日曜閑話62

今日のお題は「もう一度川中島」です。川中島日曜閑話23で2009年に一度やりましたが、この時のコメ欄の議論も踏まえての「もう一度」です。それと先週は本業多忙でこれを書くだけで精一杯で、休載にさせて頂いた事をお詫びさせて頂きます。いよいよインフルエンザ接種が始まり、ブログを書く余力が殆んどありません。来週以降も似たような状況が続くと思いますから御容赦頂きたいと思います。


両雄の基本的なやる気度

歴史小説などではストーリーの都合もあって謙信のやる気度の方が高そうに描いているものが多い気がしています。謙信のやる気度に呼応するような形で信玄もやる気度を高めて運命の決戦に両雄が臨むみたいな展開でしょうか。前回の時も解説した様に川中島合戦は有名な割りには実は詳細が不明の合戦であり、歴史小説通りかもしれませんが、史実や当時の状況を考えると逆の気がしています。

まず信玄ですが最後の上洛戦を行う頃の「無敵武田軍」の印象が強いですが、川中島合戦の頃はまだ違うと考えます。武田は南の今川、東の北条に比べかなりの弱国であり、事実上、南にも東にも勢力を拡張できる状態ではありません。版図を広げ勢力を拡張できるのは西の信濃だけであり、史実もそうなっています。この武田の勢力が北信濃に及んで越後の上杉勢力と接触したわけです。

もちろん謙信率いる上杉軍は強力ですが、信玄がさらに版図を広げ勢力を拡張するには川中島を含む善光寺平を制し、越後に進出するしかありません。だから何とか川中島で上杉軍を撃破したいの意向は強いと考えます。

一方の謙信ですが、信玄の意図はそれなりに読んでいたとは思いますが、謙信が執着したのは信濃ではなく明らかに関東です。上杉の名跡を継いだ事と関東管領であることを強く強く謙信が意識していたのは史実として良いでしょう。そのためか謙信には珍しく川中島ではかなり戦略的行動が目立つような気がします。たいした戦略ではないのですが、庇護を求めてきた信濃系豪族のバックアップが中心となり、関東の北条戦ほど武田との勝負の決着に執着していない印象があります。

これは謙信とて北信濃に進出してきた武田勢力を軽視したり、無視したりしている訳ではないにしろ、川中島ではあまり損害を出したくないの意識があったんじゃなかろうかです。川中島で大きな人的損害を出せば、肝心の関東進出に影響するぐらいの考え方です。川中島と言うか善光寺平は武力的均衡ぐらいで必要にして十分ぐらいの戦略です。


桶狭間の影響はある気がします

東の4強とも言える上杉、武田、北条、今川の関係を大雑把に言うと、基本は武田・北条・今川の三国同盟があります。三国同盟の目的は、

  1. 北条は関東に執着する上杉戦に専念したい
  2. 今川は北条が西に向かわなければ自分が西に向かいたい
  3. 武田は信濃攻略に専念したい
結果として
  1. 北条は上杉と互角に渡りあえた
  2. 今川は遠江三河と版図を広げ、尾張に手を伸ばせる様になった
  3. 武田は北信濃まで勢力を拡張した
ここで桶狭間が起こります。川中島の1年前です。桶狭間の結果は御存知の通り、今川軍は大敗しただけでなく義元まで戦死し、氏真が後を継ぐ事になります。この氏真の器量も良く御存知の通り、義元に較べると数段ぐらいでないぐらい落ちます。北条はそれでも今川が東に向かってくれなければ同盟の価値は十分ですが、信玄は全然違う事を考えたのだと思います。これまで信濃に伸びる北進政策しかなかったのが、南への道が開かれたぐらいです。

北進政策は上杉勢力との接触以来、正直なところ伸び悩んでおり、なおかつ謙信率いる上杉軍は容易な相手ではありません。他に伸びるところがなかったので北進政策を継続していましたが、南に進めるのなら執着する必要性はなくなります。なんとなくですが、この時に初めて信玄は天下取りの野望を持った気がします。南の今川を併呑すれば義元同様に東海道を西に進み、やがては京都に旗を立てられるです。

