しましたが、なんとか遠江は確保したぐらいに理解しても良いかと思います。前回を読んでいた人なら判ると思うのですが、義元は桶狭間まで北条を警戒し西に大軍を動かすのを控えていたと解釈していますが、6年もの内乱の間、何故に氏真の今川家が北条なり、武田の侵略を受けなかったのは不思議と言えば不思議です。信玄と氏康はこの間は何をしていたのだろうです。。


信玄の6年間

信玄はまず桶狭間の1年後に川中島を謙信と戦います。御存知の通りの大激戦が展開されます。結果は痛み分けなんですが川中島は、

    第一次:1553年
    第二次:1555年
    第三次:1557年
    第四次:1561年
    第五次:1564年
こういう経過です。ポイントとしては1554年に三国同盟が結ばれ北条との関係を強化しています。三国同盟、とくに武田と北条が結ぶ意義はイチにもニにも対上杉戦対策なんですが、北条との同盟との結果として1557年から西上野進攻を行っています。西上野には上杉方の有力豪族の長野氏が頑張っており、氏康は上野の上杉勢力を弱めるために信玄の協力を要請したぐらいが考えられます。信玄は領土拡張の意味と、西上野を押さえる事により北信濃に上野方面からの上杉軍の影響を排除したいの意図ぐらいで協力したぐらいを考えます。信玄は1560年の桶狭間、1561年の第四次川中島、1564年の第五次川中島を挟みながら西上野進攻を継続しています。

この西上野の領国化は1566年までかかっています。きっちり今川家の内乱時代と同じで、義元の死後に急遽南下みたいな戦略は取っていないとして良さそうです。なぜに信玄が西上野に執着したかは私には判り難いところが残りますが、結果として言えるのは、1564年の第五次川中島を最後にして謙信との大規模抗争が終了している事だけはわかります。そこから考えると対謙信戦略として非常に重要なものだったんだろうぐらいはわかります。西上野を確保した後に漸く南下政策を取れる様になったぐらいです。


氏康の7年間

氏康は桶狭間と全く同時期に謙信の関東進攻を受けます。この時の謙信の勢いは猛烈で、1560年5月からほぼ1年に渡って関東を暴れまわり、小田原城包囲まで行っています。氏康は当然ですがこの対応に忙殺されます。謙信が越後に帰った後も、謙信に奪われた地域の奪還戦略が必要で、そのうえ謙信はこの後も毎年のように関東進攻を繰り返し、実に1567年まで続きます。謙信の作戦行動は活発と言うより猛烈で、判る範囲で出来るだけまとめてみますが、

謙信の行動
1559 5月 上洛
1560 3月 越中出兵
5月 関東出陣
1561 2月 鎌倉占領
3月 小田原城包囲
4月 武蔵松山城攻略
8月 第四次川中島
11月 関東出陣
1562 5月 越後帰国
7月 越中出兵
9月 越中出兵
12月 関東出陣
1563 2月 武蔵松山城落城
4月 唐澤山城攻略
1564 1月 小田城攻略
3月 越後帰国
4月 芦名盛氏を国内で撃破
8月 第五次川中島
10月 関東出陣、帰国
1565 3月 関東出陣
9月 関東出陣
1566 1月 関東出陣
2月 唐澤山城攻略に失敗し帰国
1567 3月 唐澤山城攻略
4月 厩橋城奪還


越後の兵制は兵農分離していないはずですが、戦える期間は殆んど関東で連戦を重ねています。1567年の行動を最後に謙信は越中方面に作戦行動を転じますが、1560年の桶狭間以後の氏康は1567年までひたすら謙信戦に忙殺されている事が確認できます。氏康も名将で戦術的敗北を戦略的勝利で巻き返してはいますが、さすがに駿河にまで手を出す余裕は氏康にも無かったとして良さそうです。


やっと駿河

信玄も氏康も1560年の桶狭間と同時起こった謙信の進攻に延々と付き合わされていた理解で宜しいようです。それも1567年頃にはなんとかカタが付き、ついに駿河へと動き始めます。信玄が積極的だったのは史実の通りかと思います。義元死後に今川は勢力圏を駿河遠江に縮小させていますが信玄が駿河を攻めるとして考えたのは、

  1. 北の謙信対策
  2. 東の氏康対策
  3. 西の信長対策
最大の難敵の謙信対策は西上野を支配下に置く事によって1566年までかかって達成できたぐらいで良いかと思います。信長対策は1565年に勝頼との婚姻対策で同盟関係を結んでいます。この時に今川系の長男義信を遠ざけており、今川から織田に外交政策を確実にシフトしていると見て良いかと思います。たぶんですが武田と今川の関係は1537年からで、武田家中に親今川派と呼ぶべき勢力があり、その中核的存在が長男義信であったぐらいの理解で良いと思います。駿河を狙う信玄にとって家中の親今川勢力は目障りだったぐらいと理解します。

