桶狭間の合戦・織田信秀から桶狭間前まで

織田信秀・年表から考える

織田信秀は信長の父で「尾張の虎」とまで呼ばれた猛将です。ただ事歴について曖昧な点も多く、今回のメインテーマは桶狭間までの動きを追う事なのでwikipedia程度でお茶を濁します。まずは年表ですが、出生自体も1507年説、1508年説、1511年説があるようですが通説の1507年説を採ります。

事柄 年齢
1507 出生 0
1527 家督相続 20
1532 織田達勝(守護代)と争うが和解 25
那古屋城今川氏豊から奪取
1535 森山崩れで松平清康急死 28
1539 古渡城を作る 32
1540 安祥城攻略 33
1541 三河守叙任 34
1542 第一次小豆坂の戦いに勝利 35
土岐頼芸が道三によって尾張に追放される
1544 刈谷城が織田方に寝返る 37
大垣城奪取
1547 加納口の戦いで道三に敗れる 40
1548 末森城を作る 41
信長の婿に濃姫帰蝶)を迎え道三と和解
第二次小豆坂の戦いに敗北
1549 安祥城奪われる 42
大垣城奪われる
1551 死亡 44
信秀の事歴は出生年だけではなく、那古屋城を奪った年、さらには第一次小豆坂合戦の実在への疑問などがあります。それでも年表から推測できることとして、1532年に守護代の織田達勝と争いで実質的に下尾張の実権を握ったと思われます。信秀は守護代にはならず、あくまでもその家臣の地位に留まったとなってはいますが、おそらく勢威は守護代を凌ぎ、さらに上尾張守護代も下風に置いていたぐらいでしょうか。そうやってアラアラであっても尾張を統一勢力として率いたと考えないとその後の活躍の説明が難しくなります。信秀の外征は東の三河と北の美濃に向けられていますが、理由として考えられるのは
  • 三河をほぼ手中に収めていたとされる松平清康が1535年に森山崩れで急死
  • 美濃守護であった土岐頼芸が道三によって1542年に尾張に追放される
混乱により「弱し」と判断したぐらいが考えられます。先に三河を考えますが、清康急死によって家督を継いだのは家康の父である広忠ですが、信秀からの圧力に単独で戦うのは無理があると判断したぐらいに思っています。つうか三河の西は遠江であり、そこは今川氏の版図になります。今川氏も西へ西へと勢力を広げていますから、東西に敵を抱えての戦うのは到底無理ぐらいの見方です。たぶん織田氏からも、今川氏からも同盟(つうか従属)の誘いがあったと推測しますが、より強そうな今川氏への従属を選んだぐらいです。三河松平氏が今川に従属することで三河の対立構図はこうなったぐらいで良い気がします。広忠が頼った今川氏も1537年に第一次河東の乱で東駿河を失い苦しい状況で、それに乗じて信秀は1540年に安祥城を攻略したぐらいでしょうか。1542年の第一次小豆坂合戦の実否が疑われているのは、東駿河を北条氏に奪われ苦しい状況であるのに、三河まで今川氏が大軍を送り込むだろうかの疑問じゃないかと考えています。では全くの虚構かと言われると、その時期になんらかの合戦は行われ信秀は勝ったんだと思います。理由は1544年に水野氏が信秀に寝返り、刈谷城が信秀のものになっているからです。

そこまでは信秀が三河侵略に専念していたぐらいで分かりやすいのですが、そこから信秀は北の美濃に関心を向けることになります。キッカケは美濃守護であった土岐頼芸が1542年に道三に追われ尾張に亡命してきたからで良いと思いますが、なぜに北の美濃に転進したのだろうかです。これはベタに考えて

  1. 美濃に混乱が起こっており付けこむチャンス
  2. 道三は油断できないだけでなく脅威とみなし、政権奪取から日が浅いうちに叩きたい
それともう一つある気がします。義元の家督相続直後に起こった北条氏の東駿河占領ですが、1545年の第二次河東の乱で氏康から奪い返しています。以後の北条氏は山内上杉戦に専念し、今川氏との間に平穏状態が訪れます。つまりは今川氏が三河に大きな戦力を振り向ける余裕が出来る事になります。そうなると信秀は北に道三、東に今川氏の両面作戦を強いられることになり、まだ美濃の政権を奪って地盤が固まりきっていない道三を叩くことが必要ぐらいに信秀は判断したのかもしれません。