そうなると外交戦略も変わります。

  1. 対上杉戦は無駄
  2. 上杉はむしろ関東に専念してもらい北条の牽制勢力として頑張って欲しい
武田が今川に手を出せば北条が動くのを当然予想しておかないといけませんから、その北条を北から上杉が牽制してくれる方が有り難いです。そういう状態になれば武田が今川を美味しく併呑し、義元が失敗した「上洛戦」を信玄が再現しようです。この時に問題なのは上杉への対応です。上杉にしても謙信自身は関東の方に執着しています。そのため今回の川中島では両家の境界線をキッチリ定めた本気の講和条約を結びたいぐらいでしょうか。ただ下手にでればこういう交渉は難しくなりますから、
    程よく戦って、程よく勝つ
これぐらいの状態で結べたら理想ぐらいでしょうか。つまり「武田強し」を印象付けながらの講和です。これは上杉家への交渉材料だけでなく、信濃系豪族へのデモンストレーションにもなります。


謙信もまた桶狭間情報を知っていたとするのが自然です。さらに桶狭間の結果、信玄が南進政策に切り替える公算が高い可能性も読んでいた気がします。そうしてくれれば謙信も宿願の関東進出により専念できるわけですから戦略的には歓迎のはずですが、謙信もまた

    程よく戦って、程よく勝つ
この状態での講和締結を考えたと思っています。川中島はそれまでの抗争の結果、犀川を境界として両家の勢力圏を分ける状態でしたが、謙信からすればこの状態の凍結は不満で、川中島を取り込んだ形の講和条約を望んだぐらいでしょうか。川中島を含む善光寺平の地形は盆地状ですが、南側は千曲川が流れる狭い地形になっています。ここまで武田を押し込んだ状態で講和条約を締結したいです。上杉も北信濃防衛線にかなりの精力を注いでいましたから、それぐらいは奪回して「上杉強し」をアピールしたかったがありそうに思っています。

こういう両者の思惑をもって川中島に両軍は進んだ可能性を考えます。


合戦の展開の前提

私はロマン派ですから、可能な限り伝説の川中島合戦の軍記をたどりたいと思います。つまりと言うほどではありませんが、

  1. 謙信は妻女山に登る
  2. 信玄は茶臼山に登る
  3. 信玄は茶臼山から海津城に移動する
  4. 信玄は啄木鳥戦法を行う
  5. 信玄は八幡原に陣を敷く
  6. 女山を下りた謙信は信玄と激戦となる
この基本は前提とします。とくに茶臼山はかなり疑問視されているとも言われていますが、それでも「あった」の前提です。疑問視なんて言い始めると啄木鳥戦法はもちろんですが、謙信の妻女山まで疑問符がつくのが川中島合戦です。そうそう兵力も良く判らないですが、wikipediaにある武田2万、上杉1万8千(うち妻女山に登ったのが1万3千)の前提にします。


女山

川中島合戦の最大の謎は何故に謙信が妻女山に陣を敷いたかです。この理由が判らないために、歴史小説家も苦労しています。戦術的にはどう見ても拙いからです。そのために多くは