義信は1567年に廃嫡となっていますが、この時までに武田家内の親今川勢力は一掃され、同時に織田の嫁を取っている勝頼を後継に据える事により、対外的にも親織田を明らかにしたと見ます。ここはもうチョット見るべきで、信玄がここまで反今川、親織田を明示したのは今川家への工作が完成段階にあった事の裏返しと見て良いと思います。でもって信玄は1567年末に駿河に進攻。氏真も兵を送りますが、信玄の工作は完璧で次々に裏切りが続出し、今川軍は戦わずして崩壊。氏真は駿府を逃亡し掛川城まで命からがら落ち延びる事になります。信玄は信長の忠実な同盟者である家康とも共謀しており、家康は密約に従って西遠江に進攻。今川家はこの時に事実上崩壊する事になります。


謙信は動かず、信長には同盟者の家康に西遠江を渡す事によって懐柔したのですが、氏康はどうしたかです。信玄は駿河進攻に当たり北条にも参加を促しています。条件はたぶん東駿河かと思います。あくまでも推測ですが信玄の駿河戦略は、

  1. 駿河を北条に与え、同盟関係を維持する
  2. 西遠江は一時的に家康に与えるが、北条との同盟で背後を固めておいて、三河に追い落とす
1567年末に始まった武田・徳川による今川侵略ですが、北条の反応は少々鈍いものになっています。隠居の氏康と当主の氏政の意見の相違も出たためとは言われています。この北条の動きから、なんとなく信玄は「北条は動かない」と読んだ気もしないでもありません。遠江では予定通り家康と紛争を起しますが、この時に氏康は巧みに動きます。具体的には、
  1. 武田と揉めはじめている家康と手を組む
  2. 宿敵謙信とも手を組む
家康は独力で武田と争うのは避けたいでしょうから氏康の誘いに乗ります。また乗った事により北条の後ろ盾ができた事になり、武田への姿勢も強硬になります。謙信は同盟を渋ったとも伝えられますが、当時の謙信は関東にも飽きたのか越中進出に傾斜しており、北条と武田が駿河を巡って争ってくれれば後方の安全を確保できるの戦略判断で結局同盟を結ぶ事になります。こういう準備を整えた上で1569年早々に北条は駿河に進攻します。家康と北条の挟撃状態に陥った信玄は苦戦を重ね、結局のところ橋頭堡は一部残したものの駿府からも撤退を余儀なくされ、駿河遠江は北条と家康の分け取り状態に至ります。

撤退を余儀なくされた信玄ですが、反武田同盟の要である北条攻撃を行なう事で挽回を図ります。小田原城を包囲し、また帰国途中に三増峠で北条軍を撃破したりして体勢を挽回。さらに決定的なポイントして氏康が衰えます。氏康は1571年に死亡ですが、その1年以上前から中風で能力をかなり低下させていたようで、氏康の戦略の衰えが北条勢力の衰えと連動し、1570年に信玄はついに駿河を制圧します。概算ですが信玄の駿河作戦は結局2年がかりになったと言う事になります。


桶狭間後の信玄と信長

比較年表を作ってみます。

信玄 年齢 信長 年齢
1560 桶狭間
1561 第四次川中島 40 27
1562 42 織徳同盟成立 28
1564 第五次川中島 43 30
1565 婚姻政策
1566 西上野攻略完了 45 32
1567 ・義信廃嫡

駿河進攻
46 美濃攻略完了 33
1568 47 上洛戦 34
1570 駿河攻略完了 49 姉川の戦い 36
1571 50 比叡山焼き討ち 37
1572 上洛戦(三方が原) 51 38
1573 死亡 52 39


年表で確認しながら改めて信長の天才性を見た気がしています。桶狭間は正直なところ「タナボタ」的なところは大きいと思っていますが、桶狭間後に東に進まず、美濃に進んだのが実に素晴らしい戦略判断の気がしています。当時の美濃は斎藤義龍の時代で強大でした。もちろん攻めなければ攻めてくるからだけかもしれませんが、美濃攻略にほぼ専念し東には全く進んでいないとして良いと思います。桶狭間後の三河遠江は長期の混乱状態に陥っています。当然ですがこの混乱に乗じて三河遠江に手を伸ばす戦略もあったはずです。

その気になれば相当な領土の切り取りが可能だったはずなのに、この方面は家康に全面的に任せて信長はひたすら美濃を攻め、7年かかってますが、ついに併呑に成功しています。信長が天下の諸豪に肩を並べたのは美濃を取ってからだとするのが自然です。そこから義昭を奉戴して一挙に上洛を果たしたのは有名すぎる史実ですから略します。もし信長が桶狭間の戦勝に乗じて東に進んでいたら、今川には勝てても武田・北条勢力との直接接触を余儀なくされます。位置的に言えばかつての義元と同じ戦略的位置です。尾張三河遠江ぐらいを合わせた勢力は大きなものですが、その勢力では武田・北条と一進一退程度が関の山になり、そこで年月を費やしてしまう可能性は十分にありそうな気がします。


東の4強にチャンスはあったか?