信秀の美濃侵攻は断続的に行われますが蝮の道三の戦術は尾張の虎を凌いでいたようで、信秀は美濃戦に苦戦し1547年には稲葉山城下まで攻め込んだものの大敗。翌年には濃姫を信長の正室に迎える姻戚政策を行い和睦せざるを得なくなります。こうやって信秀は美濃の脅威をなんとか取り除きましたが、対美濃戦で得るものがなかったのは尾張国人衆の信秀への求心力を減じたぐらいは想像できるところです。そこで威信回復も狙って再び三河に目を向け、惨敗したのが第二次小豆坂合戦であったぐらいでしょうか。


織田信秀・地図から考える

私は愛知県と言っても観光旅行に行ったぐらいで、とくに三河となると地名が出てもどの辺に位置しているのかピンと来ません。そこで地図を作ってみます。

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赤線が鎌倉往還のつもりですが、鎌倉往還も基本は東海道のはずです。はずなんですが、東海道を基本にしているはずの国道1号線と微妙に外れる気がします。江戸期東海道

    岡崎 → 池鯉鮒 → 鳴海
こう進むのですが、鎌倉往還時代は「どうやら」なんですが、
    岡崎 → 安祥 → 池鯉鮒 → 沓掛 → 古鳴海
こうこうなっていたと見て良い気がします。そうでなかったら安祥城が織田・今川の争奪点にる理由がわからなくなります。また小豆坂もなんとも言えないところにあります。ここは2回に渡って織田・今川の両軍が決戦を行ったところですが、位置的には岡崎城の東南方向になりそうです。小豆坂合戦では織田軍は安祥城から矢作川を渡り、今川軍は丘の上に陣取っていたなっています。想像レベルですが、鎌倉往還は岡崎から矢作川に沿って少し南下してから渡河して安祥に進んでいたと考えています。小豆坂はその途中の地名で良いかと思いますが、この坂を越えれば岡崎城だったぐらいでしょうか。

信秀の勢力圏は安祥城を抑えることによって矢作川の西方を抑え込んだと見るようです。しかしこうやって見ると第一次小豆坂合戦の実在が疑われるのは良くわかります。もし実在していて信秀が快勝したのなら当然ですが次のターゲットは岡崎城になります。つうか小豆坂を戦ったのは岡崎城がターゲットであったとも言えるからです。しかし岡崎城は落ちていません。つうか第一次小豆坂合戦の後に岡崎城攻防戦があったと聞いたこともありません。そうなると信秀は第一次小豆坂合戦で快勝しながら岡崎城に手を付けず、やがて美濃に関心を向けてしまったことになります。

それと安祥城を失った大きさもよくわかります。安祥城を今川軍に奪われた結果、信秀勢力は沓掛まで後退を余儀なくされます。そういう状態で信秀は亡くなるってところです。


水野信元と刈谷城

刈谷城もかなり南寄りにあるのに驚きました。根拠はないのですが、あの地点に刈谷城があるってことは、そこから鎌倉往還への接続道があったはずです。さらには刈谷からは大高方面、知多半島方面への道も伸びていたと想像されます。この刈谷の城主水野信元ですが、勢力圏は刈谷から南の知多半島にあったようです。1544年に信秀が安祥城の攻略に成功したのを見て信元は信秀に付いています。これは地図を見ればわかりやすくて、安祥まで織田氏の勢力が及べば松平氏の保護を当てに出来なくなるぐらいでしょうか。

ところが1548年に織田軍が第二次小豆坂で敗れ、さらには1549年に安祥城を今川氏が奪回すると、今川軍が刈谷城に攻め寄せる事になります。この時に信長は水野氏援護のために村木砦の戦いを行います。これで今川軍の圧迫を退けたことで水野信元は織田氏陣営に留まったようです。いや留まっていないと桶狭間時の大高城の孤立が説明できなくなります。刈谷からは想像ですが、鎌倉往還にも大高城にも道が通じていたはずです。水野信元が刈谷で織田方であったから大高城への陸路の兵糧輸送が困難になったんじゃなかろうかです。

