前回に川中島の話を書いた時に東の4強(謙信、信玄、氏康、義元)の関係の理解が少々怪しい事に気が付きました。地味ですが私の知識整理にお付き合い下されば幸いです。東の4強の動きも結構複雑なのですが軍事同盟を軸に整理してみようと思います。
これは古いはずです。伝説の英雄早雲は今川家の継承紛争に関与したのはまず間違い無く、これにより擁立した氏親と個人的にも信頼関係が構築されていたと考えて良いかと見ます。この今川家との信頼関係を基盤に伊豆の堀越御所襲撃が成立したとしてもまた良いかと思っています。伊豆を制した早雲が小田原城を奪取し、さらに東相模の三浦氏と争っている時にも揺るぎない物として存在していたと考えて良いでしょう。早雲の活躍は背後の今川が磐石との戦略の上に展開されていた部分は決して少ないはずです。氏親にしても早雲が伊豆から相模に勢力を伸ばしてくれれば東側は安心ですから、西の遠江に勢力を伸ばせると言うところでしょうか。
この同盟関係ですが、成立時の力関係からして「今川 > 北条」であろう事は判ります。早雲が西相模を制する頃には力関係は近づき、さらに東相模の三浦氏を滅ぼした頃には実力的にはもっと近づいていると思いますが、今川にすれば「力を貸してやった」、早雲にすれば「貸してもらった」で良いと思います。ただ氏親・早雲の関係はこれ以外に氏親擁立時の恩義関係もありますし、個人的な信頼関係もありますから同盟の両国の力関係についてはそんなに問題化しなかったと思っています。
ただこの微妙な力関係は代替わりした時に噴出した気がします。先に亡くなったのは早雲で1519年に死亡し氏綱が後を継ぎます。氏親はこれに遅れること7年で1526年に死亡です。北条は氏綱がすんなり継いでいるのですが、問題は今川です。氏輝が継いだものの1536年に死亡。その後に継承者争い(花倉の乱)が起き勝ったのは義元になります。
義元の相続にはチトきな臭いところがあります。氏輝には子どもが無く、当時の継承権は弟の彦五郎にありました。この二人が相次いで急死し義元に相続権が回って来たと言うものです。真相は不明ですが「何かある」は誰でも抱ける展開です。この疑惑が火を噴いたのが義元の異母兄である玄広恵探を立てての花倉の乱になります。結構な勢力になっていたようで、最終的に義元は氏綱の力も借りて勝利したぐらいの理解で良い気がします。
今回調べてみて初めて確認出来たのですが、今川氏輝の時代は遠江まで進出したものの三河の松平氏(清康の時代かな?)は手強く、氏輝は北の甲斐に手を伸ばそうとした「らしい」様です。当時の甲斐は武田信虎による統一事業が進んでいたはずです。ただ統一事業と言うのは反対派・抵抗派がおり、駿河国境に近いそういう勢力は劣勢になると今川に助力を求めるのは自然の流れです。そういう事情からの国境紛争が無視できない状態になったのかもしれません。この時は北条からの援軍もあり駿河・相模同盟は健在です。
氏輝の後を継いだ義元は甲斐作戦を継承せず、1537年に駿河・甲斐同盟を結んでいます。たぶん信虎の統一事業が進み、甲斐に攻め込んでも得るものは少ないの判断でしょうか。後の信虎の動きも考え合わせると、信虎も甲斐の統一のために国境付近で今川と争っても今川と全面戦争するのは避けたかった様です。対武田強硬路線の氏輝が亡くなった時点で両国の和睦気分が盛り上がったのかもしれません。義元もたぶん甲斐より西の三河方面への進出の方がメリットが高いと判断したのかもしれません。
この義元の外交政策に反発したのが北条氏綱です。wikipediaには、
甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買ってしまい、天文5年(1536年)に北条軍が駿河国富士郡吉原に侵攻する(第一次河東一乱)。
これが実は良く分からないところです。利害関係を考えると信虎によって統一された甲斐のパワーが西の信濃に向かえば氏綱にとっても悪い話ではないはずだからです。氏綱が今川との同盟関係を破棄したのは武田とも境界線争いを行っていたのに「今川が裏切った」からともされていますが、駿河・相模同盟のメリットを捨てるほどのものかと言うところです。この第1次河東一乱の経緯を見ていると、どうもなんですが氏綱はある時期から駿河に強い関心を抱いていたと取れそうです。wikipediaより、
北条家当主の氏綱は、2月下旬に駿河へ侵攻する。義元は軍勢を出して氏綱の軍勢を退けようとしたが、氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠した。氏綱は、今川家の継承権争いで義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(氏綱娘が堀越貞基室)、井伊氏等と手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまい、信虎は義元に援軍を送ったものの河東から北条軍を取り除くことは出来なかった。