年齢基準の比較年表を作ってみます。

年齢 信玄 謙信 義元 氏綱 信長
17 家督を継ぐ 家督を継ぐ
18 家督を継ぐ 氏綱・氏康と抗争 尾張平定戦
19
20 家督を継ぐ
21 信濃攻略戦 越後掌握
22 上野出兵
23 第一次川中島
24
25 第二次川中島
26 家督を継ぐ 桶狭間
27 第三次川中島 河越城の野戦 美濃攻略
28 山内上杉を追撃
29 上洛
30 関東出陣 三河占領
31 第四次川中島
32 第一次川中島 関東で氏康と抗争
33 美濃占領
34 第二次川中島 第五次川中島 上洛戦
35 関東で氏康と抗争
36 第三次川中島 平井城攻略 姉川の戦い
37 関東で謙信と抗争 比叡山焼き討ち
38 越中進攻
39 桶狭間戦死
40 第四次川中島
41 長篠の戦い
42
43 第五次川中島
44
45 西上野占領
46 駿河進攻 七尾城攻略 石山合戦終了
47 手取川の戦い 武田氏殲滅
48 死亡 本能寺の変
49 駿河占領
50
51 上洛戦
52 死亡
53
54 駿河進攻
55 死亡


まず信長を注目してみたいのですが26歳で桶狭間をやり、33歳で稲葉山城を攻略し美濃を併呑しています。翌年に義昭を奉じて上洛戦を行ったのが34歳の時です。そこから天下統一戦が行われるのですが、14年後の48歳の時に本能寺です。あくまでも仮に東の4強が似たような天下統一過程を取れたとして考えて見ます。


まず信玄は信長が美濃攻略を行っていた時期に信濃攻略を行っています。北信濃まで進出し謙信と川中島をやり始めたのが32歳の時になります。ここまでは信長と似たような流れですが、そこから対謙信戦を45歳の西上野攻略まで行う事になります。同じ年齢頃に信長は長篠の戦いで既に勝ち、石山合戦を終了させています。信玄が対謙信戦をやっていた同年齢時に信長は、

  1. 浅井・朝倉を姉川で撃破 → 浅井・朝倉を殲滅併呑
  2. 石山合戦に勝利
  3. 勝頼を長篠に撃破 → 武田を殲滅併呑
他にも伊勢の北畠氏を併呑、丹波の波多野氏を殲滅併呑、播磨攻略、伊賀を殲滅併呑、加賀の一向一揆勢を殲滅併呑もしています。信玄がこれに追いつくには、甲斐からの勢力拡張を信濃ではなく駿河に向ける時間短縮がまず必要ですが、義元健在の駿河に手を出すのは実力差がありすぎて到底不可能としか言い様がありません。もう一つの機会は義元死後に急転直下して駿河を攻めることですが、これまた謙信が頑張っているので無理だったのは史実の示すとおりです。

仮に謙信ともっと早くに和睦して南下していたらですが、チャンスとしては第四次川中島ぐらいしかありません。あそこで謙信に殲滅的な勝利を挙げていれば南下も可能だったかもしれませんが、そうなると今度は謙信による関東出陣もなくなり、駿河の争奪は氏康と争わなければなりません。謙信も強敵ですが、氏康も難敵です。そうは簡単に氏康を退けられると思えません。どうしたって信玄には天下の可能性は無かった気がします。



氏康も信玄同様に対謙信戦に消耗させられています。氏康も憲政を追い落として上野を占領したのが36歳の時ですから、ここで謙信の挑戦が無ければ桶狭間の時でまだ45歳です。それまでには関東はほぼ征服できていたら義元亡き後の今川を踏み潰して上洛は時間的に可能だったかもしれません。ただなんですが、謙信の脅威がなければ武田の動向は変わります。また氏康が関東の覇王になって西に向かうとなれば、義元と信玄は同盟を組んで阻止する体制になったとも考えられます。つまり、そもそも桶狭間が起こらなかったです。そうなれば氏康が西に進むには、

  1. 関東の覇権を謙信の代わりに信玄と争っていた可能性がある
  2. 義元健在の駿河を攻める必要がある
氏康の可能性も高そうに感じません。


謙信はややこしいのであえて省略して、やはり素直に可能性があったのは義元でしょう。単純に桶狭間で勝っていれば可能性は十分にあったぐらいです。この時に義元はまだ39歳ですから、まず尾張を制圧し、そこから美濃を攻略し上洛を果たすまで7年ぐらいあれば不可能では無いだろうです。この間の信玄と氏康は対謙信戦に専念せざるを得ない状況ですし、謙信の考え方から義元が将軍を擁して天下に号令するのを「あえて阻止したい」は積極的に考えない気がします。つまりは桶狭間で義元が勝っていても、東日本の歴史はそれほど大きく変わらないだろうです。

もっとも義元が尾張・美濃、さらには近江を制圧して上洛していても信長の代わりになったかどうかは不明です。一時的に天下を制したぐらいが精一杯ぐらいじゃないでしょうか。後継の氏真では頼んないですし、あの時に中世を徹底的に破壊できたのはやはり信長だったからだとしか言い様がないからです。日本史に於て桶狭間はやはり必然だったのかもしれません。