    自らを死地に置き、信玄と決戦を誘った
決戦は両雄とも望んでいないのは上記した通りです。あくまでも「程よく戦って、程よく勝ちたい」です。謙信は勢力境界線を南に押し下げたいのですが、具体的にはこんな構想ではなかったかと考えます。
女山は東にある海津城の圧迫・牽制のためは最低限の戦術目的として語られますが、西側のためにもそうであったと見ます。新境界線を守るためにも都合の良い位置じゃないかです。川中島奪取のためには西側の境界線で信玄主力を食い止めるだけではなく、海津城の動きも封じ込めこれを奪取しないと完成しません。この海津城がどうやら簡単には攻め落とせないのは前提としてあったようで、謙信としては、
  1. 海津城封じ込め作戦
  2. 武田主力軍北上阻止作戦
この2つの作戦を同時に行なう必要があると判断したと考えます。そのためには2つの作戦を同時に見渡せる妻女山進出が有効な戦術と判断したと考えます。ちょうど中間点ぐらいに妻女山は位置します。ここに本陣を置けば2つの作戦の状況が常に観察できる上に、適宜増援部隊を送る事が容易になるぐらいでしょうか。狙いは武田主力軍を新境界線で膠着状態に追い込み、そのまま講和に持ち込むです。海津城は講和条件として平和開城させるぐらいでしょうか。

この妻女山の謙信陣の様子ですが「川中島謙信陳捕ノ図」と言う絵図が残されており、

この絵図は江戸時代に描かれたもので、信憑性についてはどうかの意見はかなりあります。ただ明治期ぐらいでも野戦築城の痕跡が妻女山にあったとの情報もあるにはあるようです。また絵図の地形は実際の地形と照らし合わせてもそんなに無理はないそうです。なんとも言えないところはあるにせよ、荒唐無稽として否定するには「どうか」ぐらいの価値は認めても良いかもしれません。

でもってある程度信じれば、妻女山陣地は斎場山を中心にはしていますが、主要部はむしろ西側の薬師山方向に展開しています。あくまでも見ようですが、笹崎から谷街道方面への押し出しに便利のように作られている感じがします。もちろん妻女山から川中島への入口が雨宮の渡が中心だったと考えれば不思議はないのですが、取り様によってはさらに西方の新境界ラインの攻防を重視した布陣とも言えない事はないぐらいです。


当時の海津城の規模は不明ですが、かなりの規模であったと推測します。それと当時の川中島及び周辺の山々は幾多の前進拠点としての城砦が築かれていたのも確認されています。その中でも海津城は武田方の北信濃の最重要戦略拠点であったのは間違いありません。また謙信と信玄の本拠地からの距離を考えると、謙信からの急襲を受ける危険性があり、なおかつ信玄の本隊が到着するまで支える必要性があります。そうなると常時2千とか3千ぐらいの兵力はいたと考えてもおかしくありません。

川中島合戦は詳細がとにかく不明なのですが、ある説によると謙信来襲の一報が入ると、主に北信濃だと推測しますが信濃の武田系豪族が詰めかける手はずにもなっていたようです。ですから川中島合戦時には5千ぐらいはいたと考えても良い気がします。もう少し言えば、合戦時に信玄本隊が入城しているぐらいですから、これを受け入れられる規模があったとも言えます。

軍記では妻女山に登った謙信は信玄来襲を待っていただけに描かれていますが、実はそうではなく、

  1. 川中島内の武田方前進拠点の掃蕩
  2. 海津城からの攻撃に備えた防衛線の構築
  3. 北上する武田軍に対する新構想ラインの防衛線の構築
これらが行われていた事になります。どこにもそういう記録が残されていないのは、これらの動きは完全に無駄になり、謙信の失敗となってしまうために伏せられてしまった気がします。


信玄の反応

「謙信、妻女山に登る」の方はいち早く伝えられたと思います。さらに妻女山の西側の陣地構築の様子も伝えられたとして良いでしょう。さてどうするかです。あくまでも想像ですが、

    そこまでは譲るわけにはいかない
謙信作戦を認めては武田劣勢の講和条約になってしまいます。それも少々どころか、大幅に譲歩してのものです。とはいえ普通に千曲川沿いを北上しても相手は謙信ですから、これを正面突破するのは損害が多いだけではなく困難とも見たと思います。進めば謙信の注文に嵌るだけだぐらいでしょうか。信玄も謙信作戦の弱点を考えたと思いますが、謙信作戦の弱点はやはり海津城にあると見たんじゃないでしょうか。