読めば判るように氏綱の作戦はかなり準備されてのものと考えるのが妥当そうです。当時の氏綱は扇谷上杉氏を攻め立てることにより関東に勢力を拡大していましたが、扇谷上杉氏は山内上杉氏と結びこれに対抗。関東の戦況は一進一退状態でした。そこで花倉の乱で混乱している上に義元がまだ18歳である事に付け込んで駿河進攻を考えたんじゃなかろうかです。
つうのも氏綱の駿河進攻は義元が家督を継いだ翌年です。ここから考えると義元が駿河・甲斐同盟を結んだのは氏綱の野望に対抗するものと考える線が出てきます。北条に加えて北の武田まで駿河に攻め込まれては敵わないの計算です。私の解釈として
これなら話がわかりやすくなります。ここももう少し考えると花倉の乱で氏綱は義元に協力していますが、経緯として反義元勢力と天秤をかけた時期があったんじゃなかろうかです。その氏綱の動きに義元が不審を感じ、氏綱牽制カードとして武田を取り込もうとしたぐらいです。武田と今川が組んで北条に対抗される構図は駿河を狙う氏綱にとって嬉しいものではなく、準備していた遠江カードを切って一挙に進攻した構図です。これは氏綱が花倉の乱で義元を後援するのと同時に反義元派を取り込んでいないと出来ない芸当です。挟撃の上に花倉の乱で求心力に問題を抱えていた義元は武田の援軍を得ても苦戦状態に陥ります。
この状況に変化が生じたのは1541年の氏綱の死です。後継は氏康ですが、この時に義元は動きます。関東の反北条勢力である山内上杉らと同盟し北条を挟撃するような体制を整えます。関東の反北条勢力は大同団結の様相を呈し今度は氏康は苦戦状態に陥ります。これを脱するために東駿河を義元に譲る新たな駿河・相模同盟を結ぶ事になります。挟撃状態から脱した氏康は関東で攻勢に転じ、1546年の河越城の夜襲で山内上杉軍を大破して息を吹き返す事になります。この時に仲介者となったのが信玄となっています。
そうそう1541年には武田家にも大事件が勃発しています。信玄による信虎の駿河への追放です。義元はこれに手を貸す事により武田家との同盟をより強固にしたとして良いかと思います。そりゃ追放と言っても、見方を変えれば当主の実父を人質に取っている様なものだからです。
1546年に駿河を軸に同盟関係が再構築された結果、
氏康も信玄も後方の安全が確保されたので北上した結果、謙信と接触する事になります。この謙信ですが後継に伴う混乱から越後を掌握したのが1551年(坂戸城の後)として良いと考えられます。敗将の上杉憲政、村上義清を受け入れてこの2つの作戦を強力に展開する事になります。氏康も謙信も戦国屈指の名将ですが、謙信はこれさえ上回るところがあります。とにかく合戦になると無類の強さを示します。越後の上杉(以後は謙信の家を上杉家とします)たった一つに氏康も信玄も手一杯になります。謙信は1552年にさっそく憲政を立てて上州に出兵。1553年には第一次川中島を戦っています。越後の謙信に対し共同戦線が必要になった氏康と信玄は1554年に駿河・相模・甲斐同盟を結ぶ事になります。上州戦線は複雑で、私も整理が付かないところがあるのですが、1552年に謙信が一旦支配しますが、1555年頃には氏康がほぼ奪還したとはなっています。その後も一進一退の攻防があったようですが、1559年頃には氏康は上州支配をかなり固めたともなっています。一方で西上野に信玄がその頃に侵入したなんて記録もあり錯綜しています。とにかく上杉、北条、武田の三勢力が激しく争ったのだけは判ります。
戦えば必ず勝つ謙信が勝ちきれなかった理由も単純そうで、
- 戦術的には圧勝するが、戦略的に冬は越後に閉じ込められる不利
- 北条・武田の二正面作戦のため、相手を追い詰めるまで勝てなかった
- こんな状況で上洛し将軍に謁見する悠長さ
年 | 事柄 | 同盟関係 | |
1492 | 北条早雲、堀越御所襲撃 | 第一次駿河・相模同盟 | * |
1519 | 早雲死す、氏綱相続 | ||
1526 | 今川氏親死す、氏輝相続 | ||
1536 | ・氏輝死す、義元相続 ・義元、武田信虎に接近 |
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1537 | 氏綱、駿河に進攻 | 第一次駿河・相模同盟破綻 | 駿河・甲斐同盟 |
1541 | ・氏綱死す、氏康相続 ・信玄、信虎を駿河に追放 |