桶狭間時の信元の動向についてwikipediaより、

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いは、織田方が今川方の大高城などを兵糧攻めにしたことで、今川義元が救援にきた後詰め戦争である。この戦いの最中、信元がどこにいたか不明とはいえ、織田陣営の重要な一翼を担っていたことは疑いなく、緒川城にいたと考えるのが常識的であろう。この時期の緒川城や刈谷城は、対今川の最前線であった。また、戦場となった桶狭間は水野家の家臣・中山勝時の領地であり、中島砦を守ったのは梶川高秀、梶川一秀。丹下砦を守ったのは水野帯刀左衛門忠光であり、織田軍にあって一番首の手柄を取ったのは、水野清久(水野清重の息子)である。戦後、今川の将兵を快翁龍喜が弔っている。

う〜んてところです。水野氏が強固な織田方なら5/18夜に行われた松平元康による大高城の兵糧補給はどのルートから行われたんだろうかの疑問が出てきます。私は漠然と

    沓掛城 → 刈谷 → 大高城
こういうルートを考えていましたが、刈谷城が通れないのであれば
    沓掛城 → 桶狭間道 →(途中で南側に折れる)→ 大高城
こうなってしまいます。もう一つ刈谷城付近が水野氏のために通りにくかったので、わざわざ夜間行軍をやったとの見方もできますが、かなり大量の兵糧輸送のはずであり、それも夜間ですから松明などの明かり無しで行えたかどうかが疑問です。兵糧輸送部隊はとにかく襲われたら弱いですから、桶狭間道を通ったのかなぁ? やはり水野信元は微妙な態度を取っていた気がします。これもwikipediaより、

桶狭間合戦の勝利後、大高城にいた今川方の松平元康(のちの徳川家康。信元の甥)を落ち延びさせてやり、

桶狭間後に元康は

    大高城 → 刈谷 → 沓掛 → 池鯉鮒 → 安祥 → 岡崎
こんな感じで帰還したんじゃないかと推測しています。刈谷以降は地元ですから脇道を通ったかもしれませんが、とにかく刈谷を抜けて岡崎に帰ったと考えるのが妥当で、それを信元は協力しています。水野氏の一族が信長に従って桶狭間で戦ったのは事実ですが、信元自身は今川氏に密かに誼を通じていた可能性は十分にあるとみます。桶狭間合戦は水野氏に取っても存亡を賭けた一戦であり、どちらが勝っても水野氏が生き残るために天秤をかける手法は戦国期でもしばしば見られます。

つまり桶狭間合戦直前の信元は今川寄りの姿勢を見せ、その証として元康の大高城兵糧輸送を黙認したんじゃなかろうかです。桶狭間後に元康の帰還を許したのは水野勢だけでは抵抗が難しかったのと、今後の三河のパワーバランスがどうなるか不明だったので、今川勢力退潮後に三河の主役になる可能性がある元康に恩を売っておきたかったぐらいです。そんな微妙な元信が織田氏所属が明確になったのは、これまたwikipediaより

大高城に一門の水野元氏(高木清秀の舅)を入れる。今川方の岡部元信が反撃に転じて、刈谷城を攻略。水野信近は討死した。信元はただちに、信近の首級と刈谷城を取り戻す。この結果、緒川の信元が刈谷領を接収することになった。重原城も信元が奪取した。同年6月18日に、松平元康(徳川家康)が重原城に攻め寄せるも、これを撃退した。

元信も桶狭間の勝利の果実を手に入れようと動いたようです。元康が退却した後の大高城の占領です。ところが鳴海城に頑張っていた岡部元信に反撃され刈谷城を奪われてしまいます。奪還に成功したのはやはり信長の支持があったと見て良いかと思いますから、桶狭間後に今川氏と戦ったので自然に織田氏所属になり、織田氏に所属したので今度は元康から攻められたぐらいでしょうか。


信長登場

信秀の晩年の事績を見ていると家督を継いだ信長が苦労した理由がわかります。信長の「うつけ」キャラにも問題はあったと思いますが、先代の信秀のアラアラの尾張統一がネックになって信長に圧し掛かったぐらいです。信秀はその実力で尾張の旗頭になっていますが、これは信秀個人の力量と実績による求心力によるものです。たとえれば秀吉による天下統一みたいなもので、秀吉がいなくなれば豊臣家の求心力が急低下したのに似ています。とくに晩年の信秀は