海津城には有力な武田軍が存在し、謙信はこれを質駒状態にしています。これをこちらから有効活用できるようになれば謙信作戦は弱体化するです。そういう視点で考えると、謙信作戦は妻女山を中心に東の海津城と、西の防衛線に広がっていますが、後方は手薄です。善光寺に後詰部隊はいますが、これは余ほどの事がない限り動きませんから、この裏手に進出できれば謙信作戦は一挙に崩壊してしまう上に、謙信を妻女山に雪隠詰めに出来るぐらいです。

そのために思いついたのが茶臼山進出ではなかったかと推測します。大雑把な地図ですが、

伝承では猿ヶ馬場峠を越えたとなっていますが、そこから犀川上流に出、そこから川沿いに進み茶臼山に進出したと考えます。


謙信の驚き

軍記では「あれも計算通り」と余裕を見せたとなっていますが、実際はビックリ仰天と言うか「裏をかかれた」の思いだった気がします。茶臼山に信玄主力軍が陣取れば、謙信構想は瓦解します。川中島や妻女山西側に展開した部隊を急いで撤収させたと思います。漫然と展開させたままなら、茶臼山から攻め寄せられると各個撃破で大損害を受けるだけだからです。

同時に信玄の茶臼山進出は妻女山の上杉軍の兵站線の途絶も意味します。軍記であっても配下の武将が動揺したとありますが、謙信だって動揺したと思います。その動揺を臣下に見せず、求心力を保った点は謙信の名将たる所以ですが、形としては完全に雪隠詰めです。強引に北に帰ろうとすれば、茶臼山から信玄が必ず出撃してきますし、その信玄軍と戦っているうちに海津城からも必ず攻撃があります。普通に帰ろうとすればかなりの損害は必至の上に、「謙信、敗れたり」の評判が必ず立ちます。

この後の謙信は打開の道をひたすら摸索しながら妻女山から動けなくなったとして良い気がします。


茶臼山の信玄

戦術的な勝利を収めた信玄ですが、「雪隠詰めは拙い」の思いが出たんじゃないかと考えています。茶臼山に居る限り妻女山の謙信は手も足も出ませんが、逆に手も足も出ないがために捨て鉢の決戦と言うか、損害を省みない退却作戦を行うしか選択が残されていません。その時に信玄の本音としては、何もせずに謙信に引き上げさせても戦略的には全く構わないのですが、戦術的に「信玄は謙信を怖がって手も出さなかった」とされるのは嬉しくないです。

では決戦を行なうかになりますが、やれば海津城の出撃カードがあるので負ける事は無いにしろ、孫子の言う「帰師、阻むべからず」の体制でで迎え撃つ事になり損害が大きくなりすぎます。そこまでの犠牲を払ってまで勝つ必要は今回はないと言うところです。そこで「帰師、追うべし」の体制に戦術変換を行なう事にしたのだと考えます。海津城への入城です。狙いは、

  1. 謙信の退却路をわざと開いてやる
  2. 逃げる謙信を追う時に追撃の位置を取れる
雪隠詰め状態だから謙信も上杉軍も「窮鼠猫を噛む」になるのですから、あえて退路を開いてやり、自然に逃げ出せる状態を作ってやるです。そうなれば謙信は北にいつかは普通に退却するだろうし、この退却時にそれなりの追撃をかけておけば、形としては武田軍の勝利であり、当初の目的である「程よく戦って、程よく勝つ」が実現できます。安全確実であり、これ以上の勝利は信玄には不要の判断です。

海津城への合流は敵前横断になるのでリスクはありますが、謙信もこれに手を出せば大会戦になり、さらに海津城出撃カードがある限りどうやっても勝てる公算が立ちません。信玄が茶臼山に出現した時点で無力化させていた海津城が息を吹き返し、川中島で決戦を行なう限り、どうやっても謙信が勝てない状態が出来てしまっているぐらいでしょうか。