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1546 | ・義元、山内上杉と同盟 ・苦境に立った氏康は駿河を譲り同盟 |
第二次駿河・相模同盟 | |
1549 | 義元、三河を支配に置く | ||
1551 | 謙信、越後を掌握 | ||
1551 | 氏綱、上杉憲政の平井城攻略 | ||
1552 | ・憲政、越後に亡命 ・謙信、上野に出兵 |
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1553 | ・信玄、村上義清の葛尾城攻略 ・謙信、第一次川中島 |
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1554 | 武田、北条が対謙信戦のため接近 | 三国同盟成立 |
こうやって見ると信玄の信濃進攻は1541年に信虎を駿河に追放してからですから、葛尾城攻略まで12年間になります。氏康は1546年に第二次の駿河・相模同盟を結んでから5年で上野の平井城を陥落させています。一方の義元は3年で三河を支配下に置いています。信玄、氏康が伸びていった先に謙信がおり、そこから泥沼状態に陥ったのに対し、義元は三河から尾張に手を伸ばす事になります。尾張に手を伸ばした義元でしたが、ここには織田信秀が頑張っています。義元も信秀には苦戦(小豆坂合戦とか)していますが、信秀は1551年に死亡し信長が相続します。
ここまで書いたところで駿河・甲斐同盟がえらい強固であることの情報がもう少し欲しくなりました。武田信虎は1520年頃に甲斐を掌握したとして良さそうです。甲斐掌握後の信虎は対外進出に熱心で、南の今川との国境線争い、信濃への進攻、さらには関東にも出兵しています。ただどれもさほどの成果は得られていない様です。この辺は統一したての国内への求心力に外征を利用している計算もあるのかもしれません。花倉の乱の後に国境線争いで対立関係にあった今川氏と急転直下の同盟を結ぶのですがwikipediaには、
翌天文5年(1536年)には、駿河国で今川氏輝死後に発生した花倉の乱で善徳寺承芳(後の今川義元)を支援したことにより今川氏との関係は好転する。
信虎も義元を支援したようです。これを契機に同盟となったのは判るのですが、北条との関係はどうだったんだろうです。北条は翌年には駿河に進攻しますからやはり氏綱も信虎に声をかけていたは想像したいところです。氏綱は遠江の豪族の抱きこみ戦略を行っていますから、信虎の抱きこみ政策をやっていたとしても不思議ありません。信虎抱き込みの条件は駿河の東西分割ぐらいでしょうか。義元が信虎に出した条件もあるはずですが、これも想像すると武田の信濃進攻の容認とか後方支援みたいなものでしょうか。
実利からすれば氏綱の条件の方が現実的ですが信虎は今川を選びます。何故だろうと言うところですが、信虎も北条を警戒したぐらいが考えられます。氏綱の誘いに乗って西駿河を占領した後の計算でしょうか。当然次の段階は武田単独で北条と駿河で争う事になりますが、到底勝てそうに無いてなところです。それならば今川と結んで北条に対抗する方が良いぐらいです。
信虎に北条と今川の衝突が見えていたとしたら、義元の提案する信濃進攻条件はかなり具体的なものになります。北条と今川が争えば今川に北進する余力が失われます。今川が北進できなければ武田の信濃侵入を邪魔する勢力がいなくなります。そこまで信虎が計算していたかどうかは歴史の彼方ですが、結果的にはそうなります。武田は今川を支援して北条と争うことにより南の安全を確保したからです。
駿河での今川と北条の衝突は1544年の再同盟まで続きますが、1541年に信虎を追放して家督を奪った信玄はそれまでに難敵の諏訪氏を滅ぼし併呑しています。また今川と北条の再同盟の際に仲介役として信玄は活躍していますが、両家の確執も肌で知った可能性も考えています。つまり駿河・相模同盟が結ばれても氏康と義元は決して本気で手を組まないであろうの感触です。
とくに義元が北条を警戒している限り今川の北進はありません。武田は今川にとって駿河・相模再同盟後も北条牽制の大事なカードであり、そういう状況が続く限り安心して信濃へ勢力を拡大できるです。信玄外交の基本はそこにあった気がしています。
今川、北条、武田の同盟ですが、外交的主導権を取っていたのは義元の様にも見えます。三国の進攻方向をもう一度確認しておくと、
あくまでも見ようなんですが義元は北条・武田に進みたい方向に進ませ、後方の脅威にならない事で主導権を取っていた感じでしょうか。しかし私は義元がそうは考えていなかった気がしています。桶狭間までの見方を変えた年数表を出してみます。年 | 事柄 | 桶狭間まで | 義元年齢 |
