あくまでも好意で評価は保留にします

幸福の科学と言っても選挙に出てくるぐらいしかしらないのですが、その出版される本の中に大川隆法氏が霊を降臨させて語った内容のシリーズがあるそうです。恐山のイタコの拡大・発展版みたいなものでしょうか。それを信者の方々が購入されて信じられるのは思想信条の自由ですから問題とはしない事にさせて頂きます。昔から「鰯の頭も信心から」とされており、それで信じられている方々が心の平安を得られるのなら一つの宗教行為と見れない事もないからです。この辺についての議論は様々にあるでしょうがあえて深入りは避けます。

ただtogetter内でカルトの定義について論争があったようなのでマイケル・シャーマーの定義を引用しておきます。

指導者に対する崇拝 聖人、あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。
指導者の無謬性 指導者は絶対に間違いを犯さないという確信。
指導者の知識の広さ 哲学的な事柄から日常の些細なことまで、指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受け入れる。
説得のテクニック 新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。
秘密の計画 信仰の真の目的と計画が曖昧としている、あるいは新規入信者や一般大衆にはそれらが明確に提示されていない。
欺瞞 入信者や信徒は、その頂点に立つ指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。
金融面および性的な利用 入信者や信徒は、その金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得され、指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。
絶対的な真理 さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極の知識に対する盲信。
絶対的な道徳観 指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。


これらの定義が幸福の科学にどれだけ当て嵌まっているか知る由もありませんし、当たっている部分が仮にあったとしても幸福の科学が反社会的な「破壊的カルト」であるかどうかについての確実な知見を持ちません。少なくともオウム真理教の様に具体的な反社会的活動と司法による断罪があったとは寡聞にして存じません。えらく口を濁していますが、幸福の科学は批判者に対して断固たる実際的行動及び法的措置を取るようで小市民させて頂きます。



佐々木氏にはツイッター上で批判が寄せられているのですが、いくつか発言を拾ってみます。

  • ジョブズ霊について語るのではありません(笑)。宗教とテクノロジの交差する可能性についてのトークをしたいのです。
  • 明日か明後日、今回の幸福の科学の林さんとのトークイベントの元になったメルマガの原稿をブログで公開するので、興味ある人はそれを読んでみてください。いま宗教って真面目に考えるべきテーマになってきてると思う。なお私は幸福の科学の信徒ではなく、宣伝塔などでもありません。
  • ギャラは教団から出てます。ただし企業主催などの場合よりかなり低い予算です。
  • 私は純粋に自分の興味と好奇心から出演するだけなので、それを教団側が宣伝に利用されるのは別に構わないと思います。 そんなのどんなイベントでも同じでしょう。

この辺から判るのは、佐々木氏が幸福の科学から有料ゲストとして招待された事です。これを受けた事自体が批判の対象にまずなっていますが、ここは私はセーフと見ます。なにせ今日のテーマは「好意」ですから、知的好奇心をギャラ付きで満たせる企画に同意されたぐらいの解釈です。佐々木氏の職業はジャーナリストですから、又聞きではなく現場に足を運んでの取材活動の一環とも評価は頑張れば可能だからです。次です、

  • そもそも新興宗教の教団というだけで、異常な反応をする人が多すぎるのはいまの時代のたいへん重要な問題だと思いますね。もっと宗教に対してフラットに考えた方がいいと思う。
  • 現在の幸福の科学はカルトではないと思いますよ。またカルトの定義も国や時代によって変わるし、教団の形態も変化します。世界宗教だって原始段階ではだいたいカルトです。

これは考え方の相違と思います。宗教論はあんまりやりたくないのですが、まず宗教とはなんぞやになります。これは突き詰めて言えば、

    神を信じること
これに尽きると考えています。キリスト教ならキリスト(三位一体説で)、イスラム教ならアラーですが、浄土真宗なら阿弥陀で、神道なら八百万の神々になります。ではその神に何を望むかです。
    御利益♪
えらく俗っぽい表現ですが、種々雑多な御利益を神に願います。この種々雑多なレベルで栄えているのが日本の神社宗教(えべっさん)とかですが、これを深遠かつ哲学的に煮詰め上げると
    心の平安
キリスト教的な表現なら「魂の救済」でしょうし、仏教なら「悟りを開く」ぐらいに該当するぐらいで良いでしょうか。そういう御利益をもたらすのは誰かと言えば神です。信心するとは具体的には、
    神から御利益を受ける交換条件
祈りだとか、修行だとか、寄進だとか、戒律だとかになるぐらいの理解で良いかと思っています。現世御利益とか個人的な心の平安を求める代償がお賽銭とか、お札とか、お守り程度の交換条件なら平和なものですが、この交換条件が極端に高価なものとか、国家ごと交換条件にするために具体的な行動を起こすのがカルトぐらいに私は理解しています。境目は曖昧な部分が多いと言うか、グレーゾーンがいっぱいありますが、踏み込んではいけない一線はあり、カルトでなくとも政教分離の考え方が定着したぐらいに考えています。

オウム真理教でさえも、たいはんの信徒は真面目で善良な人たちであり、犯罪に走ったのはごく一部だったことを思いだした方がいいと思う。森達也さんの映画「A」「A2」にも描かれているように。

ここも定義問題になってくると思います。カルト教団の信者の大半が凶行に走るようなら、それは教団ですらなく暴力集団になります。それとオウムで犯行に走った人々は他の「真面目で善良な人」とは異質の方々だったのでしょうか。カルトの問題は「真面目で善良な人」を犯行に投じてしまう点だと私は考えています。言ってみればオウムで犯行に手を染めた方々もまた「真面目で善良な人」じゃなかろうかです。彼らが犯行に至ったのはカルトの教義では「善行」と固く信じさせらていたからと思っています。意見の相違が確実にあるようです。


それでもこの辺までも「好意」の前提では問題とは思わない事にします。ただ殺到する批判ツイートに佐々木氏が熱くなられてきた部分が出てきます。ここをどう解釈するかはチト問題です。

  • これまでの社会の常識が根底からひっくり返り、すべてを再定義していかなければいかない段階に来ていると思う。だから「宗教怖い」みたいな昭和の常識ももう終わり。もう一度私たちの間で「宗教って何なんだろう」「必要なんだろうか」ということを考えるべき時に来ていると思います。
  • 自然の中での信仰心……そこがすごい重要なポイントだと私も思います。たとえば「パワースポットブーム」なんて明らかに宗教感覚なわけで。これを既存の宗教団体が拾えてない。
  • けっこう日常的に「(霊が)見える」とか「気がいい」とかパワースポットとか言ってる人は多いのに、その同じ人が「宗教怖い」って言ってたりするのは、なにか非常な矛盾がありますよね。この矛盾の根っこには、オウム真理教統一教会などのカルト的宗教団体への恐怖の刷り込みがあると思う。
  • 私も最近思いますよ。「超越的な何かに託せる安心感って確実にあると思いますし、あったほうがよいのではと感じてます」

佐々木氏がどういう宗教観をもたれようと自由ですが、この部分については取材報告を聞くまで強引に「保留」とさせて頂きます。どうにも佐々木氏が考えていると言うか、望まれている宗教は私が思い抱くものとかなり違う感じがするからです。感想としては「危ないなぁ」です。