謙信にとっても決戦は回避するものであり、それが信玄の手によって目の前で実現するのを見て非常に複雑な心境であったと思っています。とにもかくにも指を咥えて見ているしかなかったのだと思っています。


啄木鳥戦法

軍記では1万2千の大軍で一夜にして妻女山の裏側に至るなんてありますが、細い山道に1万2千も投入しても単なる無駄として良いでしょう。妻女山は謙信が登るまでは武田の勢力圏です。背後の山には確認できただけで天城城、鞍骨城などがあります。これらの背後の武田方の城砦を謙信はどうしていたのだろうです。やはり攻め取っていたんじゃなかろうかです。取れば妻女山の背後の安全が確保できるからです。

ここも、もう一歩考えると、今日考えている謙信の妻女山作戦の重要項目に海津城攻略が含まれているはずです。海津城の補給ルートは千曲川沿いの他に山中を抜ける地蔵越ルートもあります。相当険しい道のようですが、ルートがあれば補給は可能になります。ですから妻女山から尾根道沿いに地蔵越ルート遮断作戦を行っていても不思議とは言えません。

信玄の啄木鳥戦法の本態とはこれの奪還作戦だった気がします。妻女山に謙信がいる限り海津城千曲川ルートからの補給は受けられない事になります。海津城に入れば膠着状態になるのは確実ですし、信玄が次に待つのは謙信が幾ら粘っても兵糧切れで北に帰る時です。先に信玄が兵糧切れになったら話になりませんから、謙信に抑えられていた地蔵越ルートを回復させようとするのは自然です。地蔵越ルートを武田に確保されたら、海津城の信玄はいつまでも頑張れます。

それと同時に山中のルートを逆に妻女山にたどり「背後から攻めたてた」形も作ろうとしたんじゃなかろうかです。とにかく地蔵越を武田に奪還されたら、謙信も我慢比べでいくら妻女山に頑張っても音を上げるのは謙信の方にならざるを得なくなります。ここまで考えると啄木鳥戦法は重要な作戦になりますが、それでも別働隊1万2千は過大で、せいぜい3千ぐらいじゃないかと考えます。


八幡原の信玄

謙信はついに万策尽きて妻女山を下ります。有名な「鞭声粛々」で雨宮の渡から川中島の敵中突破を図ることになります。目標は善光寺横山城)の大荷駄隊との合流で良いかと思います。この八幡原の決戦ですが、軍記や歴史小説では両軍とも霧の発生を予測して動いたとなっていますが、そうではなくて霧はアクシデントだと考えています。少なくとも後世に伝承されるような濃霧までは予想していなかったと見ます。

まず謙信は雨宮からどこを目指していたかです。犀川を渡るには当時は市村(綱島)の渡がメインだったとされます。今の長野大橋あたりでしょうか。もう一つ上流1kmぐらいに隣接する丹波島の渡も使われていたようです。他にも小市の渡が江戸期にはあったようですが、川中島当時は丹波島か市村の二択だった気がします。どちらかを渡れば善光寺までは一直線ですから、謙信もどちらかを目指したと考えるのが妥当です。


ここで気になるのは八幡原の信玄が8千、実数はともかく武田2万の4割ぐらいしかいない事です。おそらくこのために妻女山襲撃隊1万2千が話として出来上がった気がしています。なぜに8千だったのだろうかです。やはり別働隊はいたのだと考えるのが妥当です。少し概算してみると、八幡原に8千、妻女山啄木鳥部隊に3千、海津城に4千ぐらいとして5千ぐらいの規模の別働隊です。

この別働隊は八幡原以外の川中島に配置されていたんじゃなかろうかと思っています。そうですねぇ、雨宮から犀川の渡(市村ないし丹波島)には当時でも街道はあったはずです。川中島内は合戦前は武田の勢力圏内であり、そこに幾つかの前進拠点があったのは確認されています。雨宮から犀川の渡の間にもある方が自然でそこに伏兵として潜んでいるぐらいです。