  1. 多大な犠牲を払った対美濃戦は得るところもなく婚姻政策による和睦にするしかなくなった
  2. 美濃での失敗を取り返そうとした三河の小豆坂合戦では敗れたうえに、重要拠点の安祥城まで失い、これまた長年の成果をパーにした
信秀という重石がなくなれば起こるのは、信秀に代わる新たな旗頭の地位を争う時代になります。信長による尾張再統一は1559年の浮野の戦いまで続いたと見ています。この間の織田氏は積極的な外征は不可能になります。わずかに水野氏の窮地を救うための村木砦攻略ぐらいでしょうか。こういう内乱状態の織田氏に見切りをつけたのが山口氏で信長は笠寺・鳴海・大高・沓掛城を失います。このうち笠寺こそ奪い返したものの、尾張の南部に今川氏の楔が撃ち込まれた状態になります。

外交も信秀の遺産ともいえる美濃との友好関係を失います。これは史実と思っていますが蝮とまで怖れられた道三は娘婿の信長を非常に気に入られます。信長もそうであったようで、二人の間になんらかの信頼関係も出来ていた気配があります。それ自体は外交的に悪いはずもないのですが、美濃も後継争いが勃発します。後継争いというより親子戦争なのですが、信長は道三に加勢したために、後継者戦争に勝った義龍と対立関係になります。後はこれも調べてみて知ったのですが、今川氏の外交・侵略は鳴海方面だけではなかったようです。wikipeadiaより、

1555年(弘治元年)、今川方の松平広忠によって攻略され(蟹江七本槍)、その後も長島城主服部友貞の元、織田氏との対立の場となる。

蟹江城ってどこにあるんだですが、確認するとビックリするようなところに位置します。

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織田家の重要地点である津島の南側に位置します。こんなところに今川軍の拠点があれば大変だと思うのですが、蟹江城というか、ここより南部地帯は信長と対立関係にある服部氏の地盤であったようです。あんまり記録がないのですが、どうも服部氏は早くから今川氏に味方し、その見返りに今川氏の属領であった松平氏が駆り出され服部氏の勢力拡張のために働いたぐらいのようです。素直に見てこんなところに今川氏側の拠点があれば信長は嫌でしょうから、すぐさまにも奪還しそうなものですが、蟹江城はwikipediaより、

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いでは今川方として参加し、今川義元の討ち死により荷ノ上へ引き返す。永禄4年(1561年)に長島城代になるも、永禄8年(1565年)に不在の隙を突かれて織田氏の家臣・織田信興滝川一益の侵攻を受け敗北し自身の所領の市江島に鯏浦城を、立田輪中には小木江城をそれぞれ建築され、織田氏によって領地に楔を打ち込まれた形となった。

永禄11年(1568年)正月、北畠具教に年賀の挨拶をするために霧山城へと登城する最中に織田軍の刺客に囲まれ伊勢国米野の陰涼庵で自害に追い込まれた。なお、友貞の死後、服部党は長島一向一揆に参加している。

桶狭間の合戦後も服部氏は信長との抗争を続けているようですから、少なくとも桶狭間の合戦時も蟹江城は服部氏のものであったとして良さそうです。なぜに服部氏が強大であったかですが、どうも一向門徒であったからぐらいで良さそうな気がします。それと織田氏が信秀の代も含めて伊勢に進出しなかったのも服部氏の存在が大きかったのかもしれません。位置的に尾張から伊勢の入り口的なところにあり、服部氏を排除しないと伊勢への道が開かないぐらいです。

またこのあたりは今ではただの平地ですが、当時は入り組んだ川に点在するような島嶼地帯の様相もあり、強力な水軍を擁する服部を攻めるには戦力が足りないというか、苦手であったぐらいに思えます。服部氏の桶狭間合戦での活躍ぶりは信長公記にも、

河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元への手合わせとして、武者船千艘計り、海上は蛛の子をちらす如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り返し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅のところより下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人どもよせ付けて、棍と懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り候ひき。

ここも恥しい話ですが「河内」って書いてあったので、てっきり大阪湾からわざわざ遠征してきたのかと思ってましたが、そうではなくて服部氏の地盤を当時は河内と呼んでいたことがわかります。