1549 | 三河を支配下に置く | 11年間 | 30 |
1551 | 織田信秀死亡 | 9年間 | 32 |
1554 | 三国同盟成立 | 6年間 | 35 |
1556 | 斎藤道三戦死 | 4年間 | 37 |
織田信秀は強敵でしたが、その死後9年間も待っています。信長は道三の女婿である事の同盟関係を重視しても4年間です。この義元の動きについて信長中心の歴史小説では「義元が遊んでいた」ぐらいの理由をつけ、1560年になってようやく腰を上げたぐらいの「どうでも良さそうな」解釈にしています。でもこれは違うの感触を今回の知識整理で得ています。三国同盟を義元から見ると主題は、
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北条の脅威
東駿河を奪還し、相模との同盟を結んだと言っても、これは義元の外交手腕に氏康が屈した形です。もともとを言い出せばキリが無いのですが、氏康にすれば父の氏綱が義元から奪っていた領土を譲ったわけですから内心は非常に不満である事は確実です。氏康の戦略思考の中にこの屈辱をいつの日か晴らし、再びの駿河進出の意図があると義元が考えても何の不思議もありません。
義元から見れば北条は東駿河こそ義元に譲ったものの、関東ではそれ以上の勢力拡大を果たしています。氏綱時代よりさらに強大になっているの観測です。氏綱時代でも北条は関東と駿河の二正面作戦は可能でしたし、二正面作戦の北条を今川は武力で勝つ事が出来ていません。この力関係は氏康時代でも基本的に大きく変わらないです。ましてや関東を制して余力が出来れば駿河への圧力はさらに強くなり脅威となります。
義元が甲斐の武田との関係を重視したのは北条対策とするのが妥当でしょう。とりあえず武田と北条が手を組まれると今川は非常な危機に陥るです。これは絶対させてはならない事です。信玄の信虎追放に積極的に加担したのはそのためだと見ています。
義元も尾張進攻を当然考えていたと思いますが、下手に動くと家督相続直後の氏綱作戦の再現をかなり憂慮していたと見ます。氏綱の時は遠江勢力を抱き込んでの挟撃作戦でしたが、氏康がやるとすれば尾張の織田と組んでの挟撃作戦です。義元は織田ならこの挟撃作戦に容易に乗ると見ていた可能性があります。織田は単独では今川には対抗できませんから、駿河に北条が進攻してくれたら願ったり、叶ったりだからです。別に織田と北条が直接手を組まなくても、今川が尾張に進攻した頃を見計らって駿河に攻め込まれただけでも対応に苦慮させられます。武田カード1枚では牽制には不十分と言うところでしょうか。
武田は対上杉戦を抱えており「いつでも」援軍に来てくれる訳でもありません。武田と上杉が川中島をやっている時は北条の手に余力が生じますから、義元はうかうかと駿河を留守に出来ないぐらいの戦略感覚です。義元が尾張に進攻できる条件は、
- 氏康が関東で釘付け状態になる
- 短期間で尾張を制圧する
謙信は1560年3月(旧暦です)に越中戦を行った後に5月に三国峠を越えて上野に展開します。義元の尾張攻め、つまり桶狭間も5月です。これは偶然ではなく、謙信の動きに合わせて義元が動いたと考えるべきと考えています。謙信が関東に頑張る限り氏康は駿河に絶対に進めないの戦略判断です。
桶狭間は義元戦死、今川惨敗になるのが史実ですが、もし義元が勝っていたらどうだったかです。義元の戦略は勢力圏に尾張を組み入れることにより、北条との二正面作戦が可能になると考えていたんじゃないでしょうか。今川がそこまで力をつければ氏康も駿河に手を出せなくなるの計算です。義元が勝っていたら、歴史は義元に微笑んだ気さえします。謙信の関東進攻は1560年から1561年まで続けられ、氏康は本拠地の小田原城まで一時包囲される苦戦を強いられます。つまりは義元が尾張を固める時間が十分にあったと言う事です。
もう一つの歴史の「if」を考えています。謙信がいなかったらどうだったかです。謙信が登場するのは武田や北条が勢力圏を越後に接触する寸前です。信玄や氏綱にすれば突然現れた怪物みたいな感じでしょうか。個人的には謙信がいなければ武田はそのまま越後に進攻して勢力を拡大するでしょうし、氏康は東関東の制圧に傾注するかと見ます。武田が越後を、北条が関東を制した後は、両家とも駿河を目指した可能性はあるかもしれません。対駿河を目的とした相模・甲斐同盟です。
つうか対謙信戦で北条も武田も行き詰ればやがて駿河に向かう懸念です。そこに織田も巻き込む三国同盟になっているかもしれません。同じような事を義元は氏康に対し以前にやっており、氏康が意趣返しで同じ戦略を使う悪夢を見ていたのかもしれません。来週は桶狭間後の展開を調べなおしてみたいと思います。