女山を下りた上杉軍は犀川の渡に驀進すると信玄は予想します。リスクの高い退却作戦ですから出来るだけ早く川中島を縦断し、出来るだけ早く犀川を渡河したいはずです。武田軍が前方を阻めば蹴散らしますが、そうでなければ無視して進んでいくと考えるのが自然です。前進拠点の小城砦も武田が攻撃してこなければ打ち捨てるはずですから、上杉軍が通り過ぎた後に追撃体制に移るぐらいです。


後ろを追われる形になって気になるのは八幡原の信玄本陣です。霧がなければある程度の段階で謙信も信玄本隊の位置の情報は入るはずです。謙信も信玄がこの本隊で決戦を挑まないのは読んでいると思いますが、それを過信して追撃部隊に逆襲なんてやっていると戦場は生き物ですから、信玄本陣が挟撃に移り大会戦に発展しまう可能性が出てきます。信玄本隊が動かないのは上杉軍がひたすら犀川の渡に驀進している条件となります。

この上杉軍が驀進している限り挟撃作戦に移らないの意思表示が八幡原の位置の気がします。伝八幡原が合戦当時の八幡原なら犀川の渡まで直線距離で3kmほどです。犀川の渡を封じる形ではなく、少し距離を置いて布陣しているところを察せよぐらいでしょうか。


信玄の意図は謙信が妻女山を下りて退却行動に移った事で9割以上は達成されたと言えると考えます。後は少々の追撃戦で「追っ払った」の形をより明瞭にすれば良いだけぐらいです。別働隊の追撃で上杉軍の隊列がかなり崩れていたら八幡原から犀川の渡に向かい戦果の拡大を目指し、そうでなければ渡河の最終段階で信玄本隊が少々の打撃を与えるぐらいです。

全部想像ですが、これぐらいの作戦なら信玄はどう転んでも勝つ体制ではないかと考えます。でも実際はそうならなかったです。


運命の霧

濃霧は経験したことがありますが、本当に周囲が見えなくなります。1メートル先も見えにくくなり、それこそ西も東もわからなくなります。この決戦の日の濃霧がいつから現れたかはわかりませんが、謙信が川中島犀川方面に進みだして間もなくだと考えています。濃霧の中では動かないのが身を守る常識なんですが、北に帰る謙信はそんな事を言っておられないので強引に進んだと考えます。一方の武田別働隊は上杉軍を見失った上に身動きが取れなくなってしまったと考えます。

霧がない場合の信玄作戦は謙信も読んでいた可能性は高いと思います。つうか無傷で犀川を渡れると思ってはいなかったはずで、途中で武田軍の待ち伏せは予期していたと思います。霧がなければ存在位置を隠しようがありませんが、霧が出たことで事でこれを利用して武田軍の待ち伏せを交わそうの思惑が出た気がします。そのために待ち伏せが予想される街道をどこかで離れたぐらいです。

謙信にとって予想外だったのは、霧が凄い濃霧になってしまった事じゃないかと考えています。街道筋を離れたものの迷子になってしまったぐらいです。ここも本当に迷子かどうかは微妙で、謙信は信玄の裏をかこうとしていたのかもしれません。謙信は信玄が犀川の渡を目指すと予想して作戦を立てていると予想します。であれば、信玄の主力部隊は川中島のもっと西よりに布陣していると考えたのかもしれません。

退却は常識的には海津城から少しでも遠い川中島の西側を通ると誰しも考えるはずで、通過ポイントとして犀川の渡を重要視するのも常識的です。これの裏をかくには信玄軍が通り抜けた後の千曲川(広瀬の渡)を渡ってしまうのがかえって安全の計算です。一度千曲川を東に渡り、北上してもう一度西に渡りなおすぐらいでしょうか。霧がなければそんな動きは補足されますが、霧があれば可能ぐらいの計算です。


それでもやはり上杉軍は半分以上迷子状態にはなっていたと思っています。タダの霧ではなく濃霧であったからです。そうやって迷い込んだところが八幡原の武田本陣だった気がします。この時の両軍の状況を推測すると、

  1. 退却する謙信は武田の伏兵は予想内であり、見つければ蹴散らせないと帰れませんから直ちに攻撃にかかれた
  2. 信玄本隊は出番はずっと後と予想しており、上杉勢の出現は心理的に不意討ち状態になった
ここでもう一つ要素を考えないといけないのですが、信玄本隊の陣形はどちらを向いていたのだろうかです。難しいところですが市村や丹波島方面に向かっての陣形だったと思います。これに対して上杉軍はどの向きで突っ込んだのだろうです。軍記ぐらいしか参考資料はないのですが、有名な謙信・信玄の一騎打ちの話があります。これは創作だと言われていますが、どうも八幡原の決戦は最終的に上杉軍が武田陣地を通り抜けて犀川の渡に向かったんじゃなかろうかです。

濃霧の中の迷子状態ですから上杉軍はどこから信玄本陣に突っ込んでも良いのですが、真正面は無い気がしています。なんとなく横っ腹に突っ込んだ気がしています。その可能性を考慮すると、

  1. 武田軍は横っ腹に突然の奇襲を受けた格好になり、信玄も陣地変換を急いだが乱戦の中で典厩信繁や両角豊後のような重臣クラスが孤立し戦死した
  2. 上杉軍は伏兵を蹴散らすつもりで順次前方部隊から突撃させたが、思いの他に相手が強く、陣形を整える必要が出てきた(これが車がかりの陣?)
謙信も信玄も優れた戦場の用兵家ですが、とにかく濃霧で戦場の全貌が把握できず、弱点個所の救援や、部隊の進退の指揮がロクロク取れなかった可能性も考えます。そのため乱戦になり見る見る死傷者が増えていったぐらいでしょうか。合戦は先手を取った方が有利の上に、上杉方はあくまでも伏兵を早く蹴散らすために勇猛果敢に突っ込むでしょうし、武田方は謙信の主力であるのだけは判りますから、なんとか耐え凌ごうと受け身の戦いにならざるを得なかったぐらいはありそうです。

濃霧の影響は他にもあると思います。もともと上杉軍は迷子状態ですから、どちらに渡があるかなかなか判らなかったんじゃなかろうかです。前方には良く判らないが妙に強力な武田軍がおり、どっちに進んだら渡があるかわからいないので、とりあえず前方の武田軍攻撃に専念した感じです。まあ、強かろうが、なんであろうが突破しないと帰れないことだけは確かだからです。

やがて霧が徐々に晴れてくると相手が信玄である事はわかります。そこから自軍の位置確認が出来たのは、もう一段霧が晴れる必要があった気がします。謙信がオリエンがついた頃には武田別働隊も八幡原の戦闘の様子がわかり、ようやく駆けつけてきたぐらいでしょうか。これはどうやら上杉軍の後方を襲う形になったと考えられます。

挟撃状態になりましたが、見える範囲が武田主力のすべてである事はわかります。そうなれば今度は犀川の渡が空いていると判断し、信玄の本陣の西側をすり抜けるような全軍突撃を謙信は命じた気がします。アクシデントでも主力決戦をやった形になり、とりあえず優勢ですからこれ以上望むのは宜しくないぐらいです。一方で八幡原で後手後手に回っていた信玄本隊はようやくこれを追撃、犀川の渡あたりで川中島合戦の後半の武田優勢場面を作ったぐらいです。


感想

軍記の記述は面白いのですが、いくつか矛盾点はあります。啄木鳥戦法による妻女山襲撃もそうですが、八幡原の信玄もそうです。軍記では妻女山から落ち延びてきた上杉軍を二段で殲滅する作戦であったとなっていますが、待ち受けるなら上杉軍の犀川渡河地点、それもどうやら市村、丹波島方面に絞られますからそのあたりの方が適切な気がします。もしくは雨宮の渡近辺です。もう少し言えば、別働隊で妻女山を追い落とすぐらいの作戦なら、もっとシンプルに雨宮から妻女山に攻め上っての挟撃作戦でもエエんじゃないかです。

つうのも現在の地図でぐらいしか確認できませんが、八幡原に居ても謙信が通ると思えないのです。さらに言えば濃霧の中で謙信がどうやって八幡原に信玄が居る事を知り、どうやって近づいたのかの説明に無理がありすぎる気がします。雨宮からは濃霧の中で八幡原の信玄は見えるはずがないです。濃霧で見えない事を軍記は強調し、謙信が巧みに利用したとなっていますが、見えないのは謙信も同じと言う事です。


有名な炊煙の話もどうかと思っています。軍記では武田別働隊が妻女山襲撃に動くのでいつもより多くの飯を炊き、この炊煙がいつもと様子が違うので謙信が信玄の動きを知るとなっています。ここも良く考えて欲しいのですが、作戦は晩飯終了後に行われているはずです。夜間行軍中に飯を食うとは思えませんし、妻女山襲撃が始まれば飯を食う間もありません。普段より増える理由が思いつきません。合戦終了後に飯を食う必要はありますが、海津城は近いのですから、それこそ合戦中に飯を炊いて運んでくれば良いわけです。

飯を多く炊く必要があったのはむしろ謙信側にあった気がします。退却にあたって、残っている兵糧を担いでかえる訳にはいきません。また損害覚悟の退却戦ですから、犀川を渡って逃げられても、越後までに次の食糧がどうなるかわかりません。であれば、残っている兵糧米を盛大に炊き、たらふく食べた上に、身に付けるだけ身に付けて妻女山を下ったと考える方が妥当です。

それ以外にも退却に当たり、持ち込んではみたものの持って帰れない物品の処分も必要です。これも処分しておかないと後で「謙信はこんなものまで残して逃げた」と言われるからです。これもまた破却した上で燃やしてしまう必要があります。どうしたって退却に当たりその動きは信玄側に伝わると考える方が合理的な気がします。敵中に陣を置いた謙信には避けられないものぐらいでしょうか。


前の時にも書いたのですが、上杉家には「どうも」川中島合戦の記録みたいなものがないようです。これは謙信が信玄に戦術的には敗北を喫していたのを恥じたためではないかとも思っています。最後のアクシデントで何とか格好は付けたものの、戦術的には一方的に押し捲られ、そのうえ大損害まで喫しているのですから、記録を書くのを禁じてしまったんじゃなかろうかです。

一方で武田側は武田家が滅亡したとは言え、一部に記録が残り、これが後世の川中島伝説に発展しています。これも考えようなのですが、戦術的には圧勝であったはずが、謙信と逆でアクシデントのために五分五分に持ち込まれてしまった悔しさぐらいの気がなんとなくします。それと武田家の滅亡は後世の川中島伝説に微妙な影響を与えたと思います。

謙信も信玄も英雄ですが、信玄は後に三方が原で家康に圧勝しています。そのうえ、上杉家は江戸期もなんとか生き残ります。あんまり権現家康の大敗記録の相手である信玄を称えすぎると拙いので、異様に謙信を持ち上げたぐらいです。謙信を称えても家康は謙信とは戦っていませんし、景勝の代にはこれを屈服させています。そんな影響も幾分かはあるんじゃなかろうかです。


とにかく「程よく戦い、程よく勝つ」つもりの両雄は死力を尽くしての決戦をアクシデントでやらざるを得なくなり、予定外の大消耗戦をやらかしてしまったのを帰路にそれぞれ深く後悔していたかもしれません。また両雄の講和気運も吹っ飛んでしまい、たぶん最後の川中島まで持ち越しになってしまった気がしています。このあたりで今日は終わりにさせて頂きます。いずれにしても真相は歴史の彼方にしかありません。